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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第二章 ねじれゆく世界
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Ⅰ-Ⅰ 辺境

2017.1/6 更新分 1/1

 リヴェルは、疲労の極みにあった。

 レイノスの町から逃げ出して、三日目の昼下がりのことである。


 歩いているのは、また辺境区域の森の中であった。

 頭上には分厚く枝葉がかぶさっているので太陽の位置も判然としないが、そろそろ夕闇の降りてくる頃合いであろう。


 気温は低く、少し肌寒いぐらいであるのに、汗が止まらない。

 妙にぬるりとした、嫌な汗だ。

 身体のふしぶしには鈍い痛みがあり、胸が苦しく、思考が定まらない。気を抜くと、そのまま倒れ込んでしまいそうである。


 疲労の理由は、わかりきっていた。

 ここ数日、まともな食事をとっていないからだ。

 レイノスに辿り着く前から、干し肉やポイタンは尽きてしまっていた。だからこの三日間は、山菜や香草の煮汁しか口にしていなかったのだった。


 肉や穀物をとらなければ人間は健やかに生きていくことはできないし、それに、干し肉には多量の塩が使われている。肉も穀物も塩気も取らずに、歩きにくい森の中を一日中歩いていれば、身体が弱っていくのも当然のことであった。


「待って……待ってください、ナーニャ……」


「うん? どうしたのさ、リヴェル?」


 斜め前方を歩いていた人物が、けげんそうに振り返る。

 旅用の外套と灰色の巡礼服を纏った、性別のわからない不思議な美貌の若者――ナーニャである。


「さっきから、胸が苦しくて……申し訳ないのですが、少し休ませてくださいませんか……?」


「ええ? 夜明かしの準備をするには、まだ早すぎるよ! ……しかたないなぁ。それじゃあ、ほんのちょっぴりだけ小休止しようか」


 ナーニャは足を止め、気安い感じで肩をすくめた。

「ありがとうございます……」と息も絶え絶えに言いながら、リヴェルはそばにあった大樹の根もとにうずくまる。


 すると、目の前に革の水筒を突きつけられた。

 斜め後方を歩いていたゼッドが、自分の荷袋から取り出した水筒を差し出してくれたのだ。


「一口だけだよ? 夜の分がなくなったら大変だからね」


 そのように掣肘してきたのは、もちろんナーニャのほうだ。

 リヴェルは頭を下げてから、震える指先でその水筒を受け取った。

 もちろんゼッドが恐ろしいわけではない。それぐらい、身体が疲弊しきっているのだ。


 貴重な水をこぼしてしまわないよう、ゆっくりと水筒を傾ける。

 驚くほどに冷たい水が、身体中にしみわたっていくかのようだった。

 栄養ばかりでなく、水分までもが足りていなかったのだ。


 そのまま水筒の中身を飲み干してしまいたいという欲求をすんでのところで抑え込み、リヴェルは水筒から口を離した。


「どうもありがとうございました……」


 ゼッドはうなずき、無事なほうの左手で水筒を受け取った。

 その黒みがかった瞳は、静かにリヴェルのことを見つめている。

 感情の読めない、猛禽のように鋭い眼光である。


 三日前に手に入れた薬の効果か、ゼッドは復調していた。むろんあのようにひどい火傷が三日ばかりで治りきるわけもないが、少なくとも、痛みや苦しみを表に出さずに済むぐらいには、力を取り戻している。


「まったくリヴェルは、か弱いんだなぁ。ま、そういうところも可愛らしいんだけどね」


 そんなことを言いながら、ナーニャがリヴェルのかたわらに腰を下ろしてきた。

 その妖しい真紅の瞳が、皮肉っぽいきらめきをたたえつつ、リヴェルの顔を覗き込んでくる。


「やっぱり栄養が足りていないのかな。さすがに山菜ばかりじゃ食べた気がしないもんね」


「はい……肉やポイタンを口にしないままでは、いずれ病魔に冒されてしまうかもしれません……」


「うーん、かといって、さすがのゼッドも野鳥や獣の捕まえ方なんてわからないしね。この森にはポイタンが生えている様子もないし。自由開拓民の集落にでも出くわすのを気長に待つしかないんじゃないかなぁ」


「……このような森の奥深くに開拓民の集落などあるのでしょうか?」


 おそるおそる問うてみると、「さあ?」という素っ気ない言葉が返ってきた。


「何せここは地図にも載っていない辺境区域だからね。今のところ、おかしな魔物には出くわしていないから、人間が住んでいても不思議はないと思うけど」


 リヴェルはこぼれそうになる溜息を必死にこらえなくてはならなかった。

 リヴェルたちはレイノスを出た後、何の指針もないままに、森を北西へと歩き続けているのである。

 三日前の夜、「わたしたちはいったいどこに向かっているのですか?」と問うたときも、ナーニャは笑いながら「さあ?」と首を傾げていた。


「本当はね、レイノスで金貨を銅貨に崩すことができたら、トトスと荷車を買って東に向かうつもりだったんだよ。東の果ての果て、シムの王国の領土を目指してさ」


「シ、シムですか?」


「うん。ここから南のジャガルを目指すには遠すぎるし、北のマヒュドラは敵対国だ。それで西の領土を出ようと考えたら、シムぐらいしか目指す場所はないじゃないか?」


 冷たい微笑を浮かべながら、ナーニャはそのように答えたものだった。


「でも、トトスと荷車がなかったら、シムだってあまりに遠すぎるからね。てくてく歩いていたら、何ヶ月かかるかもわからない。それに、セルヴァの中央地帯はどこもかしこも切り開かれていて、なかなか身を隠す場所を見つけるのも難しそうだからさ。徒歩でシムを目指すという道は、レイノスを追われた時点で捨てざるを得なかったんだよ」


「それじゃあ、何を目指して北西に……? この方向には、何があるのですか……?」


「何もないよ。北の果てまで行き着いたらマヒュドラの領土なんだろうけど、ここから西側は地図にも載っていない、真の意味での暗黒地帯なんだ。だからこそ、セルヴァの民の目を気にせずに旅を続けることができるわけだね」


 ナーニャとゼッドは、西の王国セルヴァでは安穏と生きていくことが許されない身の上なのである。

 国王殺しの謀反人、廃王子カノンと十二獅子将ヴァルダヌス――それが彼らの、真の名であったのだ。


 その両名は、国王や王子たちを鏖殺したあげく、王都の宮殿に火をつけた。その恐ろしい逸話は、かつてリヴェルが暮らしていたロセッドの町にも届けられていた。ただし、忌まわしき叛逆者もその火災で生命を落としたと伝えられていたのに、彼らはこうして生きながらえていたのである。


 だけどそれで、彼らが人目を避けている理由がわかった。

 ナーニャの姿はあまりにごまかしのきかぬものであったし、ゼッドは全身に火傷を負っている。こんな二人がセルヴァの領土を闊歩して、何か騒ぎでも起こしてしまったら、すぐに王都にまでその報は届けられることになりかねないだろう。


「レイノスではなるべく顔を見られないように気をつけていたつもりだけど、どうだろうね。まあ、どっちみち火つけの大罪人として追われている恐れはあるから、もうあの近辺の町には出入りできないけどさ」


 火つけというのは、ただ人を殺めるよりも重い罪とされている。しかもあの火災では、少なくとも五名もの人間が魂を返すことになったのだから、どのような言い訳をしたところで斬首はまぬがれないはずであった。


「そういうわけで、僕たちは二重の意味で大罪人とされてしまったわけだね。これではもう余計にセルヴァの領内を歩き回ることなどできやしないよ。だから僕たちは、人跡未踏の辺境区域に自分たちの居場所を探すしかないわけさ」


 三日前に聞いた言葉を思い出しながら、リヴェルが溜息をこらえていると、ナーニャが執拗に顔を寄せてきた。


「本当に元気がないみたいだね。さては身体が疲れているばかりじゃなく、僕たちなんかに巡りあってしまった凶運を嘆いているのかな?」


「いえ、そんなことは……」


「リヴェルは選択を誤ってしまったね。レイノスに辿り着く前に僕たちと別れていれば、こんな目にはあわなかったのに」


 そのように述べながら、ナーニャはにっと唇の端を吊り上げた。


「何だったら、不満に思っていることを全部ぶちまけてみたら? 信じてもらえるかはわからないけれど、それで僕たちが怒ってリヴェルをひどい目にあわせることなんて絶対にないからさ」


「…………」


「逆に言うなら、恨みごとを胸の中に溜め込まれるほうが落ち着かないんだよね。どうせ君はもう僕たちのもとから離れられないんだから、おたがいにすっきりした気持ちで旅を続けたいじゃないか?」


 やはり、皮肉っぽい笑顔である。なまじ端麗な面立ちをしているために、そういう表情をしていると、本当に酷薄に見えてしまう。

 しかし、その赤い瞳の奥底には、もっと異なる感情がゆらめいているように思えてならなかった。

 だからリヴェルは、おもいきって心中の思いを口にすることにした。


「それでは、ひとつだけ聞かせてほしいのですが……」


「うん、何でもどうぞ? 今さらリヴェルに隠すような話はないからね」


「……ナーニャたちは、本当に国王や王子たちを害したのですか?」


 妖しい笑みを浮かべたまま、ナーニャはわずかに首を傾げる。

 激しく鼓動を打つ胸もとに手をやりながら、リヴェルは言葉を重ねてみせた。


「国王も王子たちも、ナーニャにとっては血を分けた家族であったのでしょう? わたしには、ナーニャにそんな恐ろしいことができただなんて、どうしても信じることができないのです……」


「……ふうん……?」


「たとえばレイノスでの騒ぎだって、あの無法者たちが襲いかかってきたから、あのようなことになってしまったのでしょう? あれは……あ、あの恐ろしい火の魔法は、ナーニャの意思でも止めることができないのだという話でしたし……」


「つまりは父君たる国王が僕のことを害そうとしたからこそ、銀獅子宮は燃えることになってしまったのではないか、と言っているのかい? それはずいぶん、僕にとって都合のいい想像だね」


「……違うのですか?」


 ナーニャは面を伏せ、その目もとを外套の頭巾で隠してしまった。

 微笑をたたえた口もとはまだ見えているが、いっそう感情は読めなくなってしまう。


「そうだとしても、銀獅子宮には大勢の罪なき人間がいたはずだ。それが理由もなく生命を落としてしまったという事実に変わりはないし……それに、国王が実の子たる僕のことを害そうとしただなんて、それはそれで救いのない話だよね」


「だけどそれなら、ナーニャに罪はないと思います」


 リヴェルが必死に言いつのると、ナーニャはいっそう深くうつむいてしまった。


「だけどあれは、僕の怒りが生み出した炎だよ? 銀獅子宮でもレイノスでも、僕が心を乱さずに、大人しく運命にこの身をゆだねていれば、誰を滅ぼすことにもならなかったんだろうからさ」


「そんなのは、おかしいです。国王のことはよくわかりませんが、あんな無法者のためにナーニャが生きることをあきらめなくちゃならないなんて……そんなのは、絶対に間違っていると思います」


「…………」


「それにゼッドだって、その炎の巻き添えでこのような手傷を負うことになってしまったのですよね?」


 ゼッドは、感情の欠落した面持ちでリヴェルたちのやりとりを見守っていた。

 その猛禽のような眼差しからは、やっぱり内心を推し量ることはできない。


「それだけで、ナーニャにもどうしようもなかったのだということはわかります。ナーニャがあの炎を自由にあやつれるのなら、ゼッドを傷つけるようなことには絶対にならなかったでしょうし……それなら、国王たちだって……」


「もういいよ」とナーニャにさえぎられた。

 その不思議な瞳は隠したまま、ナーニャはくすくすと笑いだす。


「どうしてリヴェルは僕をかばうようなことばかり言うのさ? 僕は火神に呪われた忌み子なんだよ?」


「だったらそんなのは、呪いをかけた火神のほうに罪があるのです」


「へーえ、まがりなりにも神と名のつく存在にそんな口を叩いていいのかな? 僕の意思とは関係なしに、リヴェルも火神の怒りを買ってしまうかもしれないよ?」


「そうなったら、それがわたしの運命なのでしょう。わたしは西方神セルヴァの子として、何も間違ったことは言っていないと思います」


「駄目だね、こりゃ」と言いながら、ナーニャがすっと腕をのばしてきた。

 巡礼服の長い袖に包まれたナーニャの腕が、リヴェルの身体をぎゅっと抱きすくめてくる。


「さっきの言葉は取り消すよ。もうこの話はやめておこう。本当にリヴェルまで火神の呪いに巻き込まれてしまったら大変だからね」


「で、ですが……」


「僕はリヴェルが思っているような、そんな立派な人間ではないよ。弱くて、愚かで、ちっぽけな人間さ」


 ナーニャの身体は、溶けた鉄が流れているかのように熱い。その熱さが、いっそうリヴェルの心臓を高鳴らせた。


「だけど、最後にひとつだけ言っておこう。僕は誰かを憎むことはあっても、誰かを殺してやろうと思ったことは一度もない。……僕の言葉を、信じてくれるかな?」


「はい」とリヴェルは震える声で答えた。

 そのとき、がさりと草を踏む音が聞こえた。


 ゼッドが剣の柄に手をのばしながら、音のした方向を素早く振り返る。

 ナーニャは最後にぎゅうっと腕に力を込めてから、リヴェルの身体を解放した。


「あんたたち、こんなところで何をやってるのさ。道にでも迷っちまったのかい?」


 笑いを含んだ声が、茂みの向こうから聞こえてくる。

 そうしてガサガサと音をたてながら姿を現したのは、自由開拓民と思しき若い娘であった。


「こんな森の奥深くにまで踏み込んでくるなんて、酔狂な人らだね。こっからじゃあ、どんなに急いだって森を出る前に太陽が沈んじまうよ?」


 山菜や香草でも集めていたのか、背中には大きな草編みの籠を背負っている。開拓民にしては肉づきがよく、やたらと色香にあふれた娘である。ちょっと吊り上がり気味の大きな目をしており、赤い唇に愉快げな笑みを浮かべている。


「よかったら、うちの集落に案内してあげようか? 大したもてなしはできないけど、食べるもんには不自由してないからさ。銅貨なんていらないから、何か面白い旅の話でもしておくれよ」


「それは非常にありがたい申し出です。あなたの親切に、セルヴァの祝福を」


 よそゆきの声でナーニャが答えると、その娘はいっそう楽しそうに微笑んだ。

 しかしその目は、何だか品定めをするようにナーニャとゼッドの姿を見比べている。

 それはまるで獲物を狙う蛇のような目つきだと、リヴェルにはそのように思えてならなかった。

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