プロローグ 薄暮の中で
2017.1/5 更新分 2/2 ・8/15 誤字を修正
「ゼッド……おい、ゼッド、どこにいるのだ?」
黄昏刻の薄暗がりの中を、一人の若き騎士がさまよっていた。
王都アルグラッドの、宮殿の外の庭園においてである。
すでに日没が近いため、辺りには人影の一つもない。
そんな中を、彼はきょろきょろと視線を巡らせながらさまよい歩いているのだった。
まだ若い、秀麗な容姿をした騎士である。
すらりと背は高く、その身体は十分に鍛え抜かれていたが、目もとにはまだ少年っぽい面影が残されている。騎士としての白いお仕着せも、ほとんど初めて身に纏ったのではないかというぐらい、綺麗なままであった。
(まいったな。これでは約束の刻限に間に合わなくなってしまうぞ)
いくぶんの焦燥にとらわれながら、若き騎士はなおも薄闇へと呼びかける。
しかし、いつまで経ってもそれに応えようとするものは現れなかった。
北の側には、宮殿の敷地を取り囲む白い城壁が見えている。広大なる領地の、そこは北の端であるはずだった。もうしばらくすれば、城壁の上にかがり火が焚かれて、衛兵たちの巡回が始められるだろう。何としてでも、その前には目的を達さねばならなかった。
(このようなことが露見したら、物笑いの種だ。……いや、物笑いになるぐらいならまだしも、相手方にまで累が及んでしまうやもしれん)
彼は宮殿内のとある姫君の要望に従って、ゼッドを連れてきたのである。それなのに、彼が目を離したほんの一瞬の間に、ゼッドはどこかに雲隠れしてしまった。城門の守衛たちは姫君の口利きで特別にゼッドを通してくれたのだから、こんなことが露見してしまってはどんな騒ぎになるかもわからなかった。
(だからあのような粗忽者を連れてきたくはなかったのだ。まったく、主人を主人とも思わぬうつけものめ……)
そのように考えながら、若者は無人の庭園を突き進む。
やがてその行く先は、鉄の柵によってさえぎられることになった。
人間の身長の倍ほどもある、いかにも頑丈そうな柵である。
その格子の向こう側には、白い石造りの神殿が鎮座ましましている。セルヴァの大聖堂ではなく、七小神を祀った神殿であろう。まだ宮殿内への出入りが許されるようになったばかりの若者には、それがどの小神の神殿であるかはわからなかった。
しかたなく、若者はその鉄柵にそって南へと進路を変えた。
そうする間にも、いよいよ夜は迫ってきている。辺りには紫色の薄闇が垂れこめ、いくぶん気温も下がってきているようだった。
(ううむ、どうしたものだろう。あのうつけものを放ったまま、宮殿に戻るわけにもいかないし……)
煩悶しながら、足早に進む。
すると今度は、巨大な樹木の影が前に迫ってきた。
生えているのは、鉄柵の向こう側だ。ただし枝葉が大きくはみだして、こちらの側にまで黒い影を落としている。
若者が着目したのは、その根もとであった。
あまりに樹木が育ちすぎたため、木の根が盛り上がり、鉄柵の一部をひしゃげさせてしまっていたのである。
人間一人が通れそうなぐらいの隙間が、そこには出来上がってしまっていた。
若者は下顎に手をやって考え込んでから、さらにその先を透かし見てみる。
鉄柵はなだらかに湾曲しながら、どこまでも続いていた。
その途中、ここから百歩ほど進んだ辺りに、黒い人影が立ちはだかっているように見える。きっとそこが、神殿へと通じる門なのだろう。あの人影は、おそらく門衛だ。
(俺が一人でこのような場所をうろついていれば、間違いなく理由を問い質されるだろうな。そのときは、正直に理由を打ち明けるしかないだろうが……その前に、一つだけ確認させていただくか)
そのように心を決めて、若者は身を屈めた。
少し窮屈であったが、やはりひしゃげた鉄柵の隙間から向こう側に忍び込むことはできそうであった。
彼が捜し求めているゼッドであれば、いかにも悪戯心を起こして、このような場所をくぐってしまいそうな気がする。ということで、若者はまだ名も知れぬ小神に心中で許しを乞うてから、神殿の敷地内に侵入させていただくことにした。
門衛に見とがめられないよう、まずは建物の裏手へと向かう。
窓にはすべて帳でも掛けられているのか、どこにも燭台の灯などは見て取れない。若者は身を低くしたまま、手入れのされていない下生えの上を踏み越えていった。
それから五十歩といかぬ内、行く手の暗がりで黒い影が蠢くのが見えた。
若者はいっそう足を急がせて、そちらに近づいていく。
「ああ、ゼッド。こんなところにいたのか、お前は」
ゼッドは、きょとんとした目で若者を見上げてきた。
黒くて大きな、つぶらな瞳である。少しは叱ってやらねばと考えていた若者も、そのとぼけた目つきには苦笑を誘われてしまった。
「いったいこのような場所で何をやっているのだ? だいたい、頭の上に乗せているそれは、何だ?」
ゼッドの平たい頭の上には、小さな生き物がちょこんと乗っていった。
真っ白で、赤い瞳をした小鳥である。名前はわからないが、ずいぶんと珍しい色合いをした小鳥であった。
「猟犬であるお前が小鳥とたわむれてどうするのだ。まったく、お前というやつは――」
「へえ、それじゃあやっぱり、そいつはジャガルの犬という獣だったんだね。図鑑とそっくり同じ姿をしていたから、そうだろうとは思ってたんだけどさ」
いきなり足もとから呼びかけられて、若者は飛び上がるほど驚いてしまった。
すかさず腰の短剣に手をのばし、視線を地面に走らせる。
「な、何者だ? いったいどこから声をあげているのだ?」
「あんまり大きな声をあげると、門衛たちに気づかれてしまうよ? それに、ナーニャが驚いてしまうじゃないか」
「ナ、ナーニャ?」
「ナーニャというのは、その小鳥のことさ。ナーニャは僕の、ただひとりの友達なんだ」
それから響く、くすくすという笑い声。
背筋に粟を生じさせながら、若者は猟犬ゼッドのかたわらに膝をついた。
建物の一番低い部分、ほとんど地面に接するぐらいの位置に、小さく窓が切られていたのだ。辺りに人影がない以上、声はそこから聞こえてくるのだとしか考えられなかった。
「お、お前は何者だ? そのような場所で何をやっているのだ?」
「それはこちらの台詞だよ。その愉快な獣といい君といい、いったいどこから入り込んできたのさ? このエイラの神殿は、頑丈な鉄柵で守られているんじゃなかったっけ?」
それは確かに、侵入者のそしりを受けるべきは若者のほうであるはずであった。相手は何者であれ、建物の中から若者に呼びかけてきているのである。
「失礼した。俺はこの気ままな猟犬を捜すために、鉄柵の隙間からお邪魔させていただいたのだ。許していただければ、ありがたい」
「許すも許さないもないよ。僕には人を責めたり罰したりする権限は与えられていないのだから」
また、笑い声。
それは、若者の不審の念をかきたてるのに十分な不吉さを有していた。
「重ねて問うが、そちらは何者なのだ? それに、どうしてそのような場所に? 察するところ、そこは半地下の物置か何かであろう?」
「僕が誰かだって? やっぱり君は、新参者なんだね。しばらく宮殿内に出入りしていれば、嫌でも僕の名は耳にするはずだよ」
「いかにも俺は、新参だ。昨年に従士としてのつとめを終えて、騎士として叙任され、ようやく先頃から城門を通ることが許されるようになったのだ」
「なるほど、騎士か。それまで宮殿に踏み入ることを許されてなかったってことは、爵位を持たない下級騎士だね。……まあ、どんな人間でも僕よりは上等な身分なんだろうけどさ」
笑っていなくとも、その声自体が不吉な響きを帯びていた。
ごく幼い子供の声である。少年か少女かもわからない透明な声音であるから、まだ十歳ぐらいの幼さであろう。そうであるにも拘わらず、妙に大人びていて、何もかもをわきまえているような老成した気配までもが感じられてしまう。
「顔が見えないね。そのゼッドという愉快な獣みたいに、もっとこちらに近づいてみてくれない?」
「そうしたら、そちらの素性を明かしてもらえるのだろうか?」
「うん、いいよ。そうしたら、君の名前も聞かせてくれる?」
若者は、しばし悩んでからその言葉に従うことにした。このようにあやしげな存在は、どのような身分の人間であるのか、しっかり知っておくべきだと判断したのだ。
猟犬と小鳥に見守られながら、お仕着せを汚してしまわないように気をつけつつ、身を伏せる。
壁に切られた窓は、ごく小さかった。高さは人間の手の平ぐらい、横幅は腕の長さぐらいで、等間隔に鉄の格子が嵌められている。その向こう側に見えるのは、外界よりも濃い闇であった。
「何も見えないぞ。燭台を使っていないのか?」
「燭台なんて、僕に与えられるわけがないじゃないか。そんなもので神殿を燃やされたら大変だろう?」
闇の向こう側から、また底意地の悪そうな笑い声が響いてくる。
「こちらからは、よく見えるよ。なかなか綺麗な顔をしているね。……といっても、これまで人間の顔なんて数えるぐらいしか見たことはないけどさ」
それから、何か重いものを引きずるような音色が聞こえてきた。
「ちょっと待っててね。寝台をずらして足場にするから」
「寝台? お前はそこで暮らしているのか? ……ひょっとしたら、病人か何かなのか?」
「いちおう、そういうことにされてるみたいだね。本当のところは、どうだかわからないけど」
そしていきなり、暗がりの中に赤いものが輝いた。
若者は、思わず「うわ」と身を引いてしまう。
そこに現れたのは、血涙石を思わせる、妖しい真紅の双眸であったのだった。
「見えるかな? 初めまして、名も知らぬ騎士さん」
そうしてその者は、にっこりと微笑んだ。
それはさきほどまでの不吉な笑い声が嘘のような、年齢相応の無邪気な笑顔であった。
忌み子としてエイラの神殿に幽閉されていた第四王子と、のちに十二獅子将となる若き騎士は、そうして薄暮の中で邂逅を果たしたのだった。
彼らが許されざるべき叛逆者として王都を出奔することになったのは、それからおよそ五年後の話である。