Ⅰ-Ⅲ 喧騒の夜
2017.2/3 更新分 1/1
どうにも胸騒ぎのやまない女人たちとの晩餐の後、リヴェルたち三名はその家の寝所へと案内されることになった。
最初に案内されたのとは、また別の部屋である。そこはさきほどの部屋よりも小さい代わりに、ささやかながらも寝具の準備がされていた。
床一面に積まれた藁の上に、布の敷物が掛けられている。その上に身を横たえて、さらに毛布をかぶるのだ。夜の冷気は厳しかったが、野宿をしていたここ数日に比べれば、楽園のごとき様相であった。
窓には帳が掛けられているのですきま風に悩まされることもなく、敷布も毛布も清潔に洗われている。干した藁を羽毛の代わりにするというのはいかにも辺境の集落らしい粗末さであったが、そのやわらかさには何の不満の持ちようもなかった。けっきょくレイノスの町では一泊もせずに逃げ出す羽目になってしまったため、リヴェルが寝具を使うのは故郷を出奔して以来――実に半月ぶりのことなのだった。
ただしリヴェルは、ナーニャの手によって燭台の火を消されても、なかなか寝つくことができなかった。
何故ならば、準備されていた毛布が小さかったために、三人は身を寄せ合うようにして眠らなければならなかったためであった。
左の側にはナーニャが、右の側にはゼッドが、それぞれ身を横たえている。
肩が触れるどころの騒ぎではない。ほとんどおたがいの手足が重なるぐらいの密着具合である。
そのおかげでいっそうのぬくもりを得ることができていたが、これで平静でいられるほど、リヴェルの神経は図太くなかった。
「……こんなに心ゆくまで食事を楽しめたのは、いったいいつ以来だろうね。僕はすっかり蛙の肉というものが好物になってしまったよ」
と、頭のすぐ横からナーニャが囁きかけてくる。
その吐息の熱が感じられるぐらいの距離感だ。
「無事にここを出られるようなら、是非とも蛙の捕まえ方というやつを教えていただきたいものだね。そうしたら、いっそう楽しく旅を続けられそうじゃないか」
「そ、その言い方だと、やっぱり無事にこの集落を出られない可能性もあるということなのでしょうか?」
「それはもちろん。これで何も起きなかったら、僕も運命の在り様というものを考えなおさなくちゃならないだろうね」
くすくすと笑いながら、ナーニャが寝返りを打ってきた。
その余人よりも熱い肉体が、いっそうぴったりとリヴェルに寄り添ってくる。
「まあ、ここまで来たら、なるようにしかならないさ。彼女たちが悪巧みをしない限りは、誰の生命が損なわれることもない。リヴェルは何も心配せず、自分の神に祈りを捧げていればいいよ」
「あ、あの、毛布が足りていないのなら、わたしが端に移りましょうか……?」
「駄目だよ。僕はリヴェルが逃げたりさらわれたりしないように、こうしてくっついているんだから。……まあ、ゼッドがいる限りそんなことにはならないだろうけれど、いちおう念のためね」
ナーニャの腕が、リヴェルの腕を抱え込んできた。
闇に覆われた天井を見上げながら、リヴェルの心臓はどくどくと脈打っている。
「何にせよ、リヴェルの身が危険にさらされることはないから、ゆっくりお眠りよ。ゼッドは、眠たくなったら僕を起こしてね」
闇の中で、ゼッドは無言である。
彼は右腕の篭手を外そうとせず、しかも長剣をその胸にかき抱いたまま毛布にもぐり、どのような事態にも対処できるように備えていた。
その体温や固い筋肉の感触は、布の装束を通してリヴェルにもしっかり感じられている。ゼッドとこれほど身を寄せ合ったことはなかったので、それもまたリヴェルを落ち着かない心地にさせるのだった。
(こんな状況で、眠れるはずないじゃん……)
リヴェルはそのようにも思ったが、耳もとからナーニャの寝息が響いてくると、だんだんと気持ちが安らいできた。
相手がナーニャやゼッドでなくとも、かつてこのように他者の温もりを感じながら眠りに落ちたことはない。奴隷であった母親はリヴェルを産んですぐに亡くなってしまったし、半分血のつながった兄弟たちとは幼い頃から部屋を分けられていたために、リヴェルはいつもひとりぼっちであったのだ。
(……ナーニャとゼッドは、これまでにどんな生を歩んできたんだろう)
ナーニャは神殿に幽閉されていたのだと語っていた。
ならばやっぱり、王都を出奔するまでは、ずっと孤独に過ごしていたのだろうか。
いっぽうゼッドは、王都の将軍であったという。
十二獅子将という名称は、リヴェルの故郷でも耳にしたことがある。何千何万という兵を率いる将軍であるのなら、それは立派な身分であったはずだ。
そんな二人とこのような辺境の片隅で身を寄せ合っているというのが、今さらながらに信じ難い話であった。
やっぱりリヴェルにとって、この二人は第四王子カノンと十二獅子将ヴァルダヌスではなく、奇妙な旅人のナーニャとゼッドなのである。
(この二人が王様を殺したり王宮を燃やしたりしたなんて、やっぱりわたしには信じられない……たとえそれが本当のことだったとしても、何か深い事情があったに違いない……)
リヴェルには、そのように思えてならなかった。
真実がどうであれ、この二人がそんな悪辣な人間だとは、どうしても信じることができなかったのだ。
そもそもこの二人が悪人であるならば、こうしていつまでもリヴェルを生かしてはおかないだろう。リヴェルは彼らにとって致命的な秘密を知ってしまったのだから、殺してしまうのが一番手っ取り早かったはずだ。
それなのに、彼らはリヴェルのような厄介者をいつまでも手もとに置いている。何の見返りも求めようとはせず、それどころか、貴重な食料までをも分け与えてくれているのだ。これで彼らを悪人だなどと思えるはずがなかった。
(いつかもう一度、きちんとナーニャに話を聞いてみよう。そうしたら……わたしだって、何かの役に立てるかもしれない)
そんな思いを最後に、リヴェルの意識は眠りの深淵へと沈み込んでいった。
それから、どれほどの時間が経ったのか――夜の静寂は、時ならぬ喧騒によって打ち破られることになった。
「痛い痛い! いきなり何をするんだよ! ひどいじゃないか!」
リヴェルはびっくりして、飛び起きようとした。
しかし、左腕をしっかりつかまれていたために、動くことができなかった。
そんなリヴェルを、赤い瞳が見下ろしてくる。
「あはは。やっぱり、無事には終わらなかったね」
ナーニャが、愉快げに笑っていた。
リヴェルの腕をつかんでいるのも、ナーニャである。ナーニャはリヴェルの左腕を抱え込んだまま、片方の肘をついて上体を起こしていた。
「ナーニャ……いったい何があったのですか……?」
「さあ? それはこれから話してもらえるんじゃないのかな」
ナーニャがリヴェルの肩に手を添えて、そっと身体を起こしてくれた。
それでリヴェルは、喧騒の正体を知ることができた。
床に、チチアが組み伏せられている。
組み伏せているのは、もちろんゼッドだ。ゼッドにのしかかられて片方の腕をねじりあげられたチチアが、じたばたともがきながらわめき声をあげている。
そのかたわらには、壺の形をした燭台が落ちていた。
きっとチチアが持ち込んできたものなのだろう。その口金に灯った火が寝具に燃え移っていたら、ナーニャが火の魔法を使うまでもなく大惨事になっていたはずであった。
「こんな遅くにどうしたのかな? ゼッドとまぐわいに来た、という様子ではないようだけれど」
もうナーニャは本性を隠す気もない様子で、そのように問うていた。
チチアは外出用の上着を着込み、その腰には大ぶりの鉈を下げていたのだ。ゼッドは左手一本でチチアを組み伏せたまま、篭手の嵌められた右手で苦労をしながらその鉈を奪い取った。
「あたしはあんたたちを助けに来てやったんじゃないか! それなのに、この仕打ちは何なのさ! 恩知らず! 人でなし!」
「いったい何から僕たちを救おうとしてくれたのかな? まあ、なんとなくの想像ぐらいはつくけれどね」
ナーニャのほうを振り返ると、その横顔には冷たい微笑が浮かんでいた。
燭台の火を受けて、赤い瞳もゆらゆらと妖しく輝いている。
「いいから、この手を離してよ! 話を聞けば、絶対あたしに感謝することになるんだから!」
ゼッドは、のそりと身を起こした。
が、チチアが立ち上がろうとすると、その咽喉もとに彼女から奪った鉈を押し当てる。
チチアは真っ青になりながら、それでも気丈にゼッドをにらみつけた。
「こんな恩知らずは初めて見たよ! いいかい、あんたたちはね――」
「蛇神の生贄にされるところだった? 沼に捧げる供物というのは、人間の肉体と魂であったのかな?」
ナーニャが先んじてそのように述べると、チチアはぎょっとしたように目を見開いた。
「いや、まさしくその通りなんだけど……どうしてわかったの?」
「君たちは、それを隠そうともしていなかったじゃないか? 僕たちをなぶるみたいにくすくす笑ってばかりいてさ、あれであやしむなというほうが無理だよ」
チチアは悔しげな顔をしながら、目だけでナーニャのほうを見た。
「あんたのほうも、とんだ食わせ物だったみたいだね。盲人でも何でもないじゃないか。性格まで別人みたいになっちゃってるしさ!」
「こちらにも色々と事情があったんでね。……で、君たちはいったい何なのかな?」
「……何って、どういう意味?」
「君たちは、自由開拓民なんかじゃないんだろう? それなのに、どうしてこんな辺境の地で蛇神なんかを崇めているのさ? それはセルヴァにおいて大きな禁忌であるはずだよね」
チチアは口をへの字にして、豊かな胸の前で腕を組んだ。
まだその首には鉈を当てられたままであるのに、大したふてぶてしさである。
「自由開拓民というのは、王国にまつろわぬ古き氏族の末裔だ。そういう人々なら辺境の地で沼を神と崇めることもあるだろうけれど、王国の民は大神セルヴァと七小神を除く神を崇めることを許されていないはずだよね」
「……どうしてあたしたちが自由開拓民じゃないって言いきれるの?」
「だって君たちは、氏を持っていないじゃないか。古き氏族というのはね、氏を捨てたくないからこそ、西の王国の民になることを拒んだんだよ。自由開拓民というのは、何よりも自分たちの血筋を大切にしている一族なのさ」
「…………」
「最近では王国の規律もゆるんできているから、氏を持ったまま王国の民になることも許されつつあるみたいだけどね、その逆はありえない。氏つきの王国民はありえても、氏なしの自由開拓民はありえないってことだよ」
「ああもうわかったよ! あたしらは確かに王国の禁忌を破った大罪人さ! 大神セルヴァをないがしろにして、蛇神なんざを復活させるために人間を殺めてる! 王国の連中に知れたら、全員首を刎ねられるんだろうね! これで満足かい!?」
「うん、満足だ。それで、王国の禁忌を破った大罪人たる君が、僕たちにいったい何の用なのかな?」
冷たい笑顔でナーニャが問うと、とたんにチチアは眉尻を下げてしまった。
「だから……あたしはもう、こんな忌々しい場所から逃げ出したかったんだよ。そのために、あんたたちの力を借りたかったのさ。このお人みたいに立派な剣士が一緒なら、なんとか逃げきれるかと思ってさ……」
「何だ、つまらない理由だね」
「つまらないってのはどういう言い草だい! あんたたちだって、本当だったら生贄に捧げられるところだったんだよ!」
また大声をあげながら、チチアが足もとに転がっていた燭台を指し示す。
「本当はね、この燭台の火でメレメレの葉を燃やすはずだったんだ! そうしたら、どんな人間でも死んだように眠っちまって、しばらくは殴られようが蹴られようが起きなくなっちまうんだよ! その間にあんたたちを縛りあげるのが、あたしのこの夜の仕事だったってわけさ!」
「なるほど。それなのに、君は主人の言いつけを破って、僕たちを助けようと考えたわけだね。で、その見返りに、自分をこの集落から連れ出してほしかった、ということか」
「そうだよ! おたがいに損はない話だろ?」
チチアはまた腕を組み、子供のように唇をとがらせた。
その顔を悠然と見返しながら、ナーニャは白銀の髪をかきあげる。
「だったら、最初に森で出会ったときにでも、助けを乞えばよかったじゃないか? 僕たちをいったん毒蛇の巣におびき寄せてから逃げ出そうってのは、いったいどういう了見だい?」
「だ、だからそれは……」
「僕とリヴェルが邪魔だった? 君はゼッドと二人きりで新たな世界に旅立ちたかったのかな?」
「わかってるなら聞かないでよ! 本当に根性がねじ曲がってるね!」
「それは、おたがい様だと思うけど」
どうやらナーニャは、この娘を言い負かすのが楽しくてたまらぬ様子だった。
チチアのほうは、肉づきのいい肩をわなわなと震わせながら、ナーニャのことをにらみ返している。
「それとね、他の部分でも君たちは虚言ばかり吐いていた。僕が干し肉を売ってほしいと頼んだとき、あのフィーナという女は銅貨など何の役にも立たない、自分たちは森の恵みだけで生きているんだ、とか言っていたよね?」
「…………」
「だけどこの家には、金属でできた鉄鍋やら燭台やら、綺麗に刺繍されたシムの織物やらがたくさんあふれかえっている。こんなもの、森の恵みだけでこしらえられるわけがないだろう? だから君たちは、森の中で生まれ育った開拓民なんかじゃありえない。つい最近までは文明の版図で暮らしながら、この森の中に住処を移した王国の民だとしか考えられないってわけさ」
「…………」
「ひょっとしたら、ここに住んでいた開拓民たちは、君たちの手によって皆殺しにでもされてしまったのかな? 装飾品の新しさに対して、この家は古すぎる。開拓民の集落を王国の無法者たちが奪い取った、と考えるのが妥当なところだよね」
「もう! あんたの自慢たらしい言葉は聞き飽きたよ! フィーナたちがどうやってこの集落を手に入れたかなんて、あたしは知らされていないし知りたくもないね!」
「大きな声だね。耳がどうにかなりそうだ」と、ナーニャは芝居がかった仕草で肩をすくめる。
「それに、そんな大声でわめきたてたら、家の外まで聞こえてしまうよ。せっかくこっそりと忍び込んできたのに、台無しになっちゃうんじゃない?」
「ふん! みんなは沼に向かってるから、集落に居残ってるのはあたしひとりさ! ……新しい生贄が手に入ったから、あいつらは古い生贄を沈めに行っちまったんだよ」
「へえ。それじゃあ、今まさに蛇神への供物が捧げられている真っ最中ってことかい?」
ナーニャは赤い瞳を輝かせながら、わずかに身を乗り出した。
「ああ、そうさ」と応じながら、チチアはぶるっと身を震わせる。
「本当は、供物に捧げるのはひと月に一人なんだ。それを十年続ければ、満腹になった蛇神が蘇るんだとか何だとか、フィーナはそんな風に言っていたからね。……それなのに、あいつらは手に入るだけの人間をみんな沼に沈めちまってる。けっきょくあいつらは、自分の悦楽のために生贄を求めてるだけなんだよ。そんなの、あたしはもうまっぴらなんだ」
「……ふうん」
「あたしはもうじき、十六になる。そうしたら、あたしも儀式に参加しなくちゃならなくなるんだ。だから、何としてでもその前に逃げ出さないといけないんだよ!」
「それじゃあ、君の手はまだ血に汚れていないのかな?」
「あったりまえじゃん! ……まあ、こうやってその手伝いをしてるんだから、けっきょくは同罪なのかもしれないけどさ。でも、この手で人間の咽喉をかっさばいたり、見も知らぬ人間に操を捧げたりするのは嫌なんだよ!」
「操?」
「ああ。生贄に選ばれた人間は、沼に沈められるその日まで、全員がかりで精気を絞られちまうのさ」
と――チチアの瞳に妖しい毒蛇のような光が瞬き、ゼッドのほうをちらりと見た。
「こんな立派なお人だったら、あたしもまんざらでもないけどさ。でも、
操を捧げた相手を沼に沈めたり、一人の男をみんなで分かち合ったりするなんて、そんな気色の悪い話はないよ」
「なるほどね。だから君たちはゼッドにばかり執着していて、リヴェルには何の関心も払わなかったのか。……ところで、君はそういう儀式を忌まわしいと思っているのに、どうしてこのような場所に身を置いていたのかな?」
「あたしだって、あいつらにさらわれてきた身なんだよ。両親は沼に沈められて、あたしだけは仲間入りすることが許されたのさ」
そのように述べながら、チチアはぎらぎらと両目を光らせた。
「生きるためには、そうするしかなかった。両親の咽喉をかっさばいたあいつらを、あたしは同胞と認めるしかなかったんだ。ま、あたしは十歳にもならない子供だったから、たいして両親のことも覚えちゃいないけどさ」
「ふうん。それで親の仇の下女として何年も働かされながら、いまだに正気を保っていられたんだね。なかなか見上げたものじゃないか」
ナーニャは声を殺して笑いつつ、ゼッドのほうを振り返った。
「ゼッド、もうその鉈は下ろしてあげていいんじゃない? 彼女が何か悪さをしようとしても、ゼッドだったらすぐに止められるだろう?」
ゼッドは眉ひとつ動かさないまま、その手の鉈を下げた。
チチアは固くまぶたを閉ざし、自分を落ち着けるように大きく息をついてから、あらためてナーニャのほうを見た。
「これであたしの話は全部だよ。一緒に逃げてくれる気になった?」
「そうだねえ……君は最初から、救いようのない凶運に見舞われていたみたいだね。そんな人間もいるんだなと感心させられたよ」
「わけのわかんない御託はいいからさ! さっさとしないと、あいつらが戻ってきちまうよ?」
「それは大変だ。それじゃあ、早々に出発しようか。……ただし、その儀式とやらを覗かせてもらってからね」
ナーニャの言葉に、チチアは飛び上がった。
もちろんリヴェルも、同じぐらい驚かされることになった。
「あ、あんた、正気なの? この集落には若い女しかいないけど、全部あわせれば三十人ぐらいにはなるんだよ? もしもあいつらに気づかれちまったら、みんな沼に沈められちまうよ!」
「だけど、後ろに憂いを残したまま森の中に逃げ込むなんて、それも危うい話じゃないか? どんな怪物に追いかけられるかもわからないからね」
「怪物?」
チチアはうろんげに眉をひそめ、ナーニャは悪神のように笑う。
「だって、君たちは蛇神を復活させるために、もう何年も供物を捧げ続けてきたんだろう? この夜に、その願いが成就されてしまったらどうするのさ?」
「何を言ってんだい! あいつらは、血の悦楽に耽るために、神なんかをでっちあげてるだけなんだよ!」
「でも、その紋章はまぎれもなく太古に存在した蛇神ケットゥアの紋章だよ。王国の建立された数百年前に滅ぼされたはずなのに、まだしぶとく信仰が残されていたんだね」
チチアはいっそう険悪な顔つきになりながら、その紋章が刻まれた手の甲を撫でさすった。
「でも、あんなでたらめな儀式で神が復活するなんてことは――」
「どうだろうね。僕たちは、ここよりも人里に近い森の中でムントに憑依した魔物なんかと遭遇することになった。この辺りは瘴気がわだかまって、魔なるものの温床になっているのかもしれない。そんな場所で太古の神に供物を捧げ続けただなんて、本当に恐ろしいことだと思うよ……?」
チチアは恐怖の表情になり、自分の身体を抱きすくめた。
「や、やめてよ。そんな目つきで、そんな言葉を口にしないで。……あんた、いったい何者なの?」
「それは、知らないほうが身のためだね」
ナーニャは立ち上がり、部屋の隅に重ねてあった外套を拾いあげた。
「何にせよ、僕にはその儀式を見過ごすことはできない。先に逃げたいなら逃げればいいよ。ひょっとしたら、そのほうがまだ安全なのかもしれないしね」
そうしてナーニャは外套を身に纏うと、リヴェルのほうに手を差しのべてきた。
その赤い瞳はまだ火のような輝きを宿していたが、口もとに浮かんでいるのは幼子のように無邪気な笑みであった。
「さ、リヴェルも準備をしなよ。リヴェルに対しては、先に逃げなよとは言ってあげられないからね」
リヴェルは何と答えればいいかもわからないまま、ナーニャの手を取った。
その指先はやっぱり、リヴェルの知る他の誰よりも強い温もりを持っていた。