Ⅱ-Ⅱ 女騎士の憂鬱
2017.1/18 更新分 1/1
エイラの神殿を訪ねたその翌日になっても、クリスフィアの胸中を満たした鬱屈たる思いが晴れることはなかった。
「何もかもが気に食わん。けっきょくわたしは、この憤懣をどこの誰にぶつけてやればよいのだ?」
赤蛇宮に当てがわれた部屋で、長椅子にだらしなく身を横たえながら、クリスフィアはまたそのような言葉をくり返した。
その正面に陣取ったフラウは、陶磁の杯にアロウの茶を注ぎながら困ったように微笑んでいる。
「姫様は、カノンという御方に同情されているのですよね? でも、その御方が父たる前王を討ち倒したのならば、すでにその無念も晴らされているということになるのではないでしょうか」
「しかし、本当に前王を討ったのがカノン王子であるという証はないし、それが真実であったとしても、本人までもが魂を返してしまっていては意味がないではないか」
「ですが、自分の父親を鏖殺してしまったのなら、それは許されざる罪です。悲しいことですが、セルヴァの御前で罪を裁かれる他ないのでしょう」
「それで父殺しの罪で、魂も粉微塵か? それでは、なおさら報われん!」
クリスフィアがわめきたてると、フラウはいっそう困った様子で広々とした室内に視線を巡らせた。
「姫様、お願いですから、もう少し小さなお声で……ここは王宮の只中なのですよ? 誰がどこで聞き耳を立てているかもわかりません」
「ふん! 自分の行いに後ろ暗いことがなければ、何を聞かされても腹が立つこともあるまい! 前王を鏖殺したあげく、カノン王子にその罪を着せたりしていなければな!」
フラウは溜息をつきながら、クリスフィアの前に熱い茶の注がれた杯を置いた。
「でも、誰かがそのような罪を着せたという証もないのでしょう? 実際にカノン王子は父たる前王を恨んでいたのでしょうから、どのような罪を犯したとしてもおかしくはないのではないでしょうか」
「どうだかな。いかにヴァルダヌスの手引きがあったとしても、どうやってあの部屋を出たのかという不明な点が残るのだ」
クリスフィアは身を起こし、甘酸っぱい芳香のする茶をがぶりと飲んだ。
その熱さに顔をしかめてから、さらにまくしたてる。
「あの部屋の鍵は、前王に近しい者が管理していたはずだ。十二獅子将とはいえ貧乏貴族の出自であったというヴァルダヌスよりも、王弟のほうがまだそのようなものを盗み取る機会には恵まれているのではないか? それに、夜の銀獅子宮に忍び込むことなど、そんな容易い話ではないはずだろう。話を探れば探るほどに、ヴァルダヌス一人の協力では王の暗殺など成し遂げられなかったに違いないと思えてならないのだ」
「はあ……」
「あるいは、前王の死を望む何者かが、ヴァルダヌスにあの部屋の鍵を与え、銀獅子宮への侵入をも手助けしたのかもしれん。それならそれで、その者も叛逆の罪に問われるべきであろう?」
「……つまり姫様は、たとえカノン王子が父殺しの大罪人であったとしても、すべてを明るみにしなければ気が済まない、ということなのですね」
フラウはもう一度溜息をこぼしながら、クリスフィアを見つめ返してきた。
「わたくしは何だか姫様が心配です。その姫様の真っ直ぐでゆるぎのないご気性を、わたくしは何よりもかけがえのないものと思っているのですが……このような異郷の地で、誰の助けもないままに、今の王を敵に回すような真似に及ぶのは、あまりに危険なことでしょう?」
「むろんわたしとて、無駄に生命を散らすつもりはないが……」
「いっそのこと、ディラーム様をお頼りになってはいかがでしょう? あの御方でしたら、姫様を正しい道に導いてくれそうな気がします」
「そうしたいのは山々だが、昼食を一緒に取ることさえかなわないのではな」
ぶすっとした顔で言い、クリスフィアはまた茶に口をつけた。
昨日の夜も今日の昼も、クリスフィアはディラーム老と食事をともにすることができなかったのだ。
「何にせよ、不明な点が多すぎる。前王を害したのが誰であるにせよ、カノン王子はどうやってあの部屋を出ることができたのか……そして、あの部屋にあった書物というのは、いったい誰が運び入れたものなのか」
「はい? 書物ですか?」
「うむ。カノン王子には、古の禁じられた魔術に耽溺していたという噂もあるのだ。そのような魔術をあのような場所で学ぶとしたら、魔道書か何かが存在したとでも考えるのが妥当であろう。そのようなものが、どうして王子の幽閉場所に準備されていたのか――考えてみれば、おかしな話ではないか」
そのように述べながら、クリスフィアは荒っぽく前髪をかきあげる。
「また、それらの書物は災厄の日の後に、あの部屋から持ち出されてしまっている。それなら、ますますその書物は王子のためにこそ準備されたものなのだという証になろう。……まずはその辺りから探ってみるか」
「その辺りとは? 何かあてでもあるのでしょうか?」
「あてなどないが、そういった書物の集められる場所はおのずと限られてくる。王都といえば学問の中枢なのだから、どこかに学士のための施設でもあるのだろう。まずはそこから当たってみるべきか」
クリスフィアが立ち上がると、フラウはいささか慌てたような顔をした。
「お、お待ちください。これからすぐにその場所を探しに行かれるのですか? せっかくお茶をいれたのですから、もう少し休まれてからでもよろしいのではないでしょうか?」
「茶なら十分に味わった。言い忘れていたけど、美味かったぞ」
そのように答えてから、クリスフィアは少し気持ちを改めた。
「昨日から、同じような話ばかりを聞かせてしまって悪かったな。だけど、フラウを危険な目にあわせるような真似は決してしないから、それだけは心配しないでいい。どのようにおぞましい真実が知れたとしても、いきなり王に刀を向けるような真似はしないよ」
「……姫様はそこまで新王を疑っておいでなのでしょうか?」
「それはまだ何とも言えん。どちらかというと、あの新王にそこまで大それた真似ができるようには思えないので、一番あやしく思えるのは新王の取り巻きどもかな」
前王とその忠実なる家臣たちの死によって、元帥の座を得ることになったロネックとジョルアン。神官長のバウファ。そして、昨日エイラの神殿で顔をあわせることになった、薬師のオロル――あの男もまた、新王が玉座を得る前からの取り巻きであるという話であったのだった。
「あのオロルという御方は、少し恐ろしげな雰囲気でしたね。あの光のない真っ黒の瞳――あれはまるで、地面に空いた二つの穴のように思えてしまいました」
そのように言いながら、フラウはぶるっと身を震わせる。
「そうだな。薬師風情がそこまで大それた陰謀を思いつくとは考えにくいが、暗殺には毒物がつきものだ。災厄の日のすぐ前に病死したというウェンダなる将軍の死が、暗殺によるものであったのなら、あやつが何か関わっているのかもしれん」
「恐ろしいことです。王都とは、そこまで恐ろしい場所であったのでしょうか」
フラウは首を振り、自分の身体をぎゅっと抱きすくめた。
部屋の出口に向かいかけていたクリスフィアは、フラウのもとまで戻ってその華奢な肩にそっと手を置く。
「すっかり怖がらせてしまったな。すべてはわたしの想像に過ぎないのだから、そこまで怯える必要はないのだぞ? そして、たとえ最悪の想像が現実であったとしても、フラウの身はわたしが守ってみせる」
「でも、毒に刀で勝つことはできないでしょう……?」
「そんなことはない。暗殺者だって、わたしは刀で斬り伏せてみせよう」
クリスフィアはそのように述べてみせたが、フラウのほっそりとした肩は震えたままであった。
クリスフィアはすっかり申し訳なくなってしまい、フラウのかたわらに膝を折る。
「フラウがそこまで怯えるのは珍しいことだな。そんなに王都の陰謀家どもが恐ろしいのか?」
「はい……旅の間でも色々と恐ろしいことはありましたが、何というか……わたくしにはこの宮廷に満ちた人の悪意のほうが、野の獣や無法者などよりもよほど恐ろしく感じられてしまうのです」
その心情は、クリスフィアにもわからなくはなかった。「恐ろしい」という言葉を「忌々しい」という言葉に置き換えれば、ぴったりそのままの心情である。
野の獣や無法者など、刀を振り下ろせば撃退することができる。シャーリの大鰐だって、クリスフィアが死力を尽くせばどうにかできるだろう。
王都においても、相手が兵士や暗殺者などであれば、斬り伏せることはできる。しかし、人の悪意などというものは、どれほどの剣士であっても斬り伏せることはかなわないのだ。
(ひょっとしたら、フラウもあのカノン王子の寝所を見てしまったばかりに、ここまで怯えることになってしまったのかな)
クリスフィアにとって一番忌々しく感じられたのは、仮にも王子と生まれついた人間があのような場所に幽閉されていた、というその事実であった。
不敬を承知で述べるならば、王や王子を始めとする何十名もの人間が焼き殺されたことよりも、そちらのほうが忌まわしい出来事であるように感じられてしまう。死ぬときの苦しみは一瞬であるが、十数年の歳月をあのような場所で過ごすというのは、想像を絶する絶望であった。
そしてまた、クリスフィアは何よりも「自由な生」というものを重んじていたのだ。
そんなクリスフィアにとっては、カノン王子の身の上が何よりも気の毒に感じられてしまうのだった。
(ロア=ファムの姉と一緒にいるのは、本物のカノン王子なのだろうか……そうだとしたら、何としてでも生きながらえてほしいものだが……)
だが、それが本物であったとして、カノン王子に幸福な行く末など望めるのだろうか。
今頃は、王都から出兵された討伐隊に取り囲まれているかもしれない。いかにヴァルダヌスという剣士がかたわらにあったとしても、百名ていどの集団で五百名からの討伐隊を返り討ちにできるとは思えなかった。
(それで生きながらえたとしても、ゼラド大公国などに逃げ込まれてしまったら、王国とは完全に敵対する立場になってしまう。いっそアブーフにでも亡命してくれればいいのだが……いや、あの頑固な父上では、それでカノン王子に与するような真似はできないか)
考えても考えても、なかなか正しい答えは見えてこない。
そもそも、カノン王子の生死すら正しくは把握できていないのだ。セルヴァの中央部を闊歩しているのは真っ赤な偽物で、本物はとっくに焼け死んでしまっているか――あるいは、もっと別の場所で生きながらえているという可能性すらある。
何にせよ、クリスフィアにできるのは、真実を明るみに引っ張り出すことのみであった。
後のことは、後で考えればいい。まずは、カノン王子が本当に前王たちを弑逆したか、それを突き止めるのだ。もしもカノン王子が潔白であるならば、その真実を暴きたてるだけでも名誉を救う一助になるはずであった。
「姫様……?」とフラウが心配そうに呼びかけてくる。
そのとき、部屋の扉が外から叩かれた。
フラウはびくりと身体をすくめ、クリスフィアは短剣の柄に手をかける。
しかし、聞こえてきたのは赤蛇宮の女官の声であった。
「失礼いたします。仕立て屋が到着いたしました」
「仕立て屋?」
クリスフィアは眉をひそめ、フラウはほっと安堵の息をつく。
その間に扉は開かれて、何名もの女たちがぞろぞろと踏み込んできた。
「いったい何事だ? 仕立て屋など呼んだ覚えはないぞ?」
「はい。舞踏会のための宴衣装を仕立てるために、クリスフィア姫のお身体の寸法を測らせていただきたく思います」
先頭に立っていた女官が、うやうやしく頭を下げてくる。
その後ろに控えているのは、王宮付きの仕立て屋であるらしかった。赤蛇宮は男の来訪が禁じられているため、全員が女性である。
「だから、そのようなものを頼んだ覚えはないと言っているのだ。だいたい、舞踏会というのは何の話だ?」
「はい。戴冠の祝宴の前祝いとして、舞踏会が開かれることになったのです。それで、クリスフィア姫のために宴衣装を準備するべしとのお言葉を国王陛下より賜りました」
そのように述べてから、女官はけげんそうに小首を傾げた。
「それで、本日のこの刻限に仕立て屋がおうかがいするという旨をお伝えさせていただいたのですが……何か行き違いでも生じてしまったでしょうか?」
「いえ、問題ありません。どうぞよろしくお願いいたします」
フラウが立ち上がり、女官たちに負けぬうやうやしさで頭を下げる。
言葉を失うクリスフィアに向きなおり、フラウは笑顔で小さく舌を出した。
「姫様がお出かけになる前に間に合って幸いでした。どのような宴衣装をこしらえていただけるのか、今から楽しみですね?」
「フラウ、お前……わたしはたばかったのか!?」
「何もたばかってはおりません。ただ、事前に告げると姫様に逃げられてしまうため、秘密にさせていただきました。王命に逆らうわけにはいきませんものね?」
「お前! あのように怯えたふりをしたのも、わたしを引き止めるための演技であったのか!」
「それは誤解です。わたくしは心の底から恐怖を覚えておりましたし、それを心配してくださった姫様の優しさには涙をこぼしそうなほどでした」
そのように述べながら、フラウはいっそう幸福そうに微笑んだ。
「ともあれ、姫様のお美しい宴衣装姿を見られるのはとても楽しみです。王都までご一緒した甲斐もありました」
クリスフィアは、渾身の力を込めて「フラウの裏切り者!」とわめいた。
そうしてクリスフィアは陰謀劇の真相を暴くための活動に入る前に、女官たちによって裸に剥かれてしまうことになったのだった。