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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第二章 ねじれゆく世界
29/244

Ⅴ-Ⅰ 偽王子と女狩人

2017.1/10 更新分 1/1

・書き溜めた分が終了しましたので、今後は三日置きに一話という目安で更新していく予定です。

 メナ=ファムは、ごつごつとした岩場の上を闊歩していた。

 峡谷の下に張られた、傭兵団の野営地である。すでに夜が近づいていたので、岩場のあちこちでは火が焚かれて、鉄鍋が火にかけられている。そうしてあたりには、傭兵たちの粗野な笑い声が響いていた。


「よお、女狩人。よかったら一緒にこいつをやらねえか? とっておきの果実酒の栓を開けたんだ」


「ありがとさん。用事が済んだら、寄らしてもらうよ」


 早くも酒気に顔を染めている男たちに挨拶を返し、メナ=ファムはずかずかと歩を進めていく。

 メナ=ファムがこの一団に身を投じてから、すでに半月以上の時間が経過していた。その間に、もう五回ばかりはともに刀をふるっているので、彼らはようようメナ=ファムを仲間と認めてくれたようだった。


 メナ=ファムは、シャーリの川沿いで大鰐を狩る、グレン族の女狩人である。

 ぼうぼうにのばした髪は火のように赤く、瞳は黄色く光っている。肌の色は黄褐色で、体格は男のように逞しい。それで身に纏っているのは、大鰐の鱗でこしらえた狩人の装束だ。腰の革帯に下げているのも、大鰐の腹を裂くための半月形の刀である。


 メナ=ファムは、狩人の仕事に誇りを持っていた。

 大鰐を狩るだけの生活に嫌気がさし、集落を出る人間も少なくはなかったが、メナ=ファムはシャーリの河に魂を返すつもりでいた。それなのに、やむをえない事情でグレンの集落を出奔する羽目になってしまったのだ。


 しばらく歩くと、そのやむをえない事情の根源が見えてきた。

 陣の中心に鎮座された、ひときわ立派な荷車である。傭兵たちはその荷車を取り囲むように火を焚いて、そこでも晩餐を楽しんでいた。


「よお、メナ=ファム。また王子様とご面会か?」


「ああ。王子は中かい?」


「そりゃあそうだろ。失礼がないように気をつけろよ?」


 メナ=ファムは肩をすくめながら荷車に近づいた。

 四角い箱形の、立派な荷車だ。その後部の閉ざされた扉を、遠慮のない力で叩く。

 扉が細く開けられて、非友好的な光を浮かべた瞳がぎろりとメナ=ファムをにらみつけてきた。


「何だ、またお前か。お前を呼びつけた覚えはないぞ」


「そうだろうね。あたしも呼びつけられた覚えはないよ。だから、自分から出向いてきたのさ」


 男は文句を言いたげに口を開きかけたが、背後の主人に何かを命じられたのか、ものすごく不本意そうな顔つきで扉を大きく開いた。


「とっとと入れ。虫が寄ってくる」


「虫を嫌がるぐらいなら、町で大人しく暮らすべきだろうね」


 メナ=ファムが足を踏み入れると、扉はすみやかに閉められた。

 荷車の中でも、燭台に火が灯されている。その火に照らし出されているのは、この一団の首魁たるセルヴァの第四王子――を、僭称する気の毒な人物であった。


「ああ、メナ=ファム。よく来てくれました」


 その人物が、はかなげに微笑みながらメナ=ファムを出迎えてくれる。

 メナ=ファムはもう一度肩をすくめてから、その人物の前でどかりとあぐらをかいた。


「食事中に邪魔をして悪かったね。おや、こいつは美味そうな煮汁じゃないか」


「よかったら、メナ=ファムも召し上がってください。わたしにはちょっと量が多すぎます」


「それじゃあ、遠慮なく」


 メナ=ファムは敷物の上の木皿を取り上げて、いくぶん冷めかけた煮汁をすすり込んだ。

 キミュスの干し肉と何種類かの野菜を塩と香草で煮込んだだけの食事であるが、普段食べているポイタン汁に比べれば百倍もましである。今日も村落を野盗の群れから守ったので、新鮮な野菜や干し肉などを報酬としていただくことができたのだ。ポイタンも、きちんと平べったく焼きあげられたものが、皿の上に何枚も重ねられている。


「おい、王子殿下の食事をすべてたいらげてしまうつもりか? 少しは遠慮をしろ」


 男が戻ってきて、大事な主人のかたわらに腰を下ろす。

 そちらに向かって、メナ=ファムは「はん」と鼻を鳴らしてみせた。


「こんな場所でまで演技を続ける必要はないだろ? 気の置けない人間に囲まれてるときぐらい、偽王子のお役目から解放してあげなよ」


「貴様、そのように大きな声で何ということを――!」


「声が大きいのはそっちじゃないか。ま、これだけ立派な荷車なんだから、外に声がもれることはないだろうよ」


 男は不満そうに黙り込み、いっそうきつい目つきでメナ=ファムをにらみつけてきた。

 この男の名前は、エルヴィル。本人の言葉を信じるならば、かつてはセルヴァの王都で千獅子長なる役についていた人物である。

 その言葉の真偽は知れぬが、歴戦の勇士であることに疑いはない。この一団において、メナ=ファムと互角の力量を持つと思えるのは、このエルヴィルただひとりであったのだった。


 年齢は、せいぜい二十歳過ぎぐらいであろう。褐色の髪、茶色の瞳、黄色い肌、という西の民としては珍しくもない風体であるが、その目にはきわめて強い光が宿っており、すらりとした肉体には力がみなぎっている。左頬に深い古傷が刻まれてしまっているが、まあ男前の部類でもあるかもしれない。


 このエルヴィルという男が、かたわらの人物をセルヴァの第四王子に仕立てあげてしまったのである。

 それが根も葉もない嘘っぱちであるということを知る者は、この一団においてメナ=ファムしか存在しなかった。


「エルヴィル、少し落ち着いてください。メナ=ファムは決して秘密をもらさないとセルヴァに誓ってくれたではないですか? あなただって、それを信用したからこそ、メナ=ファムがこの場に留まることを許してくださったのでしょう?」


 偽王子がそのように取りなすと、エルヴィルは少し子供っぽい仕草で「ふん」と鼻を鳴らした。


「王国にまつろわぬ自由開拓民がセルヴァに誓いを立てたところで、信用などできるものか。こいつらはしょせん、名ばかりの西の民なのだ」


「ご明察。あたしらの母は、大いなるシャーリの流れだからね」


 答えながら、メナ=ファムは焼きポイタンの生地を噛みちぎった。


「だけど、そのシャーリの河も西の王国の版図にあるんだから、あたしらだってセルヴァの子さ。セルヴァは父で、シャーリは母。あたしはどっちをないがしろにするつもりもないよ?」


「ふん。下賤の狩人め」


 不機嫌そうに言い捨てて、エルヴィルも木皿に手をのばした。

 そんな二人のやりとりを、偽の王子は少し困ったように目を細めながら見比べている。


 こちらは、驚くほどに美しい容姿をした人物である。

 西の民とは思えぬほど色が白く、首のところで切りそろえた髪も、不思議な銀灰色をしている。さらに、淡い青灰色をした瞳は、よく見るとその向こう側にうっすらと血の色を透かしていた。


 だが、たとえその髪や瞳がもっと凡庸な色合いをしていたとしても、この人物は十分に美しかっただろう。長い睫毛にふちどられた目を細めて、頼りなげに微笑むその姿は、伝承で聞く氷雪の妖精のようにはかなげで可憐であった。


 そのほっそりとした身体に纏っているのは、至極上等な絹の装束だ。

 日中は甲冑を纏っているので、こちらの装束はそれほど汚れていない。襟や裾には銀色の糸で刺繍がほどこされており、腰帯などはシムの美しい七色の絹で織られている。この装束を売り払うだけで、傭兵団の何日分かの糧食を得ることだってできるだろう。セルヴァの王子に相応しい、気品にあふれた身なりである。


 しかしこの人物は、偽物であった。

 髪は短く切りそろえ、男のようななりをしているが、この人物は女性に他ならなかったのだ。それが真なる王子ではないという、何よりの証拠であった。


(こんな美しい娘に男のなりをさせて、事もあろうに王子の名を騙らせるだなんて、まったく罪な話だよ)


 メナ=ファムがこの一団に身を投じることになったのも、その大いなる秘密を知ってしまったためであった。

 半月前、この一団はシャーリの川べりに身を潜めていた。それで、大鰐の危険も知らぬまま、水浴びなどに興じていたのである。


 もちろん、秘密を抱えたこの偽王子は、エルヴィルだけを護衛役として、ひとり奥まった場所で身を清めていた。

 そこをシャーリの大鰐に襲われて、メナ=ファムに救われることになったのだ。


「貴様、俺たちの秘密を知ってしまったな!」


 せっかく生命を救ってやったというのに、エルヴィルには刀を向けられてしまった。

 それを涙ながらにかばってくれたのは、偽王子本人だ。


「生命の恩人に刀を向けるような真似をして、大義を果たすことがかなうのでしょうか? このようなこと、父なるセルヴァは決してお許しにならないはずです!」


 裸身のまま、偽王子はエルヴィルに取りすがっていた。

 それで、メナ=ファムは救われたのだ。

 エルヴィルと斬り合いに及んでいれば、どちらかが魂を返す羽目になっていただろう。メナ=ファムから見て、両者の力量は五分であった。


 そうしてメナ=ファムは、この一団に身を投じることになった。

 これは偽王子に乞われたわけではない。みずから望んで、この一団に加わったのだ。


 それは何故かと問われると、答えることは難しい。

 有り体に心情を語るならば、それはこの気の毒な娘を放っておけなかったから――ということになるだろうか。


 彼女は、完全に孤独であった。

 性別を偽り、セルヴァの王子を僭称するなどという身分であったのだから、それは当然だ。百名を超える荒くれた傭兵どもに囲まれながら、彼女は許されざる虚偽の言葉で正体と心情を隠し、本当の名前を名乗ることも許されず、孤独な生を送っていたのである。


 唯一その秘密を知るのはエルヴィルであったが、彼は救いにはならなかった。彼女にそのような生を強要した張本人が、救いになどなるはずがなかった。


 詳しい経緯はわからない。ただ、彼は王家の人間に強い怒りと恨みを抱き、偽の王子を仕立て上げて、何かの復讐を果たす算段であるらしかった。傭兵風情が、わずか百名ていどの軍勢でもって、現在の王家を打倒しようと目論んだのだ。


「あんたは復讐に目が曇ってるんだよ」


 すべての話を打ち明けられた際、メナ=ファムはそのように評したものだった。

 それでもエルヴィルは手負いの獣のように双眸を燃やしつつ、不敵に笑っていた。


「勝利をこの手につかむ算段は立っている。まずは可能な限り勢力を大きくして、それからゼラド大公国を頼るのだ」


 ゼラド大公国というのは、セルヴァ王家から離反した、王国内の対抗勢力であった。もともとはゼラド大公も王家の人間であり、辺境の町に放逐されたが、そこで力を蓄えて、独立国家として叛旗をひるがえしたのである。


 メナ=ファムは風聞で聞くばかりであったが、少なくとも、もう数十年はゼラド大公国も独立国家としての体裁を残している。ものすごい軍事力を有するという王国セルヴァも、そう簡単にはゼラド大公国を滅ぼすことはかなわなかったのだ。


「今のままでは、ゼラド大公国にも鼻で笑われるだけだろう。だからまずは、こちらもひとつの勢力としての力をつけつつ、同時に民衆を味方につける」


 そのような算段で、この一団はセルヴァの版図の中央区域を巡っていた。

 野盗に悩まされる小さな町や村落を救い、新たな兵を募りながら、現王家の許されざる大罪とやらを吹聴して回っているのだ。


 エルヴィルの話によると、現在の王は前王を弑逆したあげく、その罪を第四王子カノンという人物になすりつけて、玉座を得たのだという話であった。

 メナ=ファムも大鰐の肉や革細工を売るために近在の町を訪れた際、王位が王弟に継承されたという話は聞いていた。そして確かに、前王は王子や将軍の謀反によって魂を返すことになり、ついでに大事な王宮まで燃やされてしまったのだと、そんな風に伝え聞いていた。


 その場で大罪人たる王子たちも一緒に燃えてしまったのだという話であったが、それが実は生き残っていたのだという話をこしらえて、エルヴィルはこのような真似に及んでいたのである。


 それは、とうてい西方神の忠実たる子に許される真似ではなかった。

 しかしまた、メナ=ファムは西方神よりも母なるシャーリを重んずるグレン族の末裔であった。

 だから、セルヴァの王家やそれに関わる人間たちがどのような真似に及んでも、それほどの関心はかきたてられなかったのだが――どうにもこの気の毒な偽王子だけは、放っておくことができなかったのだ。


(この娘は、今の王様に怒りや恨みを持ってる様子もないからなあ。このエルヴィルって男に弱みでも握られているのかしらん)


 そんなことを考えながら、メナ=ファムはまた木皿の汁をすすった。

 偽王子は、静かに目を伏せつつ、小鳥のように焼きポイタンをついばんでいる。


 そのとき、荷車の外から騒乱の気配が伝わってきた。

 瞬時にエルヴィルは眼光を燃やし、足もとの刀に手をのばす。

 偽王子は、青ざめながら焼きポイタンを取り落とした。


「何だ? まさか、王都からの軍勢か?」


 低い声でつぶやきながら、エルヴィルは扉のほうに近づいていく。


「どうした! 誰か報告をしろ!」


「わかりません! どうやら侵入者のようです!」


「侵入者だと……?」


 エルヴィルは扉から身を離し、迷うようにこちらをにらみつけてきた。

 メナ=ファムは口もとをぬぐいながら、にやりと笑ってみせる。


「心配だったら、行ってきたらどうだい? 王子様は、あたしが面倒を見ておいてあげるよ」


 それでもエルヴィルはしばらく立ちつくしていたが、外の騒ぎがいっこうに収まらないので、やがて無言のまま荷車を飛び出していった。

 それと同時に、娘がメナ=ファムに取りすがってくる。


「メナ=ファム、わたしたちも行きましょう!」


「ふうん? 大人しくしておいたほうが、身のためなんじゃないのかね」


「いえ。皆を危険な目にあわせて、わたしだけ安全な場所に隠れているわけにはいきません。それに、もしもエルヴィルが死んでしまったら、わたしは……」


 言いながら、娘は青灰色の瞳にじんわりと涙を浮かべていた。

 メナ=ファムは、赤い髪をばりばりと掻きむしる。


「だったら、表に出られるような身なりをしなよ。あんまりはっきりと素顔をさらすのは御法度なんだろ?」


「はい!」


 娘は荷台の奥に向かい、必要な荷物を物色し始めた。

 そのほっそりとした背中を見守りながら、メナ=ファムは溜息をつく。


(弱みを握られてるんじゃなく、惚れた弱みってやつなのかな。そうだとしたら、あたしなんざの出る幕はないけど……でも、隠れて乳繰りあってる様子もないしなあ)


 メナ=ファムは、いざとなったらこの娘を連れて逃げてやろうという心づもりで、この一団に身を投じたのだ。そうすることで、この娘が幸福になるのなら、メナ=ファムにとってはそれが一番の結末であった。王家にまつわる陰謀だの復讐だのというものに、メナ=ファムは価値や意味を見出すことはできなかった。


 しかしこの娘は、運命に翻弄されながら、そこから逃げる気持ちは一切有していないようだった。

 どうやらこの娘は、エルヴィルの信念だか何だかに身を捧げる覚悟を固めてしまっている様子なのである。


(ま、野盗を相手に刀をふるう分には、こっちにだって文句はないし。もうちっとばかりはつきあってやるか)


 メナ=ファムは立ち上がり、荒事に備えて首のあたりをもみほぐした。

 そこに、支度を済ませた娘が戻ってくる。


「お待たせしました。行きましょう」


 娘は白銀の兜と、白革の外套を纏っていた。

 鎧を着込まなくとも、これならば秀麗すぎる面と華奢すぎる体格を少しは隠すことができる。


 そして、その表情が一変していた。

 兜のつばや頰当てに半ば隠されたその顔が、別人のように凛々しくなっているのが見て取れる。


 男のように、果断な顔つきである。

 それでいて、もとの秀麗さはまったく損なわれていない。

 外套を纏ったその姿も、ひと回り大きくなったかのように感じられる。


 傭兵団の荒くれ者たちや、野盗から救った村落の人間たちが、彼女を王子と信じたのは、この風格ゆえであった。

 むろん、傭兵や農民では、王族や貴族とまみえる機会もそうそうない。それはメナ=ファムとて同様だ。しかし、そんな人間でも、これはひょっとして本物の王子なのではなかろうか――と思わせるような凛々しさが、この不可思議な娘には備わっていたのである。


(だからこそ、エルヴィルのやつもこんな馬鹿げた大芝居を打つ気持ちになっちまったんだろうけどさ)


 そんな風に考えながら、メナ=ファムは荷車の扉を押し開いた。

 荷車の周囲では、松明を掲げた傭兵たちが、殺気だった面持ちで居並んでいる。


「皆、無事であるようだな。侵入者とは、何者であったのだ?」


 偽の王子が、それらの人々に声を投げかけた。

 それもまた、さきほどまでとは別人のような声音であった。

 傭兵たちのひとりが、うやうやしく頭を下げてくる。


「大がかりな奇襲ではないようですが、見張りの連中が何名かやられちまったみたいです。今、団長殿が様子を見にいってますよ」


 団長殿とは、むろんエルヴィルのことである。この一団は、彼がかき集めた傭兵団であるのだ。


「わたしも出向こう。侵入者は、何処だ?」


「東の方角です。おい、王子殿下をお守りしろ!」


 護衛役と定められた団員が五名、偽王子の周りに集結する。

 そんな彼らとメナ=ファムに囲まれながら、偽王子は毅然と歩を進め始めた。


 この峡谷は、西から東へと続いている。中央区域では数少ない、百名からの人間が身を潜めることのできる要所だ。彼らはこの谷底を拠点にしながら、野盗の討伐に励んでいるのだった。


 すでにとっぷりと日は暮れており、あたりは闇に包まれている。

 足もとには、見張る人間もいないままに焚き火が燃え、鉄鍋なども放り出されている。このあたりに陣取っていた団員たちは、みな騒乱の場へと駆けつけてしまったのだろう。北と南は切り立った断崖なので、東と西にさえ見張りを立てておけば、用事は足りるのだ。


 その陣の東端に、たくさんの松明が燃えていた。

 百名中の三十名ぐらいが集まっているようだ。そこにだけ、日中のような明るさが生まれている。しかしここからでは、群れ集った傭兵たちの背中しかうかがうことはできなかった。


「侵入者は捕らえたのか? 被害は、何名だ?」


 偽王子が声をあげると、傭兵たちがさっと道を開けた。

 それで現れたのは、エルヴィルの背中だ。

 エルヴィルは峡谷の真ん中に立ちはだかり、その手には長剣を掲げていた。

 その向こう側には、傭兵団の所有物ではない巨大な荷車の影が見える。


「王子殿下、お下がりください。敵は一名ですが、こやつは危険です」


 メナ=ファムたちに背中を向けたまま、エルヴィルがそのように声をあげた。

 近づくと、彼と荷車の間に長身の人影が見えた。


「危険、ありません。私、争うつもり、ないのです」


 と、不思議な抑揚を持つ声が闇の中に響きわたる。

 とたんにエルヴィルは、「ふざけるな!」と怒声をあげた。


「五人もの仲間を倒しておいて、その言い草か! 決して貴様を無事には帰さんぞ!」


「私、身を守っただけです。彼ら、生命は無事です。痺れ薬、やがて効果、失うでしょう」


 それでメナ=ファムは、冷たい岩場に五名もの傭兵たちが転がっていることに、ようやく気づくことができた。

 それと一緒に五人分の刀や松明も転がっており、ぶすぶすと黒い煙をあげている。敵は一人であるようなのに、五人もの傭兵がなすすべもなく打ち倒されてしまったのだ。


(なるほど、シム人か。東の民は毒を使うって噂だから、こいつは厄介だ)


 一人のシム人を倒すには、十人の剣士が必要だとされている。そうだからこそ、東の民は護衛役を雇う必要もなく、飄々と大陸中を放浪できるのである。彼はそのあやしい手管によって、五名の傭兵たちを眠らせたようだった。


(ってことは、王都からの追っ手とかじゃなく、ただの気まぐれな旅人なんじゃないか? たった一人で荷車を引きながら傭兵団の陣に近づいてくるなんて、いかにもシム人らしいとぼけたやり口じゃないか)


 そうだとしたら、偽王子も黙っているわけがない。

 メナ=ファムの予想通り、偽王子は「エルヴィル」と静かに声をあげた。


「その者は、ただの東の商人なのではないか? 敵方の間諜であれば、荷車を引いて近づいてくるわけもあるまい」


「しかし、五名もの仲間がこうして打ち倒されました」


 部下の前では、エルヴィルもこの娘を王子として扱う。しかしその声には、隠しようもない反感の響きがあった。


「その五名の生命が失われていたのならば、わたしにも見過ごすことはできん。しかし、罪もない商人に刀を向けたのならば、眠らされるぐらいはしかたのないことなのではないのかな」


 王子としての風格は守りつつ、娘はこの場の騒乱を収めようとしていた。

 こういう部分も、メナ=ファムがこの娘を捨て置けない理由の一つである。エルヴィルの復讐劇にその身を捧げながら、やっぱりこの娘には真っ当な優しさや人間らしさというものが強く残されているのだ。


 しかし、そんな心づかいは、思いも寄らぬ形で打ち砕かれることになった。

 エルヴィルの眼前に立ちつくした長身の人影が、頭巾に包まれた首を傾げながら、発言したのである。


「あなた、シルファですね。おひさしぶりです。あなた、このような場所、何をしていますか?」


 エルヴィルが肩を震わせるのがわかった。

 横目で見ると、偽王子は兜の下で顔を真っ青にしている。

 そして周囲の傭兵たちは、「シルファ?」とけげんそうにざわめいていた。


 メナ=ファムは一瞬の半分ほど迷ってから、「よお、ひさしぶりだね!」と大声をあげることにした。


「あんたこそ、いったい何をしてるのさ? まさかあんたとこんなところで出くわすなんて、あたしは夢にも思わなかったよ!」


 騒々しくわめきながら、メナ=ファムはエルヴィルのかたわらをすりぬけて、その人影のほうに近づいていった。

 背が高い。メナ=ファムよりも少し長身なぐらいだろう。ただし横幅はシム人らしく、ひょろひょろに痩せている。長身痩躯に黒い肌というのが、東の民の一番の特性であるのだ。


「あたしは今は、メナ=ファムって名乗ってるんだよ! いやあ、懐かしい! あんたは全然変わってないねえ!」


 両腕を広げて敵意がないことを示しつつ、メナ=ファムはそのシム人の目の前に立った。

 真っ黒な顔の中で黒い瞳を光らせたシム人が、またいぶかしげに首を傾げる。

 その薄い唇が余計な言葉を発しない内に、メナ=ファムはおもいきってその細っこい身体を革の外套ごと抱きすくめてみせた。

 そうして、シム人の耳もとにこっそり囁きかける。


「生命が惜しかったら、あたしに話を合わせな。そうしないと、百名からの傭兵団を敵に回すことになるよ?」


「…………」


「あの娘は、生命をかけて自分の正体を隠そうとしてるのさ。それを台無しにしようってんなら、あんただって生命をかける羽目になるってこったよ」


 シム人は、かすかにうなずいたようだった。

 メナ=ファムはその背中をばんばんと叩いてから、身を離す。


「申し訳ないね! こちらの御仁はあたしの古い顔馴染みなんだよ! 悪い人間じゃないってことは保証するから、何とかお目こぼしをいただけないもんかねえ?」


 顔面蒼白となったエルヴィルは、燃えるような眼差しでシム人のことをにらみつけていた。

 そのかたわらに、偽王子――おそらく真の名はシルファというのであろう美しき娘が進み出る。


「こちらこそ、罪もない人間に刀を向けてしまった非礼を詫びさせていただこう。……東の民よ、其方は何者であられるのかな?」


「私、ラムルエル=ギ=アドゥムフタン、シムの商人です。あなたがた、敵意ない、シムとセルヴァに誓います」


 そうして偽王子の一団は、新たな珍客を迎えることになった。

 それは王都から五百を数える討伐隊が出立してから、ちょうど半月後の夜の出来事であった。

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