Ⅱ 離別
2020.10/31 更新分 2/2
・本日は2話同時更新です。読み飛ばしのないようにご注意ください。
「……本当に、勝手なことを言ってしまって申し訳ありません」
ティムトがレイフォンに向かって、深々と頭を下げていた。
ティムトとのつきあいももうずいぶん長いはずだが、この聡明にして偏屈なる少年がこのような姿をさらすのは初めてのことであっただろう。
白牛宮の執務室でゆったりとくつろいでいたレイフォンは、そんな感慨を噛みしめながら「いいよ」と答えてみせた。
「同じ話で、なんべんも頭を下げることはないさ。この数日間で、私も覚悟を固めることができたし……そもそも、こうなるような気がしていたのだよね」
「……僕の心情が、レイフォン様に見透かされていたということでしょうか?」
面を上げたティムトは、疑わしそうにレイフォンをねめつけてきた。レイフォンにとっては、こちらのほうが見慣れた姿である。
「うん。ティムトはことの外、カノン王子に思い入れを抱いていたようだからね。黙ってシムに旅立たせるつもりはないのだろうなと思っていたよ」
レイフォンは、そんな風に答えてみせた。
カノン王子がシムに出立すると宣言して以来、ティムトはそれに同行したいと申し出ていたのである。
もちろん公爵家の嫡子たるレイフォンは、そのように危険な旅に同行することは許されない。
つまりティムトは、主人たるレイフォンとの離別を願い出ていたのだった。
「まあ、あちらではどのような騒ぎが待ち受けているものか、想像を絶するところだしね。ティムトの知略は、きっとカノン王子らの魔術に負けないぐらい役に立つことだろう。王国の安寧を願うなら、それを引き留めることなんてできないさ」
そう言って、レイフォンは自分でいれた茶の杯を持ち上げた。
「まあ、気の毒なのは王陛下かな。これで宰相代理たる私は、まごうことなき役立たずだ。ここはきちんと然るべき相手を正式な宰相に任命してもらうしかないだろうね」
「いえ。レイフォン様であれば、きっとそのお役目を果たすこともできるでしょう」
ティムトが真面目くさった面持ちでそのように言い出したので、レイフォンは首を傾げることになった。
「冗談や皮肉を言っているようではないみたいだね。私がどれだけ非才の身であるかは、ティムトが一番わきまえているはずだろう?」
「いえ。レイフォン様は、他者のこまやかな心情を汲み取る才能をお持ちです。施政者として、その能力は得難いものであるかと思われます」
そのように語りながら、ティムトはきゅっと眉をひそめた。
「そしてそれは、僕に欠けている能力となります。僕などがいなくとも、レイフォン様は宰相として民を導くことがかなうでしょう」
「それははなはだ、疑わしいところだなあ。……でも、それでティムトが安心して旅立てるというのなら、何よりの話だね」
レイフォンは香り高いアロウの茶で唇を湿してから、杯を皿に戻した。
「それじゃあ非才の身なれども、君の主人として訓示を垂れておこうかな。……私はね、カノン王子への思い入れがなくとも、ティムトはシムに向かいたいと言い出すんじゃないかと考えていたのだよ」
「……何故です?」
「うーん、言葉にするのは難しいけれど……私はティムトがどれだけ貪欲な探究心を備えているか、知っているつもりだからね。本当は自らの目ですべてを見届けたいんじゃないかと、ずっと思っていたんだよ」
この二ヶ月半にも及ぶ数々の出来事を思い返しながら、レイフォンはそのように言ってみせた。
「決め手であったのは、あの『禁忌の歴史書』かな。ティムトは王都を見舞った災厄を退けるために、あの奇妙な書物を読みふけっていたのだろうけれども……そうでなくっても、あの不可思議な書物に魅了されていたんじゃないのかな? 何せあの書物には、王国で語られることを禁じられていた神々や魔術や暗黒時代の真実なども記されていたのだろうからね」
「…………」
「君の父上も、そういうお人だった。あの御方は身体が弱かったので、晩年は書物を読みふけることでしか世界に触れられなかったけれど……本当は、すべてを自らの目で見届けたいと願っていたはずだ。あのお人こそ、探究心の権化みたいな存在であられたからねえ」
「…………」
「ティムトはその目で、この騒動の顛末を見届けてくるといいよ。これは世界の様相を揺るがすような、大事件なんだ。それらのすべてを見届けて、自分の血肉にすることができたら――ティムトはきっと、これまで以上の叡智を手中にできるだろう。そうしたら、ゆくゆくは宰相の座を譲らせていただこうかな」
「……何度も申しあげている通り、僕は父の顔すら覚えていないのですから、そのような話を持ち出されても挨拶に困ります」
ティムトはどこかすねているようにも見える面持ちで、そのように言いたてた。
「そして、僕に宰相の座を押しつけようというのなら、レイフォン様はベイギルス陛下に玉座を押しつけられるかもしれませんね」
「あはは。私がどれだけ非才の身であるかを思い知らされたら、ベイギルス陛下だって大事なご息女に私などをあてがおうという気にもならないさ」
レイフォンがそのように答えたとき、執務室の扉が外から叩かれた。
小姓の案内で入室してきたのは、学士長のフゥライと学士リッサである。
「やあやあ、お待ちしていましたよ。実はおふたりに、ご相談があるのです」
フゥライは真っ白な髪と髭をした穏やかな老人であり、リッサは目もとにおかしな矯正器具をつけた妙齢の女性である。ただし、男性しか存在しない学士のお仕着せを纏っているために、ひょろひょろとした少年にしか見えない。
「いったいどのような用向きであろうかな。今からでも出征に加わるべしという話であるのなら……出立の準備に時間をいただきたいところだが」
「ちょっと、やめてくださいよ。これ以上の苦役を担うことなど、僕はまっぴらですからね!」
「宰相代理殿の御前であるぞ。……まったく礼節をわきまえぬ人間で、申し訳ない」
そのように詫びるフゥライも、飄然と微笑んでいる。
レイフォンは「かまいません」と笑顔を返してみせた。
「我々は、《まつろわぬ民》を打倒するための同志でありますからね。人目のないところでは、体面を取りつくろう必要もないでしょう。また、このような土壇場で同行を願うこともありませんので、ご心配なく」
「では、どういった用向きであるのかな?」
レイフォンはかたわらのティムトと視線を交わしてから、その言葉を口にした。
「おふたりには今後、白牛宮で私と行動をともにしていただきたいのです」
「えーっ!」と声を張り上げたのは、やはりリッサのほうであった。
「僕はようやく、『賢者の塔』に戻れたところであるのですよ! 有史以前の暗黒時代や魔術に関しての文献を調査せよと命じたのは、あなたがたじゃないですか!」
「うん。だからその作業を、白牛宮で果たしていただきたいのだよ」
レイフォンはゆったりと笑いながら、そのように答えてみせた。
「『禁忌の歴史書』の全容をわきまえているのは、君とフゥライ殿とティムトしか存在しない。そしてティムトはこの朝、シムへと出立してしまうため、君たちは連絡をつけやすいように、私のそばにいてほしいというわけだね」
「……このように小綺麗な場所で、文献の精査をせよというのですか?」
「うん? 小綺麗な場所だと、何か問題があるのかな?」
「僕は、黴臭くてじめじめとした書庫が好きなんです」
不平そうに口をとがらせながら、リッサはそう言った。
その子供じみた姿に、レイフォンは思わず笑ってしまう。
「この白牛宮に黴などを持ち込んだら小姓たちに叱られてしまいそうだけれども、書物だったら好きなだけ運ばせよう。だから、どうかお願いするよ」
「…………」
「カノン王子の見込みでは、この王都に再び《まつろわぬ民》の魔手が迫る可能性は低いとされている。しかし、こちらの主力の大半はシムへと旅立ってしまうため、可能な限りは守りを固めておきたいのだよ。聖剣を携えたダリアスと、元帥たるディラーム老、宰相代理たる私と、そして魔術の知識を備えた君にフゥライ殿。今後はこの五名が中心となって、カノン王子の留守を守りたく思うんだ」
それでもリッサが黙りこんでいると、フゥライが孫をたしなめる祖父のような顔で言いたてた。
「お前は王国を守るために、トゥリハラ殿から魔術の知識を授かったのだぞ。お前がそのような体たらくでは、トゥリハラ殿も決して弟子入りなどは認めまいな」
「ああもう、わかりましたよ! いちいちお師匠のことを持ち出さないでください!」
どうやら話はまとまったようだった。
レイフォンはふたりの姿を見比べながら、茶の杯を持ち上げてみせる。
「では、カノン王子らの出立を見届けたら、移転の準備を進めましょう。この執務室の隣に部屋を準備させますので、そこをおふたりの研究室としてください」
「承知いたした。出立の刻限も、もう迫っているのであろうな」
すると、フゥライの言葉が聞こえたかのように、再び扉が叩かれた。
「レイフォン様。間もなく出立の刻限となります。前庭にお越しいただけますでしょうか?」
「ああ、了解したよ」
レイフォンは杯を皿に戻してから立ち上がり、かたわらのティムトを見下ろした。
「いよいよだね。無事な帰りを待っているよ、ティムト」
ティムトは、「はい」としか答えなかった。
その色の淡い瞳には、さまざまな感情が渦巻いてしまっている。
レイフォンは、そのほっそりとした肩に手を置いてみせた。
「君なら大丈夫だよ、ティムト。君の知略で、カノン王子を支えてあげてくれ。……そしてこの旅を、ぞんぶんに楽しんでくるといい」
「……僕たちは王国を守るために、《まつろわぬ民》と雌雄を決しに出向くのですよ? 楽しんでいる余裕などあるとお思いですか?」
怒ったような口調で言い、ティムトはレイフォンを見上げてきた。
ただ、その瞳からは迷いや不安の感情が消えている。
「レイフォン様も、どうか息災に。……僕のいない間、あまり王宮をかき回さないでくださいね」
「約束はできないけれど、せいぜい微力を尽くさせていただくよ」
そうして二人は、ともに部屋の出口に向かった。
離別の刻は、もう目の前に迫っていた。