Ⅰ-Ⅳ 蛇神の供物
2017.2/23 更新分 1/1
「ねえ、本当に引き返さないの……?」
闇に閉ざされた森の中を歩きながら、チチアはずっと不安そうな声をあげていた。
しかし、不安なのはリヴェルも同様である。夜の森の危険さはこの半月ほどで嫌というほど思い知らされていたし、しかも自分たちはこれから蛇神に生贄を捧げようとしている忌まわしき儀式の場へ出向こうとしているのだ。これで不安にならないわけがなかった。
おまけにこの夜は薄ぼんやりと霧がかっており、妙に生ぬるい風がひゅるひゅると頬を撫でていた。頭上の月も朧ろに霞み、野の鳥や獣たちもじっと息を潜めているかのようで、不吉なことこの上なかった。
そんな不吉な夜の中を、リヴェルたちは燭台の火だけを頼りに進んでいる。問題の沼は集落の北側にあり、そこまでの道は邪教徒たる女人たちによってしっかりと踏み固められていたが、左右に立ち並んだ丈の高い樹木は怪物の影のように黒くわだかまっており、リヴェルはまるで悪夢の中をさまよっているような恐怖心をもかきたてられていた。
きっとナーニャにしっかりと手を握られていなかったら、一歩として進むこともできなかっただろう。先頭を歩くのは燭台を掲げたチチアで、それにナーニャとリヴェルが続き、しんがりをゼッドが守っている格好であった。
「ところでさ、そんな風に明かりを灯していたら、あちらに気づかれてしまうのじゃないかな?」
低くひそめた声でナーニャが呼びかけると、チチアは「馬鹿なことを言わないでおくれよ」と震える声で囁き返してきた。
「こんな真っ暗な闇の中を、明かりもなしに進めるもんか。沼の周りは深い茂みに囲まれているから、燭台を腰から上にあげない限りは気づかれることもないよ」
「それならそれでいいけどさ。……君はずいぶん怯えているようだね、チチア。儀式の場を覗くのは、これが初めてじゃないんだろう?」
「そりゃあそうだけど、あたしはあいつらを裏切ろうとしている真っ最中なんだからね! あんたたちと一緒にいるところを見られたら弁解のしようもないんだから、怯えるのが当たり前じゃないか?」
「もしも見つかってしまったら、僕たちに脅されて案内してきたんだと弁明すればいいじゃないか。実際、それほど事実との差はないんだし」
おそれげもなく歩を進めながら、ナーニャはくすくすと笑い声をあげる。
燭台の火は足もとしか照らしてくれていないので、その表情を見て取ることもできないが、きっとあの悪神のような冷笑を浮かべているのだろう。
「邪教徒の数は、三十人ぐらいだったっけ? まあそれが何人だとしても、相手がかよわい女人であったら、ゼッドに傷ひとつつけられるものではないよ」
「だ、だけどあんたは、蛇神が本当に復活するかもしれないとか言ってたじゃないか……?」
「ゼッドの剣なら、蛇神すら滅ぼすことができるんじゃないのかな。……もしも地上の剣が通用しないような相手なら、そのときはそのときさ」
そのように述べてから、ナーニャはいっそう声を低めた。
「ただ、この霧はちょっと厄介かな。……こんなに大気が湿り気を帯びていたら、さすがに火神の魔力も弱められてしまうんだろうか」
たぶんその声は、隣を歩いているリヴェルの耳にしか届かなかったことだろう。
リヴェルは思わずナーニャの熱い指先を強く握り返してしまい、笑われることになった。
「大丈夫だよ。燃えすぎるよりは、よっぽどましさ。建物の中でなければ、どれほど炎が荒れ狂っても、みんなを危険な目にあわせることもないだろうしね」
「何をごちゃごちゃ言ってるのさ? 沼は、もうすぐだよ」
チチアが険悪な声で囁く。
それから、どれぐらい歩いたのか――やっぱりこれは悪い夢なのではないかとリヴェルが自分の正気を疑いかけたとき、チチアはぴたりと足を止めた。
眼前には、黒い茂みが立ちふさがっていた。
ゼッドぐらい長身でなければ、その向こう側を覗くこともかなわなかっただろう。そしてゼッドは、いつしかリヴェルたちの背後で低く腰を屈めていた。
チチアは無言で、右の方向に燭台を差し向ける。
見ると、そちら側だけ下生えの草が踏み固められていた。そこから、茂みの向こう側へと回り込めるのだ。
チチアは燭台を差し向けたまま、それ以上は動こうとしなかった。
下側からかすかに照らされたその顔は、不気味な形に陰影が浮かんで、まるで死者であるかのようだ。ナーニャはひとつ肩をすくめてから、そろそろと右側に進んでいった。
ナーニャに手を引かれたリヴェルも、一緒に動かざるを得ない。リヴェルは暗い足もとで音の出るものを踏んでしまわないように気をつけながら、慎重に歩を進めた。
やがて茂みの切れ目を見つけて、ナーニャはいっそうゆっくりとその向こう側を覗き込む。
リヴェルはとうていそんな蛮勇を振り絞ることはできなかったので、ぼんやりと闇に浮かぶナーニャの白い横顔をひたすら見つめ続けた。
ゼッドのほうはナーニャとチチアの間をふさぐ格好で立ち止まり、茂みの上からその向こうを透かし見ている様子だった。
「なるほどね。これはまさしく、邪教の儀式だ」
ほとんど聞き取れないぐらいの小さな声で、ナーニャはそのようにつぶやいた。
それでも、その声にわずかな笑いの響きを感じ取ることはできた。
「リヴェルも見てみなよ。向こうに気づかれる恐れはないだろうから」
リヴェルは迷ったが、見ないままでこの場を終わらせたら、帰り道では余計におぞましい想像をふくらませてしまいそうだった。
それで、悲鳴だけはあげまいと固く唇を噛みしめながら、茂みの向こうをおそるおそる覗き込んでみたのだが――けっきょくは、自分の愚かさを思い知らされることにしかならなかった、そこで待ち受けていたのは、リヴェルがどれほど想像をふくらませてもかなわないほどの、おぞましい光景であったのだった。
巨大な沼が、朧ろな月明かりの下でぬめぬめと照り輝いている。
なおかつ、その巨大な沼の手前には、いくつものかがり火が焚かれていた。
だからリヴェルは、その光景をはっきりと目に収めることができてしまった。それが幸運であったなどとは、どうしたって思うことはできなかった。
かがり火の下で、ひとりの男が磔にされている。
そこには丸太の架台が設置され、ひとりの男が左右から両腕を吊り上げられていたのだった。
図体の大きな男である。遠目であるので判別はつけにくいが、ゼッドよりも巨躯であるようだ。腕も足も腰も太く、胸板などは岩盤のように分厚い。そして――その頭には、金褐色の髪が炎のように渦巻いていた。
それは北の民、マヒュドラの蛮族たる大男であったのである。
その大男に、何名もの女人がからみついていた。
ぬめるように青白い肌をした、それこそ毒蛇のような女たちだ。
大男も女たちも、一糸まとわぬ裸体であった。
大男は力なく首をのけぞらせ、苦悶のうめき声をあげている様子であったが、この距離ではその声を聞き取ることもできなかった。
だからそれは、ひょっとしたら苦悶ではなく――悦楽の声なのかもしれなかった。
少なくとも、女人のほうは全員が悦楽の表情で喘いでいた。
その蠢く青白い肌の向こうでは、どれほどいかがわしい行いが為されているのか。女人たちは男の巨体に取りすがり、からみつき、肌と肌を重ねながら、おぞましい悦楽の表情をさらしていた。快楽をむさぼるという言葉がこれほどぴったりと似合う情景は他に思いつかなかった。
そして、さらにおぞましいことには、その周囲でも同様の行為が行われていた。
男の巨体にからみついているのは、せいぜい五名ていどだ。残りの二十数名は、草のむしられた地面に這いつくばり、女人同士で快楽をむさぼり合っていたのだった。
(こんなの、人間のやることじゃない……こんなのは……毒蛇が巣穴でからみあってるようなものだ……)
リヴェルはつきあげてくる悲鳴と嘔吐感を同時にこらえなくてはならなかった。
それできっと無意識に、ナーニャの指先を力まかせに握りしめてしまっていたのだろう。気づくとリヴェルは、巡礼者の杖をつかんだナーニャの腕で背後から抱きすくめられていた。
「浅ましい姿だね。チチアの言う通り、あれは儀式にかこつけて、己の快楽をむさぼっているだけだ」
やがてナーニャのそんな言葉が耳に吹きかけられてきた。
「でも、蛇神ケットゥアがそういう浅ましさを好む神だったら、儀式は成就されてしまうかもしれない。あの黒く輝く沼からは、恐ろしいほどの瘴気が噴きこぼれてしまっているよ」
「…………」
「これまでに、いったい何人の生贄を捧げ続けてきたんだろう。僕の身に訪れた火神なんて、僕の魂だけを引き換えに現れてしまったんだろうに、そんなたくさんの魂を捧げてしまったら……どんなに力を失った古代の神でも、眠りをさまたげられてしまうだろうね」
そのとき、凄まじい悲鳴が夜の闇をつんざいた。
リヴェルが愕然として振り返ると、チチアがゼッドの左腕に取りすがっていた。
「蛇! 蛇があんなにたくさん! しかもあいつらは、強い毒を持つゲドルの毒蛇だよ!」
ゼッドは無言のまま、腰の鉈をチチアに受け渡した。さきほどチチアから取り上げた鉈である。
チチアがきょとんとした顔でそれを受け取ると、今度は自分の長剣を抜き放つ。それからゼッドは、邪魔くさそうにチチアの身体を突き放した。
「じ、自分の身は自分で守れってこと!? この薄情者! あたしみたいにかよわい娘に、いったい何ができるってのさ!」
「こいつはまずいね。あれはただの毒蛇なんかじゃありえないよ」
リヴェルの身体を片腕で抱きすくめたまま、ナーニャは後ずさる。
それでリヴェルは、ようやくチチアの言う毒蛇の群れを闇の中に見出すことになった。
その姿は、ほとんど闇に閉ざされてしまっている。しかし、地べたにおびただしい数の眼光が、青い鬼火のように瞬いていたのだ。
リヴェルたちの歩いてきた道も、その青い鬼火でうめつくされてしまっている。また、鬼火の主は茂みの中にも木の上にも潜んでいるようだった。
「ナ、ナーニャ、あれはもしかして……」
「うん。いつだったかに森で襲いかかってきた魔物と同じようなものだね。魔なるものが、蛇に憑依しているのか――あるいは、自ら蛇の形を作っているのかもしれない。これほど瘴気がわだかまっていれば、何も不思議な話ではないよ」
「きゃあー!」と叫んだのは、リヴェルではなくチチアであった。
一番手前にいた毒蛇の一匹が、宙を跳んでチチアへと襲いかかったのだ。
チチアの鉈がそれを撃退し、嗅ぎ覚えのある腐臭が大気に満ちた。
闇に弾けたのは、青黒い腐汁だ。
まぎれもなく、それは魔なるものの証であった。
「きゃあー! きゃあー!」と叫びながら、チチアはぶんぶんと鉈を振り回す。そのたびに、跳びかかってきた毒蛇たちが闇の中で四散した。ゼッドは巻き添えを食わないように、そんなチチアから距離を取り始めていた。
「何だ、ずいぶんしぶとい娘じゃないか。あれなら一人でも逃げられたかもしれないのに」
言いざまに、ナーニャがいきなり身をひるがえした。
巡礼者の杖がびゅんっとふるわれ、そこに「ぎゃあ!」という声が重なる。
地面に、どさりと人影が倒れた。それは青白い裸体をした女人の一人であった。
チチアの悲鳴を聞きつけて、こちらの様子を覗き見に来たのだろう。巡礼者の杖でしたたかに顔面を殴打されたその女人は、金切り声のような笑い声をあげながら、半身を起こした。
「蛇神ケットゥアに仇なす背信者め! ケットゥアの毒で魂まで腐らせるがいい!」
それは、最初にフィーナの家でリヴェルたちを出迎えてくれた女人であった。
ただしその顔は悦楽の余韻と憎悪の念で引き歪み、野獣のごとき形相に成り果てていた。
「死ぬぅ! 助けてぇ! こんなの、キリがないよ!」
青黒い腐汁にまみれたチチアが泣き声をあげた。闇の向こうからは、いよいよ青白い鬼火が大挙して押し寄せてきていた。
「確かにこれでは毒蛇の渦に呑み込まれてしまいそうだね。災いの根源を叩くしかないか」
「わ、災いの根源?」
「蛇神の巫女だよ。きっとあのフィーナとかいう女人が教祖だか祭司だかなんだろう。現し世と隠り世を繋ぐ糸を断ち切れば、瘴気も形を為すことはできなくなるだろうさ」
まったく意味のわからないことを言いながら、ナーニャはもう一度巡礼者の杖をなぎ払った。鼻の骨を打ち砕かれた女人は悲鳴をあげて倒れ伏し、ナーニャは茂みの向こう側へと身を躍らせる。
当然のこと、ナーニャに手をつかまれたリヴェルも一蓮托生であった。
女人たちは、あるいは立ち上がり、あるいは同胞とからみあったまま、全員がこちらのほうに視線を差し向けてきていた。
その顔は、さきほどの女人と同じ形相になってしまっている。それでも誰ひとり声をあげようとしないのが、リヴェルには何より不気味に感じられた。
「うひい!」と悲鳴をあげながら、チチアもかたわらにまろび出てくる。
その後に、ゼッドが毒蛇の群れを撃退しながら追いかけてきた。
「大切な儀式の最中に失礼するよ。フィーナはどこにいらっしゃるのかな?」
リヴェルの手を引いたまま、ナーニャが悠然と歩を進める。
ゼッドは背後の毒蛇たちを警戒しながらその後に続き、チチアも千鳥足で追ってきた。
「あなたたちの悲願は、この夜に達せられてしまうかもしれない。だけど、いまさら古代神のひとつやふたつを復活させたところで、四大神の治世はゆるがないよ。彼らの力は大陸の隅々にまで及んで、大神アムスホルンを完全に眠らせてしまっているのだからね」
半分がた麻痺した頭で、リヴェルはナーニャの声を聞いていた。
アムスホルンというのは、この四大王国の存在する大陸の名だ。王国に神の名が与えられているのと同じように、大陸にもさらに大いなる神の名が与えられているのである。
(でも、四大神が父なるアムスホルンを眠りにつかせているなんて……そんな伝承は聞いたことがないけれど……)
リヴェルは、ぼんやりとそのように考えた。
もはや恐怖を感じる心も死に絶えてしまったかのようだった。
「何を言ってるのかわからないねぇ……蛇神ケットゥアこそが、この世を統べる真の神なんだよ……?」
毒々しい声音とともに、フィーナが姿を現した。
彼女は、架台に吊るされた男の背後に潜んでいたのだ。彼女もやはりそのだぶついた肉体には何も纏ってはおらず、ただその指先に銀色の短剣を握りしめていた。
女人たちから解放された男は両腕を高々と吊られた格好のまま、がっくりとうなだれてしまっている。その咽喉もとに、フィーナは短剣を突きつけた。
「ケットゥアに供物を捧げるのは、この北の男でちょうど百人目さぁ……あんたの言う通り、この夜にケットゥアは復活を遂げるんだよぉ……」
「だから、そんなものを復活させても意味はないと言っているんだよ。大神アムスホルンが封印されたままなのに、その眷族たる小神を復活させたところで、なんにもならないだろう?」
「ますますわからないねぇ……アムスホルンの子ってのは、忌まわしき四大神のことだろう……?」
「今の世には、そのように語り継がれているようだね。そのほうが、人間たちも安心できるだろうからさ」
ナーニャは悪神のように笑い、巡礼者の杖を振り払った。
「いいから、その気の毒な北の民を解放してあげなよ。その短剣を向けられるべきは、彼じゃない。どうしても供物を捧げたいなら、僕の心臓にそいつを突きつけてみてはどうかな?」
「ふふん……どんなに美しい顔をしていても、あんたみたいに小さな子供じゃあ、あたしたち全員を満足させることもできないだろうさぁ!」
フィーナが、短剣を振りかぶった。
その瞬間、信じ難いことが起きた。
死人のようにうなだれていた男が、その図太い両足を振り上げて、フィーナの胴体にそれを巻きつけたのである。
フィーナの口から、獣のような絶叫が放たれた。
二人分の体重が課せられて、丸太の架台がぎしぎしと軋む。そして、フィーナの背骨やあばらが軋む音色も、そこに重なった。
「放せぇ! 放せよぉ!」
フィーナは長い髪を振り乱しながら、男の足にぶすぶすと短剣を突き刺した。しかしまともに力が入らないのか、それは荒縄のような筋肉の浮かんだ腿の表皮をわずかに傷つけているだけのように見えた。
他の女人たちは、表情を消してその惨劇を見守っている。
まるで全員が泥でできた人形であるかのようだった。
「******!」
マヒュドラの男が、北の言葉で何かを叫んだ。
それと同時に、背骨のへし折れる鈍い音色がまざまざと響きわたった。
男がようやく足を離すと、フィーナは赤黒い血を吐きながら地面に崩れ落ちた。フィーナの豊満な肉体は、腰のあたりで後ろ側にぐにゃりと折れ曲がっていた。
「北の民の生命力というのは凄まじいね。さて、これで万事が片付くといいんだけど……残念ながら、ちょっぴり遅きに失したかな」
ナーニャの声が、不吉に響いた。
そのとき――さらなる悪夢が現出した。
架台の背後に位置する黒い沼から、大量の水があふれかえったのだ。
黒い濁流が、黙然と立ちつくす女人たちの足もとを濡らしていく。
北の男はわめき声をあげながら、また両足を宙にあげていた。
「ああ、これは駄目かな……ゼッド、あの北の民を助けてあげてくれない? 死なせてしまうには惜しい傑物だよ」
ゼッドは一瞬迷うようなそぶりを見せたが、すぐに猛然と架台のほうに走っていった。
それよりも先に濁流が渦を巻き、男の足もとに倒れ込んでいたフィーナの遺骸をさらっていく。
まるでその濁流は生あるものであるかのように、フィーナの遺骸を沼の中へと引きずり込んでいった。
そこでゼッドがようやく架台にまで到着し、男の両腕をいましめていた荒縄を叩き斬る。
男は濡れた地面に落ち、泥まみれになりながら、力なく突っ伏した。もはやその巨体にそれほどの余力は残されていないようだった。
そのとき、女人のひとりが悲鳴をあげた。
悲鳴は悲鳴を呼び、闇に亀裂を入れていく。女人たちは頭をかきむしり、苦悶に身をよじらせながら、全員が死の舞踏を踊り始めていた。
「な、何なのあいつら? もういいから、とっとと逃げようよ!」
腐汁にまみれた鉈と燭台を押し抱いたチチアが、よろよろとこちらに近づいてくる。その面は、幼子のような泣き顔になってしまっていた。
「残念ながら、ここからが本番だよ。あれを退けない限り、どこに逃げたって無意味だろうね」
いっぽう、ナーニャの声は喜悦に震えていた。赤い瞳は、爛々と燃えさかっている。それはまるで、獲物を見つけた肉食獣のような眼差しにも見えた。
そうして、最後の悪夢が吐瀉物のように世界を汚した。
フィーナの遺骸を呑み込んだ沼の中から、この世ならぬ存在が生まれ出たのだ。
それは、巨大な蛇の鎌首に見えた。
ただし、輪郭はかすんでおり、黒い影としか思えない。それでいて、それはその場にはっきりと存在していた。
その首は、人間の胴体よりもはるかに太い。ゼッドや北の民でさえもひと口で呑み込めそうなほど、巨大な怪物である。
菱形をした巨大な頭部は、遥かな高みで不気味にもたげられている。双つの目にあたる場所には青色の鬼火が陰鬱にゆらめいて、邪悪な意思とともに世界を睥睨していた。
(こんなのは、神じゃない……これは怪物だ! ただの魔物だ!)
頭の片隅で、リヴェルは叫んでいた。しかし、現し世の肉体は指一本動かせなくなってしまっていた。
怪物は闇よりも黒くわだかまり、虚空でゆらゆらと鎌首をもたげている。鬼火の双眸は新たなる生贄を求めて、地上の人間たちを物色しているかのようだった。
その黒い影を中心に、世界そのものもゆらめき始めている。あの、ナーニャが火神の魔法を使ったときと同じ感覚である。リヴェルの知っている世界がびしびしと音をたてながらひび割れて、そこからまったく異なる世界が現れ出ようとしているかのような、それは凄まじい恐怖と絶望に満ちみちた感覚であった。
そんな中、女人のひとりがゼッドに襲いかかった。
ゼッドはすかさず長剣を振り払い、それを退ける。
しかし、地面に吹き飛ばされた女人は、またのろのろと身を起こした。
確かに長剣で斬られたはずであるのに、血も流してはいない。ただ、身体の動作はぎくしゃくとしており、死人が無理やりに動いているかのようだった。
女人は髪を振り乱し、背後の怪物と同じように頭をもたげた。
すると、異形と化したその姿があらわになった。
女人の目もまた青い鬼火の輝きを放ち、そしてその顔は青黒い鱗に覆われ始めていた。
いや、顔ばかりではない。そのなよやかな裸身までもが、じわじわと醜い鱗に包まれ始めていた。女人の右腿に刻まれた蛇神の紋章が眼光と同じ色合いで輝いており、その明滅にあわせて女人は苦悶とも悦楽ともつかぬ声をほとばしらせた。
やがてその身が青黒い鱗で埋めつくされると、女人はあらためてゼッドに向きなおった。
前屈みになり、前方に突き出した指先は鉤爪のように曲げられている。耳まで裂けた口からは、鋭い牙と青黒く変色した舌が覗いていた。
青く燃える目は、食い入るようにゼッドをにらみすえている。
だらだらとよだれを垂らしながらゼッドににじり寄ろうとするその姿は、もはや人外の魔物に過ぎなかった。
そして、その場にいる女人は全員が同じ変貌を遂げようとしていた。
三十名を数える女人たちが、その身に刻まれた紋章を青く燃やしながら、この世ならぬ絶叫を放ち、あやしく肢体をくねらせながら、次々と怪物として生まれ変わっていったのだ。
それこそが、きわめつけの悪夢であった。
「まいったね。供物を捧げ続けた彼女たちも眷族にされてしまったのか」
笑いを含んだ声で言いながら、ナーニャがチチアのほうを振り返った。
チチアは人間のままであり、その手の甲に刻まれた紋章も、青紫色にくすんだままであった。
「君は無事だね。供物を届けるのにちょっと協力したぐらいでは、眷族とみなすことはできなかったらしい。十六歳になる前で幸いだったね」
もちろんチチアは、死人のような顔色で立ちつくしたまま、何も答えることができなかった。きっとリヴェルだって、同じような姿をさらしてしまっているのだろう。これは地上で生きる人間に理解できるような事態ではなかった。
「ゼッドの刀で、あいつらは斬れないのかな。……まあ、斬れたとしても、この人数は手に余るか」
リヴェルは呆然となりながら、なにがしかの予感にとらわれてナーニャを振り返った。
ナーニャは業火のごとく両目を燃やしており――そして、その美しい顔に真紅の禍々しい紋様を浮かびあがらせていた。
「ゼッドは絶対に殺させやしない。この身を火神に捧げてもだ」
「うきゃあ!」とチチアが悲鳴をあげた。
その手に携えた燭台から、炎の濁流が生まれいでたのだ。
しかし、炎はリヴェルたちの背後に向かっていた。
そこにも一体の怪物が立ちはだかっていたのだ。
それは、さきほどナーニャに昏倒させられた女人の成れの果てであった。
青黒い鱗に覆われた怪物は、五体を炎に包まれて、金属を軋ませるような断末魔をあげた。
「ふふふ。僕は初めて誇らしい気持ちでこの力を解き放つことができそうだ。……おい! 君たちの敵はこっちだよ!」
ゼッドを取り囲もうとしていた怪物たちの何体かが、ゆらりとこちらに向きなおった。
そうして、それらのものどもがこちらに足を踏み出そうとすると――架台のそばに並んだかがり火から、同じように炎の竜が現出した。
こちらに向きなおっていた怪物たちが、真紅の濁流に呑み込まれていく。あっという間に十体ほどの怪物が地面に崩れ落ちることになった。
その滅びをまぬがれた怪物たちは、雷鳴のような咆哮をあげながら、ゼッドと北の民に襲いかかる。
ゼッドが竜巻のごとく長剣を走らせると、怪物の生首が宙を飛んだ。
ゼッドが渾身の力をふるえば、この怪物にも対抗できるようだった。
ただし、怪物は首を失っても、地面に膝をついただけで、まだ鉤爪のような指先を振り回している。ゼッドはそちらにかまいつけるゆとりもなく、次々と押し寄せる怪物たちを相手取らなくてはならなかった。
北の民は、わめき声をあげながら、襲いかかってくる怪物たちを蹴り倒している。彼は丸腰どころか、丸裸なのだ。ゼッドもなるべくそれを助けようとはしていたが、いかんせん怪物どもはまだ二十体近くも残っていた。
そこに、チチアの悲鳴が響く。
リヴェルがのろのろと振り返ると、背後の闇が豪炎に包まれていた。
さきほどの怪物を焼き滅ぼした炎が、今度は地面を埋めつくした毒蛇たちに襲いかかったのだ。周囲の樹木や茂みも炎に炙られて、ぶすぶすと白い煙をあげ始めていた。
ねっとりと纏わりついてくるような霧や湿り気も、ナーニャの火の魔法をさまたげる役には立たなかったようだった。
いや、もしも大気がこれほどの湿り気を帯びていなかったら、それこそ大変な山火事を招いてしまいそうな勢いであった。
「もっとゼッドたちに近づこう。僕の炎は、僕の敵しか焼き尽くしてはくれないからね」
つぶやきざまに、ナーニャが地を蹴った。
リヴェルは感覚のない足でそれに追従した。ナーニャに手を引かれていなければ、一歩として動くこともできなかっただろう。
だから、チチアが自力でよろよろとついてくる姿を目の端でとらえたときは、痺れた頭の片隅で驚くことになった。これだけの悪夢に見舞われながら、彼女はまだわずかなりとも正気を残しているようだった。
ゼッドの刀とナーニャの炎で、怪物どもは次々と地に沈んでいく。
その残りが十体を切ったとき、不吉な影法師たる蛇神が初めて怒りをあらわにした。
青い双眸がかがり火よりも激しく燃えさかり、巨大な口が威嚇をするようにくわっと開かれる。その向こうに覗くのは、やはり暗黒の深淵である。
「蛇神ケットゥア……いや、もしかしたら、その影に過ぎないのかな? 何にせよ、この世界に君の居場所はないよ」
ナーニャはその手の杖を蛇神に突きつけた。
「父なるアムスホルンとともに、暗黒の底で惰眠をむさぼっているがいい。四大神の治世は磐石だ。この世界は、四大神とその子供たちの手に渡ってしまったんだよ」
怒りの波動が、世界を揺るがした。
蛇神が、怒り狂っているのだ。
リヴェルは自分の知る世界が木っ端微塵に砕けてしまう恐怖に戦慄した。
そのとき――すべてのかがり火から豪炎が噴きあがり、真紅の螺旋を描きながら、いっせいに蛇神へと襲いかかった。
蛇神の黒い首に、豪炎がからみつく。蛇神は苦悶に巨体をよじり、そのはずみでざぶざぶと沼の水があふれかえった。
蛇神の声なき断末魔が、びりびりと世界を震撼させる。まるで肉体から魂を分離されそうな、それは凄まじい苦悶の波動であった。
しかし、ナーニャの力はこのおぞましい蛇神をも上回っていた。
炎がうねり、渦を巻くたびに、蛇神の黒き姿がじょじょに薄らいでいく。その青い双眸ももはや弱々しく瞬くばかりで、いっそあわれげなほどであった。
しかしまた、リヴェルの心は安息とはほど遠かった。
どれほど蛇神が弱っても、世界は頼りなく揺らいだままであるのだ。
いや――むしろ真紅の豪炎が燃えさかれば燃えさかるほど、世界は力を失っていくかのようだった。
ナーニャの魔法もまた、この世界とは相いれぬ存在であるのだ。
赤い炎と黒い影がもつれあうその姿が、リヴェルには怪物同士が共食いをしているようにしか思えなかった。
このままでは、蛇神ではなくナーニャの魔法によって世界が滅ぼされてしまうかもしれない――リヴェルがそんな想念にとらわれたとき、ひときわ凄まじい波動が世界を揺るがせた。
ついに蛇神が、ナーニャの炎に屈したのだ。
漆黒の影はちりぢりになって消滅し、炎の竜は歓喜の雄叫びのごとき轟音を響かせてから、その後を追うように消え失せた。
「ふう……さすがは神と名がつくあって、なかなかしぶとかったね」
ナーニャが低い声でつぶやいた。
そのとき、いきなり何者かが横合いから飛びかかってきた。
まだ手をつないでいたリヴェルとナーニャは、わけもわからぬまま一緒に倒れ込んでしまう。
二人の上にのしかかっているのは、あのマヒュドラの男であった。
そして、リヴェルの鼻先に何かが落ちてきた。
それは、鱗まみれの女人の生首であった。
ぼんやり視線を傾けると、首を失った女人の胴体を、ゼッドが蹴り飛ばしている。ナーニャの炎が蛇神に集中している間に、地上の怪物がリヴェルたちのすぐそばにまで忍び寄っていたのだった。
マヒュドラの男は北の言葉で何かを罵りながら、女人の髪をひっつかみ、それを遠くに投げ飛ばした。生首はがちがちと牙を噛み鳴らしながら、かがり火の下まで飛ばされていった。
「ありがとう。僕たちを助けてくれたんだね」
ナーニャが少し力を失った声でそのようにつぶやいた。
見ると、その面に浮かんだ紋様が淡い色合いに変じており、双眸の輝きも陰ろい始めている。レイノスの町でこのように弱った姿を見せることはなかったが、さすがにあれほどの魔法を使うと消耗してしまうのかもしれなかった。
マヒュドラの男は半身を起こし、ぜいぜいと息をつく。
彼もまた、ナーニャに負けないぐらい消耗しきっていた。
リヴェルにとっては初めて目にする、北の民の男衆である。その顔はやつれ果て、金褐色の不精髭がごわごわとこびりついていたが、それほど年をくった男ではないのかもしれなかった。
その、紫色をした瞳が、強い困惑と猜疑の光を浮かべながら、リヴェルをじっとにらみつけてくる。
「******?」
北の言葉で、何かを問われた。
言葉の意味はわからなかったが、明らかに何かを問い質しているような響きであった。
まだ正気を取り戻せずにいるリヴェルは、地面に横たわったまま小さく首を振ってみせる。
すると――男はうろんげに眉をひそめ、さらに言った。
「おまえ、きたのたみではないのか……? もしかしたら、きたとにしのあいだにうまれたこどもか?」
今度は驚愕のあまり、答えることができなかった。
男はますますいぶかしげに顔をしかめていた。
「西の言葉をあつかえる北の民なんてものも存在するんだね。さすがにそれは想像の外だったよ」
ナーニャはのろのろと大儀そうに身を起こした。
しかし、その指先はまだリヴェルの手をつかんだままである。
「まあ、言葉を交わすのは後のお楽しみだね。まずは、儀式の後片付けをしないと」
リヴェルたちの周囲には、まだ数体ばかりの怪物どもが残されていた。
ナーニャはその瞳に再び強い輝きを宿し、それらのものどもに裁きの豪炎を差し向けた。