Ⅴ-Ⅷ 地神の怒りと火神の慈愛
2020.9/19 更新分 1/1
メナ=ファムが呆然としている間に、岩の巨人は松明を掲げた騎兵たちに取り囲まれてしまった。
いったいどれだけの軍勢であるのか――きっと、万を下ることはないのだろう。その灯火は、遥かな地平にまで延々と続いているように感じられた。
「メナ……ファム……」
メナ=ファムの腕の中で、シルファがまた苦しげな声を振り絞る。
下半身を岩の中にうずめ、全身に黄金色の紋章を浮かびあがらせたシルファは、涙に濡れた目で一心にメナ=ファムを見つめていた。
「はや……く……わた……しを……」
「だから、あんたを殺すことなんて、できるはずがないって言ってるだろ。あんまり馬鹿なことを言うんじゃないよ、シルファ」
「でも……わたしは、もう……」
シルファの真紅の双眸に、再び憎悪の炎が燃えあがりつつあった。
岩の巨人を取り囲んだ兵士たちを、敵と見なしたのだろう。またこの巨人が暴れ始めたら、いったいどれだけの血が流されることになるのか――メナ=ファムこそ、絶望で目が眩んでしまいそうなほどであった。
(シルファにそんな真似をさせるわけにはいかない。でも……それじゃあどうしたらいいってのさ!)
そのとき、巨人の足もとから「おおい!」というギリル=ザザの声が聞こえてきた。
「何やら、おかしな具合だぞ! こやつらは、ゼラドとセルヴァの兵士が入り混じっているようだ!」
「ああん? あんた、いったい何を言ってるのさ! こっちは、それどころじゃないんだよ!」
「しかし、本当のことなのだ! 俺にもさっぱり意味がわからんぞ!」
シルファの両肩に手を置いたまま、メナ=ファムはギリル=ザザのほうに視線を落とした。
兵士たちは遠巻きに巨人を取り囲んでいるため、ギリル=ザザの周囲も無人である。メナ=ファムがどれだけ目を凝らしても、無数にも思える松明の火が邪魔になって、兵士たちの細かな姿など見分けられそうになかった。
と――ギリル=ザザのもとに、トトスにまたがった何者かが近づいてくる。
トトスは二頭で、それぞれ背中に二名ずつの人間を乗せている。剣をかまえるギリル=ザザに、トトスの上から何やら言葉をかけているようだ。
そしてこちらでは、シルファに限界が迫っていた。
メナ=ファムの手の中で、シルファの肉体が脈動している。それはまるで、噴火する寸前の火山じみた力の波動であった。
(シルファを殺して、あたしも死ぬか? それだったら、シルファは罪を犯す前に魂を返すことができる。あたしの魂が穢れちまっても、それでシルファの魂が救われるなら――)
そのとき、足もとの兵士たちがどよめいた。
反射的に振り返ったメナ=ファムは――そこにありうべからざる存在を見出して、慄然と息を呑むことになった。
夜の空を背景に、真紅の炎が燃えあがっている。
それは、炎の翼であった。
炎の翼を纏ったこの世ならぬ存在が、さらなる高みからメナ=ファムたちを見下ろしていたのだ。
「へえ……これはずいぶんと、想定外の状況だ」
この世ならぬ存在が、妖しい笑いを含んだ声でそう言った。
それは、白銀の髪と真紅の瞳を持つ、神とも魔物ともつかない存在であった。
とうてい人間とは思えぬほどの美貌であり、その腕には小柄な少女を抱いている。金褐色の髪と紫色の瞳を持つ少女は、驚嘆の表情でメナ=ファムたちを見つめていた。
メナ=ファムたちは、人間の十倍ほどの背丈を持つ巨人の頭頂部にたたずんでいる。この人外の存在は、炎の翼でもってそれよりも高い位置に浮遊しているのだった。
(なんなんだよ、こいつは……?)
メナ=ファムは形容し難い激情にとらわれながら、その異形に心を奪われることになった。
たとえどのような化け物が現れても、メナ=ファムがこうまで驚かされることはなかっただろう。
しかし、この美しき異形の存在は――メナ=ファムの手の中にあるシルファと、そっくりの気配を纏っていたのだった。その真紅に燃えあがる双眸などは、双子のように生き写しであったのである。
「君はまだ、『神の器』として覚醒しきっていない。この世に絶望しながら、まだどこかに希望が残されているのではないかと、崖っぷちで踏みとどまっているんだ」
そんな風に言いながら、魔性の存在がメナ=ファムを見つめてきた。
「察するところ……君が、希望のよすがであるようだね」
「あ……あんたはいったい、何者なのさ!」
メナ=ファムは脈動するシルファの身体を抱きすくめながら、全身全霊でにらみ返してみせた。
魔性の存在は、目を細めて微笑する。
「君は、運がよかったね。ゼッドとともにあった僕よりも、なお運がいい。僕もゼッドのおかげで、なんとか魂のひとかけらだけは現世に残すことがかなったけれど……でも、僕を止めてくれる存在なんて身近にはいなかったからね」
「わ、わけのわからないことを言ってるんじゃないよ! シルファに何かするつもりなら、あたしがただじゃおかないからね!」
「へえ? だったらそのシルファとかいう娘さんが、絶望の深淵に呑み込まれてしまってもかまわないのかい?」
魔性の存在は、くすくすと笑った。
しかし次の瞬間には、その美しい面にあどけないような微笑みがたたえられる。
「もういいよ。何も我慢することはない。その身に猛り狂う憎悪と絶望を、ぞんぶんに吐き出しておしまいよ」
「あ、あんたは何を言ってるのさ! そんな真似をしたら、シルファは――!」
「大丈夫。その憎悪と絶望は、僕がみんな受け止めてあげるよ」
無垢なる微笑をたたえたまま、その者はそう言った。
もはや、魔性の存在とは思えない。それは、西方神が顕現したかのように神々しい姿であった。
「すべての魔力を解き放ってしまえば、ひとまず人間としての心を取り戻すことができる。僕だって、そうだったんだからね。そうして僕は罪なき人間を何人も巻き添えにしてしまったけれど……君は大丈夫だ。君の魔力は、僕が相殺する。おたがいに出来損ないの『神の器』なんだから、僕が力負けすることはないだろう」
そう言って、その者は少女の髪に頬を押し当てた。
「ただ、僕も限界まで魂を深淵にさらすことになるだろう。決して僕を手放さないでね、リヴェル」
「はい、ナーニャ」
リヴェルと呼ばれた少女は、ナーニャと呼んだ存在をぎゅっと抱きすくめた。
そこに、鳴動が近づいてくる。再び大地が揺れ動こうとしているのだ。
(シルファ……!)
メナ=ファムもまた、いっそう強い力でシルファの身体を抱きすくめた。
「それでいい」と、ナーニャの優しげな声が響く。
「彼女の魂を現世に繋ぎとめているのは、君の存在だ。彼女を救えるのは、君しかいない。決してその手を離してはいけないよ」
(誰が離すもんか!)と、メナ=ファムは心の中で絶叫した。
鳴動はいよいよ力を増し、巨人の足もとからは兵士たちの悲鳴が聞こえてくる。
そして、メナ=ファムの視界が真紅に染まった。
ナーニャの纏っていた炎の翼が、メナ=ファムとシルファの肉体を包み込んだのだ。
瞬間――世界が、ひっくり返った。
上も下もわからないような浮遊感が、メナ=ファムの五体をからめとる。
メナ=ファムは固くまぶたを閉ざして、ただシルファの身体に取りすがった。
凄まじい震動が、メナ=ファムの内側にまで侵蝕してくる。
皮も肉も骨も内臓も、すべてが頼りなく崩落して、宙に四散してしまいそうだった。
さらにその身が、灼炎で炙られていく。
それでもなお、メナ=ファムはシルファの身体を離さなかった。
この鳴動が、シルファの慟哭そのものであるように感じられてならなかった。
では――メナ=ファムたちを包み込むこの灼炎は、いったい何なのだろう。
もしかしたら、それはナーニャの慈愛の念であるのかもしれなかった。
固く閉ざしたまぶたの向こうで、真紅と黄金の輝きが乱舞している。
その輝きが、去ったとき――メナ=ファムの背中に、凄まじいまでの衝撃が走り抜けた。
すべての空気が、肺の中から絞り出されていく。
それでもメナ=ファムは、シルファの身体を手放さなかった。
そして――力強い手が、メナ=ファムの肩を揺さぶってきた。
「おい、しっかりしろ! まさか、くたばってはおらんだろうな?」
それは、ギリル=ザザの声であった。
メナ=ファムは咽喉を鳴らして息を吸い込み、重いまぶたを無理に持ち上げる。
ギリル=ザザは、思いも寄らないほど近い位置から、メナ=ファムの顔を覗き込んでいた。
「おお、生きていたか。まったく、心配をかけおって」
浅黒くて精悍な顔が、ほっとしたように笑みをたたえる。
我に返ったメナ=ファムは、自分の腕にシルファの身体が残されていることを確認して、安堵の息をつくことになった。
(シルファ……)
シルファは、人間の姿に戻っていた。
その白い裸身からは黄金色の紋章が消え、真紅の双眸はまぶたに隠されている。そしてその端麗なる面は、赤子のように安らかな寝顔をさらしていた。
「……森辺では、家族ならぬ女衆の裸身を目にしたら、嫁に娶るか目玉を捧げるかしなければならんのだ」
冗談めかして言いながら、ギリル=ザザが革の外套をシルファの背中にかけてくれた。
「まあ、そやつは森辺の女衆ではないし、俺も背中と尻しか拝んでいないから、目玉を捧げるのは勘弁してもらおう。もちろん、このように細っこい娘を嫁に娶る気にもなれんのでな」
「……シルファだって、あんたなんかは願い下げだろうよ」
気力を振り絞って軽口を返しつつ、メナ=ファムはのろのろと身を起こした。
何の変哲もない、岩盤の上である。巨人の存在は消えており、松明の炎は遠巻きにメナ=ファムたちを取り囲んだままであった。
少し離れた場所では、長身の男女が地面に膝をついている。その隙間から銀髪のきらめきが垣間見えて、メナ=ファムは心臓を騒がせることになった。あのナーニャという不可思議な存在は、そちらで介抱されていたのだ。
「ねえ……いったい、何が起きたんだい? あの巨人はどこに行っちまったのさ?」
「うむ? カノン王子の炎がお前たちを包み込んだら、兵士たちの松明からもそれぞれ炎が噴きあがってな。それらの炎に包み込まれて、しばらくしたら巨人は溶け崩れてしまったのだ。見ての通り、巨人は跡形も残されていないので、やはりこの世の存在ではなかったということなのであろうよ」
「カノン……王子?」
「うむ。俺には、そう名乗っていた。風聞で聞いていた通りの見てくれをしていたしな」
では、あのナーニャと呼ばれていた不可思議な存在が、本物のカノン王子であったのだ。
メナ=ファムが呆然としていると、そちらに屈み込んでいた長身の女が近づいてきた。
「そちらも、目覚めたか。察するに、お前がロア=ファムの姉だな?」
それは白銀の甲冑を纏った、凛々しい女騎士であった。
灰色の瞳が、鋭くメナ=ファムを見つめてくる。
「わたしはアブーフ侯爵家のクリスフィアという者で、そちらのギリル=ザザと志を同じくする立場だ。お前の弟たるロア=ファムとも、わたしは友誼を結ばせてもらっている」
「ロア=ファムも……ここに来ているのかい?」
「いや。ロア=ファムは、グリュドの砦に待機している。お前の身を、たいそう案じていたぞ」
「…………」
「お前たちの身柄をどうするべきかは、なかなかに判じ難いところであるのだが……リヴェルよ、ちょっとこちらに来てもらえるか?」
しばらくすると、あの紫色の瞳をした少女が覚束ない足取りでこちらに近づいてきた。
さらに、長身の男がカノン王子の身体を抱いて、それに追従してくる。シルファと同様に、カノン王子も意識を失ってしまったようだった。
「ああ、こちらも紹介しておかなければな。この愛くるしい娘は、カノン王子と深き縁を持つリヴェルという者だ。そしてこちらは、かつての十二獅子将たるヴァルダヌス殿となる」
「ヴァルダヌス……それじゃあ、あんたがエルヴィルの言ってた将軍様ってことかい……」
メナ=ファムは、また深い驚きにとらわれることになった。
カノン王子を抱きあげたヴァルダヌスは、黙して語らない。その代わりに、クリスフィアがまた口を開いた。
「そういえば、そちらにはヴァルダヌス殿の旗下であったエルヴィルなる者も同行していたはずだな。その者は、はぐれてしまったのか?」
「いや……エルヴィルは、死んじまったよ。そのせいで、シルファはあんな目にあっちまったのさ」
すると、猛禽のように鋭いヴァルダヌスの目が、わずかに陰った。
「エルヴィルは……魂を返してしまったのか」
ヴァルダヌスは武人らしい精悍な面相をしていたが、その右頬がひどい火傷を負ってしまっている。そのせいか、ずいぶんと言葉を発するのが不自由そうだった。
メナ=ファムは万感の思いを込めて、「ああ」と応じてみせる。
「あいつはあんたの仇討ちをするために、こんな馬鹿な真似をしちまったのさ。あんたが生きてるかもしれないって話を聞かされたときには、ずいぶんへこたれちまってたよ」
「…………」
「でも、あんたが責任を感じることはないさ。エルヴィルもシルファも、もちろんあたしだって、自分で進むべき道を決めてみせたんだからね」
そう言って、メナ=ファムはギリル=ザザの外套ごと、シルファの身体を抱きすくめた。
「どんな罰を下されたって、あたしらが文句を言うことはできないだろうさ。ただ……どうかお願いだから、あたしとシルファは同じ日に同じ場所で首を刎ねておくれよ」
「それを判ずるのは、王都の立場ある者たちだ。ただ、地神の御子を生きたまま捕縛するという事態は、まったく想定していなかったのでな。それで、いささか困っている」
そう言って、クリスフィアはリヴェルを振り返った。
「リヴェルよ、もうひとたび確認させてほしい。カノン王子は、そこなる地神の御子を救うと言っていたのだな?」
「は、はい……正確には、そのメナ=ファムという御方が、シルファという御方をお救いするのだ、と……」
リヴェルは必死の面持ちで、クリスフィアに向きなおった。
「そ、それでナーニャは、自分がシルファという御方の魔力を受け止める、と言っていたのです。そうすれば、人間としての心を取り戻せるはずだ、と……ですから……」
「そのように心配そうな顔をせずとも、我々がこの場でシルファなる者の首を刎ねることはないぞ」
クリスフィアの勇ましい顔に、力強い笑みがたたえられた。
「つまり、カノン王子にお前やヴァルダヌス殿がいたように、このシルファという者にはメナ=ファムがいたというわけだ。ならば、後の判断はティムトやレイフォン殿におまかせする他あるまい」
「そ、そうですか……」と、リヴェルは深く息をついた。
そして、やわらかい輝きをたたえた瞳で、メナ=ファムたちのほうを見やってくる。
この少女は、どうしてこんなに優しげな目でメナ=ファムたちを見るのだろう。
メナ=ファムは思考も感情も定まらないまま、胸をかき乱されることになった。
「では、残る問題はゼラド軍のみだな。とりあえず、この場の指揮官とだけでも話をつけておくか」
クリスフィアがその手の松明を頭上で左右に振り回すと、いくつかの明かりがこちらに近づいてきた。
白銀の甲冑を纏ったのが五名ほど、黒光りする甲冑を纏ったのが六名ほど――確かにこれは、セルヴァとゼラドの兵士たちであるようだ。
「皆のおかげで、この夜の災厄を退けることがかなった。後の話は、グリュドの砦でダリアス殿やベアルズ大公に決めていただく他ないかと思うが……さしあたって、こちらの偽王子とメナ=ファムは我々がおあずかりしてもよろしくあろうか?」
「い、いや! そういうわけにはいかん! その者がカノン王子の名を騙っていたというのなら、我々の手で処断するべきであろう!」
「ほう。処断」と、クリスフィアは不敵に笑った。
「お前たちも、さきほどの巨人を目にしたであろう? あれこそが、偽王子の力であるのだぞ? あのようなものを処断するには、たいそうな犠牲がともなうことであろうな」
「し、しかしそやつは、力尽きておるではないか! 今の内に首でも刎ねてしまえば――」
「ほうほう。あれだけの力を持つ魔なるものが、首を刎ねるだけで絶命するのであろうかな?」
クリスフィアの言葉に、ゼラドのみならず王都の兵士たちまでもがすくみあがった。
「実際、『神の器』なる呪いについては、我々にとっても未知な部分が多いのだ。この偽王子に危害を加えることによって、今度はどのような災厄が訪れるものか、我々にも確たることは言えぬな」
「で、では、いったいどうしようというのだ?」
「それを決めるのは、王都の立場ある者たちであろう。何にせよ、偽王子の暴虐を止められるのはカノン王子のみであるので、この両名を引き離すわけにはいかん。よって、このまま王都に移送させてもらいたく思うのだ」
ゼラドの武官たちは顔を寄せ合い、何やら小声で囁き合った。
その姿に、クリスフィアは気安く笑い声をあげる。
「ともあれ、そちらですべてを決するのはベアルズ大公であろう? 偽王子の身柄はひとまずお預かりさせていただくので、不服があればのちのち使者を立ててもらいたい。……偽王子を無理に連れ帰っても、大公の不興を買うだけかもしれんぞ。何せ大公も、今頃は妖魅の恐ろしさを骨の髄まで味わわされているところであろうからな」
「…………」
「そして、もう一点。この偽王子に呪いをかけたと思われる妖術師は、いまだに姿を現していない。そやつがこの世にある限り、またいつ妖魅が出現せんとも限らんのだ」
ゼラドの武官たちの顔に、新たな恐怖の色が浮かびあがった。
何名かは、腰の剣の柄をまさぐりながら、周囲の夜闇を見回している。
「その妖術師――我々が《まつろわぬ民》と呼ぶそやつらは、『神の器』の呪いでもって四大王国を滅ぼすことを悲願としている。そやつは今この瞬間にも、カノン王子と偽王子の身柄を狙っているやもしれんのだ。それを相手取る覚悟がないならば、偽王子の身柄などには執着しないことだな」
「うむ……まあ……さしあたっては、大公閣下のご判断を仰ぐ他あるまい」
武官のひとりがそう言って、重々しく息をついた。
そのとき――その背後から、黒い影がにじみ出た。
メナ=ファムが声をあげる間もなく、その影がリヴェルの腕をひっつかみ、その咽喉もとに長剣を押し当てる。それはあまりに突然の出来事であったため、ギリル=ザザですら反応できなかった。
「ふざけやがって……そいつらの身柄を渡してなるものか……貴様たち、偽物も本物もまとめて確保しろ!」
「ラ、ラギス隊長殿!? 隊長殿は、あちらに残られたはずでは!?」
ゼラドの武官が言う通り、それは大隊長のラギスであった。
ただしその顔は、赤黒く焼けただれてしまっている。ラギスは黒い双眸に憎悪と憤激の炎を噴きあげながら、リヴェルの咽喉もとに押し当てた長剣に力を込めた。
「我々は、カノン王子を擁して王都を陥落させるのだ……さっさとそやつらを捕縛せよ!」
「で、ですが、ベアルズ大公閣下のご意向もうかがわないまま、勝手な真似をするわけには……」
「この部隊の指揮官は、俺だ! 命令違反で、首を刎ねられたいのか!?」
「やめよ」と、クリスフィアが低く鋭い声を放った。
「お前は負傷したため、この部隊の指揮権はそちらの副官に引き継がれたはずだ。もはやお前に命令を下す資格はない」
「黙れ、女騎士め……! 我々は一万で、そちらは五千の兵力であろうが……? 我々が、貴様たちに屈する理由はない……!」
「お前の目は……ロネックと同じぐらい澱んでいるな」
クリスフィアの灰色の瞳が、いっそう鋭利な輝きをたたえる。
「やはり、ティムトの仮説はまたもや当たっていたようだ。……偽王子を旗頭としたゼラドの進軍を画策したのは、お前であるのだな?」
「たわけたことを……ゼラドにおいて、すべてを決するのは大公閣下だ……大隊長風情が、大公閣下の決定に口をはさめるものか……」
ラギスの双眸にも、いよいよ熾烈な炎が宿る。彼は大公の落胤でありながら、ゼラドの宮廷でさしたる身分も与えられず――それゆえに、シルファを利用して王都を乗っ取ろうと画策していたのだった。
そんな裏事情も知らぬまま、クリスフィアは感情を抑えた声で言葉を重ねていく。
「そうだとしても、お前の存在が進軍に深く関わっているのであろう? お前はおそらく自分でも知らぬ内に、《まつろわぬ民》の傀儡と化していたのだ」
メナ=ファムはシルファの陰で自分の腰をまさぐりながら、「ああ」と声をあげてみせた。
「なんの話かわからないけど、あたしたちをゼラドに連れ帰ったのは、そのラギスが率いる部隊だよ。進軍を決めたのは大公様なんだろうけど、そもそもそいつがあたしたちを捕らえていなけりゃ、こんなことにはなってなかったんだろうね」
ラギスの燃える目が、したたるような悪意をたたえてメナ=ファムをねめつけてきた。
「メナ=ファム……この裏切り者め……俺をたばかっていたのだな……?」
「たばかったって、何の話さ? あんたは最初っから、王子が本物であろうと偽者であろうとかまわないって言ってたじゃないか」
そんな風に答えてから、メナ=ファムは精一杯の思いを込めて詫びてみせた。
「ただ、あたしたちはあんたのもとから逃げ出そうとした。そういう意味では、裏切り者さ。あんたには、あたしたちを恨む権利がある。……でも、その娘っ子には関係ない話だろう? どうか離しておやりよ」
「ふざけるな……! 俺はこの手で、正当な運命を勝ち取るのだ……!」
「その企みも、もうおしまいだよ。あたしにも、さっぱりわけがわからないんだけど……たぶんあたしたちは、誰かの手の平で踊らされていたのさ」
そして、その凶運を本物のカノン王子が打ち砕いてくれた。
詳しい事情はわきまえないまま、メナ=ファムにはそうとしか思えなかった。
「それでも、あんたは生きてるじゃないか? エルヴィルのやつは、妖魅に殺されちまったんだよ。あたしやシルファだって、この先どうなるかわからないけど……あんたはこのままゼラドに帰れば、またやりなおせるはずだ。だから、そんな馬鹿な真似はやめて――」
「黙れ……! 俺は、セルヴァの王となるのだ……!」
ラギスが、リヴェルの細い首をのけぞらせる。
その瞬間、メナ=ファムは腰から抜いた短剣を投じた。
ラギスは長剣をはねあげて、メナ=ファムの短剣を弾き返す。
それと同時に、クリスフィアが長剣を閃かせた。
闇の中に、鮮血がしぶく。
右腕の肘から先を失ったラギスは、獣のように吠えながら地面に伏した。
クリスフィアは疾風のように、リヴェルの小さな身体を抱え込む。
「我々は、礼を尽くしてゼラド軍に助力を要請したのだ! お前の暴虐は、ゼラド大公の名をも穢す行いであるはずだぞ!」
クリスフィアの怒声は、雷鳴さながらであった。
呆然と立ちすくんでいたゼラドの副官は、脱力した面持ちで首を振る。
「ラギス隊長殿に、手当てを。……その処遇もまた、大公閣下にご判断を仰ぐ他あるまい」
二名の武官がラギスの身体を抱えて、闇の向こうに消えていった。
副官は、力ない目でクリスフィアを見やる。
「偽王子の一件は、大公閣下にお伝えしよう。我々は、グリュドの砦に戻らせていただく」
「うむ。ベアルズ大公が正しき判断を下すことを願っている」
そうして副官たちも、その場から立ち去っていった。
残されたのは、セルヴァの武官たちだ。クリスフィアは、そちらにもてきぱきと指示を送った。
「そちらもグリュドに戻ってもらいたいが、二個中隊ほどお借りしていいだろうか? 王子らの身柄を、まずガヴァの砦のディラーム老に託したく思うのだ」
「しょ、承知しました。ダリアス将軍には、なんとお伝えすれば……?」
「仔細は、伝書にてお伝えする。ただ今は……地神の御子を制圧したとだけお伝え願いたい」
「りょ、了解であります。……それで、さきほどの者たちは……?」
「ああ」と言って、クリスフィアはギリル=ザザとメナ=ファムの姿を見比べてきた。
「そういえば、さきほど奇妙な一団と合流したのだ。その片方は、ドンティなる者に率いられた数十名の兵士たちで、もう片方は、こちらの同志であるデックという者であったのだが……そのデックが、何故だか東の民を同行させていた。あの者も、偽王子の一行であったのだな?」
「おお、ドンティたちも一緒であったのか。あやつが引き連れていたのは、偽王子の旗本隊というやつだ。無事に合流できたのなら、何よりだな」
明るい声音で答えてから、ギリル=ザザもメナ=ファムのほうに視線を飛ばしてくる。
メナ=ファムは、また気力を振り絞ることになった。
「東の民のラムルエルは、たまたまあたしたちと一緒にいて、ゼラド軍にとっつかまっちまったんだよ。あいつはただの巻き添えだから、なんとか許してやっちゃもらえないかい?」
「それを決めるのは王都の者たちだが、決して非情な処断は下すまい」
そう言って、クリスフィアはメナ=ファムの前で片方の膝をついた。
「また、それはお前たちに対しても同様だ。だから、我々に身をゆだねよ。すべての罪は《まつろわぬ民》にあり、それに翻弄された人間に罪はない――と、わたしはそのように考えている」
「いや。あたしは頭までどっぷり罪につかっちまってるよ。そいつを言い逃れするつもりはないさ」
そうしてメナ=ファムは、眠れるシルファの身体を抱きすくめた。
シルファは何も知らぬげに、安らかな寝息をたてている。
(何にせよ、死ぬも生きるもあんたと一緒だ。……あんたがもとのシルファに戻ってくれたんだから、あたしにはそれで十分だよ)
メナ=ファムの目に、熱いものがこみあげてきた。
しかし、メナ=ファムに泣く資格などはないだろう。メナ=ファムも、シルファも、エルヴィルも――自分たちは自分たちの意思で、ここまでの道を辿ってきたのだ。さまざまな相手を傷つけて、さまざまな相手に迷惑をかけて――けっきょく、何を成すこともできなかった。自分たちこそが、災厄の化身であるように思えてならなかった。
(それでも、あたしたちは救われた……救ってくれたのはあんただよ、カノン王子)
カノン王子は、ヴァルダヌスの腕で眠っている。
その寝顔もまた、シルファと同じく幼子のように安らかであった。