Ⅲ-Ⅰ 白牛宮にて
2016.1/8 更新分 1/1
レイフォンは、退屈していた。
白牛宮の執務室において、さきほどからティムトとディラーム老は熱のこもった議論を交わしていたが、だんだん話についていけなくなってきてしまったのである。
内容は、どうやらディラーム老の統括する新たな部隊の再編成についてであるようだった。
行方知れずとなったダリアスの副官、ルイドに関しては、まだ自由に動かせない状態であるらしい。
なおかつ、ディラーム老が一番期待をかけていた千獅子長のエルヴィルという人物も、いつの間にやらアルグラッド軍を除籍されていたようであった。
「記録を確認したところ、三ヶ月ほど前に千獅子長の任を解かれていたようですね。どうやら貴族を相手に騒ぎを起こして、王都を追放されてしまったようです」
「何ということだ。あの者は傭兵団の長であり、ヴァルダヌスの旗下でももっとも戦果を上げていたのだ。剣の腕はもちろん、視野は広く、考え方は柔軟で、とても優秀な男であったのに……まったく、惜しいことをしたものだ」
ディラーム老に与えられる一団は、かつてヴァルダヌスが率いていた第三遠征兵団を中心に再編成されるのだ。
十二獅子将の中で、前線へと向かう遠征兵団の編成を任される武将は三名である。その中でもヴァルダヌスの率いる第三遠征兵団は、常勝軍団としてセルヴァに勇名を轟かせていたのだった。
「しかし、その内の数千名は、グワラム戦役で失われた第一・第二遠征兵団の補充に当てられてしまうのだからな。わたしも早急に兵を募って、新たな地盤を固めねばなるまい」
「まさか、失われた兵のすべてをこちらから引き抜かれてしまうとは思いませんでした。これも通常ではありえないことですね」
ティムトとディラーム老は、真剣そのものである。
レイフォンとしてはお茶でもいれてその労苦をねぎらいたいところであったが、ディラーム老を前にして自分がそのような真似に及ぶのは、あまりに体面が悪かった。
ディラーム老は、いまだにティムトがレイフォンの代理として働いていると誤認しているのだ。
なので、ディラーム老がこうして訪れている間は、レイフォンも他の執務に没頭しているように振る舞わなくてはならない。さきほどからレイフォンは卓の上に重ねられている書面に目を通すふりをしながら、ずっとあくびを噛み殺しているばかりであった。
「ええと、その……ちょっと咽喉が渇いたので、小姓にお茶でもいれてもらいましょうか?」
「わたしはどちらでもかまわぬよ。多忙な折に毎日押しかけてしまって申し訳ないな、レイフォンよ」
そのように述べて、ディラーム老も眉間に拳を押し当てた。
ディラーム老はディラーム老で、まだ完全に復調はしていないのである。大きな手傷を負ったわけではないのだが、火災で多量の煙を吸い込んでしまい、肺を病んでしまったのだという話であった。
「それで、アローンの嫡子たるイリテウスは、段取り通りこちらの部隊に移せるのであろうかな?」
と、突然そのように問われてしまい、レイフォンは「ええと」と言いよどむ。
すると、ティムトがすかさず「もう少々お待ちください」と答えてくれた。
「イリテウス殿はグワラム戦役で死没されたディザット将軍の旗下であり、そちらの部隊は新たな十二獅子将に引き継がれる予定ですので、その着任が落ち着くまでは話を進められないのです」
「ふん。いずれの部隊であっても、それを率いるのはロネックの配下であった者たちなのだからな。そんな場所にイリテウスを置いておくわけにはいかん」
闘志の炎をその双眸にみなぎらせてから、ディラーム老は気を取りなおしたように、ふっと微笑む。
「それにしても、お主は本当に優秀な従者だな。レイフォンがその才覚をあますことなく振るえるのも、お主のように優秀な従者があってこそなのだろう」
「とんでもないことです」とティムトは目を伏せる。
レイフォンとしては、溜息を禁じえないところであった。
(ここまで踏み込んだ関係を築いたのだから、いいかげんディラーム老には本性を見せてしまえばいいのにな。これではまるで、老を騙し討ちにしているような心地だ)
レイフォンの功績とされているものは、すべてティムトの功績だ。人の関心を集めたくないというだけの理由で、それをここまで押し隠すというのは、あまり普通の話ではないだろう。ひょっとして、ティムトはこのディラーム老さえも心から信用していないのではないかと、少し心配になってしまう。
(色んなものが見えすぎてしまうというのは、いいことばかりではないのだろうな。それにしたって、いささか肩肘を張りすぎているように思えるけれど)
とにかくまた議論が再燃してしまわぬ内にと、レイフォンは小姓を呼びつけてお茶をいれてもらうことにした。
自分も執務の席を離れ、ティムトが座していた長椅子の隣に腰をうずめる。
「そういえば、あのクリスフィア姫というのは、ずいぶんディラーム老に執心しておられるようですね」
世間話のつもりでレイフォンが述べたてると、ディラーム老は「うむ」と口もとをほころばせた。
「数年前に、ただ一度きり顔をあわせただけの間柄であるのだがな。妙になつかれてしまったようだ。今日も一緒に昼食をと願われたのだが、こちらの話が終わっていなかったので断らせていただいた」
「それはそれは。……しかし、女だてらに騎士というのは珍しい話です。城主の嫡子とはいえ、普通は侯爵家の姫君が騎士に叙任されることなどありえませんよね」
「そうだろうな。しかし、尚武の気風であるアブーフにおいて大隊長に任じられているという話であるのだから、決してお飾りの騎士ではないのだろう。先にも言った通り、大隊長というのは王都で言う千獅子長であるから、千名の兵を率いる立場であるはずなのだ」
「うら若き姫君が千獅子長とはね。まったく想像を絶するお話です」
そこで小姓が「失礼いたします」とアロウの茶を運んできた。
甘酸っぱい咆哮が鼻腔をくすぐる。レイフォンが王都を訪れて一番嬉しかったのは、上質な茶を好きなだけ取り寄せられることであった。
「どうにも私は猛々しい女性というものとは折り合いが悪いのですが、あの姫君と話をされているときのディラーム老は、ずいぶん和やかなお顔をされているように見受けられました。あまり根を詰めてもお身体に悪いでしょうから、時には姫君と会食でもなされて、お疲れを癒してはいかがでしょう?」
「いや、あのクリスフィアという娘はずいぶん果断な気性をしているようだからな。もしもこのように悪辣な陰謀が王都にはびこっているなどと知れたら、後先も考えずに無茶な真似をしてしまうかもしれん。わたしはあまり、あの娘に近づくべきではないのだろうと思いなおしたところだ」
それはあまりに禁欲的に過ぎる発言であった。
その対極にあるレイフォンとしては、ますますディラーム老の行く末が心配になってしまう。
しかもティムトまで「僕もそう思います」などと言い出してきたので、レイフォンはいっそう立つ瀬がなかった。
(一緒に食事をするぐらいで、そこまで思い詰める必要はないと思うけどなあ。アブーフ侯爵家の跡継ぎだって話なんだから、いくら何でもそうそう無茶な真似はしないだろうに)
するとティムトが、横目でレイフォンをにらみつけてきた。
「あの姫君は、王位がこのような形で継承されたことに、何やら含むものがありそうなご様子でした。例のカノン王子を名乗る一党というものに対しても、あれこれ聞いて回っているようですよ」
「カノン王子を名乗る一党って、ロネック殿の配下の一隊が討伐に向かった、例のあれかい?」
「はい。クリスフィア姫も道中で、その一党についての風聞を耳にしていたようです。討伐隊がいつ王都を発ったのか、それはどれぐらいの規模の部隊であったのかと、熱心に尋ねていたそうです」
「討伐隊も、そろそろ問題の区域に到着した頃か。その者たちは、いったい何者なのであろうな……」
と、ディラーム老が重く息をつく。
万が一にもそれが本物のカノン王子であれば、老が息子のように可愛がっていたヴァルダヌスもかたわらにあるかもしれないのだ。それがロネックの配下である部隊に討伐されてしまうなんて、ディラーム老には堪え難いことであろう。
「ともあれ、アルグラッドに次ぐ武力を持つアブーフにおかしな動きをされると、いっそう事態は混迷を極めてしまいます。そのように仰られていたのは、他ならぬレイフォン様ではないですか?」
そのように述べながら、ティムトがじっとレイフォンを見つめてくる。
レイフォンは溜息をこらえながら、アロウの茶に手をのばした。
「しかし、アブーフというのはジェノスに劣らず遠方の地でもあるからね。たとえアブーフが叛旗をひるがえしても、遠路はるばる王都にまで攻め込むことは不可能だろう?」
「それはこちらも同じことです。アブーフが独立を宣言しても、王都の軍がそれを制圧することは、グワラムをマヒュドラの手から奪還するよりも難しいことでしょう。そうしてゼラド大公国がジャガルを味方につけたように、アブーフがシムを味方につけてしまったら、王都にも劣らぬ力を持つことになりかねません。……とも、レイフォン様は仰られていましたよね」
言っていないよ、とでも答えてやりたかった。
しかし、そのような真似をしてしまったら、きっと後で死ぬほど責められてしまうだろう。いや、責められるだけならばかまわないが、それでこの偏屈な少年がレイフォンにまで心を閉ざしてしまったら、と考えると、やはり迂闊な真似はできない。
レイフォンは、アロウの茶とともに溜息を飲みくだした。
「ああ、茶葉と果実を蒸らす時間が足りていないね。せっかくの香気が台無しだ。これでは、私がいれたほうがよほどましだよ。……これからは、小姓を呼びつけずに自分で茶をいれることにしようかな」
レイフォンがそのように言いたてると、興味深そうに二人のやりとりを見守っていたディラーム老が「ほう」と目を丸くした。
「お主には茶をいれる才覚まで備わっていたのか。今のアブーフに対する見識といい、まったくお主の才覚は底が知れぬな」
「いえ、私はできれば一日中お茶を楽しんでいたいぐらいでありますよ」
「それはセルヴァにとって大いなる損失となろう。才覚を持って生まれた人間は、国と民のために尽力せねばならぬのだ、レイフォンよ」
いくぶん冗談めかした口調で言ってから、ディラーム老は表情を引きしめた。
「それに、わたしもお主と同じ心情だ。王都とアブーフは軍勢を差し向けるのにひと月もかかる距離にあるのだから、敵対の関係に陥ってもなかなか勝敗をつけることは難しい。それでアブーフに独立などを許してしまったら、ゼラド大公国よりも厄介な存在に成り果ててしまうことだろう」
「ううん、そうなのでしょうかね」
「わたしを試しているのか? お主であれば、同じ結論に至るはずだ。そうであるからこそ、シムの名を口に出したのであろう?」
レイフォンはさっぱり意味がわからなかったので、なるべく優雅に見えるように微笑んでみせた。
「案外に人が悪いのだな、お主は」とディラーム老も武人の顔で笑っている。
「シムはセルヴァにとって友好国であるが、同時にマヒュドラとも友誼を結んでいる。そのシムを仲介役として、アブーフがマヒュドラと不可侵の盟約でも結んでしまったら、セルヴァは未曾有の窮地に立たされることになろう。言うまでもなく、アブーフというのはマヒュドラに対する防衛線の要であるのだからな。グワラムがいまだマヒュドラの手中にある現在、それに対抗できるのはアブーフとタンティのみだ。これでアブーフが戦線から退いてしまえば、残るタンティも援護のないままマヒュドラに攻め落とされてしまうことだろう」
そうして国境の軍事拠点をすべて失ってしまったら、セルヴァの領土は次々とマヒュドラの軍に攻め込まれてしまうかもしれない、ということだ。
ようやくレイフォンも、ティムトとディラーム老の考えに追いつくことができた。
「もっともアブーフにしてみても、王都の援護なくマヒュドラと戦うことは難しいからな。おたがいにとって重要な存在であるからこそ、おたがいに造反を恐れなくてはならないのだ。もしも新王がアブーフを軽んじるようなことがあれば、セルヴァは滅亡の憂き目を見ることにもなりかねん」
「新王陛下は、クリスフィア姫をどのように扱っておられるのでしょうかね。私もちょっと心配になってきてしまいました」
「ふん。新王も保身に関しては余念がないようなので、そうそう事を荒立てることはないと思うが……確かに、心配ではあるな」
勇猛果敢な姫騎士と、王位の美酒に酔いしれる怠惰な新王――想像すると、それは実に破滅的な取り合わせであるように思えてならなかった。
(ティムトの心労はつのる一方だな。ディラーム老が退席されたら、もっと美味しいお茶をいれてやろう)
そのように考えながらティムトのほうを見ると、明敏なる少年はよく光る瞳でレイフォンのことをにらみつけていた。
きっとレイフォンの心情など、ティムトにはすべてお見通しなのだろう。これだけ働かされて報酬はお茶一杯かと責められているような気持ちになり、レイフォンはこっそり頭をかくことになった。