Ⅳ-Ⅲ 黄昏刻の鍛冶屋通り
2017.2/15 更新分 1/1
黄昏刻の街道を駆けすぎて、ダリアスは目的の地に到着した。
城下町の、鍛冶屋通りである。
ひとつ手前の角を曲がってから、あやしまれないように歩調を落として、息を整える。そうして、最後の角からそっとその場を覗き込んでみると――想像する限り、もっとも最悪な光景が見えた。
ギムの店の前に、十名を数える衛兵どもが集まっていたのだ。
街道を行き交う人々は、いったい何が起きたのかと目を見張りながら、それを遠巻きに眺めている。ダリアスは、無念のあまり奥歯を噛み砕いてしまいそうなほどだった。
(遅かった……すでに手を回されてしまったのか)
祓魔官のゼラがもっと早くに危急を告げていれば、ギムたちを救いだすこともできたのだ。隠れ家で三日間も安穏と過ごしていた自分の所業を、ダリアスは心から呪わずにはいられなかった。
(どうする? 見えているだけで、相手は十名だ。しかもいまだに日は落ちていないのだから、闇にまぎれて逃げることもできん)
ギムたちを見捨てて自分だけ逃亡する、という選択肢は存在しなかった。そのような真似に及ぶなら、最初からこの場には駆けつけていない。
(問題は、やつらがギムたちをどこに連行しようとするかだ。それが城門の向こう側なら途中で奪還するしかないが、もしも城下町の詰め所でいったん預かろうという心づもりなら……夜を待って押し入るほうが得策かもしれん)
それは、道すがらで判断するしかないだろう。しかし、あまり城門に近づきすぎると、追っ手の数が増えて逃げきれなくなってしまうかもしれない。城門に近づけば近づくほど、危険は増していくばかりなのだ。
(このあたりで一番近在の詰め所はどこだ? それがわかれば、足を向ける方向で早々に判断できるというのに……くそっ! かえすがえすも、行動に出るのが遅すぎた)
忌まわしきは、祓魔官のゼラである。
しかしまた、彼の言葉がなければ、ギムたちの苦難を知ることもできなかったのだ。彼がギムたちの存在を軽んじているからこそ口をすべらせたのだという事実を、今は幸運と思う他なかった。
そうしてダリアスが歯噛みをしている間に、店の中からまた複数の衛兵が姿を現した。
その後に、力なくうなだれた懐かしき姿も現れる。
鍛冶屋のギムと、その養女たるラナである。
二人は、両手を縄で捕縛されていた。その痛ましい姿に、ダリアスはいっそう歯噛みする。
そして、彼らの後からは見覚えのない男たちも現れた。
おそらくは、ギムの店で働く職人たちだろう。全員が厳つい風貌をしており、そして、全員が衛兵に罵声をあびせかけていた。
衛兵どもは、腰の刀に手をかけながら、そちらに怒鳴り声を返している。荒くれた気性の職人たちが、雇い主のために立ち向かっているのだろう。中にはその手に火かき棒や鏨を握りしめている者もいた。
(この混乱にまぎれて、俺も斬り込むか? ……しかし相手は、十名以上に増えてしまった)
ダリアスもまた外套の下で剣の柄を握りつつ、必死に考えを巡らせた。
背中の傷は、じくじくと疼いている。もはや血が噴き出すようなことはないだろうが、戦いに及べばいっそう痛みは激しくなるかもしれない。甲冑も纏っていないこの身では、十名以上の衛兵を打ち倒すことなど不可能に違いなかった。
(あの職人たちも戦いに加わってくれれば、うまく逃げきることはできるかもしれないが……しかしそうなると、今度はあやつらが罪人として捕らわれてしまうだろう)
やはり、衛兵どもが場所を移すのを待つしかない。
幸いなことに、彼らはトトスも荷車も引き連れてはおらず、全員が徒歩であった。城門の内に移送するとしても、一度は詰め所に寄って荷車の手配をするはずだ。
(ならば、その荷車を奪って逃げるのが一番だな。よし――!)
ようやく方針が定まった。
しかし、その考えは最初の一歩からつまずくことになってしまった。
「待ってください! ギムとラナがいったい何の罪を犯したっていうんですか!?」
彼らを遠巻きにした野次馬の中から、ひょろりとした人影が飛び出す。
革細工屋の息子、デンである。
デンはラナたちに駆け寄ろうとして、それを矛槍の壁でさえぎられた。
「ギムもラナも、罪人なんかじゃありません! お願いですから、勘弁してやってください!」
「やかましい! これからそれを吟味するのだ!」
頭に房飾りをつけた衛兵の長が、甲高い声で言い放つ。
その声に、ダリアスはわずかながらに聞き覚えがあった。災厄の夜にダリアスを取り囲み、従士の生命を奪った衛兵たち――その指揮官が、確かにこのような聞き苦しい声を発していたのだ。
(やっぱりこやつらは、敵方の――デン! 下手なことをすれば、お前も斬られてしまうぞ!)
デンの無謀な行いに呼応して、職人たちも背後から衛兵どもに押し寄せようとしている。これではもはや、一触即発だ。誰かが間違って衛兵を傷つければ、全員が叛逆罪とみなされて斬り捨てられてしまうかもしれない。
(くそっ! それならいっそ、俺が飛び込んで衛兵どもの注意を引きつけるべきか?)
悩んでいる時間は、もはやなかった。
デンと対峙していた衛兵長が、ついにその刀を抜き放ってしまったのだ。
「我らの言葉は、王の言葉である! 国王陛下から王都の治安を託された我々に逆らうということは、王命に逆らうことと同義であるのだぞ!」
「お、王様に逆らうつもりなんてありゃしません! ただ、ギムとラナは悪人じゃないってことをわかってもらいたいだけなんです!」
ダリアスは一瞬で覚悟を決めて、路地裏から飛び出した。
身を屈め、素顔は頭巾で隠しながら、音もなく街路をひた走る。
「無礼者め! セルヴァに魂を返すがいい!」
衛兵長が、刀を振り上げた。
それと同時に、ダリアスは一番端にいた衛兵の首を凪ぎ払った。
薄闇の中に血煙があがり、人々に悲鳴をあげさせる。
「な、何者だ! 我々は城下町の治安を預かる、防衛兵団の――!」
何かわめこうとする衛兵の肩口に、ダリアスはギムから預かった長剣を振り下ろす。衛兵たちは頭と胸もとと腰のあたりを革の甲冑で守っているばかりなので、この刀ならば好きなように斬り捨てることができた。
(いずれ防衛兵団の所属ならば、王都の外で敵兵と戦った経験もあるまい。そんな連中に、生命をかけた戦いに身を投ずる覚悟があるか?)
ダリアスは、続けて三人目の衛兵をなで斬りにした。
残りの衛兵は浮き足立って、まったく身動きが取れていない。彼らが冷静さを取り戻す前にと、ダリアスは真っ直ぐラナたちのもとを目指した。
「と、取り囲め! 敵は一人だぞ!」
衛兵長が、また聞き苦しい声でがなり声をあげていた。
それを聞くともなしに聞きながら、ダリアスは刀をふるい続ける。悲鳴と怒声と絶叫があふれかえり、その場は瞬く間に血臭に包まれた。
魂を召された衛兵の肉体が、力なく街路に倒れ込んでいく。それを踏みつけて、ダリアスはさらに押し進んだ。
すでに何名の敵を打ち倒したのか。左右から振り下ろされる斬撃を打ち返し、矛槍をかわし、こちらの刀を叩き込む。ダリアスの外套は返り血にまみれて、足もとには衛兵たちの鮮血と臓物がぶちまけられていた。
じょじょに視界が、赤く染まっていく。
それが返り血によるものなのか、昂揚によるものなのか、それすらダリアスには判然としない。このような戦場に身を置くのは、実に数ヶ月ぶりのことであった。また、それなりの期間を連れ添った従士を殺された怒りが、ダリアスにさらなる力を与えてくれてもいた。
「うわあああっ!」
泣き声のような咆哮をあげながら、若い衛兵が眼前に立ちはだかる。
その手にあるのは槍であるのに、おもいきり頭上に振りかぶってしまっている。その胸甲と腰あての隙間に斬撃をくらわせると、若い衛兵は血反吐を吐きながら横ざまに倒れ込んだ。
その先に、ついに懐かしき姿が現れる。
両手を縄でくくられた、ギムとラナである。
二人は、悲しげにダリアスを見つめていた。ラナの頬には涙が流れていた。
それらの視線に耐えながら、ダリアスは刀を打ち振るった。
二人のすぐそばにいた衛兵は、咽喉もとから血飛沫をあげながら地に沈んだ。
「逃げるぞ! 走れ!」
ダリアスは、空いた左手でラナの手を取った。
ほんの一瞬だけ抵抗してから、ラナが力なく足を踏み出す。
そのかたわらをすりぬけて、いきなりギムがあらぬ方向へと飛び出した。
同時に、「ぐえっ」といううめき声が聞こえてくる。
素早く視線を巡らせると、大上段に長剣を振りかぶった衛兵長が、その体勢のまま地面に倒れて、ギムにのしかかられていた。
「あっしにかまわず逃げてください! ラナをお願いいたします!」
「馬鹿を言わないで! 義父さんを放って逃げられるわけが――!」
残りの言葉は、悲鳴に変じた。
別の衛兵が、横合いからギムの左肩に槍の穂先を繰り出したのだ。
銀色の刃がずぶりとギムの肩にうずまり、目にも鮮やかな血の花を咲かせた。
それを知覚すると同時にダリアスは「貴様!」と怒号をあげ、刀をふるっていた。
首を飛ばされた衛兵は、槍を握ったまま倒れ込む。
槍は真ん中のあたりでへし折れて、ギムもまた衛兵長の上に崩れ落ちた。
「ギム! ギム義父さん! しっかりして!」
惑乱するラナの身体を、ダリアスは背後から抱きすくめる。
ギムの下には、長剣を握った衛兵長が待ち受けているのだ。
衛兵長は、意味をなさぬわめき声をあげながら、傷ついたギムの身体を乱暴に押しのけた。
「も、もう逃げることはできんぞ、叛逆者どもめ! 全員、吊るし首にしてやる!」
気がつくと、残りの衛兵たちがダリアスたちを取り囲んでいた。
人数は半分に減じている。しかし、全部で七名はいるようだった。
ダリアス一人であるならば、突破することは難しくない。背中に大きな傷を負った上でも、あの災厄の夜にはそれを成し遂げることができたのだ。
しかし、現在のダリアスのかたわらには、ラナの存在がある。
ラナは嗚咽をあげながら、まだギムのほうに向かおうとしていた。その身体からはすっかり力が抜けてしまっていたが、ラナがギムを置き去りにして逃げてくれるとはとうてい思えなかった。
(ここまでか……)
ダリアスは、ラナの体温を全身に感じながら刀を下げた。
もはやギムとラナを救うには、自分が投降することで二人の生命を救うよう嘆願する他なかった。ラナの体温が、ダリアスにそのような判断を下させた。
「抵抗はしない。その代わりに、この両名の身柄を解放してやってほしい」
「ふざけるな! 貴様もそやつらも重大な叛逆者だ!」
「違う。この二人は、俺を――」
ダリアスは剣を捨て、外套の頭巾をはねのけようとした。
そのとき、あらぬ方向からまた悲鳴やわめき声が聞こえてきた。
剣を捨てかけていたダリアスはそちらを振り返り、愕然とする。二頭のトトスに引かれた荷車が、ものすごい勢いでこちらに向かってきていたのだ。
勇敢な衛兵が、その眼前に立ちふさがろうとした。
しかし、その槍がトトスを傷つける前に、荷台から放たれた矢が衛兵の首をつらぬいていた。
倒れ込んだ衛兵の身体は無慈悲にトトスの足で蹴り飛ばされ、荷車はダリアスたちのもとへと突進してきた。
「飛び乗ってください! このまま駆け抜けます!」
御者台で手綱を握った人物が、通りすぎざまにそのように叫んだ。
旅用の頭巾と外套を纏いつけ、襟巻きで口もとまでをも隠していたが、それはまぎれもなくゼラの従者であるティートの声であった。
ダリアスは刀を鞘に収め、左腕一本でラナの小さな身体を抱きすくめながら、地面を蹴った。
後部の半開きになった扉をつかみ、疾駆する荷車にへばりつく。その振動に耐えながら、まずはラナの身体を荷台の内に放り入れ、それから自分も頭から飛び込む。
荷車は箱形の立派なものであったので、扉を閉めるとすぐに喧騒も遠ざかっていった。
そして、その薄暗がりでは、幼子のように小さな人物が待ちかまえていた。
「まったく無茶をなさることで……本当に衛兵どもの只中に飛び込むなどとは思いも寄りませんでした」
床に膝をついて荒い息をつきながら、ダリアスはそちらをにらみつけてみせる。
「……さきほどの矢はお前が放ったのか? ずいぶん見事な手並みだな」
「ほんの手慰みでございます。生来、刀をふるうような力は持ち合わせることもかないませんでしたので」
ダリアスは頭巾をはねのけて、ラナのほうをうかがった。
ラナは床に身を投げ出したまま、声もなく背中を震わせている。
その肩に手をのばそうとして、ダリアスは思い留まった。ダリアスの手はどちらも返り血にまみれており、そんなダリアスに抱かれていたラナもすでに赤く汚れてしまっていた。
血まみれの手で拳を作りつつ、ダリアスはもう一度ゼラを振り返る。
「ゼラよ、お前にひとつだけ頼みたいことがある」
「…………?」
「鍛冶屋のギムは、きっとあのまま罪人として捕らわれてしまうだろう。ギムがどこに連れ去られようとも、あれ以上の危害を加えられないように手配をしてもらいたい」
「はて……そもそもあの者は、生きながらえることが可能なのでしょうか? ずいぶん手ひどく傷つけられていたようですが」
ダリアスはその頭巾に隠された顔面を殴り飛ばしたい衝動を懸命にこらえながら、さらなる言葉を振り絞った。
「やつらが俺の行方を求めてギムを捕縛したのなら、尋問をするために手当をほどこすはずだろう。ギムは頑健な男なのだから、助かるに決まっている。……だから、その尋問が手ひどいものになってしまわないよう、お前に取りはからってもらいたいのだ」
「……神官長の従者にすぎないわたしに、そのような真似が可能でしょうか?」
「城門の向こう側に出入りできるのは、お前だけだ。何としてでも、かなえてもらう」
ダリアスは拳で床を殴りつけ、そのまま頭を垂れてみせた。
「頼む。……ギムを救うためであったら、俺はこの生命を引き換えにしてもいい」
「十二獅子将であられたダリアス様が、わたしのような下賤の身に頭を垂れるのですか」
ゼラの声には、どこか不本意そうな響きがあった。
「……わかりました。ダリアス様の心情を見誤ったのは、わたしの責任でもありますし……いささか危険な橋を渡ることになりますが、そのように取りはからいましょう」
「策はあるのか? できれば、聞かせてほしい」
「策というほどのものではありません。わたしにできるのは、あの者に言葉を届けるぐらいのことでありましょう」
そのように述べながら、ゼラは奇妙な風に身体を揺らした。ひょっとしたら、外套の下で肩をすくめたのかもしれなかった。
「あの者は、ダリアス様の身を案じて、固く口を閉ざす心づもりでありましょうから、そのようなことをする必要はない、と伝えてやるのです」
「そのようなことをする必要はない、ということは……真実をすべて語ってみせればいい、という意味か?」
「左用でございます。さらには、聞く側にとって都合のいい話も聞かせてみせれば、手ひどい尋問を受ける理由もなくなりましょう」
「都合のいい話、というのは……?」
「ダリアス様の行方についてです。敵方がもっとも欲しているのは、その一点でありましょうからね」
そのように述べながら、ゼラは背後の壁にもたれかかった。
「ダリアス様は、王都の外に逃亡しようと考えている様子であった、と語らせましょう。それは敵方にとっても容易に想像のできる話でしょうから、虚言とは思われぬはずです。また実際、ダリアス様には王都を離れていただくわけでありますが、それを警戒されているというのも最初から変わらぬ事実でありますので、我らの不利な状況に変わりが生じるわけでもございません」
「……それで本当に、ギムの身が危険にさらされることはなくなるのだろうか?」
必死に嗚咽をこらえているラナの姿に心を痛めながら、ダリアスはしつこく質してみせた。
ゼラは、頭巾に包まれた頭を小さく横に振る。
「真偽のほどが知れるまでは、虜囚として過ごすことになりましょう。ですから、ダリアス様が行動を急がれるほどに、あの者の身は危険から遠ざけられるわけです」
「俺が、行動を急ぐ? すまんが、意味がわからんぞ」
「ダリアス様が、城下町の外に姿を現す、という意味です。さすれば、その者は真実を語ったということで、罪に問われることもなくなりましょう。もともとダリアス様は罪人として手配されていたわけではないのですから、それをかくまっていたということだけでは罪にもならぬはずであるのです」
そう言って、ゼラはわずかに身を乗り出してきた。
「ともあれ、ダリアス様は一刻も早く公爵家の人間を味方につけて、その身の潔白を晴らす必要がありましょう。ダームとマルランのどちらに身を寄せられるべきか、お気持ちは固まりましたでしょうか?」
「うむ……運命はセルヴァに託す他ないが、そのどちらかならば、俺はダームが相応しいと思う」
「ダームでございますか。……そのように判断された理由をお聞かせ願えますか?」
「十二獅子将の人柄としては、シーズもグレクス殿も甲乙つけ難い。しかし、領地のほとんどがポイタン畑で旅人が訪れることも少ないマルランよりは、大勢の人間が行き交うダームのほうが、身を隠すことも容易いだろう。何せあそこは、セルヴァで唯一外海と面した貿易の要なのだからな」
「了解いたしました。わたしも異存はございません。まずはダリアス様を、ダーム公爵領までお届けいたしましょう」
ゼラは立ち上がり、揺れる荷車の中で苦労をしながらラナのほうに近づいていった。
その突っ伏した姿を見下ろしながら、ぺたりとしゃがみ込む。
「失礼いたします。何かあなたの持ち物をわたしに託していただけますか?」
ラナはこまかく肩を震わせながら、ゆっくりと面を上げていった。
その純朴そうな顔を濡らした滂沱たる涙に、ダリアスはどうしようもなく胸中をかき乱されてしまう。
「わたしはこれから、あなたの父君にお言葉を届けに向かわなくてはなりません。そのときに、あなたの縁者であるという証がなければ、なかなか信用を得ることも難しいでしょう。ですから、何かあなたの持ち物と知れるものを、わたしに託していただきたいのです」
そのように述べながら、ゼラは懐から小さな刀子を取り出した。
ダリアスは思わず腰を浮かせかけたが、その刀子はラナの手をいましめる縄を断ち切ると、すみやかに懐まで戻された。
ラナはしばらくゼラの姿を見返してから、やがて自分の懐に指先を差し入れた。
そこから取り出されたのは、小さな守り袋であった。
「これは……わたしが母の形見としてギムからもらい受けたものです。袋の刺繍は母の手によるものなので……わたしが託したという証になるはずです……」
「ありがとうございます。これで父君にも、わたしの言葉を聞き入れていただくことがかなうでしょう」
ゼラは子供のように小さな指先でその守り袋を取り上げた。
その手に、ラナが取りすがる。
「義父は……ギムはそれで、本当に助かるのでしょうか……? ギムにもしものことがあったら、わたしは……」
ラナの頬に、新たな涙がぽろぽろとこぼれ始めた。
ゼラはいくぶん辟易した様子で身体を引いている。
「ダリアス様をかくまっていたことと、その行き先を正直に告げれば、もはや尋問する理由もなくなりましょう。虜囚として不自由な生活を強いられることはまぬがれませんが、危害を加えられることはなくなると思われます」
「ありがとうございます……どうか義父を……ギムをお助けください……」
そうしてラナはゼラの手を握りしめたまま、顔をくしゃくしゃにして泣きだしてしまった。
ゼラは困り果てた様子で、ダリアスのほうを見返してくる。しかしダリアスも、「よろしく頼む」と頭を垂れるしかなかった。
「あなたがたには、まずそのギムという者よりも、自分たちの身を案じていただきたいものですな……あれほどの騒ぎを起こしてしまったのですから、城下町を出ようとする荷車にはとりわけ厳しい目が向けられるはずなのですよ……?」
そのように述べるゼラの声には、やはり困惑の響きが強かった。
それはこの得体の知れない祓魔官が人間がましく感じられる貴重な一瞬でもあった。