Ⅴ-Ⅸ 追想
2020.10/24 更新分 1/1
「やれやれ、まったく肩の凝る一幕だったね」
大広間と控えの間をつなぐ回廊を歩きながら、カノン王子はそのように言い捨てた。
そのほっそりとした後ろ姿を、メナ=ファムは斜め後方からうかがっている。ともに歩を進めているのは、シルファとロア=ファム、ヴァルダヌスとリヴェルの四名で、それを先導しているのは、祝典への参加を固辞したイフィウスだ。
「だけどまあ、これで雑事も一段落だ。明日には、いよいよシムに出立できるはずだけど……みんな、覚悟は固まっているのかな?」
この場には、寡黙な人間ばかりが集まってしまっている。よって、メナ=ファムが答える他なかった。
「あたしには、他人の心を透かし見る力なんて備わっちゃいないけどさ。覚悟の固まっていない人間なんざがあんたの周りをうろちょろしてたら、とっくに魂を返してたんじゃないのかねえ」
「ふふ。それは、もっともかもしれないね」
カノン王子はメナ=ファムに横顔を見せながら、妖しく唇を吊り上げた。
美しいが、得体の知れない微笑みである。
(うちのシルファがあんな笑い方をしなくて、幸いだ。……この王子さんも、素直にしてりゃあ可愛いところもあるってのにねえ)
メナ=ファムたちがこのカノン王子と巡りあってから、すでに二十日ほどが経過している。その間に、メナ=ファムの覚悟はとっくに固まっていた。
シルファやカノン王子と同じ境遇にあるという風神の御子とやらを、《まつろわぬ民》という一味から救い出すか――それがかなわぬことならば、《まつろわぬ民》ともども滅殺するのだ。
それでシルファの罪が許されるというのなら是非もないし、それに、《まつろわぬ民》という輩の無法を放っておくことなどできるはずもなかった。
(そいつらさえいなければ、シルファがあんな目にあうこともなかったんだ。そんな連中を、ただで済ますもんかい)
シルファとエルヴィルが道を誤ったのは、まぎれもなく自分たちの意思であろう。しかし、その原因であった赤の月の災厄は《まつろわぬ民》の陰謀であったし、シルファにあのような呪いをかけたのも、《まつろわぬ民》に他ならないのだ。ならばそれはメナ=ファムにとって、まじりけのない仇敵と言えるはずであった。
(だからあたしには、迷いも気後れもありゃしないけど……)
と、メナ=ファムはかたわらを歩くシルファに視線を落とす。
人目をはばかるために修道服というものを着させられたシルファは、半透明の織物を顔に垂らしており、表情もうかがえない。しかし、そこに隠棲した老人のごとき静謐さしかたたえられていないことは、想像するまでもなかった。地神の御子として覚醒して以来、シルファはいまだ正気を取り戻していなかったのだ。
言葉をかければ返事はあるし、時には笑顔を見せたりもする。
しかしシルファは、どこかまともではなくなってしまっていた。起きたまま夢の中をさまよっているかのように、反応が鈍いのだ。もとより感情の起伏は少ないシルファであったが、それにしても普通でないことは確かだった。
(こいつは本当に、呪いの影響なのか? もしかして、シルファは……いまだにエルヴィルの死を受け止めきれてないんじゃないのか?)
メナ=ファムはそのように考えていたが、さりとて確かめる手段はなかった。また、カノン王子にはなるべくシルファを刺激しないようにと言いつけられてしまっているのだ。
シルファはメナ=ファムの存在によって人間として生きる希望を見出しているのだと聞かされていたが、エルヴィルを失った悲しみを実感したら、また異形の怪物に変じてしまうのではないか――そんな危機感が、メナ=ファムの心にこびりついてしまっていた。
(あたしがどんなに踏ん張ったって、家族の絆ってやつにかなうわけがないんだ。本当にあたしなんかが、シルファを支える役に立てるのか?)
メナ=ファムが暗澹たる心地でそのように考えたとき、ようやく控えの間に到着した。
イフィウスが扉を開けると、人の熱気とざわめきがあふれかえってくる。この場には、《まつろわぬ民》を巡る関係者でありながら、戴冠式に参席することのかなわなかった面々が集められていたのだ。
「おお、戻ったか。ご苦労だったな、お前たち」
その中で、ひときわ強烈な生命力を発散させているギリル=ザザが、酒杯を片手に笑いかけてきた。彼らは卓を囲んで座しており、卓の上には豪勢な料理が並べられている。彼らも晩餐のさなかであったのだ。
ギリル=ザザの他に顔をそろえているのは、ラムルエルとドンティ、チチアとタウロ=ヨシュ、祓魔官のゼラ、メナ=ファムが本日初めて顔をあわせたギムとデン――それに、見覚えのない壮年の男であった。
「ルイド、ぎでいだのが」
イフィウスが濁った声で呼びかけると、その人物は「うむ」とうなずいた。いかにも武官らしい精悍な面立ちであるが、いくぶん頬がこけており、どこか病み上がりを思わせる雰囲気である。
「ようやく身体の自由がきくようになったので、挨拶に参じさせてもらった。まあ、この場にはゼラ殿ぐらいしかわたしを見知った相手もいないのだが――」
「なに、俺も挨拶をさせてもらって嬉しく思っているぞ、ルイドよ」
そんな風に相槌を打ってから、ギリル=ザザはメナ=ファムらに向きなおってきた。
「このルイドなる者は、あのダリアスという将軍の副官であったそうだ。それで《まつろわぬ民》の手の者によって、ひどい目にあわされたのだそうだぞ」
「そうそう。それでもって、ルアドラ騎士団はいまだ団長が不在の状態でありやすからね。もうちっとばっかりお元気になれば、きっとこちらのルイド殿こそがその座を担うことになるんでしょう」
酒気で顔を赤くしたドンティも、そのように言いたてた。やはりこの場の熱気の大部分は、ギリル=ザザとドンティがかもしだしているのであろう。その他には、場を騒がせるような人間も見当たらなかった。
「……ところでイフィウスは、明日にもシムに出立するそうだな」
と、ルデンが静かな声音で問い質すと、今度はイフィウスが「うむ」と応じた。
「わだじにも、じゅうにじじじょうのざをあだえだいどいうおごどばをいだだげだのだが……わだじは、ガノンおうじにどうごうざぜでいだだぐごどにじだ」
「うむ。そしてその行き道では、ジェノスに立ち寄ることになる。お前たちは、かつてジェノスに出向いたことがあるそうだな」
愉快そうに笑いながら、ギリル=ザザが口をはさんだ。
「たった今その話を聞かされて、俺もたいそう驚かされたところだ。そのような話を黙っているなどとは、ずいぶん人が悪いではないか?」
「……ぞれはもう、にじゅうねんいじょうもまえのばなじだ。ぞのようにぶるいばなじをもぢだじでも、ぜんなぎごどであろう」
そんな風に語りながら、イフィウスはカノン王子らに座るよううながした。
しかしギリル=ザザは、「いやいや」と言葉を重ねる。
「たかだか20年ていどならば、まるまる人間が入れ替わるわけでもない。きっと森辺の集落には、お前たちを見知った人間も数多く居残っていることだろう。これは、ジェノスに辿り着く日が待ち遠しいところだな!」
「……わだじだぢは、ずうごうなるじめいをおっでジェノズにむがうのであっで、ぞのようなざづぢにがまげでいるいどまはない」
「しかしそれでも、イフィウスを羨ましく思うぞ。わたしも剣を振るう力が戻っていたなら、同行を願いたかったほどだ」
武人らしく引き締まったルイドの顔に、ふっと穏やかな微笑がたたえられる。
それを見返すイフィウスは――やはり、鼻と口もとを覆う器具のために、表情も判然としなかった。
「……森辺の狩人というのは、生来から妖魅を相手取れる力を有しているようだからね。君たちのような人間が何百名も存在するというのなら、たとえ《まつろわぬ民》が近在に潜伏していたとしても、ジェノスという領地は無事であるだろうと思うよ」
カノン王子が口を開くと、室内の空気が一瞬だけ張り詰めた。
しかしそれは、すぐさまギリル=ザザの力強い笑い声によって粉砕されてしまう。
「それはまあ、俺の親父たちであれば妖魅などギバと一緒に斬り伏せてしまうことであろう。しかし、風神の御子とやらだけは、さすがに手に余るのであろうな」
「うん。そしてジェノスというのは驚くべきことに、大神の聖域を領内に抱え込んでいるそうだね。そんな馬鹿げた環境が、いい風に働くのか悪い風に働くのか……なかなかに悩ましいところだよ」
「ふん。《まつろわぬ民》はグワラムにおいて、聖域の民をも誑かして、己の手駒に仕立てあげたという話だったな」
黒い瞳を強く明るく輝かせながら、ギリル=ザザはその手の酒杯を高く持ち上げた。
「まあ、モルガの聖域で暮らす赤き民たちが、うかうかと誑かされることはあるまい。俺は親父たちから話を聞くばかりだが、赤き民というのは途方もない力を持つ一族であるらしいからな」
「そうであることを、願うばかりだね」
チチアやタウロ=ヨシュと合流したカノン王子は、いくぶんくつろいだ様子で食事を開始した。
メナ=ファムたちもラムルエルと合流できたわけだが、こちらは会話が弾むこともない。シルファがもとの人間らしさを取り戻すまで、メナ=ファムたちの気持ちが晴れることはありえないのだ。
「ねえ、最後にもういっぺんだけ確認させてもらいたいんだけど……」
メナ=ファムがそのように言いかけると、弟のロア=ファムが「ああ?」と黄色い目を光らせた。
「なんだ? まさか、まだ明日からのことでぐだぐだ文句を抜かすつもりではないだろうな?」
「いや、あんたが無理に同行する必要はないはずだろう? あんたの罪は許されたんだから、このままシャーリに戻ったって――」
「ふざけるな!」と、ロア=ファムが声を張り上げた。
談笑していた人々も、びっくりまなこでこちらを振り返る。
「あれだけ人を振り回しておいて、俺だけシャーリに戻れだと? お前というやつは、どれだけ勝手な人間であるのだ!」
「ロア=ファム。落ち着き、必要です」
ラムルエルが、感情の欠落した面持ちでたしなめる。両名はメナ=ファムを間に通して、すでに気安い関係を築きつつあったのだが、この際はラムルエルにもロア=ファムの怒りが向けられてしまう。
「これが落ち着いていられるか! 出立は明日に迫っているというのに、こいつは――!」
「ロア=ファム、気持ち、わかります。私、間違っている、メナ=ファム、思います」
ラムルエルの澄みわたった黒瞳が、メナ=ファムのほうに向けられる。
「メナ=ファム、想像、必要です。あなた、逆の立場なら、故郷、帰りますか?」
「いや……そもそもロアだったら、あたしみたいに馬鹿な真似はしないだろうさ」
「ですから、想像するのです。あなた、逆の立場なら、故郷、帰りますか?」
「……そりゃあ、無理にでもついてくだろうさ」
「はい。答え、出ています。よって、ロア=ファム、憤慨しているのです」
ラムルエルが、わずかばかりに目を細める。それだけで、まるで微笑んでいるかのように優しげな表情になった。
「あなたたち、強い絆、結ばれています。力、あわせて、苦難、退けるべき、思います」
「うるさいねえ。あんまり小っ恥ずかしいことを口走るんじゃないよ」
メナ=ファムはラムルエルの顔から目をそらして、シルファのほうをちらりとうかがった。
シルファは頭のかぶりものを外して素顔をさらしていたが、こちらの騒ぎなど気に止めた様子もなく、ぼんやりと卓上の料理を見回している。その顔には、やはり老人めいた表情しか浮かべられていなかった。
メナ=ファムとて、弟の存在を忌避しているわけではない。それどころか、このように危険な道行きに同行してくれることを、心から頼もしく思っているのだ。
しかし――兄を失ったことで絶望の底に突き落とされたシルファの前で、そのような思いをあらわにすることができるはずもない。メナ=ファムは無事に弟と再会できたことを、後ろめたく思ってしまっていたのだった。
(こんな気遣いが、正しいわけはない。あたしはまだ、シルファと真っ直ぐ向き合えていないんだ。あたしはいったい、どうすりゃいいってんだよ?)
メナ=ファムがそんな風に考えたとき、長身の人影がこちらに近づいてきた。
誰かと思えば、カノン王子の連れであるヴァルダヌスだ。この寡黙な青年が自分からメナ=ファムたちに近づいてくるのは、初めてのことであった。
「食事中に、申し訳ない。少し、いいだろうか?」
彼は右頬に火傷を負っているために、イフィウスほどではないが言葉が不自由である。顔の皮膚が引き攣れてしまって、口を開くのが困難であるのだろう。
しかしそれ以外は、貴公子然とした面立ちだ。なおかつ、森辺の狩人という規格外の存在を除けば、誰よりも優れた剣士であるはずだった。
「なんだい? 食事の場を騒がせちまったことなら、謝るよ」
「いや……俺はそちらの、シルファと語らせてもらいたく思っている」
メナ=ファムはますますわけがわからなくなって、少し離れた場所に座っているカノン王子たちのほうを振り返ってしまった。
気の置けない仲間たちに囲まれながら、カノン王子は薄く笑っている。その笑みが何を示すのか、メナ=ファムには読み取ることも難しかった。
「わたしにご用事でしょうか? どうぞ何なりとお話しください」
虚ろな微笑をたたえながら、シルファはそのように応じてしまった。
ヴァルダヌスは――何を思ったのか、シルファのかたわらに膝をつく。
「シルファ。お前には……ずっと謝罪したいと考えていた」
「謝罪……?」
「うむ。お前の兄たるエルヴィルは、俺のために道を踏み外してしまったからだ」
「ちょっと!」と、メナ=ファムは割り込んでみせた。
「シルファを刺激するなって言いだしたのは、そっちだろ? どうしていきなり、そんな話を持ち出すのさ!」
「俺も、ナーニャに確認した。ようやく許しが出たので、この場に参じたのだ」
この男は、いまだカノン王子のことをナーニャと呼んでいるのだ。
メナ=ファムはカノン王子をにらみつけたが、やはりそちらは本心の知れない微笑をたたえるばかりであった。
「そちらも俺のことは、エルヴィルから聞いていたと思う。そして俺も、エルヴィルからそちらのことを聞いていた」
「……兄さんが、わたしのことを?」
「うむ。名前や素性を聞いていたわけではないのだが……あいつはずっと心の一番深い部分で、お前のことを気にかけていたのだろうと思う」
猛禽のように鋭いヴァルダヌスの瞳が、どこか必死な光をたたえてシルファを見つめている。
シルファのほうは――どこか困惑した表情で、それを見返していた。
「助けたい人間を助けられないというのは、自分の無力さを思い知らされるばかりで、それは苦しいものであると……そして、いつか平和に暮らせる家でも持てたら、これまで不幸であった分を埋め合わせしてやるつもりだと……あいつはかつて、そのように語らっていた。あいつはお前を助けたい一心で、すべての力を尽くしていたのだ」
「兄さんが、そのようなことを……」
「そのために、あいつは剣士として無類の働きを見せていた。その甲斐あって、貴族との縁故もない身で、千獅子長にまで成り上がることがかなったのだが……それが貴族の反感を招いて、王都を追放されることになってしまった」
動かしにくい唇を懸命に動かして、ヴァルダヌスは言葉を綴っていった。
「俺は、それを守ってやることができなかった。あいつを千獅子長にまで引き立てたのは俺であったのに、そこから生じた災厄からあいつを守ることができなかったのだ。俺がもっと目を配っていれば、あいつが王都を追放されることもなかった。俺もまた、お前たち兄妹に絶望をもたらした人間のひとりであったのだ」
ヴァルダヌスは、膝の上に置いた左の拳をぐっと握り込んだ。
「さらに俺は、前王殺しの疑いを晴らさぬまま、王都から逃げ出してしまった。俺が安楽な道を選んだがゆえに、エルヴィルは道を踏み外してしまったのだ。あいつが俺などのために偽物の王子を仕立てあげたりしなければ、このようなことにはならなかったのだろうから……俺は二重の意味で、あいつに苦難を押しつけてしまったのだ」
「…………」
「あいつが生命を落としてしまった責任は、俺にある。どのように謝罪を重ねても、運命を巻き戻すことはかなわないのだろうが……それでもどうか、詫びさせてほしい」
「いえ……」と、シルファは囁くような声音で答えた。
「あなたが詫びる必要など、ないはずです。でも……あなたがそのような御方であるからこそ、エルヴィル兄さんはあなたに魅了されたのでしょうね」
シルファのまぶたが、青灰色の瞳を隠す。
その美しい面にあの禍々しい紋様が浮き上がることを想像して、メナ=ファムは思わずシルファの手を取ることになった。
シルファはまぶたを閉ざしたまま、メナ=ファムの手をそっと握り返してくる。
「あなたのことは、何度となく聞かされていました……王都で一番の剣士でありながら、誰よりも清らかな心を持ち……卑しき身である自分などを、千獅子長に取りたててくれたのだと……兄さんは、心からあなたのことをお慕いしていました」
「しかし、俺は――」
「あなたがエルヴィル兄さんにもたらしたのは、大いなる幸いです。決して不幸や災厄などではありません。そのことを、わたしは信じています」
シルファの閉ざされたまぶたから、透明の涙があふれかえった。
その口もとには、慈母のごとき微笑みが浮かべられている。
「兄さんは、強く後悔していました……あなたのおかげで千獅子長の座を得ることがかなったのに、貴族などの挑発に乗って、すべてを失ってしまった……あなたから受けた信頼や友愛を、自分のせいで台無しにしてしまったのだと……ずっとそのように悔いていたのです」
「友愛……エルヴィルが、俺などのことを友と呼んでくれたのか?」
「はい。最初にそう呼んだのは、あなたのほうなのではないのですか? あなたはれっきとした貴族であり、しかも将軍というお立場であられたのに、自分などのことを二年来の友人だと言ってくれたのだと……わたしは、そのように聞いています」
「二年来の友人……ああ、言った。俺はその場で、初めてお前の存在をエルヴィルに聞かされたのだ」
「そうでしたか……きっと兄さんも、せめてあなたとひと目お会いしてから、魂を返したかったことでしょう……」
滂沱たる涙をこぼしながら、シルファはそう言った。
「そして兄さんは、あなたが生き永らえていたことを、心から嬉しく思っていたはずです……だからどうか、ご自分が兄さんに不幸をもたらしたなどとは考えないであげてください……兄さんにとって、あなたはかけがえのない存在であったのですから……」
「シ、シルファ、大丈夫かい?」
メナ=ファムは我慢がきかなくなって、そのように呼びかけてしまった。
シルファは透き通った微笑をたたえたまま、メナ=ファムのほうを振り返ってくる。
「大丈夫……わたしはもう大丈夫です、メナ=ファム」
シルファのまぶたが、ゆっくりと開かれた。
涙で輝くその瞳には、とても優しくてとても穏やかな光がたたえられている。
「わたしはずっと、自分の悲しみにばかり心をとらわれてしまっていました……まるで、自分ひとりが絶望を抱え込んでいるような浅ましさで……本当に、お恥ずかしい限りです」
「そんなことはないよ。実際に、あんたは誰よりもひどい目にあっちまったんだからね」
メナ=ファムはそのように言いたてたが、シルファは「いえ……」と小さく首を振った。
「わたしは今こそ、エルヴィル兄さんの無念を晴らしたく思います……兄さんは生きてさえいれば、こちらのヴァルダヌス様と再会することがかなったのに……そんな希望を摘み取った《まつろわぬ民》を……わたしは、決して許しません」
シルファはメナ=ファムに握られているのとは逆の手で、目もとの涙をぬぐい取った。
そうして涙がぬぐわれても、シルファの瞳には透明の輝きがあふれかえっていた。
「ずっとうじうじ思い悩んでしまって、申し訳ありませんでした。どうかエルヴィル兄さんのために力をお貸しください、メナ=ファム。……メナ=ファムがいてくれたからこそ、わたしはこのように思うことができたのです」
メナ=ファムは、胸の奥底から突き上げてくる激情に、息が詰まりそうなほどであった。
シルファがようやく、自分を取り戻したのだ。
いや――かつてシルファが、これほど力のある目つきをしたことがあっただろうか?
清楚で、たおやかで、とても優しげでありながら、シルファにはかつて存在しなかった新しい力があふれかえったかのようだった。