Ⅳ-Ⅷ 対峙
2020.9/12 更新分 1/1
そして――夕暮れ時である。
こちらの見込み通り、五万から成るゼラド軍の本隊は、太陽が西の果てに没しかけたところで、南の街道に姿を現した。
「よし。それではこちらも、出立だ」
ダリアスの号令によって、外壁の城門が開かれた。
こちらから出立するのは、和睦の使者たる六名。ダリアスとラナ、クリスフィアとリヴェル、そしてカノン王子とヴァルダヌスである。
三頭のトトスに六名がまたがって、先頭のダリアスが使者の証たる純白の三角旗を掲げている。そして六名が街道を駆け下ると、それを追うようにして五個大隊の軍勢が城門から現れた。
しかしそちらの軍勢は、城門の前で陣を張る。
これは、和睦をはねのけられた際の用心である。城壁の上には、日中と同じように弓兵がずらりと立ち並んでいた。
その陣の邪魔にならぬ位置までトトスを進めてから、ダリアスたちも停止した。
あとはこの場で、ゼラド軍の到着を待つのだ。
すると、隣に並んだトトスの上から、カノン王子が声をかけてきた。
「ねえ、ひとつお願いがあるのだけれど、聞いてもらえるかな?」
「うむ? 何であろうか?」
「リヴェルも、こちらのトトスに寄越してもらいたいのだよね。これではいざというときに、リヴェルを守りにくくなってしまうからさ」
ダリアスは、しばし思案することになった。
「ふむ……相手が妖魅や地神の御子であれば、そうなのであろうな。しかし、ゼラド軍と戦端が開かれてしまった場合は、一頭のトトスで三名を運ぶのは難しかろう?」
「僕やリヴェルは細身だから、それほどトトスの負担にはならないのじゃないかな。砦まで、大した距離ではないのだしさ」
そう言って、カノン王子は妖しく微笑んだ。
「それに、僕たちはゼラド軍との戦いを回避するために、こんな真似をしているのだろう? だったら、ゼラド軍に追われることなどはないと思いたいところだね」
「あちらがそう易々と矛先を収めるかは、知れたものではないがな。……しかし、承知した。クリスフィア姫、リヴェルなる娘を、そちらに」
クリスフィアはひとつうなずいて、カノン王子らのほうにトトスを寄せていった。
ヴァルダヌスはいったんトトスを降り、リヴェルをカノン王子の前側に乗せてやる。その後は手綱を握ったまま、猛禽のような眼差しで南の果てをにらみ据えた。
すでにそこには、ゼラド軍の巻き上げる砂塵までもが見えている。
もしもあちらが、使者の三角旗を黙殺してそのまま突撃してきたならば――ダリアスたちは、大変な危険に見舞われることだろう。この何日かでグリュドの砦は防衛兵団の援軍を迎え入れ、総勢は二万余名にまで増強されていたが、それでも相手は倍以上の軍勢であるのだ。
しかも砦の北側には、先遣隊の別動隊が陣を敷いている。物見の塔から確認したところ、そちらは一万ていどの兵力であると見込まれていた。
「ふふん。砦の総指揮官が和睦の使者を買って出るなど、そうそうあることではなかろうな」
トトスの上で単身となったクリスフィアは、不敵に微笑んでいる。グリュドで調達した白銀の甲冑を纏っているため、戦いの女神もかくやという姿である。
「この際は、妖魅の邪魔立てを警戒せねばならぬからな。むしろ、ゼラド軍が《まつろわぬ民》と無関係であったという場合のほうが、危ういのではないかと思えてしまう」
「その際は、我々の剣でゼラド軍を退ける他なかろう。……むろん、まずは和睦を目指さなければならんがな」
間もなく五万の敵軍勢を眼前に迎えようというのに、クリスフィアは怯む気配もない。その胆力は、賞賛に値するはずだった。
「おお、狼煙があげられたぞ」
クリスフィアの言葉に背後を振り返ると、グリュドの砦からひと筋の青い狼煙があげられていた。青色は、休戦を示す色である。
ダリアスは「よし」とうなずいて、クリスフィアとヴァルダヌスに呼びかける。
「ここまで引きつければ、十分だろう。俺たちも、前進する。その前に、松明の準備を」
城門の前に張られた陣においても、五千名からの兵士たちがすでに松明を掲げて、城壁の上にはかがり火が焚かれていた。
完全に日が没するには、まだ猶予があろう。これは、カノン王子の魔術に力を添えるための処置である。
(むろん、カノン王子の魔術でゼラド軍を焼き払うような事態にはなってほしくないものだが……そのためにも、我々が力を尽くさなければな)
そうしてダリアスたちは、街道をゆっくりと進んでいった。
ゼラド軍は、もはや鼻先に迫っている。
たとえ五万の軍勢であろうと、ここは雑木林と岩山にはさまれた街道だ。敵軍が陣を広げられないように、あえて自然の要害としているのである。それでも街道は広く切り開かれているために、騎兵が五列縦隊で砂塵をあげていた。
(単純計算で、五騎ずつの騎兵が一万名分、後方にのびているわけか。最後尾は、まだ遥か彼方だな)
そんな風に考えながら、ダリアスはトトスを停止させ、純白の三角旗を大きく振ってみせた。
松明を握りしめたラナは、ダリアスの目の前で固く身体を強張らせている。鍛冶屋の娘が邪神などと遭遇するのは御伽噺にも負けない荒唐無稽な話であるが、それは相手が五万の軍勢でも同じことが言えるはずだった。
(御伽噺……本当に、御伽噺の登場人物にでもなった気分だな)
カノン王子の様子を横目で盗み見ながら、ダリアスはそんな想念にとらわれる。
現在の王子は外套の頭巾で面相を隠していたが、その下にどれほど神秘的な姿が隠されているかは脳裏に焼きつけられている。カノン王子こそ、存在そのものが御伽噺めいていた。
ただ美しいというだけではない。白膚症や半陰陽といった要素すら、二義的なものであるのだろう。カノン王子は、その魂の輝きこそが特異で際立っていたのだった。
それは天性のものであるのか、あるいは度重なる非業の運命がもたらしたものであるのか――何にせよ、カノン王子は凡百ならぬ存在である。たとえカノン王子が《まつろわぬ民》の陰謀に巻き込まれていなくとも、いずれは御伽噺めいた運命がもたらされたのではないかと、そんな風に思えてならなかった。
(もしも世界に魔力が満ちて、大神アムスホルンが正しく目覚めたならば……このカノン王子こそが、世界の王に相応しき存在なのではないだろうか)
そのとき、クリスフィアが鋭く声をあげた。
「ダリアス殿、来たぞ」
気づくと、ゼラド軍は進軍を止めていた。
五騎の騎兵が端に寄って、そこに生じた空間から、一騎の騎兵が飛び出してくる。使者の言葉を聞くための、伝令役の兵士であろう。
カノン王子についてあれこれ思いを巡らせるのは、この災厄を退けてからだ。
そのように念じながら、ダリアスはラナとともにトトスを降りた。
「ゼラドの勇士に申し渡す! 我が名はグリュドに控えし王都の兵団の総指揮官、十二獅子将たるダリアスである! こたびの騒乱を治めるために、和睦の会談を願いたい!」
ゼラド軍の騎兵は十歩ほど離れた場所でトトスを止めると、よく鍛えられた咽喉で言葉を返してきた。
「和睦の会談を願うとのこと、了承した! しかしその場には、六名もの人間が参じている! その理由を説明願いたい!」
「こちらは、会談に必要な人間をそろえている! これしきの人数で、卑劣な謀略を成すことはできまい! どうかご安心願いたい!」
「会談に必要な人間とは、何者か!?」
やはりあちらも、相応に用心しているようであった。
ダリアスはひとつ呼吸を整えてから、それに応じる。
「こちらに控えるは、かつての十二獅子将たるヴァルダヌス! アブーフ侯爵家の嫡子たるクリスフィア姫! 従士のラナ! 同じくリヴェル! そして、セルヴァ王家の第四王子たるカノン殿下である!」
トトスにまたがったゼラドの兵士は、愕然とした様子で上体を揺らした。
「カ……カノン王子と申したか!? カノン王子は、我らゼラド軍の先遣隊が擁していたはず! よもや、貴殿らは我々の同胞を――」
「ゼラド軍の先遣隊はドエルの砦を占領しており、グリュドの向こう側には一万から成る別動隊が陣を敷いている! お疑いであれば、そちらに使者を走らせればよかろう! こちらは和睦を願っているのだから、それを邪魔立てすることはない!」
そしてダリアスは、最後の言葉を告げることにした。
「ゼラドの擁していた人物は、カノン王子殿下の名を騙った痴れ者である! その者こそ、ゼラドと王都の双方に災厄を招きし大罪人であろう! 我々は悪しき邪教徒の陰謀によって、無為に血を流そうとしているさなかであるのだ! そのような愚挙を回避するために、どうか和睦の会談に応じていただきたい!」
ゼラドの騎兵はしばし沈思してから、トトスの首を後方に巡らせた。
「貴殿の口上は、こちらの総指揮官たるベアルズ大公閣下にお伝えさせていただく! しばしその場でお待ちいただきたい!」
まずは、最初の関門を突破できたようだった。
その間に、太陽はほぼ西の彼方に没している。ゼラド軍においても、手持ちの松明に火が灯されたようだった。
「五万からの兵士たちが松明を灯してくれたのなら、盤石だ。もうあちらの敵陣に踏み込んでも、僕が危うくなることはないはずだよ」
悪い精霊のように微笑みながら、カノン王子がそのようにつぶやいた。
「だけど、僕が守れる人間には限りがある。いっそのこと、君たちは砦に戻るべきなのではないのかな?」
「そうはいかん。ヴァルダヌスは現時点で王都の軍から除籍されているので、使者の任務を負うこともかなわないのだ。体面上、立場ある人間が同席せねばならんだろう」
「ふうん。まあ、君たちは君たちの好きにすればいいけどさ。僕の目的は、あくまで《まつろわぬ民》と地神の御子の討伐なのだからね。あまり期待をかけないでもらえるとありがたいかな」
「我々の身を守っていただきたいとは言わん。……本心をさらすと、クリスフィア姫の身だけは守っていただきたく思うがな」
「わたしのことは、心配無用だ。わたしとて、伊達や酔狂でこのような場に参じたのはないのだぞ、ダリアス殿」
兜の下で、クリスフィアは勇猛に笑った。
このような場で、彼女を姫君あつかいするべきではないのだろう。その灰色の瞳に輝くのは、まぎれもなく武人としての闘志の炎であった。
しばらくして、今度は三騎の騎兵がこちらに近づいてくる。
「先遣隊の別動隊に、使者を送らせていただく! また、先遣隊の立場ある人間をこちらに招き寄せることをお許し願いたい!」
「了承した! 西方神の御名にかけて、こちらから害を為すことはない!」
騎兵の内の二騎がさらに前進してきたので、ダリアスたちは街道の端にトトスを寄せることになった。
黒光りする甲冑を纏ったゼラドの騎兵が、かたわらをすり抜けていく。五千の陣のすぐそばを横切らなくてはならないのだから、彼らこそが決死の覚悟であろう。しかしもちろん、副官ルブスの率いる軍勢が、ゼラドの騎兵に矢を射かけることはなかった。
(これで別動隊の連中は、慌ててドエルの砦に使者を走らせることだろう。……あちらは、うまくやっているだろうか)
ダリアスたちは少し前、ゼラに伝書鴉を飛ばさせていた。それでドエルの砦に潜伏したデックにも偽王子の正体が露見するのは夕暮れ時と伝えられたはずなので、こちらからの使者が辿り着く前には脱出を果たすはずだった。
(騎兵の早駆けでも、こちらからドエルまではおよそ三刻。それだけの猶予があれば、まあ問題はないだろう)
四半刻ほどが経過すると、さきほどの騎兵たちが十名ばかりの仲間を引き連れて舞い戻ってきた。
全員が同じような姿をした兵士だが、ひとりだけ兜に房飾りを垂らし、豪奢な外套を纏っている。別動隊の指揮官か、それに準ずる立場の武官であろう。
ダリアスたちのかたわらを通りすぎるとき、その武官が凄まじい目つきでこちらを睥睨してきた。
まだ若い、黒い火のような眼光を持つ青年だ。六名の内のいずれがカノン王子であるのかと、それを探ろうとしているようであった。
(ふん。かつての戦役で、刃を交えた相手やもしれんな)
ダリアスは赤の月の災厄までルアドラ騎士団の団長を務めていた身であるが、それ以前は遠征兵団に所属していた。ゼラド軍ともマヒュドラ軍とも、幾度となく刃を交えているのだ。
王座を簒奪せんとするゼラド大公国とは、いずれ決着をつけねばならないのだろうが――今は、その時ではない。和睦の内容は王都のティムトから伝えられていたが、ダリアス自身もそれに賛同する立場であった。
いよいよ世界は暗く垂れこめていき、天空は茜色から紫色、紫色から藍色へと変じていく。
そうしてまた、四半刻ほどの時間が過ぎたとき――三たび、伝令役の兵士がこちらに近づいてきた。
「では、そのままトトスをお進めいただきたい! こちらの陣にて、詳しい話を聞かせていただく!」
その言い草に、クリスフィアはこっそり「ほお」と笑った。
「おたがいの陣の狭間ではなく、自分たちの陣中におもむけというのか。ゼラドの大公とやらも、さして肝は据わっていないようだな」
「それでも、会談に応じてもらえただけ、僥倖というものであろうよ。……いざとなったらトトスで逃げ帰ることになるので、くれぐれも油断なきようにな」
そのように指示を送ってから、ダリアスはゆっくりと足を踏み出した。
カノン王子らもトトスを降りて、徒歩で街道を進んでいく。敵陣の矢が届く距離にまで至ると、さしものダリアスも背筋が冷たくなる思いであったが、ゼラド軍がそのように無法な真似に及ぶことはなかった。
(たとえ相手が五万の兵でも、街道の途上であれば囲まれる恐れはない。カノン王子が炎の魔術で対抗してくれれば、その騒ぎにまぎれて逃げ戻ることもかなおう)
いちおうは、ダリアスもそこまで計算した上での行動であった。
自分はともかく、ラナやクリスフィアを危険にさらすわけにはいかないのだ。ダリアスの聖剣は妖魅相手にしか効力を発揮できないのであるから、こちらも用心を重ねる必要があったのだった。
そうしてダリアスたちが敵陣の鼻先にまで到着すると、五列の騎兵がまた左右に分かれた。
その向こう側には、こちらに後部を向けたトトス車が鎮座ましましている。十名ばかりの兵士が徒歩で車の前に整列し、その内の一名が車の扉を引き開けた。
「ふむ……貴殿が、十二獅子将ダリアスであるか」
兵士たちの向こう側から、重々しい声音が届けられてくる。
その人物は車を降りようとしなかったので、兵士たちの肩越しに上半身が覗いていた。
やはり、黒光りする甲冑を纏っている。西の民としては大柄で、頬や口もとに豊かな髭をたくわえており、その目は炯々と輝いていた。新王ベイギルスを遥かに上回る風格である。
「……我こそは、ゼラド大公家の当主、ベアルズである」
さしものダリアスも、小さからぬ緊張を噛みしめることになった。
「こちらの申し出を聞き入れていただき、心より感謝している。また、大公たる身と相まみえられたこと、光栄に存じる」
しかし相手は、現王家に牙を剥く叛逆者の一族だ。たとえ正統なる大公家の当主であっても、ダリアスたちが殿下や閣下などと呼ぶことは許されなかった。
「それで? 貴殿らがカノン王子を擁しておるというのは、真実であるのだろうかな?」
「うむ。まずはそちらをご紹介いたそう」
カノン王子はトトスの手綱を握ったヴァルダヌスとリヴェルを左右に従えて、進み出た。
その白い指先が頭巾をはねのけると、兵士たちの間にどよめきが広がる。
ベアルズ大公は、「ほう……」と探るように目を細めた。
「これは確かに、我々の擁していたカノン王子とは別人であるようだな、ラギスよ?」
「は……」と低く応じたのは、さきほどの高官たる青年であった。彼もまた、大公を守る一団の中に含まれていたのだ。
その黒い双眸は、ぎらぎらと野獣めいた輝きを灯しながら、カノン王子の美貌を一心に見据えていた。
「しかしまた、カノン王子は十六年もの歳月を幽閉されており、公式の場に姿を現したこともないのだと聞く。白膚症の人間をカノン王子に仕立てあげることは、誰にでも可能なのではなかろうかな?」
ベアルズ大公はひとり泰然とした面持ちで、揶揄するように言った。
ダリアスがどのように応じるかも予測しての言葉であろう。この際は、それに逆らう理由もなかった。
「我々は、カノン王子殿下とともにかつての十二獅子将たるヴァルダヌスをも保護することがかなった。そちらはヴァルダヌスの旗下であったエルヴィルなる人物を擁していると聞いているが、これ以上の証人はあるまい」
「ほう……我々がエルヴィルなる者を擁していると、どこでそのような話を聞きつけたのであろうかな?」
「むろん、ゼラドに潜ませた間諜からだ。王都においても、そちらの放った間諜が幾人も跳梁していることであろう」
ベアルズ大公は韜晦の弁舌を得意にしているようであったので、ダリアスはそれを断ち切らせてもらうことにした。
「ゼラド大公国は、偽物のカノン王子に踊らされてしまったのだ。そしてその裏には、忌まわしき邪神教団の影がうかがえる。ゼラドと王都は不倶戴天の仇敵ともいうべき間柄であろうが、それゆえに、邪神教団などというものの策謀で刃を交えるべきではなかろう」
「邪神教団とは、また突飛な話を聞かされるものだ。第四王子の話から、どうしてそのようなものが持ち出されることになったのであろうかな?」
「それをご説明させていただくために、ご足労をいただいたのだ。……ちなみに先遣隊の者たちは、邪神教団の存在を垣間見ているはずだな」
ベアルズ大公はうろんげに眉をひそめて、ラギスと呼ばれた高官のほうを振り返った。
しかしラギスは、カノン王子をにらみ据えたまま不動である。
「……先遣隊がこの地に到着したとき、グリュドの砦は魔なる存在に襲撃を受けていた。それゆえに、先遣隊の進軍を防ぐことがかなわなかったのだ。三万から成る先遣隊は、物見の塔にへばりつく巨大なる妖魅をその目に映したはずであるぞ」
ダリアスがそのようにうながしても、ラギスは答えようとしなかった。
ベアルズ大公はいささか苛立った様子で、「ラギスよ」と呼びかける。
「ダリアスの将軍の言葉に答えるがよい。其方は真実、そのようなものを目にしておるのか?」
「は……いずれ、まやかしの類いでありましょう。論ずるには値しないかと思われます」
「ほう、まやかし。では、貴殿らはまやかしによって数百名もの兵士を失ったのであろうかな?」
その言葉で、ラギスはようやくダリアスのほうに視線を転じてきた。
黒い熾火のごとき眼光が、食い入るようにダリアスをにらみ据えてくる。
「それは、グリュドを襲った妖魅とは別件だ。貴殿らは、かつて屍の妖魅に襲撃されて、数百名の兵士を失ったのであろう?」
「何故……何故、貴様がそのような話を知っている?」
それは、ドエルの砦に潜伏したデックが、偽王子の一行から聴取した情報であった。ロア=ファムの護衛部隊から離脱したギリル=ザザとドンティなる者たちが、妖魅の群れをおびき寄せてゼラド軍にぶつけたという話であったのだ。
「死した獣が、人間を襲う。それもまた、邪教徒の魔術によって召喚された妖魅に他ならない。その恐ろしさは、骨の髄まで刻まれているはずであろう。禁忌の妖術によって魂を返してしまった者たちのためにも、我々は――」
「やかましい! そのよく回る口を閉ざすがいい、穢れた王家に飼われる犬め!」
突如として、ラギスが激昂した。
「そこまで妖魅についてわきまえているのは、貴様たちこそが妖魅を仕掛けた張本人である証であろう! そうでなければ、我々が妖魅に襲撃されたことすら知るすべはないはずだ!」
「いや。我々もまた、妖魅に大きく苦しめられてきた身だ。いずれ間諜から報告されるだろうが、先日には黒羊宮が妖魅の襲撃によって崩落することになった。その前には王都の大聖堂、さらにはダームの港町においても、小さからぬ被害が出ている」
ラギスが激昂する理由はわからなかったが、ダリアスは語るべき言葉を語るだけだった。
「そしてまた、ゼラド大公国が偽者の第四王子を手中にすることになった裏にも、邪神教団が関与しているという疑いがもたれている。きゃつらはそうして人心を乱し、四大王国に害を為そうと目論んでいるのだ。そもそもは、カノン王子殿下が幽閉の憂き目にあわれたことさえ邪神教団の陰謀であったのだと、我々はそのように考えている」
「それはまた、荒唐無稽な話を聞かされるものよ……この世における悪しき物事には、すべてにおいて邪神教団なるものが関与しているのであろうかな」
ラギスとは異なり、ベアルズ大公は冷笑的な態度を保持したままであった。
「それで、貴殿らは我々との和睦を願っている、と……そのように申すのか?」
「うむ。ゼラドと王都は、いずれどちらが正しいかを決する運命にあるのだろう。しかし、邪神教団などという忌まわしきものの介在した状態で、正しき答えを求めることはかなわずはずだ。そちらにしても、偽物の王子を旗頭としては、大義が立つまい?」
「馬鹿が」と、ラギスが吐き捨てた。
その指先が、腰の長剣にかけられている。
「ならばこの場で、本物の第四王子とやらを手中にするまでよ。そのていどのことも想像できぬとは――」
そのとき、カノン王子がふいに「ダリアス将軍」と声をあげた。
「どうやらお待ちかねの、妖魅が登場したようだ。この会談は、ひとまず切り上げる他ないようだよ」
「ふざけるな、白子め!」
ラギスが抜刀し、カノン王子のかたわらにあるヴァルダヌスへと斬りかかった。
カノン王子は魔性の微笑みをたたえつつ、ヴァルダヌスの前に進み出る。
瞬間――リヴェルの携えた松明から紅蓮の炎が渦巻いて、ラギスの上半身を包み込んだ。
ラギスは獣のような声をあげ、地面の上を転げ回った。
それでも炎は、いっこうに弱まらない。
呆然と立ちすくむ兵士たちに、カノン王子は皮肉っぽい声を投げかけた。
「彼を見殺しにしてしまうのかい? たとえ正当なる反撃であっても、ゼラドの人間を害してしまうのは本意でないのだけれどね」
兵士たちは糸で操られる傀儡のようにぎくしゃくとした動きで、ラギスのもとに近づいた。彼らが自らの外套を脱いでラギスの身体を叩きまくると、ようやく炎は消失する。
剥き出しであった顔や手の先は、無残に焼けただれてしまったことだろう。ラギスは地面に這いつくばったまま、くぐもったうめき声をあげていた。
ベアルズ大公は裂けんばかりに目を見開いて、その哀れげな姿を見下ろしている。
「な……なんだ、今の手妻は……?」
「これが、魔術だよ。邪神教団たる《まつろわぬ民》が僕にかけた、呪いさ」
赤い唇を吊り上げて、カノン王子は妖艶に微笑んだ。
「そんなことより、妖魅に襲撃されたのは君たちの率いる軍勢だよ。大事な配下が魂を返してしまってもいいのかい?」
街道の向こうから、騒乱の気配が伝わってきた。
危急を知らせる太鼓と角笛の音色――静寂に包まれていた世界が、にわかに沸騰した。
「さあ、どうする? 僕たちはこのまま砦に引っ込むべきか、あるいは仇敵たるゼラド軍に救いの手を差しのべるべきか……誰でもいいから、決めてほしいところだね」
ダリアスは困惑しつつ、カノン王子を振り返った。
「我々が逃げ戻ることは許されまい? 《まつろわぬ民》と地神の御子を討伐するのが、我々の使命であるのだぞ?」
「いや。現れたのは、木っ端の妖魅だよ。首魁たる猫神アメルィアは闇に返ったのだから、せいぜいその眷族ぐらいしかこの地には残されていない。地神の御子が出現したという気配も、今のところは感じられないね」
「……そうだとしても、妖魅を放っておくことはできん」
ダリアスの腰の聖剣にも、妖魅の出現を示す波動が伝えられてきた。
これは――ダリアスのすぐそばにまで脅威が迫っている証だ。
ダリアスはラナの肩を引き寄せて、聖剣を鞘から引き抜いた。
ゼラドの兵士たちが息巻くが、そのようなものにかかずらっているゆとりはない。街道の東側に存在する雑木林の暗がりに、青い鬼火のごとき眼光が燃えていた。
「来るぞ!」と警戒をうながしてから、ダリアスは聖剣を振り下ろした。
真紅と漆黒の閃光が渦を巻いて、闇から飛び出した妖魅を斬り伏せる。
その斬撃を逃れた黒い影が、ゼラドの兵士にへばりついた。かつてグリュドの砦にも出現した、毛むくじゃらの平べったい獣魔だ。
その鋭い牙に顔面を食い破られて、兵士は断末魔をあげる。
ダリアスはすかさず聖剣を振るったが、兵士は滝のように鮮血を噴きこぼしながら、地面に倒れ伏した。
「こんな……こんなことが……」
ベアルズ大公はトトス車の内部でへたり込み、わなわなと震えてしまっていた。
その間も、街道の向こうからは悲鳴や絶叫が轟いている。たとえ五万の軍勢といえども、初めて相まみえる妖魅の前には、なすすべがないようであった。
「ベアルズ大公よ! これが、《まつろわぬ民》のやり口であるのだ! あやつらにとっては、四大王国の民のすべてが敵であるのだ! 我々は雌雄を決する前に、まずは共通の敵を討ち倒すべきであろう!」
「わ……我々は、どうすれば……」
「我らがゼラドの陣中に踏み入ることをお許し願いたい! 自分とカノン王子であれば、如何なる妖魅でも――」
「いや」と、カノン王子がダリアスの言葉をさえぎった。
その真紅の双眸は、背後のグリュドの砦のほうを――いや、その先の暗い天空を見据えている。
「どうやらあちらでも、妖魅が出現したようだよ。しかもこれは……召喚の術式だ。おそらく、《まつろわぬ民》がその手で猫神アメルィアの眷族を召喚したようだね」
「グリュドの砦か? ならば、俺かカノン王子のどちらかが――」
「いや。もっと北の果てだ。トトスをおもいきり駆けさせても、三刻ぐらいはかかりそうなところだね」
「であればそれは、ドエルの砦の近在ということになるな」
ダリアスの言葉に、カノン王子は満足そうに微笑んだ。
「偽王子が居座っているドエルの砦とやらの近在に、《まつろわぬ民》が潜伏している。地神の御子の居場所は、これではっきりしたようだね」
「そうか。では……カノン王子が、そちらに向かう他ないのであろうな」
「うん。この地に出現した妖魅であれば、君の聖剣で十分に対応できるはずだよ」
ダリアスは、再び襲いかかってきた獣魔の群れを一掃した。
ベアルズ大公はへたり込んだままであり、ゼラドの兵士たちも立ちすくんでしまっている。
「相分かった。この地の妖魅は、俺が引き受けよう。……クリスフィア姫」
「うむ。わたしの使命は、カノン王子の行いを見届けることだ。無事に再会できることを祈っているぞ、ダリアス殿よ」
クリスフィアはトトスに飛び乗り、リヴェルを鞍の上に引き上げた。
ヴァルダヌスもまた騎乗したが、カノン王子は薄笑いをたたえたまま、ダリアスに顔を寄せてくる。
「ねえ。僕は火種が存在しないと、自分の魂をいっそう削らなければならなくなってしまうんだ。地神の御子を相手取るなら、松明を掲げた援軍が欲しいところだね」
「うむ。あちらに控えた五個大隊を、王子に同行させよう。もはやこの場で、ゼラド軍と戦端を開く恐れはなかろうからな」
「だったら、砦の向こう側に居座っている一万のゼラド軍にも同行を願うべきじゃないかな? 邪神の眷族や地神の御子の恐ろしさを目の当たりにすれば、今後の交渉もやりやすくなるだろうと思うよ」
ダリアスは一瞬呆気に取られてから、笑ってみせた。
「あなたもティムトに劣らずに、なかなかお知恵が回るようだ。……ベアルズ大公よ、ひとつご提案をさせていただきたい!」
そうしてダリアスは、半日足らずでカノン王子と行動を別にすることになってしまった。
しかし、カノン王子であれば、きっとドエルの砦に迫った災厄を退けることがかなうだろう。これが王家の人間の資質というものか――悪戯小僧のように笑いながら、カノン王子のほっそりとした身体には、ダリアスでも敬服したくなるような気品と風格がみなぎっているように感じられた。