Ⅲ 決意
2020.11/7 更新分 1/2
「さて、そろそろ出立の刻限かな」
金狼宮の一室にて、クリスフィアはそのようにつぶやいた。
この場には、おおよそ気心の知れた人間が居揃っている。侍女のフラウに、従兄弟のキャメルス、ジェノス侯爵家のメルセウスに、その従者たるホドゥレイル=スドラ、ギリル=ザザ、ジェイ=シン、リミア・ファ=シン――そして、ディラーム老とイリテウスという顔ぶれであった。
さきほどまでは、ダリアスやレイフォンのもとを訪れて、別れの挨拶を交わしていた。二ヶ月以上にも及んだ王都の滞在も、ついにこの日で終焉を迎えるのである。
「王都は、我々の手で守り抜いてみせよう。そちらはどうか頼んだぞ、クリスフィア姫よ」
ディラーム老が、張り詰めた面持ちでそのように言いたててきた。
その配下たるイリテウスは、さらに厳しい面持ちでクリスフィアのことを見据えている。クリスフィアはディラーム老に「はい」と応じてから、イリテウスに声をかけておくことにした。
「そちらも息災にな、イリテウス殿。またいずれ、お会いできる日を心待ちにしている」
イリテウスは同じ表情のまま、無言でうなずいた。
懸命に、感情を押し殺している様子である。彼は長きに渡って悩み抜いたのち、ようやくカノン王子の存在を受け入れるべきだと決断してくれたのだ。
イリテウスの父、十二獅子将アローンは、カノン王子の炎の魔術によって魂を返すことになった。その詳細も、ヴァルダヌスの口から語られることになったのだ。
アローンは、寝所にて斬り伏せられた前王らと、その場に立ち尽くすカノン王子の姿を発見した。そうしてカノン王子を王殺しの大罪人と見なし、捕縛を試みて――そうして、炎の魔術に焼き尽くされてしまったのだった。
それは決して、カノン王子の意思で反撃したわけではない。カノン王子のかたわらに炎があれば、害を為そうとする相手を自動的に焼き尽くしてしまうのだそうだ。『神の器』とは、それほどまでに忌まわしい呪いであったのである。
「前王を斬り伏せたのも、カノン王子を寝所におびき寄せたのも、すべてが《まつろわぬ民》の陰謀であったというのなら……すべての罪は、《まつろわぬ民》にあるのでしょう」
かつてイリテウスは、血を吐くようにしてそんな言葉を絞り出していた。
「わたしは未熟者でありますため、カノン王子と笑顔で手を取り合うことはできそうにありませんが……カノン王子に筋違いな恨みを抱くことはないと、西方神の前にて誓約いたします。どうか、それでご容赦ください」
イリテウスは、まだ若い。十八歳のクリスフィアと、さして変わらぬ齢であろう。彼が狭量であるなどとは、クリスフィアも思っていなかった。
(イリテウスがこのように苦しむ羽目になったのも、すべて《まつろわぬ民》の罪であるのだ)
クリスフィアは、そのように考えていた。
だからこそ、《まつろわぬ民》を殲滅する一助にならんと、カノン王子に同行を願い出たのである。
「まったくね、僕は伯父君にあわせる顔がないよ」
と、ふいに横合いからキャメルスが口をはさんできた。
クリスフィアはイリテウスにうなずきかけてから、そちらに向きなおる。
「いい加減に覚悟の据わらぬやつだな。文句があるなら、アブーフに帰ればよかろうが? お前が逃げ帰るなら、ディラーム老が王都の遠征兵団から新たな部隊を編成してくださるだろうさ」
「いやいや、君をひとりでカノン王子に同行させてしまったら、それこそ伯父君が憤死されてしまうよ。僕には最初から、逃げ道など存在しなかったということさ」
もともとカノン王子には、王都の軍が同行する手はずになっていた。そこでこのキャメルスが、自ら名乗りをあげたのである。
キャメルスの率いる部隊は二個大隊で、二千名にも及ぶ。道中の護衛役としては十分であるし、しかもこの兵士たちはグワラムとマルランで氷神の御子や妖魅と相対するという経験を有している。《まつろわぬ民》の討伐部隊としては、うってつけの存在であったのだった。
「今回の一件については、すでに大陸の全土に使者が飛ばされている。父上も、我々が王国を救う一助になると知れば、誇りに思ってくださることだろう」
心にもないことを言いながら、クリスフィアはあらためてディラーム老とイリテウスに一礼してみせた。
「では、お世話になりました。《まつろわぬ民》との決着をつけたならば、故郷に戻る前にまた挨拶をさせていただきたく思います」
「うむ。よき報せを待っているぞ、クリスフィア姫よ」
武人らしい厳粛な面持ちで、ディラーム老は激励してくれた。
その顔に、ふっと穏やかな表情がにじむ。
「儂も今少し身軽な立場であれば、同行を願いたいところであったのだが……ヴァルダヌスとイフィウスがそろっておれば、何の不足もなかろう。儂の分まで、あやつらの勇躍を見守ってもらいたい」
「ええ。あれほどの方々と戦地におもむけることを、心より栄誉に思っています」
そうして一行は、ディラーム老の執務室を出ることになった。
ディラーム老とイリテウスも、見送りのために同行してくれている。それをありがたく思いながら、クリスフィアはメルセウスに笑いかけてみせた。
「シムの前に、まずはジェノスだな。浮ついた発言は控えるべきであろうが、メルセウス殿らの故郷がどのような地であるか楽しみにしているぞ」
「はい。クリスフィア姫とともにジェノスを目指せることを、僕も嬉しく思っています」
すると、メルセウスのかたわらを歩いていたジェイ=シンが「ふん」と鼻を鳴らした。
「ジェノスまでひと月の道のりであるというのに、気の早いことだな。その途上でも、妖魅に出くわすかもしれんのだぞ?」
「でも、ようやくジェノスに帰れるんだもんねー! 集落のみんなは元気かなあ」
ジェイ=シンの伴侶たるリミア・ファ=シンは、無邪気ににこにこと笑っている。戴冠式の後、ようやく王の護衛をダリアスに引き継いで、両者も帰宅の準備をすることがかなったのだ。
そしてふたりの背後には、ギリル=ザザとホドゥレイル=スドラも並んでいる。森辺の狩人が三名そろうと、その存在感は尋常でなかった。
(確かにこのような者たちが数百名もそろっているならば、ジェノスが危険に見舞われることもなかろうな)
クリスフィアは、心中でそのようにひとりごちた。
ジェノスはシムの近在に位置するため、《まつろわぬ民》の毒牙が及んでいる可能性があると憂慮されているのだ。また、ジェノスの領内に大神の聖域が存在するという事実が、その懸念に拍車をかけているのだった。
「……森辺の集落というのは、大神の聖域の近在に位置するという話だったな?」
クリスフィアが誰にともなく問いかけると、ホドゥレイル=スドラが「うむ」と応じてくれた。
「大神の聖域はモルガの山にあり、我々は山麓の森に集落を切り開いている。我々は、もう百年以上もその地で狩人として暮らしているのだ」
「うむ。その暮らしが妖魅や《まつろわぬ民》に脅かされていないことを、西方神に祈るとしよう」
「なに、どれほどの化け物でも森辺で悪さをすることなどはできぬさ」
と、ギリル=ザザが笑顔で割り込んでくる。
「風神の御子というやつだけは、いささかならず厄介なのであろうが……それでも俺たちの同胞が、むざむざと後れを取ることはない。勝てぬ相手であるならば、勝てぬなりに頭をひねることだろう」
「同胞を、信頼しているのだな」
「当たり前だ。お前はそうではないのか、クリスフィアよ?」
ギリル=ザザの率直な物言いに、クリスフィアは笑みをこぼすことになった。
「人柄を信頼することはできても、妖魅に打ち勝てるだけの力を持っているかは、難しいところだな。それでも、わたしの父上であれば……領民のために、死力を尽くすことだろう」
ジェノスの危機は、他人事ではない。アブーフもまた、シムとの国境に存在する最北端の領地であるのだ。ジェノスではなくアブーフに《まつろわぬ民》が潜伏しているという可能性も、皆無ではないはずだった。
(だが……不思議とわたしの胸には、故郷を案ずる気持ちがわいてこない)
理由も理屈も存在しない、クリスフィアの直観である。
見も知らぬジェノスの地に思いを馳せると、わけもなく胸が騒ぐのに、故郷たるアブーフが妖魅に蹂躙されているさまは、まったく想像できないのである。
なおかつ、風神の御子とはシムの血を引く何者かであり、クリスフィアたちも最終決戦の地としてシムを目指そうとしているのに、ジェノスのことばかりが気にかかってしまう。自分たちはシムに到達することなく、ジェノスで《まつろわぬ民》と決着をつけることになるのではないか、と――クリスフィアには、そのように思えてならなかったのだった。
(まあ、決戦の地がシムであれジェノスであれ、わたしたちの使命に変わるところはない)
そしてその地には、数多くの同志が駆けつけることになる。
クリスフィアの心に不安や迷いはなく、ただ難敵に対する闘志だけがみなぎっていた。
「……本当は、フラウだけでもアブーフに帰してやりたかったのだがな」
クリスフィアがそのように言いたてると、フラウは「まあ」と微笑んだ。
「わたくしをアブーフから連れ出したのは、姫様ではありませんか? それでわたくしだけアブーフに帰そうだなんて、そんな我が儘は通りませんよ」
「うむ。その責任を果たすために、フラウを最後まで守り抜かなくてはな」
フゥライから借り受けた魔除けの護符は、レイフォンと相談した上で、新王ベイギルスに献上されることになった。よってクリスフィアも、護符の恩恵にあずかることはかなわない。
しかしシムへと旅立つ同志の中で、そのようなものを携えている人間はいないのだ。これより見舞われる災厄は、誰もが自らの力で退けなければならなかったのだった。
(必ずや、使命を果たしてみせよう。王国に明るい行く末をもたらし、そして……カノン王子やシルファたちが絶望せずに済むような世界を築くのだ)
クリスフィアの胸に宿されたのは、そんな決意に他ならなかった。