Ⅰ-Ⅱ 魔女の集落
2017.1/14 更新分 1/1
「そら、ここがあたしらの集落だよ」
娘の陽気な声が、薄闇の中に響きわたった。
森の中でこの娘と出会って、一刻ばかりも西に歩いたのちのことである。
娘の言う通り、道ならぬ道を踏み越えて木々の間をくぐっていくと、突如として視界が開けていた。
粗末な藁葺きの家屋が立ち並ぶ、自由開拓民の小さな集落だ。
森を切り開き、その樹木で家を建てたのだろう。ほとんど森とも境目のないような、ごく小さな集落であった。
しかしここは、地図にも載らぬ辺境区域の真っ只中である。文明の版図に出るまで三日もかかるような場所に、これだけの人間が住まっているというほうが驚くべきことであった。
「何も遠慮をする必要はないからね。まずは集落の長に挨拶をしてもらおうかな」
「はい、ありがとうございます」
普段とはまったく異なる取りすました口調で、ナーニャがそのように答えていた。
その手に携えた巡礼者の杖で足もとを探り、逆側の手の指先はずっとリヴェルの手首をつかんでいる。ナーニャは目を閉ざし、盲人のふりをしているのである。
「顔を隠すひまがなかったからね。それならせめて瞳ぐらいは隠しておいたほうが利口だろう?」
ここまで案内される道行きで、ナーニャはこっそりそのように述べていた。
確かにナーニャの赤い瞳は、何より目立つ特徴であっただろう。王国の人間がこのような森の中にまで足を踏み入れるとは考えにくかったが、ナーニャたちは用心に用心を重ねなければならない身の上であるのだ。
「さ、こっちだよ。足もとが悪いんで、転ばないように気をつけてね」
大きな草編みの籠を背負った娘は、軽やかな足取りで前を進んでいる。
切れ長の目と赤い唇を持つこの娘は、チチアと名乗っていた。
身なりは粗末だが目鼻立ちは整っており、何より色香にあふれた若い娘である。道中で、彼女が自分と同じく十五歳であると打ち明けられたリヴェルは、少なからず衝撃を受けていた。
(でも、なんだか嫌な感じ……親切は親切だけど、下心でもあるんじゃないかな……)
リヴェルはそのように思えてならなかった。
彼女は最初の最初から、ゼッドのことばかりを気にかけているように感じられたのである。
ゼッドのことを見つめるときだけ、その眼差しは妙にねっとりとした粘り気を帯びるように感じられる。獲物を狙う毒蛇のような眼差しだ。
チチアに気づかれないよう、リヴェルも途中でナーニャにその旨を伝えてみたのだが、返ってきたのは悪戯小僧のような微笑ばかりであった。
「それならそれで、面倒がなくていいんじゃない? ゼッドが情けをかけるだけで一夜の宿と食事を得られるなら、安いものじゃないか?」
ナーニャは、そのように述べたてていたのだ。
リヴェルにとっては意外であり、心外でもある言い様であった。
「ナーニャはこれまで、なかなか他者を頼ろうとはしてこなかったではないですか? 今回に限って、どうして彼女を頼ろうと考えたのですか?」
「それはまあ、ここらでそろそろ食料を調達しておかないと、リヴェルが倒れたりゼッドの傷が悪化したり、色々と面倒そうだったからねぇ。自由開拓民の集落だったら、宿場町に身を寄せるよりはよほど安全だろうし」
そのように言ってから、ナーニャはうっすらと冷たい笑みを浮かべた。
「それに、ちょっと気になることがあるんでね。彼女の同胞がどういう人間たちなのか、確認しておきたくなったんだよ」
その理由はけっきょく明かされないまま、リヴェルたちはこの集落に到着してしまっていた。
すでに太陽は没しかけているようで、あたりは紫色の薄闇に包まれている。家屋のいくつかからは、燭台か何かのぼんやりとした光がこぼれていた。
そうしてチチアなる娘にいざなわれたのは、集落の真ん中に立ちはだかる大きめの家屋であった。
やはり平屋で屋根は藁葺きであるが、大きさだけは他の家屋の倍ぐらいもある。壁は干した土で固められており、四角く切られた窓からはかまどの煙がもくもくとあがっていた。
「ちょいと待っててね。……我らの長フィーナよ、お客人をお連れいたしました!」
チチアが大きな声を張り上げると、それほど待たされることなく、粗末な木の戸が開かれた。
そこから姿を現したのは、チチアより少し年長と思しき娘である。
「何だ、チチアかい……へえ、お客人とは珍しい」
「うん。西の神の巡礼者らしいんだけどさ。森の中で迷っちまったらしいんだよ」
「ふうん、森の中でねえ……」
新たな娘が、こちらを見回してくる。
その視線はリヴェルを素通りし、ナーニャのところで少し留まったのち、ゼッドのもとで固定された。
その瞳にチチアと同じような粘着質の光が瞬き、口もとには妖しい笑みがたたえられる。
「……ここらの森は枝葉で空を覆い隠しちまうんでね。時おり方角を見失った旅人なんかがこの集落まで迷い込んでくるんだよ。……それでも、新しいお客人を迎えるのはずいぶんひさびさだねぇ」
「ご面倒をおかけいたします。もしもご都合が悪ければ、すぐにでも退散いたしますので」
ナーニャがよそゆきの声で応じると、娘は「あらぁ」と妙に熱っぽい声をあげた。
「このあたりには、けっこう危険な獣も出るんだよぉ? 昼間なんかは平和なもんだけど、夜になったらもう駄目さぁ。腐肉喰らいのムントやら、ギーズの大鼠やら、たちの悪い毒虫やら……それに、悪い蛇も出るしねぇ……」
「なるほど、悪い蛇ですか」
ナーニャが静かに答えると、いったい何がおかしかったのか、二人の娘たちは目を見交わしてくすくすと笑い声をたてた。
何というか、顔立ちは似ていないのに、妙に雰囲気の似通った娘たちである。
「いいから、朝までゆっくりしておいきなさい。フィーナは気の毒な旅人を見捨てるようなお人じゃないからさぁ」
「ああ、あなたがフィーナという御方ではなかったのですか」
「あたしは、フィーナのお世話をしている下女にすぎないよぉ。……この集落の人間は、みんなフィーナの下女なのさぁ」
よくわからないことを言いながら、娘は家屋の入り口を指し示した。
「さあ、お入りなさい。チチア、あんたが案内してあげるんだよぉ」
「うん。こちらにどうぞ、お客人」
まだその口もとに妖しい笑みをたたえたまま、チチアが入り口をくぐっていく。
リヴェルはどうにも気が進まなかったが、ゼッドがさっさとその後に続いてしまったので、追従するしかなかった。
家の中は、外よりも暗い。
ぎしぎしと軋む床を踏みながら進んでいくと、やがて右手の側に部屋の入り口が見えてきた。
木の戸ではなく、布の帳が何重にも掛けられている。きっと部屋の暖気を逃がさないための造りなのだろう。チチアがその帳をかき分けると、とたんにもわっとした熱気が押し寄せてきた。
毛皮の敷物が敷きつめられた、広間である。
部屋の奥には大きな石造りの暖炉が設えられ、四隅には燭台まで掲げられている。そのために、室内は昼間のように明るかった。
部屋の中央には、また別の女が優雅に寝そべっている。
その女に向かって、チチアはうやうやしく頭を下げた。
「我が長フィーナよ、お客人をお連れしました」
「お客人……? そいつは嬉しいねぇ。どうぞくつろいでおくれ。あたしはこの家の主人でフィーナってもんだよぉ」
それは、妖艶なる年増女であった。
いや、はっきりとした年齢はわからない。妙に風格はあるものの、顔だけを見るとずいぶん若々しくも見えた。
ただ、とにかく色香にあふれている。
これに比べると、チチアでさえもが幼い小娘にしか感じられないほどであった。
全身にたっぷりと脂がのっており、そのいくぶんゆるみ気味の腹や足までもが、匂いたつような色香を発散しているかのようだ。なおかつ彼女は淡い緑色をした薄物しか身につけていなかったため、その艶やかな肢体が惜しげもなく人目にさらされてしまっていた。
褐色の髪は頭の上で結いあげており、目もとには青い化粧をほどこしている。開拓民の長というよりは、娼館の女主人と見まごうような艶然たる姿である。
そして、その女はゆたかに張り詰めた乳房の上のほうに、奇怪な刺青をいれていた。
青紫色をした、おそらくは蛇を象った紋様である。
何とはなしに、リヴェルは不吉な感じがしてしまった。
「さあ、好きなところに座っておくれよぉ……チチア、いつまでもそんなもんを背負ってないで、酒の準備でも手伝ってきなぁ」
「いえ、わたしどもは酒をたしなみませんので、お気遣いは不要です。……それよりも、連れがちょっとした手傷を負っておりますので、その手当を先にさせていただけたらありがたいのですが」
ナーニャの言葉に、フィーナなる女は「ふうん?」と唇を吊り上げる。
「それはお気の毒にねぇ。それじゃあ、女手をお貸ししようかい?」
「いえ、それには及びません。桶に一杯の水をいただけたら、それで十分です」
「桶に水ね。チチア、かまどの間から運んでおあげ。それで、奥の間に案内してさしあげるんだよぉ」
「あなたの親切に、セルヴァの祝福を」
そうして三人は、チチアの案内でさらに家の奥へと導かれた。
しばらく歩くと、今度は逆側の壁に同じような帳が見えてくる。
さらに進めば、そこがかまどの間であるらしい。奥のほうからは、胃袋を揺さぶるような芳しい香りが漂ってきていた。
「ちょっと待っててね、お客人がた」
チチアは一人で奥のほうに進むと、やがて大きな手桶と火の灯された燭台を手に戻ってきた。
「食事の準備ができたら声をかけるからさ。それまではゆっくりくつろいでね」
最後にまたゼッドに流し目をくれてから、チチアは再び暗がりの向こうへと消えていった。
まずはゼッドが帳をかき分けて、屋内に危険なものが潜んでいないことを確認してから、足を踏み入れる。
そこは窓のない、小さな部屋であった。
しかし、足もとには敷物が敷かれているし、レイノスの宿屋よりは十分にくつろげる広さがある。
「それでは、手当を済ませてしまいましょう」
盗み聞きの心配をしているのか、ナーニャの言葉づかいは丁寧なままであった。
それに、まぶたを開こうとさえしない。手探りでゼッドが衣服を脱ぐのを手伝い、面倒な包帯に関してはリヴェルの手にゆだねられた。
ゼッドの右半身を蝕んだ火傷には、レイノスで手に入れた上等な薬が塗られている。その効果があってか、もう血膿がにじんだりもしていなかった。
それでも赤黒くただれた、無残な傷痕である。リヴェルは清潔な布を木桶の水で濡らし、ナーニャとともに古くなった薬をぬぐい取る仕事に従事した。
それから新しい薬を塗り、新しい包帯を巻く。
ゼッドはやはり無表情のまま、ずっと猛禽のように双眸を光らせるばかりであった。
そうして衣服も纏わせて、分厚い篭手も装着しなおすと、すかさず長剣を手に取って胸もとに抱え込んでしまう。
そんなゼッドに、ナーニャが何事かを囁きかけた。
ゼッドはうなずき、ナーニャの耳もとに口を寄せる。
右頬の火傷で不自由になった唇を懸命に動かし、ゼッドもごく短い言葉をナーニャに伝えたようだった。
ナーニャはうっすらと笑いながら、今度はリヴェルを手で招いてくる。
「やっぱり誰かに見張られているようだよ。内緒話は、なるべく控えておこう」
ナーニャのやわらかい声が、耳の中に吹き込まれる。
そうは言われても、リヴェルの不審の念はこれ以上ないぐらい高まってしまっていた。
「本当にこのままこの家に留まってしまって大丈夫なのでしょうか? わたしは何だか胸が騒いでしかたがありません」
「何があったって、ゼッドさえいれば大丈夫さ。ただ、毒を盛られないように気をつけないとね」
それきりナーニャは口をつぐんでしまった。
これでは森の中で夜を明かしたほうがまだ安心なぐらいかもしれない。リヴェルはたいそう心細い気持ちで自分の膝を抱え込むことになった。
チチアが再び姿を現したのは、それから半刻も経たぬ内であった。
食事の準備ができたということで、さきほどの広間に呼びつけられる。リヴェルたちは大事な荷物をしっかりと抱えたまま、チチアの先導で部屋を出た。
そうして広間に到着すると、驚くべき光景が待ち受けていた。
それなりの広さを持つ一室に、ところせましと大勢の人間が詰めかけていたのである。
人数は、十名ほどもいたであろうか。
しかも、そのすべてがうら若き女人であった。
一番若いのはチチアであり、年かさのものでも三十には届いていない様子だ。そんな女人ばかりが艶っぽく笑いながら、リヴェルたちの姿をくいいるように見つめ返してきたのだった。
「騒がしくって、申し訳ないねぇ。ひさびさのお客人と聞いて、こんなに集まってきちまったんだよぉ」
女主人のフィーナも、妖しく微笑みながらそのように述べたててきた。
その光景に、リヴェルは何やらぞっとしまう。
その場に集まった女たちは、みんなフィーナと雰囲気が似通っていたのだ。
髪の色はさまざまであるし、顔立ちなどが似ているわけでもない。ただ、誰もが色香にあふれており、そして、誰もがゼッドのことを熱っぽく見つめていた。
時おりナーニャのほうをいぶかしげに見る者もいる。しかしその目もすぐにゼッドへと引き寄せられてしまう。なおかつ、誰もが面白いぐらいにリヴェルの存在を黙殺していた。
(何なの、いったい……? そりゃあゼッドは王都の貴族で、顔の火傷さえなければすごく面立ちは整っているけど……)
しかしそれでも、ゼッドは完璧なまでの無表情であった。
その猛禽のごとき眼差しも、誰か刃物でも隠し持ってはいないかと鋭く探っているような様子である。
「さあ、くつろいでおくれ。ほら、お客人に席を空けるんだよぉ。みっともないったらありゃしないねぇ」
女主人に叱責されて、女たちは申し訳ていどに腰をずらした。
ゼッドはどかりとあぐらをかき、ナーニャはリヴェルの導きでその隣に腰を降ろす。リヴァルは後ろに下がっていたかったが、なるべくナーニャに身を寄せ合うようにして自分の居場所を確保した。
「食事をするのに外套はお邪魔でしょう? チチア、そちらに片付けておあげ」
「はぁい」とチチアが笑顔で手を差しのべてくる。
そうしてナーニャがようやく外套の頭巾をはねのけると、広間は女たちのどよめきに満たされた。
白銀の髪に、抜けるような白い肌、そして妖魔のように美しいナーニャの容貌が、初めてはっきりと彼女たちの前にさらされたのだ。
その赤い瞳をまぶたに隠していても、やはりそれは驚嘆に値する美貌であった。
「こいつは驚いた……ねえ、白銀の髪をした巡礼者さん、あんたは男なのかねぇ? 女なのかねぇ?」
「白銀の髪とは、わたしのことでしょうか? 生来、目が不自由であるため、わたしには色というものがわからないのです」
そのように述べながら、ナーニャはゆったりと微笑んだ。
「そしてわたしは、大いなるセルヴァに身を捧げておりますため、男女の区別をつける意味もありません。生涯伴侶は娶らぬと誓いを立てて、わたしは世界を巡礼しているのです」
「ふうん……それならまあ、詮索するのも野暮ってもんかねぇ……」
フィーナは青くくまどられた目を細めながら、毒蛇のように微笑んだ。
他の女たちも、声を忍ばせてくすくすと笑っている。
「それじゃあ、晩餐を始めようかぁ。楽しい旅のお話を、たっぷり聞かせておくれよぉ、お客人がた……?」
広場の中央には、すでに晩餐の準備が整えられていた。
石の台座にはぐつぐつと煮えたった鍋が置かれて、えもいわれぬ芳香を放っている。その脇の大きな木皿には香草と一緒に焼かれた何かの肉が山積みにされており、フワノともポイタンともつかない乳白色の生地の団子も準備されていた。
「酒精は不要とのことだったんで、上等な茶を準備させていただいたよぉ」
フィーナの合図で、女の一人が土瓶を取り上げた。
三人の前に置かれた杯に、薄紫色の茶が注がれる。
ゼッドは無言でその杯を取り上げ、ほんのわずかだけ口に含んだようだった。
そうしてゼッドが毒見を済ませる時間を稼ぐために、ナーニャは「素晴らしい香りです」と言葉をつむぐ。
「この地にはこれほどの実りがあるのですね。肉の脂が焼ける香りなど、数日ぶりに嗅ぎました」
「ああ、こいつは蛙の肉だよぉ。お口にあうといいんだけどねぇ」
「蛙ですか。それはお珍しい」
リヴェルも仰天して木皿のほうに目をやったが、そこに並べられているのは鳥とよく似た動物の足肉ばかりであった。
蛙の肉など口にしたことはないが、香草の香りが素晴らしいので、むやみに食欲をかきたてられてしまう。
「この辺りでは、面白いぐらいに蛙が取れるんでねぇ。それであたしらも飢えずに済んでるってわけさぁ」
「そうなのですか。もしも干し肉など余っていましたら、こちらの持つ山菜や銅貨と交換していただきたいのですが」
「銅貨かい。残念ながら、こんな森の中じゃあ銅貨の使い道もなくってねぇ。あたしらは、森の収穫だけで生きながらえているんだよぉ」
フィーナがにたりと不気味に微笑む。
「よかったら、あとで罠の仕掛け方でも教えてあげようかぁ? ここから人里まで出るのに三日はかかるだろうし、それまで肉なしで済ませるのはたいそう苦しいこったろうからねぇ」
するとまた女たちも追従するようにひそやかな笑い声をたてた。
何が面白いのか、リヴェルにはまったく理解できない。
「さ、とにかく今は腹を満たすがいいさぁ。チチア、お客人に美味しいところを取り分けておあげ」
「はあい」とチチアが木の椀を取り上げる。
チチアも防寒用の上着を脱ぎ、薄物ひとつの姿になっていた。あられもなくはだけた胸もとからは、その年齢に不相応な隆起が覗いてしまっている。かえすがえすも、リヴェルと同い年とは思いがたい少女であった。
「さあ、どうぞ。お手が不自由なら、あたしが食べさせてあげようか?」
ゼッドは首を横に振り、ナーニャの銀色の髪ごしにリヴェルを見つめてきた。
「ああ、この位置ではゼッドの手伝いができませんね。リヴェル、こちらにお座りなさい」
ナーニャの指示に従って、リヴェルは二人の間に席を移した。ナーニャが盲人を装っているため、ゼッドの食事はリヴェルが手伝わなくてはならないのだ。
それはたいそう気が引けることであったが、左右をナーニャとゼッドにはさまれると、リヴェルの心中の不安感はずいぶん緩和されることになった。
このやりとりの間でゼッドは紫色の茶を飲みくだしたらしく、リヴェルにうなずきかけてきた。
料理のほうに関しては、他の女たちがすでに同じものを食べ始めているので毒見の必要はない、という判断をくだしたようだ。
リヴェルは木匙でほんの少しだけ煮汁をすくい、おそるおそるゼッドの口もとへと差し向ける。
その様子を見てフィーナは「へえ……」と声をあげた。
「これはまたずいぶんと甲斐甲斐しいことで……ひょっとしたら、そのお二人はそういう仲なのかい?」
「いえ。ゼッドは私の巡礼に力を貸してくれている護衛役であり、リヴェルは私の従者です。ご覧の通り、彼女には北の血が入っているので、西方神の忠実なる子であることを証しだてるために、私と西の地を巡礼しているのです」
「ああ、北の血が……だからその娘さんは、そんなに綺麗な金色の髪をしてるんだねぇ」
そういえば、彼女たちはリヴェルがこの姿をさらしても、驚く様子のひとつも見せていなかったのだ。
今さらながらにリヴェルは戸惑うことになり、その表情の変化に気づいたフィーナが「別に驚くことはないさぁ」と述べたてた。
「この辺りはマヒュドラも近いんでね。北の民なんて珍しくもないんだよぉ。ここから北に十日も歩けば、もうマヒュドラの領土の端っこには辿り着けるんじゃないのかねぇ」
「そうだったのですか。しかし、自由開拓民とはいえ、あなたがたもセルヴァの子でしょう? 北の民と出くわしてしまったら危険ではないのですか?」
「何も危険なことはないさぁ。北の民ってのは、素晴らしい連中だよぉ? どいつもこいつも惚れ惚れするような男っぷりだしねぇ」
その後に巻き起こったそぞろ笑いは、これまで以上に不気味なものであった。
のろのろとした仕草で食事を始めていた女たちが、みんな手を止めてにたにたと微笑んでいる。中にはその目を熱っぽく潤ませたり、舌なめずりしている者さえいる。その有り様を眺めているだけで、リヴェルは背筋に悪寒が生じるほどであった。
「なるほど。セルヴァに魂を捧げた身としては、いささかならず複雑な気持ちですが……あなたがたは、自由な生活を許された開拓民ですものね。このような場で堅苦しい言葉を述べるのは、あまりに忘恩の行いとなってしまうのでしょう」
ごく何気ない口調で、ナーニャがそのように述べたてた。
「そういえば、あなたがたは見慣れぬ紋様をその身に刻みつけているそうですね。さきほどリヴェルから、そのようにうかがいました。それは何か、セルヴァやその眷族たる小神とも異なる神を崇めている証なのでしょうか?」
リヴェルは驚いて、一番そばにいるチチアの姿を確認してしまった。
確かにその右手の甲には、フィーナと同じく蛇のような紋様が刻みつけられている。さきほどまでは長い袖の装束を纏っていたので、リヴェルはまったく気づくこともできなかったのだ。
そして、他の女たちも肢体のどこかに同じ紋様が刻まれていることがすぐに知れた。手首や、二の腕や、足の甲や、首の横など、場所はさまざまであったが、それらはみんなフィーナと同じ青紫色の蛇の紋様であった。
「なに、こいつは一族の証ってだけのことさぁ。開拓民といえども、大神セルヴァとゆかりのない神を崇めるわけにもいかないだろう?」
茶色の瞳をてらてらと輝かせながら、フィーナはそのように答えていた。
「そうですか」とナーニャは口もとをほころばせる。
「確かに邪神の崇拝は許されざるべき大罪とされています。しかし、開拓民には山や森や河などを神とする一族も多いようなので、それに属する習わしなのかと思っただけなのです」
「ああ、そういう意味なら、あたしらの神はこの集落の奥にある沼ってことになるのかねぇ。あたしらは一族の繁栄を願って、その沼に供物を捧げたりもするからさぁ……」
フィーナも女たちも笑っている。
得体の知れない、不気味な笑い方だ。
リヴェルはまるで、毒蛇の巣にでも放り込まれたような戦慄を味わわされることになった。
そうしてリヴェルを襲った悪寒と不安は、その晩餐が終わるまで決して消えることがなかったのだった。