Ⅲ-Ⅰ 怒れる女騎士
西の王国セルヴァの版図において、王都アルグラッドから最も遠く離れた場所に位置する、最北の城塞都市アブーフ。
そのアブーフ城の武骨な石の回廊を、一人の女騎士が従者も引き連れずに闊歩していた。
アブーフ城の城主デリオンの息女、クリスフィアである。
淡い栗色の髪をきゅっとひっつめて、灰色の瞳を燠のように燃やしながら、大股で回廊を進んでいる。城主の娘という身分とは関係なしに、その武勲によって大隊長の座を勝ち取った、彼女は名うての女騎士であった。
そのすらりとした長身は白銀の甲冑に包み、小脇には房飾りの美々しい兜を抱えている。すれちがう侍女や小姓に礼をされても、その視線を正面に向けたまま、クリスフィアは見果てぬ何かを敢然とにらみつけていた。
やがてその足が、大きな両開きの扉の前で止められる。
果断なる女騎士の登場に、矛槍を掲げた二名の守衛たちは明らかに戸惑っていた。
「父上に話がある。通してもらおう」
「いえ、ですが、城主様は執務中でありまして――」
クリスフィアはその眼光で守衛たちを黙らせてから、自ら重い木造りの扉を引き開けた。
次の間に控えていた小姓も同じように黙らせて、ひとまわり小さな扉も引き開ける。
とたんに、暖炉の熱気がクリスフィアを包み込んできた。
この寒冷なる北の地では、日中から暖炉が使われているのだ。しかし、甲冑姿のクリスフィアには、いささか不快なぐらいの熱気であった。
城主にして父親たるデリオンは、巨大な卓に向かって書面に筆を走らせている。確かに執務中ではあるらしい。
「アブーフ城主デリオン閣下、アブーフ騎士団第七大隊長クリスフィア、まかりこしました」
デリオンは黒烏の羽根筆を走らせながら、娘の姿をちらりと見返す。
「お主をここに呼んだ覚えはない。見ての通り、私は執務中だ」
「それは失礼いたしました。しかし、是が非でも聞いていただきたい話があったのです」
クリスフィアは卓の前まで進み出て、慇懃に騎士の礼をしてみせた。
デリオンは溜息をこらえている様子で、その凛々しい立ち姿から目をそらす。
「いったい何の話があるというのだ。晩餐の刻限まで待てなかったのか?」
「小姓や侍女の前では、はばかられる話もありましょう。ここならば邪魔も入りません」
そうしてクリスフィアは騎士としての外面をかなぐり捨て、篭手に包まれた手を卓についた。
「父上、キャメルスの話を聞きましたよ。どうしてわたしを差し置いて、あのように柔弱な男が連隊長の栄誉を賜ることになったのですか? わたしは、納得がいきません」
「やはりその話か。……キャメルスは第一連隊の副官であったのだ。その長官がセルヴァに魂を召されたのだから、あやつがそれを引き継ぐのは妥当であろう?」
「キャメルスなんて、その家柄だけで副官に任命された柔弱者ではないですか! キャメルスに比べれば、わたしのほうがよほど多くの武勲を立てているはずです!」
クリスフィアは、いったん浮かせた手の平で卓を叩いてみせた。
書面の字が歪んでしまったのか、デリオンは不機嫌そうに眉をひそめる。
「だいたい、前隊長はグワラムの戦役で敗北し、魂を召されることになったのです! キャメルスにもっと力があれば、前隊長を失うことなく、マヒュドラ軍を退けることもかなったやもしれません! そんなキャメルスに誉ある連隊長の座を与えるなんて――!」
「先の敗北は、アルグラッド軍の不手際からもたらされたものだ。総勢二万もの軍を率いておきながら、まさか真っ先に総司令官が討ち取られてしまうなどとは、誰にも予測できなかっただろう。我がアブーフの軍に手抜かりがあったわけではない」
「しかし――!」
「次の戦に備えて、痛手を負った第一連隊は早急に再編成せねばならん。そのような雑事はキャメルスに任せて、お主はお主の仕事を果たせばよい」
「わたしの仕事とは、兵を鍛えることだけですか? 今回だって、わたしが手塩にかけた兵たちを四個中隊も持っていかれながら、居残りを命じられてしまいました。これでは刀も鎧も錆びてしまいます!」
クリスフィアはぐっと身を乗り出し、父親の顔を間近から覗き込んだ。
「父上、まさかとは思いますが……わたしにこれ以上の武勲を立てさせまいとして、私の部隊をアブーフに留めておられるのではないでしょうね?」
「馬鹿を抜かすな。アブーフの防衛とて、騎士団の重要な責務であろうが」
「この近辺には、アブーフに攻め入るマヒュドラの拠点も存在しません! せいぜいが、城外の荘園を脅かす野盗を追い払うぐらいが関の山です! こんな仕事は、それこそキャメルスでもつとまりましょう!」
「クリスフィアよ、キャメルスはお主の従兄弟である前に、いまやアブーフ軍の連隊長だ。そのキャメルスに対して、あまりに不遜な物言いではないか?」
「ああ、閣下はあくまでクリスフィアに騎士たれというお気持ちであらせられたのですね。それは失礼つかまつりました」
クリスフィアは礼をして、再び直立の姿勢を取った。
「それではアブーフ騎士団第七大隊長として、城主閣下に進言を許していただきたく思います。第一連隊副官キャメルス殿は、いったい如何なる功績をもって第一連隊長に就任する段と相成ったのでありましょうか?」
「よせ、クリスフィア」と、ついにデリオンは筆を置いた。
厳しく引き締まったその顔に、父親らしい苦悩の陰が浮かんでしまっている。
「お主こそ、どうして連隊長などという立場に固執するのだ。連隊長ともなれば、数千名もの兵を率いる一翼の将だ。戦地においては最前線でその首級をマヒュドラの蛮族どもに狙われる、とりわけ危険な立場であるのだぞ?」
「それこそ、武人冥利に尽きるというものではないですか。祖国セルヴァのために、わたしは生命を惜しむものではありません」
「……お主は武人である前に十八歳のうら若き娘であるのだぞ、クリスフィアよ。普通であれば、もう婿を取っていてもおかしくはない年頃だ」
「そのような役割は、刀を取ることもかなわない貴婦人がたにお任せしたく思います」
「では、アブーフ侯爵家の血も私限りというわけか?」
その言葉に、クリスフィアは初めて鼻白んだ。
「別に侯爵家の血筋など、余所にいくらでも残されているではないですか。それこそ叔父君にはキャメルスを筆頭に四名もの子があり、叔母上にだって……」
「お主という直系の嫡子があるにも拘わらず、私は弟たちの子に家督を譲らなくてはならぬのか」
デリオンは重く息をつき、卓の上の書面をくるくると巻き始めた。
そこに封印の帯を巻き、溶かした蝋に指輪の紋章を押してから、力なくクリスフィアを見上げてくる。
「それで私は、自分の孫をこの腕に抱く喜びも知らぬまま、老いさらばえていくわけだな。大事な娘はいずれかの戦地で朽ち果てて、看取る人間もいないまま、セルヴァに魂を召されるわけだ」
「……わたしの他に子を生さなかったのは、父上の都合ではないですか」
「若くして伴侶を失ったのは、私の都合ではない。そして後妻を娶らなかったのは、お主の母親を魂の底から愛していたゆえだ。……それを理由にして、お主が私を責めるのか?」
「責めているつもりはありません。でも……」
そこでクリスフィアは口をつぐみ、軽く唇を噛むことになった。
これならば、真っ向から怒鳴りあっていたほうがよほど苦労も少ない。普段は意固地でなかなか弱みを見せようとしない父親が早々に矛を収めてしまったことで、クリスフィアも憤懣のぶつけようがなくなってしまったようだった。
「お主は聡明な娘だ、クリスフィアよ。刀など取らずとも、お主はその聡明さでアブーフを治めることがかなうだろう」
「しかし、セルヴァにおいて女が爵位を預かることは許されておりません。私が剣を置いたところで、アブーフを治めるのはわたしの伴侶となる人間でしょう?」
「その伴侶と手を取り合って、アブーフを治めていけばよいではないか。私はその座にキャメルスがつくのだと思っていたのだがな」
「どうしてわたしがあのような柔弱者と!」
クリスフィアは悲鳴まじりの声で言い、父親は苦笑する。
「確かに武人としては一味も二味も足りない若者ではあるが、あれも聡明で大局を見る器量を持っている。いささか気弱な部分はお主が補ってやれば、私以上の手腕でアブーフを治めることも可能であろう」
「わたしが隊長であやつが副官という話なら、容認しないでもないですがね。伴侶だなんて、まっぴらごめんです」
クリスフィアもついつい自制を失って、伝法な口を叩いてしまう。
「わたしとて、戦地で手足の一本も失えば、武人としての働きはかなわなくなりましょう。そのときは覚悟を決めて、伴侶を娶るもやぶさかではありませんが、それでも絶対にその相手はキャメルスではありえませんよ」
「手足を失った娘など、いったい誰が伴侶として娶ろうというのだ」
「手足を失って人間の価値が下がるのですか? 私の敬愛する老将には手足を失った人間などいくらでもおりますよ?」
デリオンは頭を抱え、それから気を取りなおしたように面を上げた。
クリスフィアと同じ灰色の瞳に、最前までの力が戻っている。そうしてデリオンは巻いた書簡を革の筒に収めると、それをクリスフィアに差し出してきた。
「我が娘にしてアブーフの騎士クリスフィアよ、父にして城主たるデリオンから重要なる任務を命ずる。こちらの書簡を、王都アルグラッドの国王陛下にお届けするのだ」
「王への書簡? いったい何事ですか?」
「今日の朝方、王都から使者が届いたのだ。前王カイロス三世は崩御され、王弟たるベイギルス二世陛下が新王として戴冠されたのだ」
クリスフィアは完全に虚をつかれ、立ちすくむことになった。
「新王が戴冠? しかも王弟ですって? 王には三名だか四名だかの王子がおられたはずではないですか?」
「王子らは王とともに鏖殺されたのだ。廃位にされていた第四王子と、十二獅子将ヴァルダヌスの許されざる叛逆によってな。銀獅子宮は炎に包まれ、多くの官人らも王とともに魂を召されたそうだ」
「ヴァルダヌス? ヴァルダヌスとは……たしか、十二獅子将の中でも最強の剣士という評判の傑物ではないですか! そんな御仁が、何故?」
「王都から遠く離れたこの地では、そこまでの仔細など知るすべもない。災厄が訪れたのは赤の月の九日であるという話であったから、ちょうどグワラムでの戦いを終えたアルグラッド軍が王都に帰りついた頃、銀獅子宮は灰塵に帰すことになったわけだな」
赤の月の九日ということは、すでに十日以上もの日が過ぎていることになる。王都からアブーフまでは急報を告げるのにもそれぐらいの時間がかかってしまう、ということなのだろう。
十日以上も前に、仕えるべき君主が代替わりを果たしていた。その事実に、さしものクリスフィアも言葉を失うことになった。
「すでに王位の継承は為されたが、戴冠の祝宴はこれから執り行われるらしい。お主はこの書簡を新王陛下にお届けするとともに、その戴冠の祝宴に参列してくるのだ」
「戴冠の祝宴に? このわたしが?」
「お主はアブーフ侯爵家の嫡子だ。私は城を離れることもかなわぬのだから、お主の他にこの役目を果たせる人間はおるまい」
クリスフィアの胸に、疑念の暗雲がじわじわと膨らんでいく。
「大隊長たるわたしには、千名からの部下がおります。彼らをこのアブーフに残して、アルグラッドに発て、と仰るのですか?」
「それに何の不都合があるというのだ? お主には護衛として侯爵家直下の騎兵隊をつけよう。何も案ずることはない」
「何やらきな臭い話ですね。わたしが王都から戻ったとき、わたしの兵たちが他の隊に奪われていたりはしないでしょうね?」
「今回の戦役で多くの兵を失ったのだから、アブーフの軍は再編成を余儀なくされることになる。お主の隊とて、その影響をまったく受けぬとは言いきれぬであろうな」
クリスフィアは父親の取りすました顔をにらみつけながら、ぎりっと奥歯を噛み鳴らした。
「言っておきますが、わたしの隊とて半数以上は傭兵です。とりわけわたしの下には荒っぽい連中が集まっていますので、キャメルスあたりに手綱をあやつることは不可能でありますよ?」
「アブーフにはアブーフの軍紀というものがある。傭兵とて、その軍紀から逸脱するような真似は許されまい」
クリスフィアは、髪が逆立つほどの怒りを覚えた。
デリオンは、同じ表情のまま書簡の革筒を差し出してきている。
「何をしておる。これはアブーフ城主からの勅命であるぞ。書簡を取れ」
「……誰が王になろうとも、わたしたちの為すべき仕事に変わりはありません。マヒュドラとの戦いを打ち捨てて戴冠の祝宴などに参加することに、いったいどれほどの意味があるのでしょうかね」
「不遜な物言いはつつしむがいい。我々は、セルヴァの王のために戦っているのだ」
「そうですか。私はセルヴァの民のために戦っているつもりでしたよ」
クリスフィアは殴りつけるような勢いで、書簡を手に取った。
その固い革筒がひしゃげるほどの力で握り込みながら、騎士の礼をしてみせる。
「ご拝命いたします。どうせなら、兵を率いて王都を陥落せよ、というようなご命令であれば、私も浮き立った気持ちでアブーフを発つことがかなったのでしょうけどね」
「……出発は明日の中天とする。それまでに身支度を済ませておくがよい。貴婦人としての宴衣装も忘れずにな」
クリスフィアは書簡を床に叩きつけたい衝動を懸命にこらえながら、父親に背を向けた。
そうして二つの扉を叩き閉めて部屋を出ると、回廊の隅に控えていた侍女がしずしずと近づいてくる。
「まあ、ずいぶん怖いお顔をされていますね。いったい城主様とどのような言葉を交わされていたのですか?」
「……フラウか。このような場所で何をやっているのだ」
「小姓から話を聞いて駆けつけてきたのです。姫様がたいそうな剣幕で父君のお部屋に向かわれていた、とのことでしたので」
そのように述べながら、侍女のフラウはくすくすと笑い声をたてた。
アブーフでは珍しい、黒い髪と瞳を持つ十六歳の少女である。防寒のために何枚もの長衣を重ねて着ており、毛皮の肩掛けまで羽織っているが、体格はごくほっそりとしており、身長もクリスフィアより頭半分ぐらいは小さい。彼女はアブーフ侯爵家の乳母の子であり、クリスフィアにとってはもっとも気の置けない幼友達でもあった。
「まあ、おおかたの予想はつきますけれど。でも、それでキャメルス様をお責めになるのは、いささか気の毒だと思いますよ? あの御方は誰よりも姫様の力をお認めになられているのですから」
「あのような柔弱者はどうでもいい。それ以上に不愉快な話を聞かされることになってしまったのだ」
荒っぽく言いながら、クリスフィアは音をたてて回廊を歩き始めた。
もちろんフラウも、それに遅れぬようついてきてくれている。
「今朝方、王都から使者がやってきたらしい。フラウは気づいていたか?」
「王都からの使者? ああ、今日は朝から賑やかな気配でしたね。城門が開くのもずいぶん早かったようですし」
「そうなのか。わたしはまったく気づかなかった」
「姫様は、ずっと練兵場に詰め切りでしたものね。それで、王都からの使者がどうされたというのですか?」
それでクリスフィアは、父親から聞かされた話を簡潔に、かつ荒っぽく説明してみせた。
それを聞く内に、ただでさえ丸っこいフラウの目がいっそう大きく見開かれていく。
「まあ、王都ではそのような騒ぎになっていたのですね。それは王国の一大事ではないですか」
「そうなのかな。私は遠く離れた王都で何が起きようとも、アブーフには関わりは薄いように思えるのだが」
「そんなことはないでしょう。マヒュドラと戦うには、王都の力が欠かせないのですから。ただ援軍の派遣という話ばかりでなく、兵糧などの物資だって、王都が頼りなのでしょう?」
「ふん。それはまあ、セルヴァで一番豊かなのは王都だろうからな」
「それなら、王や王都の有り様というのはアブーフにも強く関わってくるではないですか。たとえば、新しい王様がそういった援助を惜しむようなお人柄であったら、姫様はどうされますか?」
「なに? そんなことは許されないだろう。マヒュドラに占拠されたグワラムを一刻も早く取り戻さなければ、今度はタンティの砦までもが危うくなってしまうのだぞ? これでタンティまでもが落とされてしまったら、あとはこのアブーフぐらいしか国境を守れる砦は存在しないことになる」
「だからこそ、です。この北の地における戦いがどれほど重要であるか、新たな王様がそれをきちんと理解していないと、マヒュドラに侵略を許して、王国セルヴァの繁栄もここで潰えてしまいかねません。新たな王様がどのような気性をしておられるか、というのは姫様にとっても看過できぬ事柄であるはずでしょう?」
「……フラウはわたしを乗せるのが上手いな。父上がフラウぐらいわたしという人間を理解できていれば、ここまで親子仲がこじれることもなかったろうに」
「その言い様は、あまりに城主様がお気の毒です」
楽しそうに笑うフラウに、クリスフィアは肩をすくめてみせる。
「でも、わかった。新王があまりにも不甲斐ない人間であった場合は、わたしがじきじきに尻を叩く必要があるということだな。それならわたしも、少しは意義をもって王都に向かうことができる」
「素敵ですね。わたくしも同行させていただけたら、とても嬉しいです。王都なんて、この先もなかなか出向ける機会はないでしょうから」
「何を言っているのだ。こんな遠出で、わたしがフラウを残していくとでも思っているのか?」
「はい、大いに期待はかけていましたけれど」
フラウは幼友達としての顔で笑い、クリスフィアをとても温かい気持ちにしてくれた。
そんな内心は押し隠しつつ、クリスフィアは真面目ぶってうなずいてみせた。
「わたしには、フラウさえいれば十分なのだ。山ほどの小姓や侍女を引き連れて、余所の部隊の兵たちに守られながら、姫君あつかいでいざ王都、なんて、考えただけで気が滅入ってしまう」
そのように言ってから、クリスフィアはふと思い至った。
「……そうだな。わたしには、フラウさえいればそれで十分なのだ」
「どうしたのですか、姫様? 何だか悪戯っ子のようなお顔をされていますよ?」
「いや、何でもないよ。それじゃあ、出立の準備を始めようか。長い旅になるのだから、十分に準備をしておかないとな」
そう言って、クリスフィアはフラウににやりと笑いかけてみせる。
フラウはいくぶん心配げな面持ちであったが、クリスフィアはようやく健やかな気持ちで王都アルグラッドへと向かう手段を思いついたのだった。