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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第二章 ねじれゆく世界
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Ⅲ-Ⅳ 女騎士と幼き賢者

2017.3/3 更新分 1/1

「さて、少しは気分も落ち着いたかな、クリスフィア姫?」


 レイフォンがそのように呼びかけても、クリスフィアはしばらく長椅子の上で押し黙っていた。


 白牛宮の、レイフォンにあてがわれた執務室である。いくつもの燭台に照らし出される室内には、レイフォンとティムトとクリスフィアと、そして彼女の忠実な侍女だけが居揃っていた。


 人目を忍んで赤蛇宮を脱出し、夜回りの衛兵にロネックの身柄を預けたのちのことである。ロネックは赤蛇宮のそばにある庭園で眠り込んでおり、夜の散策を楽しんでいたレイフォンがそれを発見したのだ、という話をでっちあげることになった。


 ティムトの話によると、クリスフィアの寝所には眠り薬ともまた異なるシムの薬草だか毒草だかが撒かれていたそうなので、目覚めた後も記憶は混濁するのではないかという話であった。

 まあ、記憶がはっきり残っていたところで、レイフォンたちの側に不都合はない。そのためにも、レイフォンは素顔を隠していたのだ。酔った勢いで貴賓の姫君に無作法な夜這いをかけて、それを何者かによって懲らしめられたという、そんな苦い記憶にロネック自身が苛まれるだけのことであろう。


 そうしてレイフォンが雑事を片付けて部屋に戻ると、すでにクリスフィアが侍女をともなって参上していた。クリスフィアは普段から着ている騎士の平服姿であり、侍女のほうは夜着の上から上着だけを羽織っている。眠り薬で眠らされていた侍女のほうはまだねぼけまなこであり、そしてクリスフィアのほうはずっと険悪な面持ちであった。


「とりあえず、我々が発見した書状というものをご覧になってもらおうか」


 レイフォンの合図で、ティムトが懐から封書を取り出した。もちろんティムトも女官のお仕着せから普段の装束に着替えていた。


 卓に置かれた封書を手に取って、クリスフィアは乱暴にその中身を引き出した。

 その文面を読む内に、姫の表情はますます険しいものになっていく。


『今宵、五の火が灯されたのち、赤蛇宮の寝所に来られたし。寝所は西の角となるので、塀に縄の準備をしておきます。くれぐれも、他言無用にてお願いいたします。――クリスフィア』


 紙片には、そのような文がしたためられているはずであった。


「念のために聞いておくけれど、それは君の手によるものではないのだよね、クリスフィア姫?」


「わたしがこのようなものを送りつけるわけがない。……あなたがたは、これを何処で見つけたのだ?」


「実は、親切な何者かが私に届けてくれたのだよ。おそらくは、内容を確認したロネック殿がくず入れに捨てたものを、その何者かが拾いあげたのだろうね」


「何故、わたし本人ではなく、それをあなたに?」


「それは、まったくわからない。しかしまあ、ロネック殿は敵も多いからね。その色事を邪魔してやろうという、ただそれだけの話であったのかもしれないよ」


 クリスフィアは口をつぐみ、再び書面へと鋭い視線を走らせた。

 その姿を見やりながら、レイフォンは不可解な気持ちにとらわれる。今宵のクリスフィア姫は、何か格段に艶めいているように感じられたのだ。


 もともと秀麗な容姿の持ち主ではある。しかし、それは女騎士という肩書きに相応しい凛然とした美しさであり、貴婦人らしいたおやかさや可憐さとは無縁なものであるはずだった。


 しかし、現在のクリスフィアからは、匂いたつような色香が感じられる。あやしい薬に身を汚されたと言って髪や肌を水瓶の水で清めてきたとのことであったが、その湿り気を帯びた髪を何筋か頬にはりつかせて、ちょっと悩ましげに眉をひそめているだけで、レイフォンでも目を見張るような色っぽさであったのだった。


(まさか、ロネック殿との情事で女人としての悦びに目覚めてしまったわけではないよな。五の火が灯ってすぐに寝所へと踏み込んだのだから、そんな猶予はなかったはずだ)


 そんな勘ぐりをしたくなるぐらい、クリスフィアは艶然としていた。

 そのかたわらで、侍女の娘はうつらうつらと船を漕いでいる。これでは何の役にも立ちそうになかったが、あのような場所に一人で残してはおけぬということで、無理に同行させたのだろう。


「……ふたつ、問うておきたいことがある」


「うむ、何かな?」


「まず、ひとつ。ここには差出人たるわたしの名があるだけで、誰に宛てられたものかは記されていない。これを受け取ったのがロネック将軍であったということを、あなたがたはわきまえておられたのか?」


「いや、わきまえてはいなかったよ。ただ、これが姫に対する謀略なのだとしたら、そこで悪漢役に選ばれるのはロネック殿かな、とは考えたけれどね。何せ、かの御仁の酒癖と女癖の悪さは王都でも有名だったのだよ」


 これが謀略であると推測したのはティムトであるが、それを知らされた上であるなら、レイフォンもロネック以外の人間は思いあたらなかった。しかも舞踏会ではロネックがクリスフィアに秋波を向けていたのだから、なおさらである。


「そうか。では、もうひとつ――」と、クリスフィアが真正面からレイフォンをねめつけてくる。


「ここには縄の準備という言葉が記されている。それは赤蛇宮を囲う石塀に、侵入するための縄を垂らしておく、という意味であると思うのだが――あなたがたは、その縄の所在を確認したのだろうか?」


「うん、もちろん。でも、舞踏会が終わった後に塀の周りを一巡りしたのだけれど、どこにも縄などかけられていなかったのだよね。だから、五の火が灯される直前に、何者かが内側から縄を垂らしたのじゃないかな」


 艶めいた女騎士に短剣の切っ先めいた眼光を突きつけられ、レイフォンは大いに惑乱することになった。それは、情事の最中に相手が暗殺者としての正体を現した、とでも言いたくなるような恐ろしさであった。


「そ、それで私がロネック殿を衛兵に引き渡している間に、今度はティムトが内側から塀を巡ってくれたのだよね。その結果はどうだったのかな?」


「はい。確かにクリスフィア姫の寝所にほど近い樹木の幹に、縄がくくりつけられていました。十分に塀の外まで届きそうな長さであったので、きっとロネック将軍が使用した後、巡回の衛兵に見つからぬよう内側にたぐり寄せたのでしょうね」


「なるほどな。……それであなたがたは、塀の付近を見張るのではなく、仮面や女官の装束などを準備して、わたしを救いに赤蛇宮にまで足を踏み入れてくれた、ということか」


 クリスフィアの声は静かであったが、そこには激情を押し潜めているような迫力があった。

 ただでさえ気丈な姫君というのは苦手な部類であるのに、そこに艶っぽい色香までつけ加えられ、レイフォンはますます動揺してしまう。


「姫は何かをお怒りであるのかな? 何も責められるいわれはないように思うのだけれども」


「もちろん窮地を救っていただいたのだから、あなたがたを責められるはずもない。……ただ、変装などをして赤蛇宮に踏み込むよりは、石塀の外で縄が垂らされるのを待ち受けたほうが苦労も少なかったのではないかと考えたばかりだ」


「いや、まあ、いちおう私も立場のある人間だからね。こんな夜更けに男子禁制たる赤蛇宮の外をうろついていたら、巡回の衛兵に見とがめられてしまうだろうし――」


「体面を重んじるならば、赤蛇宮に足を踏み入れるほうがよっぽど危険だったのではないだろうか? もしも女官に見とがめられていたら、ヴェヘイム公爵家の高貴なる名も地に落ちていたことであろう」


 レイフォンは懸命に、記憶をまさぐった。たしかこのような追及に対する答えは、あらかじめティムトから授かっていたはずであった。

 しかし、レイフォンがその答えを見つける前に、クリスフィアは言葉を重ねてくる。


「確かにあなたたちは、わたしを救うために動いてくれたのだろう。だけどそれなら、わたしに一言注意を与えておけばよかったというだけのことではないのかな? そうしたら、わたしにはまったく身に覚えがなかったのだから、衛兵たちに塀の外を見張るように頼むこともできたのだ」


「いや、だから……事を荒立てると、ロネック殿が騒ぐことになってしまったかもしれないし……」


「ロネック将軍がその場に現れれば、衛兵たちから事情を聞かされて、自分を騙した何者かに怒りを向けるばかりであろう。当人にとっては腹立たしくとも、周囲の人間には笑い話で済んだのではないだろうかな」


「うん、ええと……」


「あなたがたは、わたしに恩を着せるために、ぎりぎりのところまで謀略が進行することを望んでいた。そうではない、と言いきることができるのかな、レイフォン殿?」


 レイフォンには、ここが限界であった。

 姫の眼光から逃げるようにティムトのほうを見ると、少年は小さく息をついていた。


「レイフォン様、クリスフィア姫にはすべてを見抜かれてしまっているようです。ここは隠しだてなどせずに、すべてを打ち明けてしまわれてはどうでしょう?」


「う、うん。そうかもしれないね」


「クリスフィア姫、僕からもお詫びを申しあげます。姫がご指摘された通り、レイフォン様は姫からの信頼を勝ち取るために、いささか迂遠な手段で姫の身を守ろうとお考えになったのです」


「ふん。恩を着せると信頼を勝ち取るでは、ずいぶん意味合いが違ってくるようだが」


 クリスフィアはぶすっとした面持ちでティムトのほうに眼光を差し向けた。


「失礼ながら、クリスフィア姫とレイフォン様は、これまであまり良好な関係を築くには至っておられなかったのでしょう? それもあって、直接クリスフィア姫に忠告をしても取り合ってもらえないかもしれない、とレイフォン様はお考えになられたのです。そうでしたね、レイフォン様?」


「あ、ああ。それに、クリスフィア姫とはもっと懇意にしたいという思いがあったのだよ。なかなか信じてはもらえないかもしれないが、それは本心だ」


 これはもっと終盤になってから訪れるはずの展開であったが、レイフォンとしてはティムトの指し示す方向に進むしかなかった。


「姫はこの王都にあって、何かを探し求めておられるように見受けられる。それはひょっとして――赤の月に王都を見舞った、大いなる災厄の正体を探ろうという行いなのではないだろうか?」


 クリスフィアは、すっと目を細めた。

 そうすると、眼光の切っ先はますます鋭くなったように感じられてしまう。その身に纏った色香までもが、姫に普段以上の迫力を与えているかのようだった。


「姫からの信頼を勝ち取るために、私も真情をさらさせていただこう。……私自身もあの災厄には何か裏があったのではないか、と考えていたところなのだよ」


「……ほう」としか姫は言わなかった。

 言葉が少なければ少ないで、また迫力が増してくる。レイフォンはもう余計なことは考えずに、ティムトから与えられた言葉をそのまま伝えることに専念した。


「だから、『賢者の塔』に関しても、姫が指摘された通りなのだ。私もカノン王子の寝所に準備されていたという書物の行方や内容が気になって、あの日に書庫を訪れた。それでクリスフィア姫も同じ目的であの場を訪れたのだと知り、大いに感銘を受けたのだよ」


「……ほう」


「あの災厄の日に、いったい何が起きたのか。真実は、目に見えている通りのものなのか。私はそれを探りたいと考えている。もしクリスフィア姫も同じ考えであるのなら、手を携えることはかなわないだろうか?」


 これが、ティムトの決断なのだった。

 御せぬトトスをどうにかしたいと考えたら、その場で殺すか、気長に調教するか、あるいはくたびれ果てるまで好きに走らせるか、その三つしか道はない。それでティムトは、第三の道を選んだのである。ただし、トトスの鼻先に好物の葉っぱをぶら下げて、自分の望む方向に走らせようと目論んでいるのだった。


(ただし、クリスフィア姫はトトスなんて可愛らしいもんじゃなく、アルグラの銀獅子ぐらい猛々しい女人であるようだけどな)


 しかも、猛々しいと同時に比類もなく美しい、という面までクリスフィアは銀獅子の名に相応しかった。

 そんなクリスフィアは、これもたまたま銀獅子を思わせる灰色の瞳で、食い入るようにレイフォンを見つめている。


「レイフォン殿、仮にわたしがあなたがたと同じ目的で動いているとして……重要なのは、さらにその先の目的なのではないだろうか?」


「その先の目的?」


「うむ。真実を知りたいという目的の、さらにその先――真実を知って、何を為したいと考えているかだ」


 レイフォンは、半ば無意識にティムトのほうを見てしまった。

 その聡明なる瞳に見つめ返されて、レイフォンは自分の役割を思い出す。この場では、心を偽る必要もなかったのだった。


「私が願っているのは、ただひとつ。王国セルヴァが正しき道を進むことだけさ。先王カイロス陛下を害した人間は、果たして正しく裁かれているのかどうか。それをつまびらかにすれば、このたびの王位継承が正しかったのかどうかも明るみに出すことができるはずだよ」


「では……もしも先王を害したのが現在の王であった場合は、それを討ち取ることもやむなし、と?」


「それを決めるのは私ではないね。臣下と民が、真実を知った上で、誰を王と認めるか、ということが重要なのではないだろうか」


 レイフォンは長椅子の背にもたれかかり、なんとか笑顔をこしらえてみせた。


「もちろんその臣下の中には、地方領主も含まれているよ。王というのは、セルヴァ全土の王なのだからね。王都や公爵領の人間ばかりでなく、アブーフやタンティやジェノスやバナームや、バルド内海の諸侯たちなど、すべての人民から賛同を得られなければ、王を名乗る資格はないだろう」


「そうか」と、クリスフィアはつぶやいた。


「わたしとて、感傷や正義感だけで動いているわけではない。正直に打ち明けるならば、一番大事なのは故郷たるアブーフの行く末だ」


「それは私も同様だよ。ただ、故郷が王都の一部であるというだけの話でね。……そうであるからこそ、私は正しい王によって正しい統治が為されることを強く望んでいるわけさ。間違った王を君主にしてしまえば、我々も偽りの王ともども滅ぶことになってしまいかねないからね」


「うむ。自らの安寧のために真実を暴きたいというのなら、それは偽りのない真情であると思える。……お前もそれで、異存はないのかな?」


 と、ふいにクリスフィアはティムトのほうに視線を差し向けた。

 ティムトは静かにそれを見返しながら、わずかに首を傾げている。


「僕はレイフォン様の従者に過ぎませんし、主人の意向に逆らおうという気持ちはありません」


「ふむ。それは真実であるのかな。わたしには、お前のほうこそが主人なのではないかと思えてしまうのだが」


 これには、レイフォンのほうが慌てることになった。


「ひ、姫は何を疑っておられるのかな? ヴェヘイム公爵家の嫡子はこの私であり、ティムトは傍流の血筋に過ぎないよ」


「血筋はこの際、どうでもいい。これまでに語ってきたのは、あなたではなくこの従者の思惑なのではないのか?」


 レイフォンは、気持ちを落ち着けるために、ゆっくりと微笑をひろげてみせた。


「ずいぶん愉快なことを仰るのだね。どうして姫はそのように愉快なことを思いつかれたのかな?」


「どうしても何も、あなたは返答に困ったとき、いつもこの従者に判断を仰いでいるようだったではないか。前々からそのような節は見受けられたが、この夜でそれはいっそう顕著になった。これで勘ぐるなというほうが無理な話であろう」


 レイフォンは笑顔を維持することしかできなかった。

 クリスフィアは「まあいい」と肩をすくめている。


「たとえあなたに知略を授けているのが誰であれ、あなたが自分の言葉に背くような行いを為さなければ、それでいいのだ。……それで、この夜の陰謀には、いったいどのような意味があったのだろうか?」


「うん? どのような意味、とは?」


「同じ手段で死に至る毒草でも撒いていれば、わたしの生命を奪うことすら容易であったのだ。しかし、その許されざるべき何者かは、ただロネック将軍にわたしを襲わせようとした。そのような真似をして、いったいどのような得になるというのだ?」


「ああ、それはおそらく、余計な真似をするなという警告と……あとはひょっとして、王都とアブーフの縁をより強く結ばせたいという目論見でもあったのじゃないかな」


 幸い、その件に関してもティムトの考えは聞かされていたので、レイフォンはすみやかに答えることができた。

 クリスフィアは沈静しかけていた瞳にまた怒りの火を宿らせながら、「ほう?」と身を乗り出してきた。


「それはつまり、わたしをロネック将軍に嫁入りさせたかったという意味であるのかな? ひとたび身体を許せば、女人の気持ちなど簡単にほだされるに違いない、と?」


「あ、あくまで推論に過ぎないよ。しかし、遥かなる遠方の地にあるアブーフと絆を深めるには、血の縁を結ぶのが一番手っ取り早いことだろう?」


「なるほどな……いかにも王都の人間が考えそうな、浅はかで下劣な陰謀だ」


 クリスフィアは、自分の手の平をおもいきり拳で打ちつけた。

 その姿をじっと観察していたティムトが、レイフォンのほうに目配せをしてくる。


 何かをクリスフィア姫に問い質せ、ということなのだろうが、あいにくレイフォンには何を問えばいいのかもわからなかった。ティムトは小さく首を振ってから、しかたなさそうに口を開く。


「この夜の陰謀は、いったい誰が企てたものなのでしょう? クリスフィア姫には、何か心当たりでもありましょうか?」


「心当たりなどありはしないが……わたしの寝所に仕掛けられていたのは、何か特別な薬であったのだな?」


「はい。シムの毒草が、煙ではなく蒸気として撒かれていたようですね。そちらの侍女の御方や次の間の女官たちも、同じ手口で眠り薬を嗅がされていたようです」


「ふん、まったく忌々しい話だ。……そして、薬と聞いて思い浮かぶのは、薬師とかいう連中だな。わたしはカノン王子の寝所を訪れた際、エイラの神殿でオロルとかいうあやしげな薬師と出くわした。あの者なら、わたしがカノン王子について探り回っていたということを察することもできたであろう」


「薬師のオロルですか。それはそれは」


 うっかりレイフォンが相槌を打つと、とたんに灰色の目でにらまれた。


「レイフォン殿は、あの薬師をご存じであるのか?」


「うん、まあね。彼は新王陛下の昔からの従者であり、災厄に見舞われたディラーム老の看護を受け持ってもいたのだよ。若い頃からシムを訪れて、薬草の取り扱いについて学んでいたらしい」


「新王の従者……まさか、そのような身分のものであったのか」


 クリスフィアは、怒りに肩をわななかせていた。

 それから、灰色に燃える目でレイフォンとティムトを見比べてくる。


「それで、あなたがたはわたしと手を携えたい、と申し入れているのだな?」


「うん。同じ目的で動いているならば、そうするべきだろうと思う。ここまで根の深い陰謀を解きほぐすには、みなが力をあわせる必要があるだろう?」


「……具体的に、わたしに何を求めているのだ? あなたがたの知略があれば、わたしの出る幕などないようにも思えてしまうが」


「そんなことはないよ。姫には明敏な洞察力と、そして我々には持ち得ない自由さがあるのだからね」


 自分を陥れた敵への怒りが、レイフォンたちに対する不信感を上回ったのだろうか。そうであることを願いながら、レイフォンはティムトから聞かされていた言葉を述べてみせた。


「王都の内情を探るには、我々のほうが適している面もあるだろう。しかし我々は王都に足止めをされているために、外部の動向を探るのが難しい。可能であれば、姫にはその役を担っていただきたいのだよ」


「外部の動向? ……それはもしかして、五大公爵家のことであるのかな?」


「察しが早いね。公爵家の人間や公爵領に赴任している十二獅子将らが、現在はどのような気持ちで新王の戴冠を受け止めているのか、それは何より重要なことだろう? 極端な話、五大公爵家が結束すれば、武力においても王都の軍に対抗することは可能なのだからね」


「だから、わたしに五大公爵家の動向を探ってこい、と?」


「我々は、姫に命令を下すような立場ではないよ。ただ、我々にできないことも、姫の立場なら成し遂げることも可能であると告げているだけさ。姫の快活にして奔放なるお人柄はもう宮廷中に知れ渡っているのだから、いきなり五大公爵領に足を向けても、それほどいぶかられることもないだろう」


 いくぶんの疲労感を覚えつつ、それでもレイフォンは微笑んでみせる。


「それに、王都を離れておられる学士長についてもだね。本の虫と評される学士長であれば、失われた書物や、書庫に封印された書物について、何かご存じであられるかもしれない。そちらの行方も突き止めてもらえるならば、なおさらありがたい話だよ」


「学士長か。その御仁は、どこぞの公爵領に出かけておられるという話だったな」


「ああ。ダーム公爵領だよ。セルヴァで唯一、外海と面した貿易の要だ。遥かなるアブーフから訪れたクリスフィア姫なら、これを機会にダームを訪れたいと述べたてても、なおさら不思議には思わないことだろう」


「……海というものを目にすることがかなったら、故郷のみんなにも自慢できますね、姫様?」


 と、ずっと静かにしていた侍女の娘がいきなり口を開いたので、レイフォンはたいそう驚かされてしまった。

 クリスフィアは、顔色ひとつ変えずに「そうだな」とうなずいている。


「学士長の行方を捜し、ダーム公爵と十二獅子将の思惑を探る、か。……確かに、王都でくすぶっているよりは、まだしも有意義かもしれん」


「うん。それに、今の姫は王都を離れたほうが安全であるように思えるし――何より、その役を果たせるのはクリスフィア姫おひとりであるのだよ」


 クリスフィアは、真剣な面持ちで考え込み始めた。

 それから、同じ目つきのまま、またレイフォンとティムトの姿を見比べてくる。


「そういえば、大事な話をうかがっていなかった。ディラーム老は、どのような形であなたがたに関わっておられるのだ?」


「ディラーム老は、我々と志を同じくしておられるよ。……いや、むしろ我々よりも強い信念を持っておられるだろうね。ディラーム老は先王カイロス陛下の覚えもめでたく、大罪人として扱われているヴァルダヌスとも深い絆を結んでおられたのだから」


「ふむ……そのお言葉に、偽りはなかろうな?」


「セルヴァに誓って、真実だよ。……ただ、ディラーム老はクリスフィア姫をこのような陰謀劇に巻き込みたくはない、というお考えなのだよね。だから、姫とはいささか距離を取っておられたのさ」


 クリスフィアはまぶたを閉ざし、「そうか」と低くつぶやいた。

 そして、灰色の瞳をまた強く光らせる。


「わたしは明朝、ディラーム老と言葉を交わさせていただく。それで得心できたなら、あなたがたの言葉に従ってダーム公爵領へと足をのばそう。……それで異存はないだろうか?」


「もちろんだ。君と手を携えられることを嬉しく思っているよ、クリスフィア姫」


 クリスフィアは「ふん」と鼻息をふいてから、思いなおしたようにレイフォンを見つめてきた。


「ところで、レイフォン殿はそのような外見であるのに、ずいぶん腕が立つのだな。不意打ちとはいえ、ロネック将軍をあそこまで容易に組み伏せるというのは、なかなかの手並みだと思える」


「ああ、私は剣が苦手でね。自分のものであれ他者のものであれ、血を見ると足がすくんでしまうのだよ。だから、血を流さずに済む徒手の武芸に磨きをかけたのさ。相手が甲冑を纏っていたほうが、なおさら与しやすいのだけれどね」


「徒手の格闘術か。何であれ、あれは見事な手並みだった」


 そうしてクリスフィアはいきなり居住まいを正すと、レイフォンのほうに頭を垂れてきた。


「色々と疑っていた部分もあったので、御礼を述べるのが遅くなってしまった。さきほどは、危ういところを救っていただき、心から感謝している」


「いや、まあ、姫の信頼を勝ち取るのに、あれは必要な行いであったしね」


「うむ。しかし、もしもあなたがあの場に現れなかったら、わたしもどのような目にあわされていたかもわからない。ゆえに、あなたにどのような思惑があったとしても、わたしは深く感謝するべきなのだろう」


 そうして面を上げたクリスフィアは、レイフォンがこれまでに見てきた中で一番穏やかな表情を浮かべていた。


「それに……高貴の身にあっても心身の鍛錬を怠らぬ人間は、敬服に値すると思う。傲岸に聞こえてしまうだろうが、わたしはいささかならずあなたを見直すことになったよ、レイフォン殿」


「うん、そうか。ありがとう」


 レイフォンがいくぶん動揺してしまったのは、クリスフィアの身にまだ不可思議な色香が漂っているゆえだった。

 そんなレイフォンの心情も知らぬげに、クリスフィアは口もとをほころばせる。


「あと、あなたの知略が従者からの借り物だとすると、それもなかなか愉快な話だ。従者殿は、ずっと不本意そうな目つきをしておられるがな」


「ああ、いや、それは……」


「あなたにも体面というものがあるだろう。そのように愉快な話を余人にもらしたりはせぬから、そこのところは安心してほしい」


 一方的に述べたてて、クリスフィアはおもむろに立ち上がった。


「それでは、今宵は失礼する。フラウもそろそろ限界のようだしな」


「え? わたくしが何ですかぁ?」


 と、眠たげな声で応じてから、侍女の娘もレイフォンたちに微笑みかけてきた。


「あの、あまりわたくしは事情をわきまえてはいないのですが……とにかく、姫様の危ういところを救っていただき、ありがとうございました。これからも姫様をどうぞよろしくお願いいたします」


「明朝、ディラーム老と言葉を交わしたのち、またこちらにも出向かせていただく。それでは」


 そうしてレイフォンたちにも劣らぬ奇妙な主従は、連れ立って執務室を出ていった。

 レイフォンは「ふう……」と息をつきながら、ぐったりと長椅子にもたれかかる。


「何だか異常に疲れてしまったなあ。まあ、このような夜更けまで騒いでいれば、疲れるのが当たり前だけれども」


「…………」


「とりあえず、ティムトの思惑通り、クリスフィア姫と共闘関係を築くことがかなってよかったね。あの姫君なら、きっとたいそうな力になってくれることだろう」


「……レイフォン様は、この一晩でずいぶん心象が変わられたようですね。言っておきますが、彼女の様子が普段と異なっていたのは、シムの媚薬をぞんぶんに浴びてしまったせいなのですよ?」


「ああ、あの寝所に撒かれていたのは媚薬であったのか。ならば、姫があのように艶めいていたのも納得だ。……だけどそれなら、一刻も早く媚薬の効果が切れてほしいものだよ。あれなら私は、普段通りの凛然とした姫君を好ましく思ってしまうね」


「…………」


「何だかティムトは不満そうだね。すべてはティムトの思惑通りに進んだのだろう?」


 ティムトにじっとりと見つめられて、レイフォンは「ああ」と笑い声をあげた。


「ひとつだけ、思惑からは外れてしまったか。あそこまで私たちの関係性を看破されてしまったのは初めてのことだね。確かにあの姫君の洞察力だか何だかは大したものだ」


「……だから直感で生きている人間は好きになれないんです」


 そう言って、ティムトはがっくりと肩を落とした。

 しかしレイフォンは、ティムトの力量が余人に正しく把握されたというこの事実が、思った以上に嬉しく感じられていた。ティムトはその才覚に見合った評価を受けるべきではないのかと、レイフォンは常々そのように考えていたのである。


(彼女たちが早々にダームへと旅立ってしまうのが惜しいところだ。ダームから戻ってきたら、是非ともティムトともっと親密な関係を築いていただきたいものだな)


 そのように考えながら、レイフォンはあくびを噛み殺した。

 これでようやく騒がしい一日に、本当の終わりを迎えることがかなったのだった。

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