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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第二章 ねじれゆく世界
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Ⅲ-Ⅱ 賢者の塔

2017.1/22 更新分 1/1

 朱の月の十五日、レイフォンはティムトとともに『賢者の塔』を訪れることになった。

 しばらく前までは、ディラーム老を見舞うために頻繁に訪れていた場所である。が、ディラーム老が復調してからは、この場所を訪れるのも初めてのことであった。


「どうして今さらこのような場所を訪れようと思ったのかな? 気晴らしをしたいなら、もっと楽しそうな場所はいくらでもあるだろうに」


「気晴らしをしたいのだったら、そもそもレイフォン様に同行を願ったりはしません」


「ひどいことを言うね。ずいぶん機嫌が悪そうじゃないか」


 あまり真っ当でない主従の言葉を交わしつつ、レイフォンはうーんと伸びをする。


「しかしまあ、外を出歩くだけでも気は晴れるかな。毎日毎日部屋にこもっていては、気持ちがふさぐばかりだからねえ」


 ティムトは返事をしようともせずに、せかせかと足を急がせていた。機嫌が悪いというよりは、いくぶん焦っているようにも見受けられる。


「それで、私は事情をわきまえておく必要はないのかな? ないならないで、いっこうにかまわないけれど」


「……昨日の昼に、クリスフィア姫がエイラの神殿を訪れたようなのですよ。ですから、万が一にも先を越されないようにと、ここまで出向いてきたのです」


「先を越されるって? あの姫君だって、こんな場所に用事はなさそうだけれども」


「どうでしょうね。あの姫君が粗野なだけの武人であるならば、僕の取り越し苦労に終わるかもしれません」


 そのように述べながら、ティムトは小さく息をついた。


「まあ、いずれは僕も確認をしようと思っていたことですから、優先順位を引き上げただけのことです。こんなことなら、ディラーム老を見舞った際、ついでに片付けておくべきでした」


 朝から晩まで執務に取り組んでいるティムトであるので、なかなか自由な時間を作るのは難しいのだ。もしかしたら、新王はレイフォンたちに余計な真似をさせないように次から次へと新しい仕事を押しつけているのではないかと勘ぐりたくなるほどであった。


「そういえば、近い内に舞踏会が執り行われるそうだね。ひょっとしたら、それの手配もティムトに押しつけられていたのかな?」


「……押しつけられたのは、僕ではなくてレイフォン様のはずですけれどね」


「うん、まあ、何にせよ、その日ぐらいはティムトも羽をのばすといいよ。傍流とはいえ公爵家の血筋なんだから、従者ではなく貴賓として参加したらどうかな?」


「そのような真似をして、僕の気持ちが少しでも安らぐとお思いなのですか?」


 けんもほろろといった様子で、ティムトはそのように言い捨てた。


「それに、その舞踏会には新王の腹心たちものきなみ参加するんです。彼らが酒宴の場でどのような言葉を交わし、どのように振る舞うのか、それを見届けるだけで僕は手一杯ですよ」


「まったく、ティムトは苦労性だなあ。ときには息抜きをしないと、身体がもたないだろうに」


 レイフォンがそのようにつぶやいたとき、ティムトがふいに足を止めた。

 いぶかしく思ってその視線の先を追ったレイフォンも、思わず「おや」と声をあげてしまう。


 すでに『賢者の塔』は目の前であった。

 そして、その塔の入り口で、何やら騒いでいる者たちがあったのだ。


 槍をかまえた衛兵たちに、たいそうな剣幕で何事かをまくしたてている。それは、騎士の白い平服を着た、北の地の若き女騎士であるようだった。


「何てことだ。ティムトの心配が的中してしまったようだね」


 ティムトは軽く唇を噛んでいたが、やがて意を決したように小走りでそちらに近づいていった。

 ひとつ肩をすくめてから、レイフォンもそれを追いかける。


「これはこれは、クリスフィア姫。このような場所で、いったい何をなされているのかな?」


 そうしてレイフォンが呼びかけると、アブーフの女騎士はきつい眼差しでこちらをにらみつけてきた。

 澄みわたった灰色の瞳を持つ、若くて美しい娘である。そのすらりとした長身に、騎士の装束がよく似合っている。甲冑でも纏えば美麗な貴公子にでも見えそうな、実に凛然たるたたずまいであった。


「ヴェヘイム公爵家の第一子息殿か。あなたこそ、このようなところで何をなされているのだ?」


「うん、ちょっとこの塔に用事があってね。そちらはいったい何を騒いでいたのかな?」


 レイフォンが衛兵たちのほうに視線を転じると、その内の一人が「は」としかつめらしく敬礼をした。


「こちらに足を踏み入れるには、正式な手続きが必要となるのです。その手続きについてご説明をさせていただいていたのですが――」


「学士の住まいに足を踏み入れるのに、どうしてそんな格式張った手続きなどが必要なのだ? わたしはただ、とある書物の所在について知る者はいないかと問い質したいだけだ」


 とたんにクリスフィア姫が尖った声をあげ、衛兵を辟易させる。


「し、しかし、わたしの一存で取り決めを破るわけには――」


「責任はすべてわたしが負うと言っているであろうが! いつまで同じ問答を繰り返すつもりだ!」


 どうやら本日の姫君は、初めて顔をあわせたときよりもご機嫌がうるわしくない様子であった。

 姫君の陰に隠れていた黒髪の侍女も、とても心配げな面持ちで両手をもみしぼっている。


 レイフォンは、判断をあおぐためにティムトのほうに目をやった。

 騒ぎたてる姫君の横顔を見つめていたティムトは、やがて小さく息をついてから、レイフォンにうなずきかけてくる。

 どうやら、この奔放な姫君を野放しにするのではなく、目の届く場所に置いておこうという決断をくだしたようだ。


「この塔に踏み入るには、そのような手続きが必要だったのだね。それは私も同様であるのかな?」


 レイフォンが口をはさむと、衛兵は「いえ」と首を横に振った。


「レイフォン様は自由にお通ししてよいとのお言葉を承っております。……ただそれは、こちらで養生をされていたディラーム将軍といつでも面会できるように下されたお言葉だと思うのですが……」


「でも、その命令はまだ解除されていないのだね。それじゃあ、通していただこうかな」


 クリスフィア姫は、燃えるような眼差しでレイフォンをにらみつけてきた。

 その怒気を受け流しながら、レイフォンはにっこりと微笑みかけてみせる。


「それで、こちらのクリスフィア姫とお付きの方も同行させていただきたく思う。塔の中でも行動を別にしなければ、君たちに迷惑がかかることもないだろう?」


「はあ、それはまあ……」


「では、扉を開けてもらえるかな。私たちも、色々と忙しい身なのでね」


 衛兵はうなずき、大きな扉に手をかけた。

 レイフォンは、ぽっかりと空いた入り口に手を差しのべてみせる。


「どうぞ、姫。お話は、中でうかがいましょう」


 怒った顔でレイフォンをにらみつけていたクリスフィア姫は、やがて肩をそびやかせながら塔の中へと踏み入っていった。

 黒髪の侍女がうやうやしく一礼してそれを追うのを見届けてから、レイフォンもティムトとともに歩を進める。

 そうして扉が閉められると、クリスフィア姫はまたきつい目つきでレイフォンをねめつけてきた。


「ヴェヘイム公爵家の第一子息殿よ、どうしてあなたは縁もゆかりもないわたしに口添えをされたのだ?」


「どうぞレイフォンとお呼びあれ、クリスフィア姫。……姫が仰っていた通り、誰が学士の住まいに足を踏み入れたところで、何の迷惑にもなりますまい。このていどのことで恩に着せるつもりはないので、ご安心を」


 レイフォンがそのように述べたてても、姫の表情に変化は見られなかった。

 きっとレイフォンが彼女を苦手にしているのと同じように、彼女もレイフォンを苦手にしているのだろう。クリスフィアは、そんな相手に助け船を出されたことで、いささかならず自尊心を傷つけられたのかもしれなかった。


(まったく、北部の人間というのは気性が荒いな。厳しい風土がこういう気性を育むのだろうか)


 しかし、クリスフィア姫のかたわらにある侍女のほうは、それとは正反対の気性であるように見受けられた。今も侍女らしくひっそりと控えながら、主人のほうを心配そうに見つめている。北部の人間には珍しい黒色の髪をした、いかにも気立てのよさそうな可愛らしい娘だ。


「失礼いたします。それでクリスフィア姫は、どちらに向かわれるおつもりであったのでしょうか? レイフォン様は、書庫に向かわれる予定であったのですが」


 と、ティムトが静かに声をあげる。

 クリスフィア姫は、「ふむ」と考え込むような顔をした。


「書庫……そうだな。わたしも書物を探しているので、まずは書庫というものに向かうべきか」


「それでは、ご一緒いたしましょう。書庫はこちらになります」


 ティムトは礼儀正しく一礼して、薄暗い回廊を歩き始めた。

 慌ててその後を追いかけながら、レイフォンはこっそりティムトに呼びかける。


「ティムトは書庫の場所など知っているのかい? ずいぶん堂々とした足取りじゃないか」


「以前に王都を訪れた際、書庫には何回か足を運んでいます。勉強や調べ物をするのに、これほどうってつけの場所はありませんからね」


「せっかく王都まで来て、勉強などしていたのか。私はちっとも気づかなかったよ。……というか、ティムトがそれほど長い時間、私のそばを離れていたことがあったっけ?」


「祝宴の翌日などは、レイフォン様も中天の鐘が鳴るまで眠りこけていますからね。おかげで僕はのびのびと過ごすことができました」


 のびのびと過ごすの内容が勉強や調べ物というのが、いかにもこの少年らしい言い様であった。

 回廊を右に折れ、その突き当たりに出現した階段をのぼりながら、ティムトはさらに言葉を重ねる。


「ちなみにその頃は、『賢者の塔』に入るのに手続きなど不要でした。一階と地下の医療室に立ち入るには手続きが必要であったのでしょうが、それ以外の場所は誰にでも行き来が許されていたはずですよ」


「ふうん? それじゃあ、王位がベイギルス二世陛下に継承されたのちに取り決めが変更されたのかな」


「そうでしょうね。誰が変更したのかは知れたものではありませんが」


 塔の内部には相変わらず衛兵の数が多く、物々しい雰囲気である。

 ただし、五大公爵家の嫡子であるレイフォンを誰何するような人間は存在しなかった。たとえレイフォンの顔を見知らなくとも、胸もとに縫いつけられた紋章を見れば、自ずと身分は知れるのだ。


「こちらが、書庫となります」


 やがてティムトが足を止めたのは、金属の枠組みを持つ大きな扉の前であった。

 ここには衛兵の姿もなく、回廊も静まりかえっている。


 ティムトは何のためらいもなく、その頑丈そうな扉に手をかけた。

 とたんに、「どなたですか?」という声が室内からぶつけられてくる。


「こちらはヴェヘイム公爵家のレイフォン様と、アブーフ侯爵家のクリスフィア姫です」


 ティムトに続いて、レイフォンたちも足を踏み入れる。

 そこは昼間から燭台に火の灯された、薄暗い一室であった。

 部屋中に、古びた書物の香りが充満している。いかにもティムトの好みそうな香りだ。


 入ってすぐのところに卓があり、そこに一人の若者が座していた。

 その若者が、やや神経質な口調で言いたててくる。


「入室されたのは四名様ですね。お付きの方々もお名前をお願いいたします。利用者の記録をつけねばなりませんので」


「僕はレイフォン様の従者で、ティムトと申します。こちらは――」


「わたくしはクリスフィア姫の侍女で、フラウと申します」


 そのように答えながら、フラウという娘はいくぶん目を見開いていた。きっと、レイフォンと同じ理由で驚いているのだろう。帳面に筆を走らせているその若者は、何やら奇妙な風体をしていたのである。


 その身に纏っているのは、襟つきの学士の装束だ。髪は褐色で、肌は黄色く、やや痩せ気味である他は、とりたてておかしなところもない。

 が、その若者は顔の真ん中に奇妙なものをひっつけていた。

 仮面、というほど立派なものではない。ちょうど目だけが隠れる大きさの、丸くて平たい皿のようなものを左右にひとつずつ、細い紐で顔にくくりつけているのだ。

 その白い皿みたいな物体の真ん中に、ぽつんと小さな穴が穿たれている。彼はその小さな穴から世界を覗き見ているようだった。


「はい、けっこうです。手前の第一書庫は自由に閲覧できますので。第二から第四までの書庫に立ち入りを希望される際は、学士長の許可が必要となります」


「そうか。どうもありがとう」


 レイフォンは何を為すべきかも把握できていなかったので、ティムトやクリスフィア姫に席を譲ることにした。

 すると、クリスフィア姫がやはりびっくりまなこになりながら、卓の前まで進み出た。


「その前に、お前は顔に何をくくりつけているのだ? そのようなものをつけていて、きちんと周りのものが見えるのか?」


「これがなくては、周りのものが見えないのですよ。学士としての勉強を積む内に、僕はすっかり目を弱めてしまったのです」


「しかし、そのようなものをつけていては、余計に視界をふさがれそうだが……」


「そんなことはありません。あなただって、遠くのものを見るときには目を細めたりするでしょう? これは、いちいち目を細めなくて済むようにするための器具なのです」


 若者は、愛想のない声でそのように答えていた。

 どうやら貴族が相手でも物怖じしない気性であるらしい。


 学士風情にこのような口を叩かれて、クリスフィア姫はいっそう機嫌を損ねてしまうのではないだろうか、とレイフォンは危ぶんだが、案に相違して姫君は愉快そうに笑っていた。


「まったく珍妙なことを考えるものだな。それで本当にものがよく見えるのか? よかったらわたしにも試させてはくれまいか?」


「嫌ですよ。それに、左右の目の位置が穴にあっていないと、前を見ることもできません。これは僕のためだけの器具なのです」


「そうなのか。それは残念だ」


 いったい何がお気に召したのか、クリスフィア姫は実に楽しげな様子であった。

 そして、そのように表情をやわらげると、彼女は別人のように朗らかに見えた。年齢よりも幼く見えるぐらいの、とても無邪気そうな笑顔である。


「……よろしければ、クリスフィア姫のほうからご用事をお済ませください」


 と、同じようにクリスフィア姫の挙動を見守っていたティムトが頃合いを見計らって声をあげた。

 クリスフィア姫は、レイフォンたちの存在を思い出した様子で、また表情を引き締めてしまう。


「そうだったな。では、学士殿にお尋ねしたいのだが――エイラの神殿から持ち出された書物というのは、この書庫に存在するのだろうか?」


「はい? エイラの神殿から持ち出された書物、ですか?」


「うむ。かの災厄の後、カノン王子の寝所にあった書物が衛兵たちに持ち去られたと聞いたのだ。わたしは、その書物の行方を探し求めている」


 レイフォンは、胸中でこっそり感心することになった。

 ティムトが心配していた通り、クリスフィア姫はカノン王子について、何かを探ろうとしているのだ。


(しかも、ティムトが予想していた通りの場所に、クリスフィア姫が現れたということは……彼女がティムトと同じ何かに目をつけた、ということなんじゃないか?)


 そうだとしたら、レイフォンは相当にこの姫君を侮っていたことになる。レイフォンなど、いまだにティムトやクリスフィア姫がこの書庫を訪れた理由もわかっていないのだ。


「……それはまあ、誰か個人の持ち物でない限り、すべての書物はこの書庫に集められることになっています。僕の記憶に間違いがなければ、エイラの神殿から持ち出された書物も、すべてこちらに移されたはずですよ」


「そうか。では、それらの書物を拝見させていただきたい」


「拝見したいと言われても、それらは項目ごとに分類されて、それぞれの棚に収められてしまいましたよ。合計で五十冊ぐらいはあったはずですが、それらをすべてお探しになるおつもりですか?」


「五十冊か。それはずいぶんな量だな」


 鼻白んだように、クリスフィア姫は押し黙った。

 その表情をななめ下から観察していたティムトが、しばし黙考してから口をはさむ。


「それらの書物の目録などは存在しないのでしょうか? 書庫に新たな書物を収める際には、そういった目録を作られるはずですよね?」


「ええ、もちろん。目録がなければ書庫を管理することもままなりませんからね」


 涼しい顔で言いながら、若者は卓の向こうで身体をかがめた。

 どうやら卓の裏側に物入れでも設えられているらしい。やがて身を起こした若者の手には、一冊の古びた帳面が握られていた。


「こちらが納入の目録となります。いかなる書物をお探しでしょうか?」


「いかなる書物というか、どのような書物が持ち去られたのかを知りたいのだ」


 勢い込んで、クリスフィア姫が身を乗り出した。

 若者は悠揚せまらず帳面を繰り、それを卓の上に広げる。


「赤の月の十日に、五十四冊の書物がエイラの神殿から持ち込まれていますね。ここのところが、その目録です」


「ふむ」とクリスフィア姫は熱心に目を走らせる。

 ティムトもさりげなく覗き込んでいたので、レイフォンも逆側からそれにならうことにした。


 書物の名前が、ずらりとこまかい字で列記されている。その大部分は、辞典や地図や歴史書であるようだった。

 若い学士が勉強に使うようなものや、レイフォンあたりには中身の想像のしにくい書物もまざっている。これらをすべて読破すれば、虜囚の身であろうともそれなりの知識を蓄えられそうだ。


「……この『古代魔術と創世の書』というのは、どこに収められているのだ?」


 やがてクリスフィア姫が、低くおしひそめた声音でそのように問うた。

 しかし学士の若者は、「ああ」と首を振っている。


「それは第四書庫に収められています。閲覧には学士長の許可が必要となりますね」


「では、学士長とやらの許可をいただいてくることにしよう」


「それは難しいかもしれませんね。学士長は現在、ダーム公爵領に出向いている最中です」


「ダーム公爵領? 何故そのようなところに?」


「セルヴァで唯一、外海と面しているダームには、色々と貴重な書物が集まるのですよ。そういったものを猟色するのが学士長の仕事であり生きがいでもあるのです」


 クリスフィア姫は、とても不満げな面持ちで若者に詰め寄った。


「その気ままな学士長殿はいつ王都に戻られるのだ? わたしはすぐにでもその書物を拝見したいのだが」


「さて、数日前に発ったばかりですので、半月ぐらいは戻らないのではないでしょうかね。何せ、生きがいなのですから」


「学士長ともなれば、責任のある立場なのではないのか? 半月も王都を離れるとは、あまりに奔放ではないか!」


「学士長が留守の間は副長が取り仕切っているので、とりたてて不都合はありませんよ」


「では、その副長とやらに閲覧の許可を――」


「副長に許されているのは、第三書庫の管理までです。第四書庫には特に貴重な書物が保管されているため、学士長の他に許可を出せる人間はおりません」


 クリスフィア姫の激情などどこ吹く風で、学士の若者はそのように述べたてた。


「それに、どうして『古代魔術と創世の書』などをお読みになりたいのですか? あんなものは、神話の不明瞭な部分にもっともらしい解釈を与えただけの、無粋な読み物にすぎませんよ?」


「……お前はその書物に目を通したことがあるのか?」


 いよいよ戦場の勇士じみた眼光を燃やすクリスフィア姫に、若者は「ええ」とあっさり答える。


「もちろん、ななめ読みにしたぐらいですけどね。読み物としては面白いかもしれませんが、学術的な価値は薄いと思います」


「学術的な価値などどうでもいい。その書物は――古代の魔術に関わる、危険な書物ではないのか?」


「危険なことなどありませんよ。記されているのは、あくまで神話と伝承です。四大神に支配される以前の大暗黒時代に関しては、まともな文献など残されていないのですからね。すべては後世の人間が想像で書き記したものにすぎません」


「では、その書物を読み込んでも、古の魔術など身につけることはかなわない、ということか?」


 クリスフィア姫の言葉に、ついに若者は笑い声をあげてしまった。

 侯爵家の嫡子に対して許される行為ではないのだが、姫はうろんげに眉をひそめているばかりである。


「それがお前の答えということだな、学士殿よ」


「ああ、失礼いたしました。そうですね。古代の魔術などというものは、もう数百年の昔に滅びてしまった文化です。本当にそのようなものが実在したのか、今となっては知るすべもありません。炎や氷をあやつったり、好きなように地震いを起こしたり――あとは何でしょう、風に乗って空を飛んだりもしていたのでしょうかね。要するにそれは、精霊魔法と称されるものなのですよ」


「精霊魔法……精霊というのは、風の精霊だとか氷雪の精霊だとかいうものだな? そういう伝承は、アブーフにも残っている」


「ええ、やっぱり伝承ですよね。古代の民は、四種の精霊を信仰していたのだとされています。それがどのような経緯で四大神への信仰に移り変わっていったのか、その推測を記したのが『古代魔術と創世の書』というわけですよ」


 クリスフィア姫は難しい顔になって、「うーむ」と考え込み始めた。

 じっと観察に徹していたティムトが、そこでひさびさに声をあげる。


「クリスフィア姫は、カノン王子が古の魔術に耽溺していたというお噂を耳にされたのですね。それで、王子の寝所に魔道書が存在したのではないかとお考えになられたわけですか」


「うむ? ああ、その通りだ。しかし、そのような書物を読んだところで、魔術師を名乗ることはできなそうだな」


「そうですね。しかし、第四書庫に収められるほどの貴重な文献が、どうしてエイラの神殿などで保管されていたのでしょう? 僕にはそれが不思議に感じられます」


 ティムトの言葉に、「わたしもそれは不思議に思っていた」とクリスフィア姫が大きくうなずく。


「学士殿よ、その点に関してはどうなのであろう? さきほど、個人の持ち物でなければ、すべての書物はこの書庫に集められると述べていたようだが」


「はい。それらの書物はかつてのエイラの神殿長の持ち物であったようですよ。その人物は数年前に流行り病で亡くなられたそうですが、親族のひとりもいなかったので、ずっと神殿に放置されていたようです。それであの災厄の日の後、そのように貴重な書物がろくな管理もされないままに放っておかれていたことが明るみになり、すべてこちらで引き取ることになったようです」


 そのように述べてから、若者は細い首をななめに倒した。


「そういえば、エイラの神殿から書物が持ち込まれた際に、一冊だけ行方がわからなくなっているのですよね」


「なに?」とクリスフィア姫が目を光らせる。

 ティムトもひそかに、口もとを引きしめていた。


「目録には五十四冊と記されていますが、最初は五十五冊であったのです。僕もその場には立ち合っていたので、間違いはありません」


「それは、どのような書物であったのであろう?」


「それが、よくわからないのですよ。恐ろしいほど古びた書物で、表紙の文字も金箔が剥げてしまっていました。あとで中身を調べるのが楽しみだな、と思っていたので、よく覚えています」


 呑気そうに言いながら、若者はひょいっと肩をすくめた。


「でも、あれが魔道書だったとでも言いたいのですか? 書物を一冊読んだぐらいで、古代の魔術を身につけられるとも思えないのですが」


「……まずその精霊魔術というものの正体がわからないのですから、何とも判別はつきませんね」


 ティムトは静かに、そのように答えていた。

 ティムトはまさか、本当に第四王子がその古代の魔術とやらを駆使して燃えさかる王宮から脱出した、と考えているのだろうか? レイフォンがそのように思うぐらい、ティムトは真剣な眼差しをしていた。


(だけどまあ、炎を自由に操れるのだったら、銀獅子宮を燃やすのにも便利だったかもしれないな。セルヴァは火を司る神でもあるのだから、王家の血をひくカノン王子には相応しい所業かもしれないし)


 レイフォンは、ぼんやりとそのように考えた。

 それがどれほど真相に近づいた空想であるか、そのときのレイフォンには知るすべなどあろうはずもなかった。


 ともあれ、その日のクリスフィア姫とティムトの探索作業は、そこで大きな壁に突き当たってしまったようだった。

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