Ⅰ 旅立ちの朝
2020.10/31 更新分 1/2
戴冠式の翌日――リヴェルたちは、ついにシムへと出立することになった。
現在は早朝であり、トトスと荷車の準備ができるまで待機するように申しつけられている。場所は、白牛宮の一室であった。
リヴェルの周囲には、慕わしい人間ばかりが寄り集まっている。ナーニャ、ゼッド、チチア、タウロ=ヨシュ――故郷から放逐されたリヴェルがあちこちで巡りあうことになった、家族よりも大事に思える相手たちだ。
部屋の反対側では、シルファの一行がこちらと同じように寄り集まっている。あちらでも、出立の前に最後の安らかな時間を過ごしているのだろう。戴冠式の後にシルファが元気を取り戻したため、メナ=ファムなどはたいそう嬉しそうな様子を見せていた。
「……もう半刻もしない内に、出立の準備は整うのだろうね」
そんな風に言いながら、ナーニャはゼッドを振り返った。
「昨晩のメナ=ファムじゃないけれど、思い留まるならこれが最後の好機だろうね。ゼッドは本当に、王都を離れてしまってもいいのかい? せっかくを君を息子のように可愛がっているディラームというご老人と再会することができたっていうのにさ」
ゼッドは無表情に、ナーニャの視線を受け止めた。
その鋭い双眸には、家族や恋人を見つめるような慈愛の光が灯されている。
「ナーニャがカノン王子として生き直す道を選ぶならば、俺もヴァルダヌスとしての生を生き直そう。しかしどの道、《まつろわぬ民》を退治しない限り、選択の余地はないはずだ」
「ふん。王都に留まれば、十二獅子将の座だって返してもらえるかもしれないのに、酔狂なことだね」
そんな風に言いながら、ナーニャの真紅の瞳には甘えるような光が宿されている。ナーニャはゼッドを手放すつもりなど毛頭なく、そして――それでもゼッドの心情を確かめずにはいられなかったのだろう。十六年間を孤独に生きてきたナーニャとは異なり、ゼッドはこの王都にたくさんのしがらみを有しているのだ。
しかし、ゼッドがそのようなものに未練を残しているはずがなかった。
そうだからこそ、ゼッドはナーニャにとっての生きる希望に成り得たのである。
ゼッドがすべての過去を捨て去り、すべての情愛をナーニャひとりに捧げたからこそ、ナーニャは人間としての魂を失わずに済んだのだった。
「……それに、君もだよね、タウロ=ヨシュ。自由開拓民といえども北の民に他ならない君が、西の王都の軍勢とともにシムに向かう筋合いなんてないんじゃないのかな?」
ナーニャに水を向けられると、タウロ=ヨシュはゆったりと笑いながら「ふふん」と鼻を鳴らした。
「どうせおれには、かえるべきこきょうもない。それに、おうこくのたみどうしであらそっているばあいではないといっていたのはおまえだぞ、ナーニャ」
「それはまあ、確かにね」
ナーニャは笑いを含んだ目で、チチアのほうを見る。
その赤い唇が開かれる前に、チチアはべーっと舌を出した。
「今さらうだうだ言いたてるんじゃないよ。あたしのねぐらは、あんたが潰したようなもんなんだからね! 王子だったらその力で、もっと上等なねぐらを用意してみやがれってんだ」
「ふふ。君がどういう素性であるかを知ったら、王都の人々はタウロ=ヨシュの存在以上に辟易するだろうね」
チチアは、蛇神ケットゥアを崇拝する邪教徒の集落の生き残りであったのだ。言ってみれば、それは《まつろわぬ民》と根を同じくする、王国の敵であるはずだった。
しかしまた、チチアは自分の意思でそのような暮らしをしていたわけではない。物心がつくかどうかという幼子の頃にさらわれて、邪教徒として生きることを強いられた身であるのだ。自らの意思で王国を滅ぼそうとしている《まつろわぬ民》と、同種の存在であるわけがなかった。
また、タウロ=ヨシュはその集落で蛇神の生け贄とされるためにさらわれてきた身である。そこから何とか逃げのびたというのに、故郷である村落は妖魅に滅ぼされてしまっていた。それもまた、非業の運命と言えるだろう。
(チチアやタウロ=ヨシュに比べたら、わたしなんてまだ安楽な人生なんだろうな……)
リヴェルがそんな風に考えていると、ナーニャが悪戯っぽい微笑をたたえて振り返ってきた。
「悪いけれど、リヴェルの心情を確かめる気はないからね。君がどういう気持ちであろうとも、僕は手放すつもりなんてないからさ」
「え? あ、はい! わたしは……ナーニャとともにあります」
ナーニャは一瞬きょとんとしてから、今度はあどけない微笑をたたえた。
そして、普通の人間よりも熱を帯びた指先で、リヴェルの手をそっと握りしめてくる。
「リヴェルと出会って、もう二ヶ月以上は経っているのだろうね。あっという間だった気もするし、もう何年も経っているような気もしてしまうよ」
「そう……ですね。わたしも、そのように思います」
悪漢に襲われたところをナーニャとゼッドに救われて、それからすぐに獣の屍骸に憑依した妖魅に襲われて――レイノスの宿場町で、ナーニャの恐るべき魔力を目の当たりにして、地図にも載らない辺境へと足を踏み入れ――チチアと出会い、蛇神ケットゥアを退けて、タウロ=ヨシュと出会い、村落を襲った氷雪の妖魅を退けて――それから一行は、グワラムのマヒュドラ兵たちに囚われた。その後は、メフィラ=ネロを巡る戦いが始まって、この王都からグリュドの砦やドエルの砦にまで足をのばし、そうして最後に地神の御子たるシルファと巡りあったのだ。
これでまだふた月ていどしか経っていないのかと思うと、不思議な気分になってしまう。
スタッグの町で奴隷の子として生まれ、腹違いの兄や姉たちに虐げられていた頃の記憶など、もう何年もの昔のことのように思えてならなかった。
ナーニャと出会ってからの記憶は鮮やかな極彩色に彩られているというのに、故郷での記憶は灰色に霞んでしまっている。
故郷の記憶でまだしも心に食い入っているのは、父や母を失った悲しみぐらいのものであった。
(わたしを庇ってくれていた父さんも魂を返してしまって、わたしはすべてを失った。……でもすぐに、ナーニャと出会うことができたんだ)
だから自分は幸福なのだと、リヴェルはそのように思うことができた。
このふた月、リヴェルはさまざまな災厄に見舞われた。しかし、それらの恐怖を上回るぐらい、リヴェルはナーニャに出会えて幸福であったのだった。
ナーニャがカノン王子としての立場を取り戻したら、自分がともにあることは許されないかもしれない――かつてはそのような不安にもとらわれてしまったが、今、ナーニャはこのように優しげな眼差しで自分を見つめてくれている。
これからさらなる苦難に立ち向かうために、一行は遥かなるシムへと旅立とうとしているさなかであるのだが、リヴェルの胸には大きな喜びと希望だけがあふれかえっていた。
「……風神の御子をどうにかして、《まつろわぬ民》を殲滅することができたら、その後はどうしたものだろうね」
と――リヴェルを見つめながら、ナーニャがふいにそのようなことを言いだした。
「前王殺しの罪を許されたなら、もう逃げ隠れする必要もなくなるわけだけど……王都で暮らすなんてのは、いかにも窮屈そうだしねえ。ここはやっぱり以前からの構想通り、シムにでも居ついてしまおうか」
「シ、シムにですか? セルヴァの王子が異国で暮らすことなど、許されるのでしょうか……?」
「さあ、どうだろうね。リヴェルは、反対なのかな?」
リヴェルは胸中にあふれかえる感情に従って、ナーニャに笑いかけてみせた。
「わたしは、どこでもかまいません。隣に、ナーニャさえいてくれたら」
ナーニャは、にこりと微笑んだ。
その誰よりも美しい面には、これまででもっとも幸福そうな微笑がたたえられていた。