Ⅱ-Ⅰ 檻
2016.1/7 更新分 1/1
クリスフィアは、鬱屈していた。
王都アルグラッドに到着してから三日もの時間が過ぎたというのに、思ったような成果をまったくあげられていなかったのである。
(どうにも、うまくいかん。これでは無駄に日を費やすばかりだ)
石造りの回廊を一人で歩きながら、クリスフィアは内心でひとりごちた。
この王都でもらいうけた、騎士の平服姿である。自分で持ち込んだ着衣ではあまりに暑苦しかったので、赤蛇宮の女官に頼んで準備してもらったものだ。長剣を帯びることは許されなかったので、大鰐の鱗の革鞘に収められた短剣だけを腰の帯に下げている。
回廊ですれ違う小姓や侍女は、みんな瀟洒でなよやかな風体をしていた。
気候が穏やかであるためか、肩や首もとをさらしている者が多い。日中であれば薄物ひとつでも不自由ないぐらい、このあたりは気温が高いのだった。
この眠たくなるような気候が、人間を弛緩させてしまうのだろうか。
まだ王都を襲った災厄の日からひと月と少ししか経ってはいないというのに、この宮殿内には安穏とした空気が蔓延していた。
戦乱の地で生まれ育ったクリスフィアには、背中がむずがゆくなるような穏やかさである。
(まあ、新王があの体たらくでは、このゆるみきった空気もやむなしか。城の気風というのは、その支配者の器量によって定められるのだろうからな)
新王ベイギルス二世とは、王都に到着した翌日に謁見を済ませていた。
新王は、これといって特筆するところのない、ごく凡庸な人間に見えた。
セルヴァ全土の支配者に相応しい威厳などはどこにも見当たらないが、まあ、即位してすぐにそのようなものが身についたら世話はない。ましてやベイギルスの王位継承権は三名の王子たちの下であったのだから、なおさら王者としての心がまえなど備えているはずがなかった。
外見は、みっともなく肥え太った壮年の男である。
妙に脂っこい目つきをしており、いかにも腹黒そうな印象であった。
しかしそれも、べつだん度を超えているわけではない。王都の貴族など、
クリスフィアには誰も彼もが腹黒い陰謀家に見えてしかたがないのだ。そうでないのは、ディラーム老を筆頭とするごく一部の武官ぐらいのものであった。
(あんなつまらない人間が君主かと思うと、心から情けなくなってくる。……しかしまた、あの柔弱な新王に血族を皆殺しにできるほどの気概があるようにも思えぬ)
クリスフィアは、そのように考えていた。
(玉座にはたいそうな執着があるようだが、あの立場であればそれも自然なことのように思えるし……何にせよ、新王がこたびの騒ぎの黒幕であるという証はどこにもない)
そしてまた、新王はクリスフィアに対しても寛容であり鷹揚であった。
クリスフィアは相手の性根を見定めてやろうと思い、わざと無作法な態度を取ったりもしてみせたのだが、新王はにやにやと笑うばかりで声を荒らげることもなかった。
反面、その場に居合わせた臣下たちにはやたらと横柄であるように思えたので、気難しいアブーフの人間は適当にいなしておこう、という魂胆であったのかもしれない。
(長年、ゼラド大公国に悩まされている王都の人間にしてみれば、セルヴァの領内にこれ以上の敵を作りたくはないだろうからな。王都に次ぐ武力を持つアブーフと、王都に次ぐ豊かさを持つジェノスに対しては、特に警戒しているはずだ。だからこそ、わたしが挑発してやれば、腹を立てて本性を垣間見せるかとも思ったのだが……なかなか巧くはいかぬものだ)
土台、クリスフィアにそのような駆け引きは向いていないのである。
妙に温かい気候と相まって、クリスフィアはねっとりとした触手にでも手足をからめ取られているような心地であった。
「あ、姫様、こちらにいらしたのですね」
と、金狼宮から屋外の回廊に出たところで、フラウと出くわした。
フラウもアブーフでは考えられない薄手のお仕着せ姿で、つつとクリスフィアに近づいてくる。
「どこにもお姿が見えないので捜してしまいました。またディラーム様をお訪ねになられていたのですか?」
「ああ。昼の食事でもご一緒にと思ったのだが、すげなく断られてしまった。今日はあの虫の好かない公爵家の若君と先約があるそうだ」
「ヴェヘイム公爵家のレイフォン様ですか。ディラーム様は特にあの御方と懇意にされているようですね」
「ああ、まったく気にくわん」
クリスフィアが唇をとがらせてみせると、フラウは楽しそうにくすくすと笑った。
「姫様は本当にディラーム様をお慕いされているのですね。何だか大事な父親を横取りされた幼子のようなお顔です」
「ああ、ディラーム老の子として生まれることができれば、わたしもこのようにひねくれた人間には育たなかったのかもしれんな」
「姫様は誰よりも真っ直ぐなご気性をされていますよ。……それでは食事の準備をさせましょうか?」
「いや、腹ごしらえをするにはまだ早いだろう。その前に、行っておきたい場所があるのだ」
言いながら、クリスフィアは回廊を進んだ。
フラウも遅れぬようついてきながら、不思議そうに首を傾げている。
「いったいどちらに向かわれるのですか? お邪魔でなければ、わたくしもご一緒しますけれど」
「エイラの神殿だ。この入り組んだ王城内の北端にあるらしい」
「月と純潔の女神エイラの神殿ですか。どうして姫様がそのような場所に?」
「うむ。かの第四王子はその神殿に住まっていたという話だから、何か手がかりでもないか探ってみようと思ったのだ」
フラウは「まあ」と目を丸くした。
「それでは、カノン王子が幽閉されていた場所を訪れようというおつもりなのですか? わたくしには、ちょっと恐ろしく思えてしまいます」
「恐ろしいなら、部屋で待っていてかまわないぞ。それほど時間はかからないだろうからな」
「いえ、姫様おひとりをそのようにあやしげな場所に行かせることはできません」
フラウは自分を元気づけるように、胸の前まで上げた両手の拳をぐっと握った。
可愛らしい仕草だな、とクリスフィアは温かい気持ちになる。
「王子は生まれてからすぐに幽閉されてしまったので、王宮の人間でも顔すら見たことがないという者がほとんどなのだ。しかし、神殿まで出向けば、王子の世話をしていた人間から少しぐらいは有益な話を聞くこともできるだろう」
「ああ、その中でも十二獅子将のヴァルダヌス様だけは、王子と懇意にされていたそうですね」
それはフラウ自身が王宮の侍女たちから集めてくれた情報であった。
フラウは色とりどりの花が咲き乱れる庭園に視線を巡らせてから、クリスフィアのほうにそっと顔を寄せてくる。
「それで今も、侍女たちの仕事を手伝いながら話を聞いてきたのですが……ここ数ヶ月、特にヴァルダヌス様は頻繁にエイラの神殿へと通っていたようだ、ということでした」
「ほう、そうなのか?」
「はい。ですから、口さがない人間たちの間では、おふたりが、その……人目を盗んでいかがわしい関係を結んでいたのではないか、などと取り沙汰されていたようです」
「いかがわしい関係? 王子というのは、男児なのであろう? そうでなければ、姫とでも呼ばれているはずだ」
「ええ、ですが、王都では美しい少年を愛でる貴族も少なくない、というもっぱらの評判ではないですか?」
フラウは恥じらうように微笑み、クリスフィアは仏頂面で肩をすくめることになった。
「セルヴァ一の剣士と誉れの高かった十二獅子将のヴァルダヌスが、男色に耽っていたというのか? それが事実であるならば、まったく嘆かわしい限りだ」
「あら、人を愛するというのは素晴らしいことではないですか? ……もちろんその、伴侶でもない相手と淫らな行為に及ぶのは、決してほめられたものではありませんが……」
「アブーフでは考えられない話ばかりだな。こういう暖かさが人間の頭を腐らせてしまうのだろうか」
そのように言い捨ててから、クリスフィアは溜息をついた。
「それにしても、わたしなどよりもフラウのほうがよほど役に立つ話を集められているようだな。しょせんわたしは戦場で剣をふるうしか能がない、ということか」
「そのようなことはありません。ただ、お城の侍女ほど噂話を好む人間はいない、ということなのでしょう」
「しかし、三日も経ったのにこの有り様だからな。誰と話してものらりくらりと矛先をそらされて、わたしは壁に突き当たってばかりだ」
むろん、それでもいくつかの事実を知ることはできていた。
その筆頭は、「第四王子の率いる一党」なるものの存在が、すでに王都では認知されていた、ということである。
前王の死没後、王都からはその訃報を伝えるための使者がセルヴァ中の領地に遣わされた。それらの使者が王都に戻る際、クリスフィアたちと同じ風聞を耳にしたらしい。
それで王都からは、すでに半月も前に討伐隊が派遣された、という話であった。
半月前といえば、ちょうどクリスフィアたちがグレン族の集落に立ち寄っていた頃合いである。討伐隊は石造りの街道だけを選んで現地に向かったのだろうから、二人旅の気安さで辺境区域や村落などを通過できたクリスフィアたちとは遭遇する機会もなかったのだ。
(その討伐隊は半個大隊、およそ五百名の軍勢であるという話だったからな。わずか百名ていどの烏合の衆では、ひとたまりもあるまい)
もしもロア=ファムの姉が本当に第四王子を名乗る人間とともにあるならば、その命運もこれまでということだ。
クリスフィアはあの気難しげなグレン族の少年を好ましく思っていたので、自然、重い気持ちになってしまった。
(しかもそれは、あのロネックという粗暴な男の部下が率いているのだという話だし……まったく、いけ好かないことだ)
謁見の間に控えていた、その男のことを思い出す。
あれは、アブーフの武将にも劣らない、勇猛で頑強な男に見えた。
しかし、肉食獣のように両目をぎらつかせており、立ち居振る舞いは粗暴に過ぎた。クリスフィアの敬愛するディラーム老も、あの男には反感を抱いているように見受けられたものだった。
(おまけにもう片方の新しい元帥というやつは、病人のように青白い顔をした文官のような柔弱者だったからな。どうしてあのような者たちに、ディラーム老が元帥の座を譲らなくてはならないのだ)
そしてクリスフィアは、アルグラッドの十二獅子将を見舞った数々の災厄についても、この三日間で聞き及んでいた。グワラム戦役で死没した二名の他にも、三名もの武将たちがここひと月ほどで魂を返してしまっていたのである。
(いや、一人は魂を返したのではなく、行方知れずという話だったか。何にせよ、ヴァルダヌスも含めれば十二名中の六名もが失われてしまったのだ。それで残された中の二名があの有り様では、まったく危機的な状況ではないか)
そんな危機的な状況であるにも拘わらず、新王は戴冠の祝宴などを計画しているのである。
セルヴァの全領土から、有力な貴族を呼びつける算段であるらしい。かくいうクリスフィアも、その内の一人なのだ。一番遠方のジェノスからの貴賓が到着するのは来月の半ばであるという話であったから、残される期日はあとひと月ていどになるはずであった。
(残りひと月……その間に、わたしは何か有益な話をつかめるだろうか?)
クリスフィアにとって一番重要なのは、王都が今後もマヒュドラとの戦いに力を惜しまないか、ということである。
早い話が、その一点さえ守られるのであれば、玉座に座るのが誰でもかまわない。王が愚鈍でも、武将と兵と糧食さえそろっていれば、マヒュドラの軍勢と戦うことはできる。
しかし、もしも新王が北の戦線を軽んじるような考えでいるならば――そして、その玉座が不当な手段によって簒奪されたものであるならば――クリスフィアとしては、剣を取るのも厭わない覚悟であった。
(しかし、玉座に座る人間がすべて失われてしまったら、セルヴァそのものが滅ぶことになってしまうからな。王位継承権の序列なども、今の内に探っておくべきか)
まさかクリスフィアがそこまで不穏な考えを隠し持っているなどとは、誰にも予想できなかっただろう。何にせよ、現在の王はベイギルス二世であるのだから、それを打倒しようなどと考えるのは重大な叛逆行為に他ならないのである。
「姫様、どうかされましたか?」
フラウが心配そうに呼びかけてくる。
そちらに向かって、「何でもないよ」とクリスフィアは答えてみせた。
王に叛旗をひるがえす覚悟はあるが、この幼馴染を失う覚悟はない。言ってみれば、このフラウは荒ぶるクリスフィアの暴走に歯止めをかけてくれる、唯一のよすがであった。
そうして屋根の張られた屋外の回廊を進んでいくと、ようやくエイラの神殿が見えてきた。
青い屋根と白い壁を持つ、石造りの美しい神殿である。
そこまで極端に巨大なわけではないが、小神の神殿としては立派なものだ。七小神のすべてにこのような神殿が準備されているとしたら、なおさらである。そして、大神セルヴァにはどれほど立派な神殿が準備されているのか。小高い丘の上に築かれたアルグラッドの王宮の全容は、三日が過ぎてもクリスフィアには把握しきれていなかった。
「ずいぶんうら寂しい場所にあるのですね。近くには他の建物もないようですし」
「そうだからこそ、廃王子を幽閉する場所に選ばれたのかもな」
エイラの神殿は高い鉄柵に囲まれていたが、その門は大きく開かれており、守衛の類いも見当たらなかった。
クリスフィアは石の道を踏み越えて、その神殿の入り口に立った。
扉は木造りで、一面にびっしりと精緻な彫刻がほどこされている。相当に古びているが、やはり見事な細工である。クリスフィアは短剣を下げた革帯の位置を正してから、その扉を手の甲で叩いた。
しばらくの静寂ののち、ギイッと扉が開かれる。
中から姿を現したのは、信じ難いほど齢を重ねた修道服姿の老女であった。
「失礼する。わたしはアブーフ侯爵家のクリスフィアという者だ。エイラに祈りを捧げさせていただきたいのだが、かまわないだろうか?」
「エイラに祈りを……?」と、老女は力なく唇を震わせる。
たるんだまぶたが目を覆い、これで前が見えるのだろうかという有り様である。濃い灰色をした修道服に包まれたその身体も、枯れ枝のように痩せ細っているようであった。
「ああ。故郷の血族が近い内に婚儀をあげるのでな。その婚儀がうまくいくように、ここから祈りを捧げさせていただきたいのだ」
「左様でございますか……どうぞ、お入りくださいませ……」
老女の姿が、扉の向こうへと消え失せる。
クリスフィアは、フラウとともにその後を追った。
神殿の内部は、薄暗かった。
明かり取りの窓にも、半分がた帳が掛けられてしまっているのだ。
どうやらここは礼拝堂であるようだが、特に座席が作られているわけでもなく、石造りの床と壁が無機質なたたずまいを見せているばかりであった。
ところどころに織物の壁掛けがうかがえるが、薄暗いためにどのような模様であるのかも見て取れない。
大きさは、百名ぐらいの人間がゆとりをもって入室できるぐらいであろうか。なかなかの規模ではあるものの、それがいっそう茫漠とした雰囲気をかもし出してしまっていた。
突き当たりにはエイラの神像があり、左右の奥まった場所にはそれぞれ扉がうかがえる。
エイラとは、愛と純潔を司る月の女神である。美しい肢体にゆったりとした長衣を纏い、たおやかな手には大きな聖杯を掲げている。これも相当に古い神像であるようだが、埃のひとつもなく入念に手入れをされていた。
まずクリスフィアはその神像の前に膝をつき、先月に婚約の発表をした叔母の娘の幸福を祈っておくことにした。
ちなみにその娘はまだ十五歳であり、具体的な婚儀の日取りは決められていない。
「そろそろ昼時であるのに、ここにはあまり人の気配が感じられないな」
やがて身を起こしてからクリスフィアがそのように尋ねると、老女は「はい……」と頭を垂れた。
「もうずいぶんな昔から、こちらにはわたくし一人がお仕えさせていただいております……」
「何? このように大きな神殿を、あなたは一人で管理されているのか?」
「はい……数年前に、流行り病ですべての修道女が魂を返してしまいましたもので……」
ならば、話は早かった。
クリスフィアはせいぜい相手に警戒されないよう、「なるほどな」と気安くうなずき返してみせる。
「しかしここには、つい先月までカノン王子が住まっておられたのであろう? 神殿の管理と王子の面倒をたった一人で見なくてはならないというのは、実に大変な仕事だな」
「……カノン様は王子としてのご身分を剥奪されておりましたので……その敬称は不適当かと……」
「ああ、そうだったな。それにしても、十数年をともに過ごしたカノンという人物があのような真似をしでかしてしまい、あなたも相当に心を痛めることになったのであろうな」
老女は無言で、また深々と頭を垂れた。
否とも応ともつかない仕草である。
「修道女殿、カノンなる人物はこの建物のいずこで過ごしておられたのだろうか? もしも寝所などが存在するならば、是非とも拝見させていただきたいのだが」
「……どうして、そのような……?」
「なに、ただの好奇心だよ。アブーフから王都まで出向く人間などそうそういないので、これはいい土産話になると思ってな」
クリスフィアは、ことさら粗野な口調で言ってみせた。
この際は、北の辺境の田舎貴族とでも思ってもらったほうが好都合であるし、また、それはまぎれもない事実でもある。
老女はしばらく呆けたように石造りの床を見つめていたが、やがてようやくクリスフィアの言葉が頭にまでしみわたった様子で「どうぞこちらに……」と歩き始めた。
その行く末にあるのは、右手側の奥の扉だ。
クリスフィアはフラウをうながし、その後を追いかけた。
扉を開けると、そこにはさらに濃密な闇がわだかまっていた。
小さな窓が右手側に切られているが、ろくに日差しは入ってきていない。そこは石造りの通路であり、壁際に木箱や木樽などが置かれているために、とても狭苦しかった。
さらに進むと、やはり石造りの階段が現れる。
それでいっそう通路は暗くなってしまう。
しかし、その階段は六段ぐらいですぐに尽きた。普通に考えれば、半地下の貯蔵庫のような空間であった。
その突き当たりに、また新たな扉が設えられている。
老女は修道服の懐をまさぐり、妙に巨大な鉄の鍵を取り出した。
扉の錠にそれを差し込むと、軋むような金属音が響きわたる。
「……こちらがカノン様が寝所として使われていた部屋でございます……」
そうして老女が身を引いたので、クリスフィアは「うむ」と歩を進める。
が、室内に足を踏み入れる前に、クリスフィアは背後のフラウを振り返った。
「中は暗いし、ずいぶん空気もよどんでしまっているようだな。フラウよ、扉が閉まらぬように押さえておいてもらえるか?」
「はい、かしこまりました」
老女はフラウに場所をゆずり、階段のところまで引き下がった。
フラウは取りすました表情で、しずしずと扉の前まで進み出る。
まさかこの老女が不埒なふるまいに出るとも思えないが、いちおうの用心である。このように陰気な部屋に閉じ込められてしまうのは、さすがのクリスフィアでもまっぴら御免であった。
(さて……)
クリスフィアもあまりフラウから離れないようにしながら、視線を巡らせる。
何というか、物色する甲斐もないような、ささやかな小部屋であった。
天井が低いせいか、余計に狭く感じられてしまう。床も壁も天井も石が剥き出しで、調度と呼べるのは木造りの寝台と棚ぐらいのものである。
向かって右側の高い位置に、格子つきの小さな窓が切られており、奥側には小ぶりな扉がうかがえる。
「……フラウ、いちおう用心は怠るなよ?」
小声でそのように言い置いてから、クリスフィアは室内に踏み込んだ。
ずかずかと部屋を横断し、奥の扉に手を掛ける。
開けてみると、そこはさらに小さな部屋であった。
窓から木造りの細い管が差し込まれており、その先端は足もとの水瓶にまで届いている。
その反対側の足もとには、ぽっかりと四角い穴が切られていた。
はばかりのための穴であろう。それで汚物は、水瓶の水で流すのだ。今は綺麗に洗われていて、これといって異臭はしない。
それ以外には、小さな卓がぽつんと置かれているばかりであった。
汚物を流すこの水で、同じように身も清めるのだろうか。
想像すると、むやみに陰鬱な気分になってしまう。
クリスフィアは扉を閉め、もとの部屋を見回した。
見るべきものは少ないので、とりあえず窓のほうに近づいてみる。
天井間際、クリスフィアよりも頭ふたつ分ぐらい高い位置に、金属の格子が嵌められた小さな窓が切られている。外の様子を覗くことはできなかったが、光はそこからしか差し込んでいないので、窓の向こうは屋外なのだろう。
(ならば、誰でもここからこっそり王子と言葉を交わすことはできたということだな)
クリスフィアは満足して、寝台の脇にある棚のほうに目を向けてみた。
ほとんど天井に届きそうなぐらいの大きさで、中には何も置かれていない。高さの割に奥ゆきはあまりないので、これでは書物や花瓶ぐらいしか置くことはできないだろう。
クリスフィアはフラウのもとまで舞い戻り、探索の目を走らせながら扉に手をかけた。
二重に板の張られた、分厚い扉である。
室内の側に錠の穴はなく、足もとには幅広の戸がつけられている。
「修道女殿、ひょっとしたら、この戸から室内に食事などを届けていたのかな?」
「……左様でございます……」
「それで鍵は、外側からしか掛けることができない、と。……なるほど、これは牢獄そのものだ」
後半の言葉は口の中でつぶやき、クリスフィアは扉を閉めた。
「かつて王族であった御方が住まうには、ずいぶん手狭な部屋であるようだ。カノンなる人物は、生まれてからの十数年間を、ずっとこのような場所で過ごしていたのだろうか?」
「……左様でございます……」
「自分で用を足すことのできなかった幼子の頃などは、誰が面倒を見られていたのだろうか?」
「乳母が一名、おりました……その者も、カノン様が五歳になられた頃、流行り病で魂を返してしまいましたが……」
「ふむ。それ以降は、誰もお側には仕えていなかったと?」
「はい……お食事はわたくしが届けておりましたし、水瓶の水もわたくしが窓の外から満たしておりました……もっとも、カノン様は日がな書物を読むことに没頭されておりましたので、わたくしと言葉を交わすことも数えるほどしかありませんでしたが……」
「このような暗がりで、毎日読書に耽っていたのか。わたしであれば、三日で音をあげてしまいそうだ」
ことさら陽気な声で言いながら、クリスフィアは肩をすくめてみせた。
しかし内心は、誰かを怒鳴りつけたくてたまらない心境である。自分の子をこのような場所に幽閉した前王は、セルヴァの怒りに触れて魂を返すことになったのではないか、とさえ思えてしまう。
「その書物というのは、あの棚に収められていたのかな? 今は何も残されていないようだが」
「はい……カノン様が亡くなられた後、兵士たちがやってきて、すべてを王宮に持ち去ってしまいました……」
「なるほどな。……そういえば、十二獅子将のヴァルダヌスはこのエイラの神殿に通ってカノン元王子と縁を紡いでいたのだという風聞が流れているようだが、客人と面会することは許されていたのだろうか?」
いかにも下世話な噂好きといった体でクリスフィアが尋ねると、老女は「いえ……」と痙攣するように首を横に振った。
「わたくしもあの恐ろしき災厄の日の後、何度となく兵士たちに問い詰められましたが、カノン様に面会を請われるような御方は一人として存在しませんでした……そもそも、面会を請われてもこの扉を開けることはかないませんでしたので……」
「ほう。当時は別の人間がこの扉の鍵を所持していたということかな?」
「はい……災厄の日の後、こちらの書物を運び出す際に、わたくしは初めてこの鍵を託されたのでございます……」
「では、あの災厄の日においては、いったい誰が元王子をこの部屋から連れ出したのであろう? やはりそれはヴァルダヌスなのであろうか?」
「さ……わたくしには、何とも……」
クリスフィアは溜息をつき、もう一度扉のほうに視線を差し向けた。
すべてを拒絶するような、分厚い扉である。
この扉が十数年にも渡ってカノン王子の自由を奪い、そして、初めて開かれたと思ったら、そのまま救いのない絶望と破滅に追いやったのだ。
「ヴァルダヌスは、少なくともあの災厄の日までは、一度としてこの扉をくぐっていないというのだな?」
「はい……それは確かかと……」
クリスフィアは老女に気づかれぬよう、ぎりっと奥歯を噛み鳴らした。
(それでは、いかがわしい行為もへったくれもない。ヴァルダヌスという男は、ただあの小さな窓から王子に語りかけていただけなのではないのか……? そうだとしたら、さっき不当に貶めてしまったことを何べんだって詫びてやろう)
クリスフィアは頭を振り、それで顔の前にまでこぼれてきた前髪を乱暴にかきあげた。
「満足がいった。忙しい中、このような余興につきあわせてしまって申し訳なかったな」
「いえ……」と老女はよたよたと近づいてきて、扉に錠を差し込んだ。
がちゃりと重い音色が響き、老女はまた力ない足取りで階段をのぼり始める。
もの言いたげなフラウに視線だけを返してから、クリスフィアも階段をのぼった。
きっとこの後の昼食の際は、フラウを困らせることになるだろう。クリスフィアの胸中に満ちた重苦しい感情は、一刻も早く体外に吐き出さないと、五体を爆発させてしまいそうであった。
そんな思いを抱え込みながら階上に戻ったクリスフィアは、「うん?」と眉をひそめる。
見知らぬ何者かが、エイラの神像の前にひざまずいていたのだ。
漆黒の長衣を纏った、あやしげな男である。屋内なのに頭巾までかぶっているため、人相はまったくわからない。
やがてその人物はのろのろと身を起こすと、虚ろな視線をクリスフィアたちに差し向けてきた。
「ああ、お留守にされていたわけではなかったのですね……お返事がなかったので、勝手に足を踏み入れてしまいました……」
その姿ばかりでなく、声音までもがあやしげな男である。
金属をこすりあわせるような声音であり、聞き苦しいこと、この上ない。
「おや……そちらはひょっとして、アブーフ侯爵家の姫君では……?」
「いかにもわたしは、アブーフのクリスフィアという者だ」
「これはお目汚しを失礼いたしました……わたくしは薬師のオロルと申します……」
その顔は頭巾に隠され、しかも口もとには何か織物を巻いている。かろうじて見て取れるのは、黒い瞳と目もとの皮膚だけだ。
その瞳は輝きがなく、まるで黒い穴のようであり、しわの深い皮膚は病人のように青黒い色合いをしている。
ぶかぶかの長衣を纏っているために体格も判然とはしなかったが、とりあえずクリスフィアよりも背は高く、そしてずいぶんと痩せこけているように感じられた。
有り体に言って、不気味な男である。
(何なのだ、この男は。気にくわない……どいつもこいつも気にくわないやつばかりだ)
人目がなければ、無茶苦茶に頭をかきむしりたいほどであった。
あの牢獄じみた小部屋の暗がりが、クリスフィアの内側にまで侵蝕してきたかのような心地だ。
そうしてクリスフィアは、かたわらのフラウを振り返った。
今はもう、フラウと二人きりになりたくてたまらなかった。