Ⅲ-Ⅸ 戴冠式
2020.10/10 更新分 1/1
新王ベイギルスの戴冠式が執り行われたのは、クリスフィアたちが王都に帰還してから五日後のことであった。
《まつろわぬ民》と風神の御子がどこでどのように跳梁しているかもわからない状況で、このようなことにうつつを抜かしていていいものかと、クリスフィアはそんな風にも思うのだが――すべては、ティムトの采配であるのだ。ならば、かの少年の明晰さを信じるしかなかった。
(それにまあ、王都からシムまではふた月がかりの旅程であるというしな。ならば、五日やそこらの時間は誤差というものか)
貴き人々が集結した白牛宮の大広間にて、クリスフィアはそんな風に考えた。
クリスフィア自身も、ひさびさの宴衣装に着替えさせられてしまっている。クリスフィアのかたわらでは、宴用のお仕着せを纏ったフラウがにこにこと微笑んでいた。
「これはあくまで略式の祝典というお話でしたが、そうとは思えぬほどの絢爛さでありますね、姫様?」
「うむ。王都だけでもこれほどの貴族がひしめいているというのは、驚きだな」
なおかつ、これだけの貴族が存在しながら、《まつろわぬ民》のもたらした危機と直面したのは、ほんの数人であったのだ。クリスフィアとしては、皮肉っぽい気分を払拭させることも難しかった。
「ああ、こちらにいらしたのですね、クリスフィア姫」
と、爽やかな声とともにメルセウスが近づいてくる。もともと戴冠式のために集められていた諸侯はのきなみ辞去した後であったので、クリスフィアとメルセウスはこの場でただふたりの外様の貴族という立場であった。
貴公子としての宴衣装を纏ったメルセウスのかたわらには、武官の礼服を纏ったホドゥレイル=スドラが控えている。以前はジェイ=シンが同行していたが、彼はいまだに新王の護衛役を担わされてしまっているのである。
「ホドゥレイル=スドラも、騎士の礼服が似合っているな。願わくは、わたしにもそういった装束を準備してほしかったものだ」
「うむ。クリスフィアであれば、きっと騎士の礼服もまたとなく似合っていたのだろうと思う」
そんな風に答えてから、ホドゥレイル=スドラはいくぶん申し訳なさそうな顔をした。
「ところで俺の故郷では、むやみに異性の容姿を褒めそやしてはならじという習わしが存在するのだ。このような場で賞賛の言葉も口にできない不調法を許してもらいたい」
「このような姿を賞賛されても、わたしは肩をすくめるしかない。どうせなら、剣技やトトスの手綱さばきでホドゥレイル=スドラを感服させたいものだな」
クリスフィアが笑顔で答えてみせると、ホドゥレイル=スドラも静かに微笑んでくれた。
「そういえば、ギリル=ザザは自分からこの役目を俺に押しつけてきたのだが、クリスフィアの宴衣装を目にできないことだけが心残りだと言っていた。よければ後で、挨拶をさせてもらえないだろうか?」
「それはあまり、気が進まぬな。わたしの価値は戦いの場で見定めてほしいとでも伝えておいてくれ」
《まつろわぬ民》の騒動に関わった人間でも、この場に参席することを許されなかった人々が、何名か存在する。カノン王子の連れであったチチアとタウロ=ヨシュ、偽王子の一味であった東の民ラムルエル、鍛冶屋のギムと細工屋のデン、レイフォンのひそかな協力者であるドンティ、聖教団のゼラとダックとペアル――ギリル=ザザは、そういった人々を監視したり警護したりする役目を負いながら、別の部屋で晩餐を楽しんでいるはずであった。
「ただ、あちらはあちらで楽しそうな顔ぶれだな。戴冠式をつつがなく終えたならば、普段の装束に着替えた上で挨拶をさせてもらおうと思っているぞ」
クリスフィアがそのように答えたとき、新たな人影がこちらに近づいてきた。
その姿に、クリスフィアはおもいきり顔をしかめてみせる。
「ああ、そうか。お前もこの場に参じていたのだな」
「ひどい言い草だね。僕はいちおう、君の同伴者という立場であるんだよ?」
そのように言いたててきたのは、クリスフィアの従兄弟であるキャメルスである。すっかり忘れていたが、彼もアブーフ侯爵家の一員としてこの場に招かれていたのだった。
その身に纏っているのは、やはり王都で準備された騎士の礼服だ。クリスフィアには見慣れた姿であったので、べつだん感想を述べる気持ちにもなれなかった。
「さすがにこれだけの人出だと、見知った顔を捜すのもひと苦労だね。イフィウス殿らは、どこに行ってしまったのだろう?」
「あちらはあちらで、ご多忙なのであろうよ。我々にとっては形式上の祝典であるのだから、挨拶回りに奔走する必要はあるまい」
「そうは言っても、戴冠式だからねえ。これは王国において、もっとも神聖な儀式だろう? クリスフィアだって、そもそもそのために王都を訪れたんじゃないか」
「ふん。《まつろわぬ民》に余力があれば、この祝典に乱入してくるやもしれんぞ。せいぜい気を引き締めておくことだ」
そんな風に答えながら、クリスフィアはあらためて大広間を見回した。
貴公子も貴婦人もひさびさの祝宴にさんざめいているものの、その薄皮一枚の下には張り詰めたものが感じられる。銀獅子宮に続いて黒羊宮までもが崩落したのはまだまだ記憶に新しいところであったし、本日は行方知れずであった第四王子カノンのお披露目がされるということも、すでに周知されているのだ。また、カノン王子が怪しげな魔術を体得しているということも開示されていたので、王都の人々も絶大なる不安や困惑を抱えているはずであった。
(大陸全土にも、すでに使者は放たれている。これまでは我々だけで背負ってきた苦難を、今後は王国の民のすべてで背負うことになるのだ。そう思えば、この茶番めいた戴冠式も必要な措置なのやもしれんな)
クリスフィアがそんな風に考えたとき、大広間にざわめきが広がった。
入り口の扉が開かれて、新たな貴賓の到着が告げられたのだ。
「ダーム公爵家ご当主、トレイアス様、ご入場です!」
小姓は、よく通る声でそのように告げていた。
クリスフィアは、「ふむ」と一考する。
「ダリアス殿はご多忙なようだし、ここはわたしが挨拶をしておくべきであろうな。メルセウス殿らは、如何する?」
「そうですね。よければ、ご挨拶をさせていただきたく思います」
トレイアスは周囲に群がる貴族たちに鷹揚に挨拶を返しながら、大広間の中央に進み出てくる。クリスフィアは礼を失さないていどの強引さで人の群れをかき分けて、トレイアスの鼻先に立ちふさがってみせた。
「ひさかたぶりです、トレイアス殿。その節は、大変お世話になりました」
「うむ?」と、トレイアスはうろんげに眉をひそめた。
すると、浅黒い肌をした妖艶なる侍女が、その耳もとに唇を寄せる。トレイアスは、「おお!」と驚きの声を張り上げた。
「なんと! 其方はアブーフの姫君であられたか! これはまた……俺の記憶にある凛々しき姿とは、まるきり掛け離れてしまっているな!」
「ええ。そちらの記憶にある姿こそが、わたしの本性でありますれば」
トレイアスは、じろじろと無遠慮な視線でクリスフィアを舐め回してくる。王都の宴衣装はやたらと胸もとが開いているので、クリスフィアとしては落ち着かないことこの上なかった。
「よろしければ、こちらに……ダリアス殿に代わって、わたしどもがご挨拶をさせていただきたく存じます」
「ダリアス将軍、か。あちらはめでたく、十二獅子将の座を取り戻したそうだな」
トレイアスは、豪放なる商人のごとき男である。立派な眉の下に光るその双眸に、打算と警戒の色が閃いたように感じられた。
「まずは、こちらに。戴冠式が始まる前に、面倒な話は済ませてしまいましょう」
言葉づかいを改めても、クリスフィアの性急な立ち居振る舞いは改めようがない。トレイアスは意味ありげな目配せを侍女に送ってから、クリスフィアの後をついてきた。
なるべく人間の少ない一画を選んで、小さな円卓を取り囲む。
まずはメルセウスとキャメルスの紹介をしてから、クリスフィアは真っ直ぐに切り込んだ。
「ダリアス殿は、トレイアス殿と一刻も早く和解を成したいと仰っておりました。過去の不幸な行き違いは乗り越えて、国難を退けるために手を携えたいとのことであります」
「ふむ。不幸な行き違い、か」
トレイアスは、手近な小姓の盆から果実酒の酒杯を取り上げつつ、皮肉っぽく微笑んだ。
かつてダリアスは王都に戻りたいという願いを退けられて、トレイアスの屋敷に幽閉じみた逗留を強いられていたのだ。そこから脱出を果たすには、このトレイアスのかたわらに控えている侍女の策謀が絡んでいるとの話であったが――レィミアという名を持つその侍女は、つつましやかな面持ちでひっそりと目を伏せていた。
「かつてダリアス殿とトレイアス殿は、連名にてジョルアン将軍の罪を告発することになりました。このたび王都を見舞った災厄を退けるにも、その行いは大きな意味を持っていたことでしょう。今後もそうして力を合わせて、さらなる災厄を退けていきたいと――ダリアス殿は、そのように仰っておりますね」
「ふむ……王都への帰還を邪魔立てした俺を告発する意思はない、と?」
「告発などとは、とんでもない。ダリアス殿もトレイアス殿も民の安寧を思っての行いであったのですから、それこそ不幸な行き違いというしかないのでしょう」
なんだかレイフォンにでもなったような気分だな、などと考えながら、クリスフィアはそのように言いたててみせた。
トレイアスはまたじろじろとクリスフィアの姿を見回してから、その手の果実酒を飲み干した。
「ダリアス将軍がそのように語っているなら、是非もない。……あの後、王都は大変な災厄に見舞われたそうだな」
「ええ。大聖堂の床が抜け、黒羊宮は崩落することとなりました」
「では、王都の帰還を願ったダリアス将軍の判断に間違いはなかったということだ。自分の思慮が足りなかったことを、あとで詫びさせていただこう」
トレイアスは自分の領土を守るために、ダリアスの逗留を願っていたようなのである。
もっとも当時はダームにおいても疫神ムスィクヮが出現していたというのだから、領主たるトレイアスがそのように考えるのも無理からぬことであったのだろう。けっきょくダリアスは無事に王都に戻ることができたのだから、トレイアスとは確執が残らないように取り計らいたいと述べていたのだった。
「王都やダームを脅かした災厄は、ひとまず退けることがかないました。しかし、《まつろわぬ民》なる邪神教団は、いつまた牙を剥くやもしれません。王国の民は、一丸となってそれを退けるべきでありましょう」
「うむ。王都やダームばかりでなく、マルランやヴェヘイムまでもが妖魅に襲われたとのことだな。かなうことなら、そのような災厄はこれ限りにしてほしいものだ」
「それに関しては、のちほど宰相代理たるレイフォン殿からお言葉があることでしょう」
そのとき、ひときわ大きな歓声が巻き起こった。
目をやると、大広間の奥に張られた帳の手前に、勇壮なる姿をした将軍たちが進み出ている。貴賓たちとは異なる横合いの入り口から現れたのだろう。誰もが純白の礼服を纏い、真紅の肩掛けを垂らしている。その胸もとに輝くのは、銀色の獅子の紋章であった。
王都の誇る、十二獅子将である。
ただしその数は、現時点で十名しか存在しない。ジョルアンとロネックの配下であった者たちは排斥され、然るべき人間がその後に据えられたが、それでもすべての席を埋めることはできなかったのだ。
帳の前に並んだ将軍たちは均等な距離を取って立ち止まり、広間の中央に向きなおってくる。その凛然とした振る舞いに、人々はいっそうの歓声を張り上げていた。
その中で、クリスフィアが見知っているのはダリアスとディラーム老だけだ。若いダリアスは末席に控えており、そこから遠からぬ位置に侍女のお仕着せを纏わされたラナの姿が確認できた。
(ふん。もしも《まつろわぬ民》が乱入してきたならば、ダリアス殿も聖剣を振るう必要があろうからな)
ただし、その可能性はきわめて低いものと、カノン王子は断じていた。カノン王子とシルファが王国の側に寝返った現在、《まつろわぬ民》は風神の御子を持ち出さない限り勝ち目もないのだ。なおかつこちらにはふた振りの聖剣と数万の軍勢が存在するのだから、風神の御子といえども正面から戦いを挑むことは不可能なはずであった。
将軍たちは広間の貴族らに一礼してから、帳のほうに向きなおる。
そうして将軍らが絨毯に片方の膝をつくと――壁の一面を覆っていた帳が、するすると左右に開かれた。
その向こうに待ちかまえていたのは、バウファから神官長の座を継承した老人と、四名の神官たちである。
神官のひとりが、厳かな声音によって人々のざわめきを静まらせた。
「それではこれより、戴冠式を開始いたします。……新王ベイギルス陛下の御成りでございます」
荘厳なる鉦の音色とともに、新王ベイギルスが姿を現す。
そのたるんだ顔には、内なる不安を懸命に押し殺しているような表情が浮かべられていた。
(本来であれば、今日という日を心待ちにしていたであろうにな)
もともと貴賓として招集していた各領地の諸侯は、ダリアスたちが出陣した日を境に帰路を辿ってしまっている。
そして、大聖堂もいまだ使い物にならないため、白牛宮のさして豪奢でもない大広間で略式の祝典を行うことになってしまったのだ。
しかもベイギルスは、いまだ《まつろわぬ民》の影に怯えているのだという話であった。帳の陰には、聖剣を携えたジェイ=シンとリミア・ファ=シンがこっそり控えているのであろう。
(しかしそれでも、ベイギルスが王位の継承を拒むことはなかった。どのように恐ろしい目にあっても、玉座だけは手放したくないということか)
クリスフィアにしてみれば、それは浅ましい権勢欲としか思えなかったが、この段に及んでは幸いな話であった。カノン王子が王位を継承できない以上、玉座を担えるのはベイギルスかその息女のみであるのだ。王国を存続させるには、誰かしらが玉座に座らなければならなかったのだった。
(六百年以上も続いてきた王国の歴史の中で、無能な王のひとりやふたりぐらいはいたことだろう。王が無能なら、周りの人間が苦労を背負うしかあるまい)
クリスフィアがそうまで人の悪い想念を抱いている間に、戴冠の儀は粛々と進められていった。
神官長の手によって、ベイギルスの頭に赤い宝石が埋め込まれた銀の宝冠がかぶせられる。そうして神官長が祝福の言葉を申し述べたならば、この茶番劇も無事に終了である。
神官長と神官たちはしずしずと帳の陰に引っ込んでいき、それと入れ替わりでジェイ=シンとリミア・ファ=シンが現れる。もちろん両名とも、騎士と侍女の礼装だ。異国の民のごとき浅黒い肌をした両名が王のかたわらに控えるのはいささか異質な光景であったが、玉座に座したベイギルスは明らかに安堵の表情となっていた。
そしてさらに、大広間から二名の人影が王のもとまで進み出る。
宰相代理たるレイフォンと、その従者ティムトである。
「たび重なる災厄によって延期を余儀なくされていた戴冠式をつつがなく終えることができて、心よりの祝福を捧げさせていただきます。列席された皆様も、さぞかし安堵されていることでしょう」
いよいよか――と、広間に居並んだ者たちが息を呑む気配が伝わってきた。
戴冠式というのは確かに王国においてもっとも神聖な儀式なのであろうが、王位の継承そのものはもう三ヶ月も前に果たされていたのだ。多くの者たちにとっては、ここからが今宵の本筋であるはずだった。
「このめでたき日にさらなる慶事をお伝えできること、望外の喜びでございます。すでに皆様にもお伝えされている通り、長きに渡って行方知れずであられたカノン第四王子をこの場にお迎えさせていただきたく思います」
さきほど十二獅子将たちが現れた扉が、再び開かれる。
そこからカノン王子が入場するなり、白牛宮の広間には驚嘆のざわめきが波のように広がっていった。