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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第二章 ねじれゆく世界
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Ⅱ-Ⅳ 甘い罠

2017.2/27 更新分 1/1

 クリスフィアがすべての労苦から解放されたのは、とっぷりと夜も更けてからのことであった。

 夕刻の前から開かれた舞踏会は、太陽神が姿を隠してからも数刻ばかりは続けられて、まさかこのまま夜明けが訪れるまで終わることはないのではないか――と、クリスフィアが半ば覚悟を固めた頃合いに、ようやく終わりの言葉が告げられたのである。


「ああもう、宴はうんざりだ! わたしはこんな馬鹿騒ぎに参加するために王都までやってきたわけではない!」


 フラウの手によって宴衣装から解き放たれたクリスフィアは、大声でわめきながら長椅子の上に崩れ落ちた。赤蛇宮の、クリスフィアにあてがわれた客間である。宴衣装を大事そうに衣装棚へと片付けながら、フラウは笑っていた。


「あの、姫様、わたしの記憶に間違いがなければ、姫様は戴冠の祝宴に参席するために王都を訪れたのではなかったでしょうか?」


「しかしこれは戴冠の祝宴ではなく、ただの舞踏会だ」


「ということは、本番の前の小宴にすぎないということになりますね」


 クリスフィアは長椅子の上で寝返りを打って、フラウの姿を恨みがましくにらみつけた。


「こんなに弱り果てたわたしを苛めて楽しいのか? フラウはもっと優しい気性をしているかと思っていたぞ」


「申し訳ありません。でも、難敵を迎えるには相応の覚悟を固めておくべきかと思いましたので」


「確かに、これ以上ないぐらいの難敵だな! マヒュドラかゼラドが今すぐにでも戦争を起こして戴冠の祝宴を台無しにしてくれるなら、わたしは御礼の書簡でも送りつけてやりたいぐらいだ!」


 わめきながら、クリスフィアは全身でのびをした。宴衣装も装飾品もとっぱらって、薄っぺらい前合わせの夜着一枚を羽織った姿である。長きの時間を拘束されていた肉体に、ようやく正しい力が戻ってきたような感覚であった。


「それでは、何か軽い食事でも運ばせましょうか? 宴では、ほとんど料理をお口になさらなかったでしょう?」


「こんな夜更けに食事をする気持ちにはなれないよ。ぎゅうぎゅうに締めつけられていた胃袋も、まだ縮こまったままだしな。……ひょっとしたら、豪華な宴料理が少量でも済ませられるように、女人はこうして物を食べられない衣装などを身につけさせられているのだろうか」


「まあ」とフラウは笑っている。さきほどから悪態ばかりついているクリスフィアであるが、宴の間よりはよっぽど元気であったので、フラウを安心させることができたのだろう。


「明日に備えて、今日は眠らせてもらうことにするよ。朝には胃袋も元通りになっているだろうさ」


「それでは、翌朝には普段の倍ぐらいの食事が必要になるかもしれませんね」


「ああ。キミュスの丸焼きでも所望してやろうかな」


 軽口を叩きながら、クリスフィアは身を起こした。食事もせずに果実酒を口にしていたものだから、油断をするとこのまま寝入って、フラウに大変な迷惑をかけてしまいそうだった。


「それじゃあ、おやすみ。フラウもゆっくり休むといい」


「はい。おやすみなさいませ」


 貴族と侍女であるのだから、もちろん寝所は分けられてしまっている。ようやく自分の着替えに取りかかり始めたフラウに手を振ってから、クリスフィアは自分の寝所へと身を移した。


 こちらもまた、広間と変わらぬぐらい豪壮な造りである。巨大な寝台にはキミュスの羽毛を詰め込まれた寝具が準備され、天蓋からは絹の帳を下ろせる造りになっている。女官の手によってあらかじめ灯されていた燭台を吹き消して、クリスフィアはその寝台へと倒れ込んだ。


 ひらひらとしたシムの絹でできた夜着は、寒さを防ぐ役には立たない。しかし、この地は夜でもアブーフの昼より温かいぐらいであるのだ。クリスフィアはふかふかの羽毛布団も足もとに蹴飛ばして、薄い毛布を一枚だけ腹の上に掛けておくことにした。


 果実酒の酒精が、ほどよく身体に回っている。いや、窮屈な宴衣装で酒精もせき止められていたのか、自分で思っていたよりも酔いが回っているようだった。首のあたりに熱がこもって、わずかながらに頭が重い。


 その放埒な感覚に身をゆだねながら、クリスフィアは明日のことを考えていた。

 明日は、レイフォンのもとを訪れてやろうと目論んでいる。噂によると、あの貴公子は新王からおびただしいほどの仕事を押しつけられており、白牛宮の自室からもなかなか出られないような身の上であるらしかった。


(それならば、今日のようにわたしから逃げまどうこともできないだろう。あの賢そうな従者はいささか厄介だが、いざとなったら、無礼な貴族らしく退去を命じてやる)


 けっきょく今日の宴では、レイフォンと言葉を重ねることもできなかったのだ。クリスフィアのほうは隙あらば声をかけてやろうとしきりにその動向を探っていたのだから、向こうが意図的に避けていたのは明白であった。そうしてクリスフィアから逃げ回ることそのものが、何か後ろめたい事情を抱えた証左であるように思えてならなかった。


 思えば、あの貴公子は一番の最初から胡散臭かったのだ。それはクリスフィアの敬愛するディラーム老のそばにいるため、余計そのように思えたのかもしれないが、何にせよクリスフィアは自分の直感を信じることに決めたのだった。


(あやつも悪辣な人間ではないのかもしれない。だけど、見た目通りの人間でもないはずだ。このたびの陰謀劇で、あやつがどのような役割を果たしているのか――まずはそいつを暴いてやろう)


 行動の指針が定まったことで、クリスフィアの心は少しだけ安らいでいた。レイフォンに近づくことでディラーム老とも言葉を交わす機会が増えるならば、それも喜ばしい限りであった。


 明日はいったいどのような言葉であの取りすました貴公子を攻め込んでやるべきか――そんなことを思案している間に、いつの間にかクリスフィアは寝入っていた。

 普段であれば、とっくに寝入っている頃合いであったのだ。酒の力も相まって、クリスフィアはいつも以上にすみやかに眠りを得ることができていた。


 だが――しばらくの後、クリスフィアの意識は現実へと引き戻されてしまった。

 何か不可解な感覚が、クリスフィアの身に訪れていたのだ。


 妙に身体が熱くなっており、心臓がどくどくと脈打っている。その乱暴な鼓動によって、眠りをさまたげられたようなものだった。

 薄手の毛布すらもが不快になり、腹の上から払いのける。しかし、そんなものでは足りなかった。夜着を脱ぎ捨てて、冷たい水の中にでも飛び込みたいぐらいの熱気であった。


(……まさか、建物が火にでも包まれているのか?)


 そんなことを考えたのは、銀獅子宮における災厄が脳裏にこびりついていたためかもしれなかった。

 しかし、寝所の中は静まりかえっており、何の異変も感じられない。この熱は、クリスフィアの肉体の内側からかもし出されているものなのだ。


 まったくわけもわからないまま、クリスフィアは何度となく寝返りを打った。どれほど酒を召そうとも、このような熱気にとらわれたことはこれまでになかった。


 心臓ばかりか、頭の中までもがじくじくと疼いている。痛むのではなく、血流の激しさに脅かされているような感覚だ。そしていつしかその感覚は、手足の先にまで広がってしまっていた。


(何なのだ、これは……? 何か病魔にでも冒されてしまったのか?)


 身体が、じっとりと汗ばんでいた。

 知らず内、呼吸が速くなってしまっている。口もとに手をやると、その吐息までもが大変な熱気をはらんでいるかのようだった。


 そして、得体の知れない感覚が腰のあたりに芽生えている。

 いや――腰というよりは、下腹のあたりか。胃袋よりももっと下、ほとんど股ぐらに近いあたりが熱く疼いていた。


(これはいかん。まさか、毒でも盛られたのか……?)


 しかしクリスフィアは、フラウが運んできてくれる果実酒ぐらいにしか口をつけていなかった。誰もが手に取れる卓や盆からその酒杯は届けられたのだから、そこにクリスフィアだけを狙って毒物を投じることなど可能であるとも思えなかった。


(毒でなければ、ただの病だ。医術師を呼びに行かせないと……)


 ぴりぴりと痺れ始めた腕で身体を支え、クリスフィアは半身を起こした。

 その拍子に、頬を流れた汗が唇の端に触れてくる。

 何の気もなしにそれを舐め取ったクリスフィアは、愕然とした。その汗は塩の味がせず、果汁のように甘ったるかったのだった。


 そして、それを口にした瞬間、またクリスフィアの心臓が大きく跳ねあがった。

 下腹部が熱くなり、呼吸がいっそう速くなってくる。得体の知れない感覚が、下腹部から全身にまで巡ってしまいそうであった。


(何なのだ、これは……? わたしはどうしてしまったのだ……?)


 頭にはぼんやりとした膜がかかり、正常な思考も働かなくなってきていた。

 そして、何か凶暴な衝動が肉体の芯から突き上げてくる。それはクリスフィアの知らない不気味な感覚であった。


 何か、飢餓感にも似た感覚である。あるいは、破壊衝動にも似ているかもしれない。何にせよ、クリスフィアにとっては馴染みがなく、そして、危険な情動であった。

 肉体が何かを欲しているのに、その正体がわからない。クリスフィアは夜着どころか、この肉体そのものを脱ぎ捨ててしまいたいような感覚にとらわれた。


(このままでは、駄目だ……フラウ……フラウを……)


 窓から差し込む月明かりだけを頼りに、クリスフィアは闇の中に手を差しのばした。寝台のそばには卓が置かれており、その卓には侍女を呼びつける鈴が準備されているはずだった。


 そのとき、冷たい風がクリスフィアの頬をなぶった。

 奇妙に火照った肉体には心地好いぐらいの涼風であったが、扉や窓の閉められた屋内には存在するはずのないものであった。


 クリスフィアは、のろのろと窓のほうを振り返る。

 大きく開かれた窓の前に、大きな男の影があった。

 外界の夜風にさらされて、窓の帳はひらひらとそよいでいる。


「待たせたな、アブーフの姫君よ……何の明かりも灯っていないから、俺との約束も忘れて寝入ってしまったのかと思ったぞ……?」


 笑いを含んだ囁き声で言いながら、男はぴたりと窓を閉ざした。

 クリスフィアは苦しいぐらいに脈打つ胸もとをまさぐりながら、寝台の上で身を引いてみせる。


「こう暗くては、興を削がれるな……俺は明るい中で楽しむのが好みなのだ」


 男は屈み込み、闇の中でもぞもぞと蠢いた。

 やがてその場に、ぼうっと淡い光が灯る。ラナの葉で、自前の燭台に火を入れたようだった。


 それでクリスフィアは、その侵入者の正体を知ることができた。

 燭台のぼんやりとした明かりに照らしだされたのは、野卑なる大男の髭面であった。


「ロネック将軍……か……?」


 クリスフィアの声は、かすれてしまっていた。

 ロネックは「おう」と口もとをねじ曲げて笑う。


「女人に呼びつけられるというのも業腹な話だが、姫君のように美しい貴婦人であれば是非もない……あんな柔弱なレイフォンなどよりも俺を選んだことは、決して後悔させまいぞ……」


「何を……あなたは何を言っているのだ……?」


 うわごとのようにつぶやきながら、クリスフィアはまた新たなる異常を頭の片隅で知覚していた。

 ロネックの手にした燭台の火が、おかしな感じにゆらめいているのだ。それはまるで霧の中に灯された火のように、世界を白くくゆらせていた。


 それでクリスフィアは、自分の肌や夜着までもが、しっとりと湿り気を帯びていることにようやく気づくことができた。

 胸もとに垂れた髪の先に触れてみると、そこもやっぱり浴堂を出た後のように水気をふくんでいる。額や首筋や背中を流れ落ちていく水気の感触が、今のクリスフィアには身をよじりたいぐらいむず痒かった。


(霧……部屋の中に、霧がたちこめている……甘い味をしていたのは、わたしの汗ではなく霧の水気であったのか……?)


 それの意味するところが、今のクリスフィアには理解できなかった。クリスフィアの内側にまでそのあやしげな霧が浸透しているかのように、頭の中が霞みがかって、考えがまとまらなかった。


「朝まではたっぷり時間も残されている……今まで焦らされた分を楽しませてもらうぞ、姫よ……?」


「何を言っている……わ、わたしに近づくな……」


「近づくな、とは異なことを……まさか、男を寝所に呼びつけておいて、他に目論見があったわけでもなかろう……?」


 ロネックが、じりじりと近づいてくる。

 獣のようなその顔には、もはや隠しようもない情欲の色が満ちていた。


 クリスフィアは寝台の端まで後ずさり、枕の下に指先を差し入れた。その場所には、護身用の短剣が隠されているはずだった。

 しかし、クリスフィアの指先に触れるものはなかった。短剣は何者かの手によって持ち去られてしまっていた。


「ロネック殿……わたしはあなたを呼びつけたりはしていない……これはきっと、何かの罠なのだ……」


「ふふん。今さら恐れをなしたのか……? 何も案ずることはない。俺は案外に、優しい男なのだぞ……」


 ロネックは卓の上に燭台を置き、寝台の上に片方の膝をかけてきた。

 クリスフィアは荒い息をつきながら、必死にその下卑た笑顔をにらみつける。


「待てと言っている……このような罠に身を投じたら、きっとあなたにも災いが……」


「俺を焦らすのもほどほどにするがいいぞ、姫よ……手荒に扱われたいというのなら、それはそれで一興だがな……」


 ロネックは、図太い舌で唇を舐めた。

 その瞳には、何か常軌を逸した光が灯っている。わずかに残されていた人間らしさが、それで完全に掻き消えてしまったようだった。


(まさか……この男も、甘い霧の影響を受けてしまったのか?)


 惑乱しながら、クリスフィアは逃げようとした。

 その腕を「おっと」とロネックにつかまれてしまう。

 その瞬間、電流のような衝撃が背骨を走り抜けていった。


 ロネックにつかまれた二の腕の皮膚が、じくじくと疼いている。

 下腹部に宿った熱は、もはやこらえようもないぐらい高まってしまっている。クリスフィアの体内で、何か凶暴な獣が暴れ狂っているかのような感覚であった。


「何だ、口ではつれないことを言いながら、そちらも準備は万端のようだな……」


 酒臭い息を吐きながら、ロネックが身を寄せてくる。

 それはとてつもなく不快であると同時に――クリスフィアに、激しい恐怖をももたらした。クリスフィアの体内の獣が、歓喜の咆哮をほとばしらせたかのように感じられたのである。


(このあやしい霧は……まさか、媚薬か何かなのか!?)


 クリスフィアを苛む得体の知れない感覚の正体は、情欲の炎であったのだ。

 それを自覚したことによって、クリスフィアは凄まじい恐怖に見舞われた。自分が不快に感じたことを、悦楽だと感じる獣が体内に潜んでいる。そんなおぞましい話はなかった。


「離せ……その手を離さねば、ただでは置かぬぞ……?」


「ただでは置かぬとは、楽しみな話だ……いったいどのような目を見せてくれるのだろうかな……?」


 情欲に両目をぎらつかせながら、ロネックがいっそう身を寄せてこようとする。

 自分もそんな目つきをしているのかと想像するだけで、クリスフィアは舌を噛み切りたいほどであった。


 理性と情動が、完全に切り離されてしまっている。

 頭ではこの不快な男を叩きのめしたいと考えながら、肉体のほうは期待に打ち震えている。この力強い指先が自分を組み伏せ、いいように扱おうという、そんなおぞましい運命を嬉々として受け入れようとしている獣が、クリスフィアの内に潜んでいるのだ。


(そんな真似……絶対に許すものか!)


 クリスフィアは、渾身の力でロネックの腹を蹴り飛ばした。

 普段であればその一撃で相手を悶絶させられたはずであるが、やっぱり手足には力が入らない。それでもロネックの指先はわずかにゆるんだので、クリスフィアはそれをがむしゃらに振り払った。


 すかさずのばされてくる逆側の腕をかいくぐり、絨毯の敷かれた床の上に降り立つ。

 がくがくと膝が震えたが、クリスフィアはかまわずに寝所の出口を目指した。ここは男子禁制の赤蛇宮であるのだから、他の人間がこの騒ぎを聞きつければ、ロネックも逃げるしかなくなるはずだった。


 しかし、数歩といかぬ内に、背後から肩をつかまれてしまう。

 そこからもたらされる不快と悦楽の感覚に歯を噛んでこらえながら、クリスフィアは振り向きざまに拳を振り上げた。


 ロネックの顔面に、クリスフィアの拳がめり込む。

 闇の中に、鼻血が飛び散った。

 しかし――ロネックは獣のように笑ったまま、クリスフィアの手首までをもつかんできた。


 肩と手首をつかまれて、クリスフィアは身動きが取れなくなってしまう。

 しかも、ロネックに触れられている箇所は、こらえようもなく熱く疼いていた。

 足からは力が抜けていき、下腹部では獣が騒いでいる。まるで心臓が下腹部まで下がってしまったかのように、その場所がどくどくと脈打っているかのようだった。


「寝台よりも、床の上で楽しみたいということか……? なかなか好ましい趣味をしているな、姫よ……」


 ロネックのほうも、いくぶん呂律があやしくなっていた。

 自分が何を口走っているのか、果たして理解できているのだろうか? 王都を訪れた貴賓であり、しかも侯爵家の嫡子であるクリスフィアを力ずくで辱めることなど、いかに元帥の身であっても許されるはずがなかった。


 しかし、彼もまた正気を失ってしまっているのだ。

 ロネックは動物のようによだれを垂らしながら、クリスフィアの身体を押し倒した。

 その指先が、音をたてて夜着を引き裂く。

 夜の涼気が、クリスフィアの汗ばんだ肢体をなぶるように吹きすぎていった。


(……何故、また風が吹いている?)


 最後に残存した理性でそのように考えながら、クリスフィアは右膝を突き上げた。

 まともに股間を蹴りあげられて、ロネックがくぐもったうめき声をあげる。


 そして、ロネックの巨体がふいに消え去った。

 男の熱と重みを奪われて、体内の獣が不満の声をあげる。それを意思の力でねじふせながら、クリスフィアは引き裂かれた夜着の胸もとをかき合わせた。


 ロネックが、クリスフィアの足もとに組み伏せられている。

 その背後では、四角い形に光が瞬いていた。寝所の扉が開かれて、広間のほうに灯された光が差し込んできているのだ。


「放せ……! 俺の邪魔をするやつは、誰であろうとぶち殺してやるぞ……!」


 組み伏せられたロネックが、獣のようにわめいていた。

 それはまるで自分の内にも潜んでいる獣が現出したかのような浅ましさで、クリスフィアをぞっとさせた。


「完全に正気を失っているようだね。これでは言葉が通じそうもない」


 ロネックを組み伏せた何者かが、溜息まじりにつぶやいた。

 黒い装束に身を包んでおり、顔には奇怪な仮面をかぶっている。それは舞踏の間で壁に掛けられていた、道化師の仮面であるようだった。


「失礼するよ、ロネック殿。どうぞ安らかな夢を」


 そうしてその仮面の男は、ロネックの太い首に右腕を巻きつけた。

 ロネックは、声にならない怒号を放つ。

 その目がぐるりと白目を剥いたかと思うと、やがてロネックは力なく突っ伏してしまった。


「こ……殺したのか……?」


 まったく状況を把握できないまま、クリスフィアは呆然とつぶやいた。

 仮面の男は「いやいや」と答えながら、ロネックの背から起き上がる。


「気を失っただけだよ。首に走る血の流れを止めてやると、どんな人間でも意識を奪われてしまうものなのさ。介抱してやれば、何事もなく目を覚ますはずだよ」


「ですが、ロネック将軍は果実酒を召されているばかりでなく、何かの毒草に蝕まれているように見受けられます。このまま医術師のもとに連れていくべきでしょう」


 と、仮面の男の背後から、さらなる侵入者が姿を現した。

 とても愛くるしい、赤蛇宮の女官と思しき少女である。

 半透明の織物で顔を隠してしまっているが、それでも秀麗な顔立ちをしていることは見て取れる。こんなに見目の整った女官がこの宮殿にいたっけな、とクリスフィアは場違いな感慨を抱かされることになった。


 少女はそのほっそりとした手の先で口もとを覆いながら、窓のほうに駆けつける。その手が帳と窓を全開にすると、さあっと心地好い夜風が吹き込んできて、その場にたちこめた甘ったるい霧をわずかながらに散らしてくれたようだった。


「毒草の罠とは穏やかでないね。さっきからこの仮面のせいで息苦しかったのだけれども、思わぬところで毒を防ぐ役にも立っていたのかな」


 少女が自分のもとに戻ってくるのを待ってから、仮面の男がそのようにつぶやいた。


「さて、ご無事だったかな、クリスフィア姫? これもまた、出過ぎた真似でなかったのなら幸いだけれども」


 奇怪な仮面をかぶったまま、男が一礼する。

 その気取った仕草で、クリスフィアはようやくその正体を知ることができた。


「あなたは……ヴェヘイム公爵家のレイフォン殿か……」


「うん。男子禁制たる赤蛇宮に素顔で忍び込む気にはなれなかったので、こんな珍妙なものをかぶることになってしまったのだよ」


 クリスフィアはいっそうきつく胸もとをかきあわせながら、そのかたわらの女官をにらみつけた。


「では、そちらの女官は……女官ではなく、あなたの従者か」


「そうだね。女官の手引きがなければ忍び込むことすら困難であったからさ。ティムトが女官のふりをして、私を手引きしてくれたんだ。まったく、この女官のお仕着せを手に入れるのには苦労がいったよ」


 美しい女官の格好をした少年は、すました面持ちで口をつぐんでいた。

 もともと顔立ちは整っているし、身体もほっそりしているので、女官などになりすますことも可能であったのだろう。


 しかし、クリスフィアは釈然としなかった。

 まだ頭の中には不快な膜がかかってしまっていたが、それぐらいの考えを巡らせることはできた。


「あなたたちは、何のためにそのような真似を……? ひょっとしたら、すべてはあなたたちの企みであったのか……?」


「違う違う。我々は、姫君が何者かを寝所に招く書状を見つけてしまっただけなのだよ。しかし、清廉なるクリスフィア姫がそんな風に殿方を寝所に呼びつけるのはありえない話だと思ったので、これは誰かの陰謀なのではないかと疑ってみたのさ」


「つまり、ロネック将軍も何者かに騙された身であったわけですね。まったくお気の毒な話です」


 そのように言いながら、女官の格好をした少年の声には何の感情も込められてはいなかった。


「ともあれ、大事に至らず何よりだったね。姫君の侍女も無事であったようだし」


「侍女……? まさか、フラウの身にも何か……!?」


 クリスフィアは慌てて立ち上がろうとしたが、まだ足もとが言うことを聞いてくれなかった。

 下腹では、じくじくと獣が蠢いている。本当は、レイフォンと口をきいているだけでも、今のクリスフィアには苦痛であった。


「いやいや、他の皆は眠らされているだけだよ。隣の寝所の侍女も、次の間に控えていた女官も、みんなシムの眠り薬か何かで眠らされてしまったらしい。まったく念の入った悪巧みだね」


 そのように述べながら、仮面のレイフォンはうやうやしく手を差しのべてきた。


「どうやらクリスフィア姫は、この宮殿内に敵を作ってしまわれたらしい。よければ、私が姫君の力になってさしあげたいと考えているのだが、いかがなものだろうね?」


「……その敵があなたではないという証はあるのか?」


「ふむ? 私がロネック殿に姫君を襲わせて、それを助けることで姫からの信用を勝ち得ようと目論んだ、ということなのかな? それはあまりにも迂遠なやり口であるし、そもそもロネック殿がそのような役割を受け持ってくれることもないだろうね」


 クリスフィアは、胸もとがはだけてしまわないように気をつけながら、片方の手で前髪をかきあげた。今のぼんやりとした頭では、何の結論も出せそうにはなかった。


「とにかく、話をうかがおう。どの道、明日にはあなたのもとを訪れようと考えていたのだからな」


「それは何よりだ。では、私はロネック殿の身柄を医術師たちに託してくるので、その間に姫は召し物をかえられるといい」


 そのように述べながら、レイフォンはなおも手を差しのべてきた。

 クリスフィアは、残された力を振り絞って、それをにらみつけてみせる。


「その手は不要だ。あなたの力を借りるとしても、それは今ではない」


 レイフォンは手を引いて、また腹の立つ仕草で肩をすくめた。

 クリスフィアが眠りを得るには、この夜の間にこの厄介な人物と決着をつけねばならないようだった。

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