Ⅴ 祝福
2020.11/14 更新分 1/1
そうしてメナ=ファムたちは、王都を出立することになった。
同じトトスの車には、実にさまざまな者たちが詰め込まれている。シルファが『神の器』とやらの力を暴走させてしまったら、それを止められるのはカノン王子ただひとりであったため、そちらの一行とも同乗を余儀なくされたのだ。
メナ=ファムの側は、シルファとロア=ファムとラムルエル、それに鉄籠に閉じ込められたプルートゥが顔をそろえている。
カノン王子の側は、リヴェルとヴァルダヌス、チチアにタウロ=ヨシュという顔ぶれで、そこに祓魔官のゼラという怪しげな男も加えられていた。
この車は、二千名以上の兵士たちに守られている。また同時に、それはカノン王子とシルファを逃亡させまいという役目も負っているはずだった。
以前はゼラドの軍勢によって、メナ=ファムたちは同じ境遇に追いやられていた。
その前は――さほど長い期間でもないが、エルヴィルの志に賛同する傭兵や志願兵などと行動をともにしていた。
メナ=ファムが故郷たるシャーリを離れてから、もうふた月以上は経過しているはずであるのだ。
グレン族の同胞とともに、シャーリの川で大鰐を狩っていた日々――あれらは本当に現実の出来事であったのかと、そんな疑念にとらわれる瞬間もある。それほどに、この二ヶ月間が波乱に満ちていたということなのであろう。
(最初はただ、切なそうな目つきをしたこいつのことが放っておけなかっただけだったのにねえ)
車の震動に身を任せながら、メナ=ファムはかたわらのシルファへと目をやった。
シルファはカノン王子と似たような意匠の巡礼服というものを着させられている。それは男女を問わない装束であり、また、シルファの銀灰色をした髪は短いままであったが、もう男と見まごう人間はいないだろう。王子を演じるという役割から解き放たれたシルファは、もはやその繊細さや柔和さを隠すことなく、自分の素顔をさらしていたのだった。
(それだけで、苦労をした甲斐はあったってもんだ。……あまりに代償は大きかったけどね)
メナ=ファムがそんな風に考えたとき、ラムルエルが「あの」と声をあげた。
「プルートゥ、解放したいのですが、許し、いただけますか?」
ラムルエルの黒い瞳は、カノン王子たちのほうに向けられている。
カノン王子は左右のリヴェルおよびヴァルダヌスと目を見交わしてから、そのほっそりとした肩をすくめた。
「今のは、僕たちへの質問であったのかな? そのような話は、もっと立場のあるお人らに許しを乞うべきだろうと思うよ」
「ですが、あなた、王子殿下です。立場、もっとも、高いはずです」
「そんな責任をかぶせられるのは、本意じゃないね。僕はこの部隊の指揮官でも何でもないんだからさ」
うっすらと笑いながら、カノン王子はそう言った。
「ちょうどいい機会だから、言っておこう。今後、僕のことはナーニャと呼んでもらいたく思う。無法者のひしめく外界において、王子なんていう身分はなるべく秘匿するべきだろうからね」
「承知しました、ナーニャ。では、プルートゥ、解放する許し、もらえるでしょうか?」
「だからそんなの、僕の知ったことじゃないっていうのに……そういう話は、こっちのお人におうかがいを立てるべきじゃないかな?」
血のように赤いカノン王子の瞳が向けられたのは、壁際にひっそりとうずくまったゼラのほうであった。
ゼラはいっそううつむいて、頭巾の陰に表情を隠してしまう。
「わたくしとて、何の権限も有してはおりませんが……カノン王子が危険はないとご判断されたのなら、それでかまわないかと思われます……」
「だから、カノン王子じゃないってば。君は、いつまでも陰気だね!」
ゼラは恐縮した様子で、小さな身体をいっそう小さくしてしまった。
カノン王子は苦笑めいた表情を浮かべながら、ラムルエルを振り返る。
「もういいや。その黒豹がむやみに人を襲ったりしないなら、好きにしていいと思うよ」
「ありがとうございます」と、ラムルエルは左右の指先を奇妙な形に組んで、一礼した。
そして、鉄籠の戸に鍵を差し込む。出立の前、鍵はイフィウスから手渡されていたのだ。
長らくぶりに自由を得たプルートゥは、するりと鉄籠を抜け出すと、まずは主人のラムルエルの胸もとに頭をすりつけた。
そしてお次は、シルファとメナ=ファムにも再会の挨拶をしてくれる。シルファはその目を愛おしげに細めながら、プルートゥの艶やかな毛並みを撫でた。
「ずっと窮屈だったでしょう、プルートゥ? わたしなんかと関わってしまったために、ごめんなさい」
プルートゥは、メナ=ファムよりもシルファになついている。シルファと同じように目を細めながら、プルートゥはシルファのなめらかな頬をぺろりと舐めた。
「……ロア=ファム、挨拶、していただけますか?」
ラムルエルの言葉に、ロア=ファムは「うむ?」と小首を傾げる。
「挨拶とは、その獣にか? 獣に対する挨拶の作法など、俺はわきまえておらんぞ」
「私、教示します」と、ラムルエルはロア=ファムのほうに手を差しのべた。
「私、手、お取りください」
「獣ではなく、お前の手を取るのか? ……おい、何をするのだ!」
ラムルエルはまるで貴婦人を相手にしているかのように、ロア=ファムの手の甲にくちづけをした。
ロア=ファムの慌てる顔を堪能しながら、メナ=ファムは「はは」と笑ってみせる。
「そういえば、そんな儀式もあったねえ。プルートゥにかじられないための儀式なんだから、接吻のひとつやふたつは辛抱しな」
「はい。この手、プルートゥ、捧げてください」
ロア=ファムはおもいきり顔をしかめながら、シルファにすりよっているプルートゥの鼻先に右手を差し出した。
プルートゥはひとつまばたきをしてから、ロア=ファムの手の甲に舌先を触れさせる。
「同じ手、プルートゥ、頭か咽喉、お触れください。それで、絆、結ばれます」
ロア=ファムは仏頂面のまま、プルートゥの頭に手を置いた。
プルートゥは、心地好さそうに目を閉ざす。
「絆、結ばれました。プルートゥ、ロア=ファム、友、なったのです」
「……獣の友などどのように扱うべきか、俺にはさっぱりわからんな」
不満そうにぼやきながら、ロア=ファムはプルートゥの顔を覗き込んだ。
プルートゥが目を開くと、間近から見つめ合う格好となる。両者は同じような色合いの瞳をしていたために、なんだか愉快な構図であった。
「では、カノン王子――ではなく、ナーニャ。そちら、お願いできますか?」
「お願いって? もしや僕たちまで、その黒豹の友になれというのかな?」
「はい。行動、ともにするならば、必要、思います。おたがい、安全のためです」
そんな風に言ってから、ラムルエルはわずかに目を細めた。
「また、プルートゥ、同志、加えてもらいたい、願っています。プルートゥ、私、家族であるのです」
「でも君は、ゼラド軍の命令でシルファのそばにいることを強いられていただけなのだろう? ちょうどこの一団はシムを目指していることだし、縁切りをするにはいい機会なのじゃないかな?」
「いえ。私、シルファの行く末、見届けたい、願っています。そのため、ともにあること、望んだのです。その思い、変わっていません」
カノン王子の美麗な顔を真っ直ぐに見返しながら、ラムルエルはそう言った。
「また、そこに、ナーニャの行く末、見届けたい、思い、加わりました。ゆえに、プルートゥ、絆、結んでもらいたい、思います」
「……君にそうまで思い入れを抱かれる筋合いはないように思うのだけどねえ」
「いえ。あなた、シルファ、救いました。そして、生命、懸けて、王国の行く末、守ろうとしています。王国の民、東の民として、感謝、敬愛、抱く、当然ではないでしょうか?」
「言葉は不自由なのに、能弁だね。東の民におしゃべりは多いという定説は真実であったみたいだ」
カノン王子はまた苦笑めいた表情になりながら、プルートゥのほうに視線を戻した。
「……その儀式とやらを施せば、その黒豹にうっかり噛みつかれる危険も回避できるということなのかな?」
「はい。でなければ、シルファ、触れる者、敵、誤認する危険、生じます」
「だったらまあ、君の言葉に従ったほうが無難なのかな。リヴェルもちょっぴり、その黒豹を怖がっているようだしね」
「い、いえ、わたしは……」と、リヴェルはほのかに頬を赤くした。
「と、とても美しい獣だと思うのですけれど、このような獣は初めて目にしたもので……これは、黒豹という獣であるのですね」
「うん。シムの森や草原に生きる、猫の親戚筋にあたる獣だね。……まあ僕も、実物を見るのは初めてのことだけどさ」
そんな風に語りながら、カノン王子はやおらリヴェルの右手を取った。
その赤い唇に手の甲を接吻されて、リヴェルはいっそう顔を赤くしてしまう。
「あ、あの、ナーニャ、いったい何を……?」
「僕はまだ、リヴェルの手の甲に接吻をした覚えがなかったからさ。出会ったばかりの彼や黒豹に先んじられるのは、悔しいじゃないか。……これでそちらの儀式とやらに、何か問題は生じてしまうかな?」
「いえ。生じません」
揺れる車の中で立ち上がり、ラムルエルはカノン王子の一行に近づいていった。
プルートゥも、まるで会話の内容を理解しているかのように、その後を追っていく。
「手、失礼します」
ラムルエルは、少女の手の甲にくちづけをした。
さらにプルートゥが、同じ場所をぺろりとなめる。
「頭か咽喉、お触れください」
「は、はい……」
リヴェルはおそるおそる、プルートゥの咽喉もとをまさぐった。
プルートゥは目を細めつつ、いきなり首をのばしてリヴェルの頬にも舌を触れさせる。リヴェルは「きゃあっ!」と可愛らしい悲鳴をあげた。
「失礼しました。プルートゥ、リヴェル、気に入ったようです」
「ふふん。頬にくちづけは僕のほうが先んじているから、許してあげるよ」
それでもカノン王子はプルートゥに対抗するかのように、リヴェルの身体を自分のほうに引き寄せた。
羞恥に赤くなりながら、リヴェルは幸せそうである。
「では、他の方々も」
ヴァルダヌスは、無言でラムルエルの顔を見つめた。
いったい何を感じ取ったのか、ラムルエルは「はい」とうなずく。
「左右、どちらでも、かまいません」
ヴァルダヌスはひとつうなずくと、ラムルエルのほうに左手を差し出した。大きな火傷を負った彼の右腕は、常にやたらと頑丈そうな篭手で覆われていたのである。
ヴァルダヌスの次にはタウロ=ヨシュが、その次にはチチアが同じ儀式に身を投じる。チチアも右の手の甲は包帯に覆われているため、左手を差し出すことになった。
「うえー、なんだか変な感じ! おいこら、本当にこれで噛みついたり引っかいたりしなくなるんだろうね?」
チチアが呼びかけた相手は、ラムルエルではなくプルートゥ当人である。
プルートゥが金色の瞳でその顔を見返すと、チチアは「へへっ」と口をほころばせた。
「近くで見たら、けっこう可愛い顔してんじゃん。やっぱ獣は、毛が生えてないとね!」
よくわからない感慨をこぼすチチアを余所に、ラムルエルはカノン王子に向きなおる。
「では、お願いします、ナーニャ」
「ふん……もしもシルファが我を失ったら、僕が力ずくで止めることになる。それを邪魔立てしたら、この黒豹が丸焼きにされてしまうだろうからね」
作り物のように白くてなめらかなカノン王子の手の甲が、ラムルエルの前にさらされた。
ラムルエルはこれまで以上に恭しげな所作で、そこにくちづけをする。
これは、カノン王子の容姿があまりに神秘的であるためなのか――まるで、おとぎ話の中で王に忠誠を誓う騎士のような絵面であった。
プルートゥもまた、どこか神妙に見える仕草で王子の手の甲をひとなめする。
これで儀式は完了したかに思えたが、メナ=ファムがうっかり失念していた人間がもう一名存在した。
「……では、ゼラも」
陰気な小男は特に逆らう様子も見せず、ラムルエルのほうに右手を差し出した。
その手を見て、メナ=ファムは(おや?)と思う。ゼラは小柄なリヴェルよりもさらに頭ひとつ分も小さいぐらいの矮躯であったのだが、その指先は妙にしなやかで、狩人めいた力感までもが感じられたのだ。
(こいつはたしか、聖域の民の血が混じってるって話だったけど……あたしには、その聖域の民ってやつがよくわからんからなあ)
ともあれ、儀式は進行されていく。
その儀式が終了したのちに、異変が訪れた。
ゼラの手の甲をなめた後、プルートゥが相手にのしかかるような勢いで身体をすりつけ始めたのである。
それでもゼラ自身は彫像のように不動であったが、ラムルエルが感じ入ったように息をついた。
「驚きました。プルートゥ、これほど、親愛の情、示すこと、稀です」
「ははあ。それはもしかしたら、聖域の民の血というやつが関わってくるのかもね」
カノン王子が、笑いを含んだ声でそう言った。
「自然の中で生きる聖域の民というやつは、獣と心を通じ合わせることができるらしいよ。そうして絆を結べた相手は友として、絆を結べぬ相手は獲物とする。聖域の民に友と選ばれた獣は、聖獣と呼ばれるようだけど……たしか黒豹も、聖域では聖獣と見なされていたはずだ」
「そうじゃな。狼、大蛇、獅子、鷲、亀、黒豹、雷王鳥――果てには北氷海の大蛸なども、聖域の民の同胞として手を携えているはずじゃ」
ゼラが、陰々とした声音で答える。
それと同時に、ナーニャは腰を浮かせていた。
「……君は、誰だ?」
「驚かせてしまって、申し訳ないのう。ちょいと禁忌を犯してでも、おぬしたちとは言葉を交わしておきたかったのじゃ」
それは確かにゼラの陰気な声音であったが、口調がまったく別人のものに変じているようだった。
遅ればせながら、メナ=ファムもシルファを背中にかばう。
が、異様な気配を感じつつ、メナ=ファムはそれを危険の合図とは知覚していなかった。プルートゥなどは何事もなかったように、いまだゼラのもとに身を寄せたままであったのだ。
「ああ……つまりは君が、隠棲の魔術師ということなのかな?」
巡礼服の懐に右手を差し込んだまま、カノン王子はそのように問いかけた。おそらく、火を生み出すためのラナの葉に手をかけているのだろう。
ゼラは――あるいは、ゼラの姿をした何者かは、「ほほほ」ととぼけた笑い声をあげる。
「うむ。儂のことは、あちこちの人間が吹聴しておるようじゃな。隠棲の身ゆえ、なんの力にもなれなかったことを謝罪させてもらいたく思うぞ、王子よ」
「それはずいぶんと謙虚な物言いだね。僕がこの地を訪れるまで、王都を守っていたのは君に他ならないはずじゃないか」
「しかし儂は、肝心のおぬしを守ることができなんだ。……おぬしと、そちらの修道女をな」
ゼラがメナ=ファムたちのほうを振り返りながら、その顔を隠していた頭巾をはねあげた。
その下から現れたのは、意外に頑強そうな面立ちをした壮年の男の顔だ。その瞳は、メナ=ファムの背中から顔を覗かせているシルファを見つめていた。
「……君たちもレイフォンから説明を受けているはずだよね。この御仁は、どうやら王都に聖剣をもたらした禁忌の魔術師、トゥリハラであるようだよ」
「ほほほ……このゼラが眠たそうにしておったので、ちょいと身体を借りただけなのじゃがな」
そう言って、魔術師トゥリハラなる者はゼラの顔でにっこりと微笑んだ。
「このゼラは、王子らと旅をともにできるということで胸を高鳴らし、今日は朝まで眠ることもできなかったようなのじゃ。それも王子への情愛あっての所業なのじゃから、居眠りの罪は許してやってほしいものじゃな」
「ふん。君は俗世に触れるという禁忌を犯してまで、そんな戯れ言を語りに来たのかな?」
「いやいや。儂はひと言、挨拶をさせてもらいたかっただけじゃ。これまでは、《まつろわぬ民》の目や耳を用心しなければならなかったが……どうやらあやつらも、のきなみ東の方角に引っ込んだようじゃからな」
魔術師トゥリハラは、陰気な声音で明朗な言葉を語り続けている。
メナ=ファムはゼラの素顔を目にしたのも初めてであったので、いまひとつ判別は難しかったが――きっとこの無邪気な笑顔も、ゼラではなくトゥリハラの表情であるのだろう。
「そしておぬしらには、感謝しておるぞ。王子と修道女のみならず、この場にいるすべての者たち……いや、この周囲でトトスを走らせている者たちや、王都に居残ってる者たちにもな。存在そのものが禁忌である儂には、俗世に干渉することも許されぬので……どうか、世界の行く末を守ってもらいたい」
「君は大神の目覚めを待たず、聖域を出て魔術に手を染めてしまったのだものね。それは確かに、『神の器』たる僕やシルファにも負けない禁忌の存在なのだろうと思うよ」
「否。おぬしたちは、邪念にとらわれた《まつろわぬ民》に呪いをかけられたにすぎん。自ら禁忌を犯した儂のほうが、より罪深いはずじゃろうて」
そう言って、魔術師トゥリハラは眩しいものでも見るように目を細めた。
それと同時に、メナ=ファムたちを乗せていたトトスの車が動きを止める。チチアは不安げな面持ちでタウロ=ヨシュの腕にしがみつき、ラムルエルがうろんげに周囲を見回した。
「ああ、案ずるでない。あまり大ごとにはしたくなかったのじゃが、森辺の狩人の鼻をごまかすことはできなかったようじゃな」
こちらに許しを乞うよりも早く、車の扉が開かれた。
扉の向こうには、トトスにまたがった兵士たちがずらりと立ち並んでいる。その先頭に立っているのは、ティムトとクリスフィアとジェイ=シンであった。
「やあ。もしかしたら、魔術の波動を感じ取ったのかな? そうだとしたら、森辺の狩人の嗅覚というのは驚嘆に値するね」
カノン王子の軽口を黙殺して、森辺の狩人たるジェイ=シンは驚きに目を見開いた。
「おい、そやつは……ゼラの姿をしているが、トゥリハラではないか」
「なに? 意味がわからんぞ、ジェイ=シン。トゥリハラがどうしたというのだ?」
クリスフィアが、けげんそうに反問する。この両名は、かつてトゥリハラと出会っているという話であったのだ。
そして、主人たるレイフォンと離別した少年ティムトは、きゅっと眉をひそめながら車に乗り込んできた。
「僕にも理解することはできませんが……魔術師トゥリハラがゼラ殿の肉体に憑依した、という解釈でよろしいのでしょうか?」
「うむ。それでかまわんが、なるべく話を広げないでほしいものじゃな。俗世に触れれば触れるほど、儂の罪は深くなってしまうのじゃ」
「……クリスフィア姫。少し早いですが、小休止といたしましょう。伝令をお願いいたします」
クリスフィアは迷うことなく「承知した」と応じて、手近な兵士に命令を伝えた。
扉の外の兵士たちは散開し、最初の三名だけがその場に残される。そして、クリスフィアとジェイ=シンまでもが車の中に乗り込んできた。
「話を広げるなと申すなら、この扉は閉めるべきであろう。しかし、我々も話を聞かせてもらいたく思うぞ」
そんな風に語りながら、クリスフィアは車の扉を閉めた。収容人数を超過しているので、クリスフィアたちは入り口のあたりに立ち尽くしている。
そうして車内に集まった人間の視線を満身に浴びながら、トゥリハラは「ほほほ」と笑った。
「何やら大げさなことになってきたのう。儂はただ、挨拶をしたかっただけなのじゃが」
「うむ。そのとぼけた口調は、まさしくトゥリハラであるようだな。ゼラの声でトゥリハラの言葉が語られるというのは、なかなか不気味に思えてしまうぞ」
そんな風に言いながら、クリスフィアは愉快そうに微笑んでいた。
「しかし、トゥリハラと再会できたことは喜ばしく思う。あなたがジェイ=シンに託したこの聖剣で、無事に蜘蛛神ダッバハを退けることがかなったのだからな」
「うむ。それこそ、儂の罪の証じゃのう。まあ、自ら望んだ罪であるので、誰にも文句を言うことはできぬが」
そうしてトゥリハラは、わずかばかりに真面目くさった面持ちをこしらえた。
「儂はどうにかして、《まつろわぬ民》の愚かな所業を食い止めたいと願っていた。儂にもう少しの覚悟があれば、王子と修道女がそのような呪いを背負うこともなかったのじゃろうが……こればかりは、いくら悔いても悔いきれぬのう」
「君は大きな禁忌を犯して、運命の星図から逃げ出したんだ。そんな君が現世に干渉したならば、それこそ運命をねじ曲げた罪で魂を砕かれることになるだろう。……君はもう十分に、危ない橋を渡っているのだろうと思うよ」
真紅の瞳を妖しく輝かせながら、カノン王子はそう言った。
リヴェルはその背中にぎゅっと取りすがり、ヴァルダヌスは探るようにトゥリハラを見据えている。それほどの警戒心をかきたてられていないのは、トゥリハラと見知った仲であるクリスフィアとジェイ=シンのみであるようだった。
「そして、見ず知らずの君に救ってもらえなかったと言って、君を恨むのは筋違いだろう。運命なんて、けっきょく自分で切り開くしかないのだろうからね」
「うむ……おぬしは清廉じゃな、王子よ。《まつろわぬ民》は、大きな失敗を犯しておる。それは、よりにもよっておぬしのように清廉な存在を『神の器』に選んでしまったことじゃろう」
「おほめにあずかり光栄だけれども、清廉なんてのは僕からもっとも縁遠い言葉であるように思えてしまうね」
赤い唇を吊り上げて、カノン王子は悪い精霊のように微笑んだ。
その指先は、まだ懐に差し込まれたままである。
しかしトゥリハラは、「いいや」と優しげに微笑んだ。
「もしもおぬしが人並みの清廉さしか持ち合わせておらなんだら、西の王国はとっくに滅んでおったじゃろう。そして、氷神の御子を止めることも、地神の御子を救うこともできないまま、北と南の王国も滅んでおったはずじゃ。おぬしの清廉さが、三つの王国を救ったのじゃよ」
「だから僕は――」
「そして、王子の清廉な魂を救ったのは、おぬしたちじゃ」
カノン王子の言葉をさえぎって、トゥリハラはその周囲に寄り集まった四名の者たちを見回した。
「おぬしたちが王子の魂を救ったからこそ、王国は救われた。そして、おぬし――」
と、トゥリハラの目がメナ=ファムのほうにも向けられてくる。
その深い茶色をした瞳には、思いも寄らぬほどの温かい光が浮かべられていた。
「おぬしの存在がなければ、修道女は王子に出会うより早く、魂を闇に堕としておったじゃろう。儂が読み取った星図の輝きを、余人にもらすことは決して許されぬのじゃが……おぬしたちは、その魂の輝きでもって、世界に正しい運行をもたらしたのじゃ」
シルファの華奢な手が、メナ=ファムの腕をぎゅっと抱きすくめてきた。
トゥリハラの姿から目を離せぬまま、メナ=ファムは逆側の手でその指先を探り当てる。
「そしてこの場にいる者たちは、誰もが星図に輝きをもたらしておる。この場の誰かひとりが欠けても、星図はまったく異なる形を描いていたはずじゃ。儂はそれを、心から喜ばしく思っておるぞ」
「しかし――僕たちは、いまだ道の半ばです」
ティムトが、とても静かな声で言った。
トゥリハラはにっこりと笑って、そちらを振り返る。
「もちろんじゃ。風神の御子を封じて、《まつろわぬ民》を殲滅しない限り、真に正しき運行は得られまい。東に向かう決断をしたおぬしたちの行く末に、希望と絶望のどちらが待ちかまえておるものか――儂がそれを語ることは許されぬが、おぬしたちの覚悟を祝福させてもらいたく思う」
そうしてトゥリハラは、まぶたを閉ざした。
「儂は、おぬしたちのすべてを祝福する。その覚悟も、魂の輝きも、魂の輝きによって織り成される美しき星図も……そこに加われぬ悲しみを噛みしめながら、天と地の狭間で祝福させてもらうぞ」
トゥリハラは力を失って、かたわらのプルートゥにくにゃりともたれかかった。
プルートゥは心配そうに目を瞬かせながら、その弛緩した頬に舌を這わせる。
すると、閉ざされていたまぶたがゆっくり開かれたが――そこに宿されていたのは、別なる者の眼差しであった。
「……よもや、この肉体を乗っ取られるとは思いも寄りませんでした……文句を言うすべがないことを口惜しく思います……」
「なんだ、ゼラ殿もトゥリハラの言葉を聞くことができたのか?」
クリスフィアの問いかけに、ゼラは「はい……」とうなずいた。
それから、そそくそと頭巾をかぶりなおす。
「夢の中で、すべての言葉を聞かされておりました……まるで、拷問のごとき責め苦です……」
「彼は、聖域から逃げ出した魔術師のはずだからね。聖域の民の血を引く君は感応しやすいから、身体を借りることにしたのだろう」
カノン王子がそのように答えると、ゼラは恐縮しきった様子で頭を下げた。
美しき王子は何とも複雑そうな面持ちで、「やれやれ」と白銀の髪をかきあげる。
「もったいぶって出てきたくせに、本当に挨拶だけで済ませてしまうなんてね。いっそ魂を打ち捨てる覚悟で、風神の御子の居場所を教えてくれたらよかったのに」
「あんたはそうやって、憎まれ口で本心を隠すのが性分になっちまってるみたいだね」
メナ=ファムが口を出すと、カノン王子は心外そうににらみつけてきた。
「ああ、そうさ。清廉なんて言葉とは対極的な性分なものでね。僕は僕の好きなように生きると決めたんだ」
「それでいいよ。あんたは、それでかまわないさ」
トゥリハラの語った言葉は、メナ=ファムの心にぴったりと収まっていた。
すべての中心は、このカノン王子であるのだ。
カノン王子が人間であることを諦めなかったからこそ、王国は救われた。シルファもまた、カノン王子と出会うことで救われた。そして、カノン王子の魂を救ったのは、リヴェルやヴァルダヌスたちである。
誰かひとりが欠けていても、同じ結果にはならなかったのだろう。
その中には、メナ=ファム自身も含まれているのだ。
その事実を、メナ=ファムは大いなる喜びの気持ちでもって噛みしめることができた。
(あたしもシルファもエルヴィルも、さんざん道を間違えて、大勢のお人らに迷惑をかけちまったけど……そうだからこそ、今度はお役に立たなくっちゃいけないんだ)
メナ=ファムたちが道を間違えたために、魂を返した者もいる。エルヴィル自身も、妖魅に襲われた旗本隊の兵士たちも、ゼラド軍の兵士たちも――それに、ロア=ファムと行動をともにしていた兵士たちも、何名かは魂を返している。それだって、メナ=ファムたちのせいで生命を落としたようなものであった。
メナ=ファムたちがこれまでの間違いをどのように悔いても、死んだ者たちは帰ってこない。
ならば、その者たちの無念をも背負って、今度は誰かを救うしかなかった。
きっと――ゼラドの陣中でギリル=ザザが抱いていたのも、そういった思いであったのだ。
シルファの指先を握りしめながら、メナ=ファムはその場にいる全員の姿を見回した。
それらの存在のすべてが頼もしく、すべてが愛おしかった。
彼らの持つ星が、天空でどのような星図を描いているかなど、そんなものは魔術師や占星師にしか読み取ることはかなわないのだろうが――木造りの壁に囲まれた狭苦しい車の中で、メナ=ファムは美しい星々の輝きに包まれているような心地であった。
「メナ=ファム……大丈夫ですか?」
と、シルファが心配そうに見上げている。
その血の色を透かせた青灰色の瞳もまた、夜空に浮かぶかそけき星の輝きであるかのようだった。
「大丈夫だよ。気合を入れて、エルヴィルの仇どもをぶっ潰してやらないとね」
メナ=ファムがそのように答えると、シルファも繊細な顔に常ならぬ覚悟と力強さをたたえて、「はい」とうなずいた。
この先にどのような運命が待ち受けているかなど、トゥリハラに教えてもらうまでもない。
それがどれほど過酷で苦難に満ちた運命であったとしても、メナ=ファムたちはこの身の力を尽くすしかないのだ。
そして、これだけ稀有な輝きを持つ者たちと運命をともにできることを、メナ=ファムは心から祝福したい気分だった。
当作は、これにて第一部完結とさせていただきます。
第二部の開始には短からぬ時間がかかるかとは思いますが、またお読みいただけたら幸いでございます。
当作を最終話までお読みくださり、まことにありがとうございました。