Ⅳ-Ⅸ 王と王子
2020.10/18 更新分 1/1
カノン王子は、よどみのない足取りで白牛宮の大広間に踏み入ってきた。
玉座のそばに整列したダリアスは、その姿を間近から見守ることができた。
大広間には、驚嘆の念が沸騰してしまっている。
しかしそれも、無理からぬことであったろう。もとよりこの世のものとも思えぬほど美しいカノン王子が、王家の礼服を纏って入場してきたのだ。
そのほっそりとした身体に纏っているのは、しみひとつない純白の長衣であった。
襟や袖には、赤い糸で瀟洒な刺繍がされている。胸もとにきらめくのは、真紅の宝石と銀の鎖の飾り物だ。華奢な肩には真紅の絹で織られた肩掛けを羽織っており、そこには銀色の糸で刺繍が施されている。それらはおそらく意図的に、真紅と純白と白銀によってのみ構成された装束であったのだった。
また、王子自身の白銀の髪も、侍女の手によって綺麗にくしけずられて、それ自体が装飾品であるかのようである。
その肌も作り物のように白くなめらかで、切れ上がった目の瞳と唇だけが、血のように赤い。
これが俗世の存在だということが信じられないほどの、美しい姿であった。
カノン王子の姿にようやく見慣れたところであったダリアスでさえもが、しばしは魂を奪われることになってしまった。
(この美しさには、呪いなどまったく関係ないのだろう。本当に……驚くべきお人だな)
そして、そんなカノン王子の後には、五名もの人間が追従していた。
騎士の礼服を纏った人間が三名、修道女のお仕着せを纏った人間が二名である。
前者はヴァルダヌスとメナ=ファムとロア=ファム、後者はリヴェルと――そして、地神の御子たるシルファであった。
シルファをこの場に招くことに関しては、あちこちから反対の声があげられていた。そのように危険で怪しげな存在を神聖なる戴冠式に招くことはまかりならんと、そんな風に考える人間が少なからず存在したのだ。
しかし、危険であるからこそ、シルファをカノン王子から引き離すことはできなかった。彼女がもしも『神の器』としての本性をあらわにしたならば、それに対抗できるのはカノン王子のみであるのだ。そうして最終的には宰相代理たるレイフォンが強権を発動して、すべてを丸く収めたのだった。
カノン王子はダリアスたちの鼻先を通りすぎて、レイフォンのもとで立ち止まる。
そちらにうなずきかけてから、レイフォンは大広間の面々に向きなおった。
「こちらがカイロス前王の遺児、カノン王子殿下であられます」
大広間の人々はいまだ驚嘆さめやらず、カノン王子の美しさに見入ってしまっている。
それと相対するカノン王子は、ふてぶてしいまでの沈着さを保っていた。
「各諸侯もご存じの通り、かつてカノン王子殿下とヴァルダヌス元将軍には前王殺しの疑いがかけられておりました。その身の潔白が晴らされたことも、すでに周知されている通りです。それらはすべて《まつろわぬ民》なる邪神教団の陰謀であり、カノン王子らに罪はなし、と――新王ベイギルス陛下はそのように裁定を下されました」
もはや王都に、《まつろわぬ民》の存在を疑う者はない。ダリアスがグリュドの砦を目指している間に、王都は氷神の御子とそれの率いる妖魅どもに襲撃されていたのである。それを退けたのがカノン王子であるということも、すでに王都には知らしめられていたのだった。
「そして、ゼラド軍を煽動したという罪に問われたこちらのシルファなる者も、今日この日に恩赦が与えられることとなりました。それもまた、《まつろわぬ民》の陰謀であったという証が立てられたのです。彼女には、《まつろわぬ民》を討伐するという任務に力を添えていただくことになっております」
シルファは人相を隠すための織物をかぶっており、その表情はうかがい知れない。また、誰もがカノン王子に目を奪われているため、そちらに注目する者は多くなかった。
「王都を見舞った災厄は退けられましたが、《まつろわぬ民》はいまだ何名かが生き残り、王国に牙を剥こうと暗躍しております。それを未然に防ぐため、カノン王子殿下とシルファには力を尽くしていただくことになりましょう。それは王陛下の御意でありますため、各諸侯にもどうかご理解をいただきたく思います」
レイフォンは、普段通りの優雅さで言葉を綴っていく。
その目が、かたわらのカノン王子に再び向けられた。
「では、カノン王子殿下にもお言葉を賜りたく思いますが……如何でありましょう?」
カノン王子は横目でレイフォンを見やってから、赤い唇をわずかに吊り上げた。
「このような場でも、僕に語れというのかい? ……まあ、僕もいちおう自分の心情というやつを打ち明けておいたほうがいいのかな」
大広間に、さらなるどよめきが走り抜ける。
そんな中、カノン王子は玲瓏なる声音で語り始めた。
「こちらの宰相代理殿が仰っていた通り、僕は《まつろわぬ民》との決着をつけなければならない。先日王都を騒がせたメフィラ=ネロのような存在がもう一名、大陸のどこかで顕現の日を待っているはずだからね。それを討伐するためには、王国の力というものも必要だろうから……僕はこうして、宰相代理殿のお言葉に従うことになったわけだよ」
普段通りの、ぞんざいな物言いである。
しかし、その声音と口調には、王家の人間に相応しい威厳がにじんでいるように感じられてならなかった。
「心配せずとも、僕たちは明日にも王都を出立する。《まつろわぬ民》は、おそらくシムかその近在で悪さをしているはずだからね。次の戦場は、きっとそちらになるだろう。だから、僕のような厄介者の処遇に頭を悩ませることはない。……そしてありがたいことに、僕の王位継承権は剥奪されたままなのだよね?」
「はい。魔術を禁忌とする王国において、『神の器』なる呪いをかけられてしまったカノン王子殿下を王と成すことはかなわないのです」
「本当に、心からありがたく思っているよ。僕は《まつろわぬ民》の相手をするのに手一杯で、玉座を巡る権勢争いなどにかかずらっているいとまはないからね」
そうしてカノン王子は、人間をたぶらかす悪い精霊のように微笑んだ。
「君たちにも、この場で念を押させていただこうかな。……おそらく僕は王位継承権を剥奪されていなかったら、現在の王よりも正統な血筋であるのだろう。何せ、前王の第四王子なのだからね。前王殺しの疑いが晴らされたなら、僕こそが玉座に座るべきだ――なんて理屈も成立してしまうかもしれない」
その玉座で、ベイギルスがびくりと肥え太った身体を震わせた。
そちらを振り返ることもないまま、カノン王子は言葉を重ねていく。
「だけど僕には、王たる資格というものが存在しない。たとえ『神の器』の呪いから解放される日がやってきたとしても、僕なんかを王に据えることは絶対にかなわないのだよ」
「それは何故です?」と、レイフォンが不思議そうに問うた。
カノン王子は咽喉で笑いながら、宣言する。
「だって僕は、半陰陽だからね。僕は男であり、女でもある。だけどおそらくは、子を生す機能が備わっていないのさ。それでは跡継ぎを残すこともできないのだから、王には不適格だろう?」
広間に、新たな衝撃が走り抜ける。
カノン王子が半陰陽ということは、ごく一部の人間にしか知らされていなかったのだ。
「だから、僕を権勢争いの道具にすることはあきらめてもらおう。そもそも僕は玉座なんかにこれっぽっちの興味もないんだから、そんな面倒事に巻き込もうとする人間が現れたなら、遠慮なく敵と認定させていただくよ」
人々のどよめきを嘲笑うかのように、カノン王子はそう言った。
しかしダリアスは、ひそかに考える。半陰陽とは、本当に子を生すことのできない存在であるのだろうか?
(俺は半陰陽についてなど、何の知識も携えてはおらぬ身だが……もしかしたらカノン王子は、権勢争いから逃れるためにあえてそのように言いたてているのではないだろうか)
何にせよ、カノン王子が玉座を巡る権勢争いを忌避していることに疑いはなかった。この美しい王子は、自分にとっての大事な存在を守り抜くことだけに注力したいと願っているのだ。
「僕からは、以上だけど……ここはやっぱり、新王陛下にもご挨拶をさせてもらったほうがいいのかな」
と――カノン王子は、ふいに玉座を振り返った。
ベイギルスは、また大きく身体を震わせる。今にもかたわらのジェイ=シンに取りすがってしまいそうな様相だ。
そんなベイギルスを見返しながら、カノン王子はふわりと片方の膝を折った。
「ベイギルス王陛下――あなたは僕の、叔父君であられるのですよね」
カノン王子の口調が一変し、それがまた人々を驚かせた。
ベイギルスは裂けんばかりに目を見開きながら、硬直してしまっている。
「父たる前王に忌み子として幽閉されていた僕には、肉親に対する情愛というものが欠落してしまっています。でも、これまで存在すら知らされていなかったあなたのことをお恨みする気持ちは持ち合わせておりません。どうかそれを信じていただけますでしょうか?」
「う……うむ……そ、其方は、何を……?」
「僕は、感謝しているのです。あなたがさまざまな災厄を退けて、その玉座に座ってくださったことを」
ベイギルスの前にひざまずきながら、カノン王子は薄く笑っていた。
ただ、普段の皮肉っぽい笑い方ではない。時おり見せるあどけない笑顔でも、魔性のように妖艶な笑顔でもなく――それは自分でも自分の感情を見定められていないような、どこか人間らしい微笑みであった。
「王国には、王が必要です。その重責を担うことのできない僕は、王国に仇なす存在を迎え撃つために、この身の力を尽くしたく思います。その資格を僕に与えてくださったことを、心より感謝いたします」
そうしてカノン王子は、ごく自然に頭を垂れた。
ベイギルスは慌てふためいた様子で、視線をさまよわせる。それを受け止めたのは、かたわらに控えるジェイ=シンとリミア・ファ=シンであった。
ジェイ=シンは、厳しい眼差しで王をねめつけている。
リミア・ファ=シンは、王の惑乱をなだめるように微笑んでいる。
それらの眼差しにうながされるようにして、やがてベイギルスは口を開いた。
「叔父君……確かに余は、まぎれもなく其方の叔父なのであろうな」
「ええ、そのはずです」
「……余とて、十六年ぶりに初めて相対した甥子に家族としての情愛を抱くことは難しい。だが……もちろん其方を恨む理由はないし、それに……今さらこのようなことを口にしても詮無きことであるが……占星師などの言葉にたぶらかされた兄上によって、神殿の地下室などに閉じ込められてしまった其方のことを……余は、ずっと不憫に思っていたのだ」
ダリアスは驚いて、ベイギルスの姿を見直すことになった。
ベイギルスは衆目であることを忘れてしまったかのように、弱々しい微笑をたたえている。それもまた、きわめて人間臭い表情であった。
「しかし余に、其方を救う力はなかった。そのことを、ずっと申し訳なく思っていた。……余もまた兄上に排斥されていた身であったので、其方の境遇に自分を重ねていたのやもしれんな」
「……でもあなたは、どこかに幽閉されていたわけではないのでしょう?」
面を上げたカノン王子が、くすりと笑い声をたてる。
ベイギルスもまた、力なく笑った。
「まさしく、その通りだ。其方は希望のない生を強いられていたがゆえに、『神の器』などという呪いをかけられてしまったのだと聞く。ならばこのたびの災厄は、前王たる兄上を諫めることのできなかったすべての人間の罪の結果でもあるのだろう。……特に王家の人間には、重い責任があるのだろうと思う」
そう言って、ベイギルスは深く息をついた。
「余は兄上のように果断ではないが、それとは異なるやり方で傷ついた王都を立て直したく願っている。其方もシムにて、自分の役目を果たしてもらいたい」
「ええ、そのつもりです」
カノン王子はどこか満足そうな顔で笑って、身を起こした。
そして、かたわらのレイフォンを振り返る。
「今度こそ、僕からは以上だよ。そろそろ下がらせてもらえるかな?」
「はい。十分以上であるかと思われます」
そのように返すレイフォンも、屈託のない笑顔であった。
ティムトのほうは、食い入るようにカノン王子の笑顔を見つめている。
かくして、カノン王子のお披露目はここに終了されたのだった。