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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第八章 再生の道
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Ⅲ-Ⅷ 資格

2020.9/5 更新分 1/1

 王都を出立して、六日目の昼過ぎ――クリスフィアたちは、ついにグリュドの砦を眼前に迎えることになった。


 クリスフィアとリヴェル、カノン王子とヴァルダヌス、イフィウスとペルアの六名を乗せた三頭のトトスは、砂埃をあげてグリュドの砦を目指す。地平線から姿を覗かせたグリュドの砦は、戦火に包まれることもなく、妖魅に襲撃されることもなく、青い空を背景にその威容を誇っていた。


(よし。なんとかゼラドの本隊より先んじることができたようだな)


 クリスフィアがそのように考えたとき、先頭を駆けるトトスからペルアの声が聞こえてきた。


「皆様、ご用心を……! 北の方角に、敵軍の影を確認いたしました……!」


 イフィウスは口が不自由であるために、ペルアが代弁することになったのだろう。

 ヴァルダヌスたちをはさんで最後尾を駆けていたクリスフィアは、「どういうことだ!?」と怒鳴り返してみせた。


「ゼラドの本隊がやってくるとしたら、南側からであろう! 北側に敵軍の影ということは、ドエルの先遣隊が動いたということか!?」


 しばらくののち、再びペルアの声が聞こえてきた。


「仔細は、わかりませぬ……! ただしあれはゼラドの軍勢に他ならないと、イフィウス様はそのように仰っております……!」


 まあ、それが王都の軍でない限り、ゼラドの軍であることに間違いはないのだろう。いきなりマヒュドラの軍が現れたなどと聞かされるよりは、まだしも不思議はない話であった。


(では、北と南からグリュドの砦を挟撃しようという目論見であるのか? これは、なかなかに厄介な事態だな)


 そんな風に考えながら、クリスフィアは血が沸き立っていくのを感じた。五万と三万の軍勢に挟まれた砦に駆けつけるなど、武人の心が震えてやまないのだ。

 しかしまた、クリスフィアの使命はカノン王子を無事に砦まで送り届けることである。さしあたっては、鞍の上で小さな身体を強張らせているリヴェルを安心させてあげなければならなかった。


「案ずるな。危険があれば、イフィウス殿がそのように指示を出すはずだ。砦の内に逃げ込めば、危険なこともそうそうあるまい」


「は、はい……」


 リヴェルは前を向いたまま、気弱な顔をクリスフィアにさらそうとはしなかった。

 きっと彼女は、自分が思っている以上に勇敢な少女であるのだ。そうでなければ、これほど長きに渡ってカノン王子と苦難をともにしていながら、恐怖に屈さずいられるとも思えななかった。


(何せ我らの王陛下においては、カノン王子とメフィラ=ネロの戦いを目にしただけで寝込んでしまったのだからな)


 クリスフィアがそんな風に考えたとき、雑木林の区域を抜けて、見晴らしのいい場所に出た。

 北の方向に目をやったクリスフィアは、思わず「ほう」と笑ってしまう。グリュドの砦とドエルの砦を繋ぐ街道に、まさしく軍勢の影が見えたのだ。


 トトスにまたがった騎兵隊が、こちらと同じ勢いでグリュドの砦を目指している。昼下がりの陽光に照らされるのは、黒光りする兜と鎧だ。それはレイフォンから聞いていた通りの、ゼラド軍の装備であるようだった。


(あの隊列が、どれほど後ろまで続いているかはわからんが……まあ、五千を下る軍勢ではないようだな)


 クリスフィアたちは、東の方向からグリュドの砦を目指している。こちらはトトスがすれ違うのにも苦労をしそうなほどの細道であったが、足もとはしっかりと踏み固められており、トトスを駆けさせるのに問題はない。雑木林の区域を突っ切ると、先頭を駆けるイフィウスたちのトトスはいっそう勢いを増したようだった。


(ゼラド軍のほうでも、こちらの姿に気づいたことだろう。これは、駆け比べだな)


 砦を囲む城壁が、見る見る目前に迫ってくる。

 それと変わらぬ速度で、ゼラド軍も城壁に迫っていた。

 これで城門が開かなければ、クリスフィアたちはゼラド軍に蹴散らされてしまうだろう。しかし、城門を開けば、ゼラド軍に侵入を許してしまうかもしれない。


 砦の者たちは、正しい判断を下すことができるかどうか――

 クリスフィアがそのように考えたとき、重々しい太鼓の音が鳴らされた。


 それと同時に、城壁の上に人影が浮かびあがる。弓矢を携えた、砦の兵士たちである。

 そして、向かう先で城門が開かれるのが見えた。

 白銀の甲冑を纏った兵士たちが、そちらからも排出される。トトスにまたがった、騎兵隊である。


 騎兵隊は、城門の前に陣を張る。さしたる規模でもないが、それでも二個大隊の二千名は下らないだろう。

 それを確認したゼラド軍は、街道の半ばで停止した。

 城壁の上では、ずらりと立ち並んだ射手たちが弓に矢をつがえているのだ。それ以上の前進をするには、小さからぬ交戦の覚悟が必要であるはずだった。


 彫像のように動かなくなったゼラド軍を横目に、クリスフィアたちはグリュドの陣に突入する。

 王都の軍装に身を包んだ兵士たちは、すべてを承知している様子でクリスフィアたちを招き入れてくれた。


「どうぞこちらに! そのまま城門をおくぐりください!」


 ひとりの騎兵が先導役となって、クリスフィアたちを案内してくれた。

 その間も、立ち並んだ兵士たちは微動だにせずにゼラド軍の動向をうかがっている。

 そうして最後尾のクリスフィアが城門をくぐるなり、再び太鼓が鳴らされた。


「そのまま止まらずに! 砦の入り口までトトスをお進めください!」


 城門の向こう側にも、白銀の甲冑を纏った騎兵が整列していた。ゼラド軍が突撃してきたならば、こちらも全軍で迎え撃つ態勢が取られていたのであろう。

 クリスフィアが背後を振り返ると、城門からは騎兵たちが粛々と帰還を果たしていた。ゼラド軍に動きはなしと見て、撤退を始めたのだ。


(見事だな。さすがは、ダリアス殿だ)


 石造りの砦の入り口にまで到達したので、クリスフィアたちはトトスを停止させた。

 それと同じ頃合いに、城門が閉められていく。すべての兵士が、無事に帰還を果たしたようだった。


「お待ちしていた、イフィウス殿。……それに、クリスフィア姫もな」


 甲冑姿のダリアスが、従士とともに徒歩で近づいてきた。

 いや、よくよく見れば、それは従士の格好をさせられたラナである。騎士の世話をする従士というのは十三歳ていどの少年が務めることもあったので、ほっそりとした女人のラナでもそれほどの違和感はなかった。


「トトスはお預かりするので、部屋のほうに。……ルブス、後は頼んだぞ」


「はいはい、承知つかまつりました。……全軍、そのまま休め。ゼラド軍が動くまで、しばし休憩だ」


 ルブスのとぼけた指令を受けて、伝令役が駆けていく。

 その間に、ダリアスは砦の扉を開いていた。


「南方からの狼煙によると、ゼラド軍の本隊が到着するのは夕暮れ頃だ。先遣隊の連中も、それまで動くことはないだろう。その間に、面倒な話を片付けさせていただこう」


 ダリアスは颯爽とした足取りで、回廊を進んでいく。

 その姿に、クリスフィアは声をあげずにはいられなかった。


「ダリアス殿が誉れ高き十二獅子将であられるという事実を、これ以上ないぐらい見せつけられた心地だぞ。兵の運用も、見事のひと言に尽きるな」


「そちらの動きもゼラド軍の動きも、俺は伝書鴉で伝えられていたからな。それに従って準備をしていたに過ぎぬよ。……息災なようで何よりだ、クリスフィア姫」


 ダリアスはちらりと笑顔を覗かせたが、すぐに前方に向きなおってしまった。

 カノン王子とヴァルダヌス、それにリヴェルの三名は、外套の頭巾を深くかぶって、粛々と歩を進めている。ダリアスも、そちらに目をくれようとはしなかった。


 やがて回廊の突き当たりに、立派な扉が出現する。ダリアスはまた自らその扉を開いて、クリスフィアたちを招き入れてくれた。


「すべての人間はゼラド軍の攻撃に備えさせているので、余分な人手がないのだ。その分、内密の話はしやすかろう」


 扉を押さえているダリアスとラナの横を通りすぎて、クリスフィアたちはひとりずつ入室する。

 そこに控えていた先客の姿に、クリスフィアは「おお」と口をほころばせることになった。


「ひさかたぶりだな、ロア=ファムよ。お前に会える日を楽しみにしていたぞ」


 不愛想な狩人の少年は、「うむ」としか言わなかった。

 もう一名、見慣れぬ若い武官が目礼をしてきたので、クリスフィアはそちらに礼を返してから、最後の一名に声をかけた。


「リッサも、無事で何よりだ。フゥライ殿が、お前の身を案じていたぞ」


「ふん。僕にこんな役目を押しつけて、ご自分は王都で読書三昧なのですからね。心配をするふりぐらいはしないと、居たたまれないのでしょう」


 数日ぶりに見るリッサも、相変わらずのようであった。ひとりだけ離れた場所に置かれた長椅子に沈み込み、何やら書物に読みふけっている。


「フゥライ殿は、それほど安穏と過ごしていたわけではないぞ。マルランが妖魅に襲われた際は、わたしとともに駆けつけることになったのだからな」


 そう言って、クリスフィアは首もとの護符を引っ張り出してみせた。


「しかしこのたびは、フゥライ殿からこの護符を借り受けて、わたしだけが参ずることとなった。ともに使命を果たそうではないか、リッサよ」


「ああもういいから、僕のことは放っておいてください。ゼラドの軍勢とやらが到着するまで、もう時間も残されていないのでしょう?」


 それはリッサの言う通りであったので、クリスフィアはダリアスのほうに向きなおった。

 扉を閉めたダリアスは、部屋の中央まで歩を進めて、その場の長椅子を指し示す。


「では、客人がたはそちらに。……話を始める前に、おたがい名乗りをあげるべきであろうな。すでにレイフォンらから聞き及んでいるかと思うが、俺は十二獅子将のダリアスで、こちらはラナだ。ラナは鍛冶屋の娘だが、俺が聖剣の力を借りるのに必要な存在であるため、従士に身をやつしてもらっている」


 ラナは静かな面持ちで、一礼した。


「そしてこちらはシャーリの狩人ロア=ファムと、その護衛部隊の責任者であるタールス。それに、学士のリッサだな。《まつろわぬ民》にまつわる話の全容をわきまえているのは、この場にいる五名と、副官のルブスおよびゼラのみとなる」


 タールスという若き武官は、張り詰めた面持ちで頭を垂れた。

 カノン王子ばかりでなく、クリスフィアやイフィウスに対しても過度の緊張を強いられている様子である。おそらく、爵位や階級というものを重んじる性分であるのだろう。


「では、こちらはわたしが紹介させていただこう。余所者の身で恐縮だが、こちらには奥ゆかしいお人らがそろっておられるのでな。……わたしはアブーフ騎士団の第七大隊長クリスフィアだ。新王陛下の戴冠式に参じた身だが、《まつろわぬ民》にまつわる陰謀に深く関わり、このグリュドまで駆けつけることと相成った。


 この場にいるのは見知った相手ばかりであったので、クリスフィアはタールスに名乗りをあげているようなものであった。

 しかしまあ、伝書鴉によってこちらの素性ものきなみ伝えられているのだろう。その張り詰めた面持ちに変化はない。


「そしてこちらは王都の騎士たるイフィウス殿と、聖教団のペルアとなる。ペルアは、ゼラ殿の配下であるのだが……そういえば、ゼラ殿はどこに行ってしまわれたのだ?」


「ゼラは伝書鴉が届けられていないか、階上まで確認に出向いている。中庭に兵士らが控えているため、この部屋では都合が悪いのだそうだ」


「そうか。ゼラ殿にも、早く挨拶をさせてもらいたいものだが……こちらは、王都に帰還を果たされたカノン王子にヴァルダヌス殿、そしておふたりの友人であられるリヴェルとなる」


 三名がそれぞれ頭巾を後ろにずらすと、室内には驚愕の気配が駆け巡った。

 もちろんカノン王子らについても、事前に伝書で伝えられている。しかしどれだけの覚悟を固めていても、カノン王子の美しさには驚かずにいられないのだろう。


 ダリアスも、ラナも、ロア=ファムも、タールスも――リッサまでもが、ぎょっとした様子でカノン王子の美貌に見入っている。

 それと相対するカノン王子は、血の色をした唇で妖しく微笑んでいた。


「俺はこれまで、カノン王子に拝謁を賜る機会もなかったが……しかし、そちらが本物のヴァルダヌスであることに間違いはないようだ」


 カノン王子のもとから視線をもぎ離して、ダリアスはヴァルダヌスのもとに近づいた。


「お前が生きて戻ったと聞かされて、俺は心から驚かされたぞ、ヴァルダヌスよ。ディラーム老も、さぞかしお喜びのことだろう」


 ダリアスは、感じ入った様子で口をほころばせている。

 しかしヴァルダヌスは、無言のままに目礼を返すばかりであった。

 右の頬から咽喉もとまでを火傷の痕に覆われたヴァルダヌスは、東の民のごとく無表情である。その姿に、ダリアスは笑みを消して後ずさった。


「……前王殺しの疑いなどをかけられてしまったお前とカノン王子は、決して望んで王都に戻ったわけではないのだろうな。しかし、レイフォンであればすべてを丸く収めてくれることだろう。後顧の憂いなく、この地で使命を果たしてもらいたい」


「…………」


「そして、イフィウス殿も……イフィウス殿のご帰還には、カノン王子らのご帰還に劣らぬほど驚かされた。無事に再会できたことを、西方神に感謝いたそう」


 こちらも寡黙なイフィウスは、ただ「うむ」とだけ答えていた。

 ダリアスは、あらためて長椅子を指し示す。


「では、お座りいただきたい。ゼラド軍の本隊が到着するまで、もうあまり猶予は残されていないため、早急に話を詰めなければならんのだ」


「いったい僕は、何をすればいいのだろうね?」


 ヴァルダヌスとリヴェルを左右に侍らせて、長椅子にふわりと腰を下ろしながら、カノン王子はそのように尋ねた。

 ダリアスは、表情を引き締めてそちらに向きなおる。


「カノン王子には、ゼラド軍の侵攻を食い止めていただきたい。今日の中天頃に、レイフォンから伝書が届けられたのだが……そちらには、まだ届けられていないのであろうか?」


「うん。あの愉快な鴉が最後にやってきたのは、昨晩だね」


「そうか。では、俺の口から説明させていただこう。……カノン王子は和睦の使者として、ゼラド軍の指揮官と言葉を交わしていただきたく思うのだ」


「なに?」と、クリスフィアは声をあげることになった。


「ちょっと待て、ダリアス殿よ。ゼラド軍は、総勢八万にも及ぶのであろう? その指揮官のもとに、カノン王子を和睦の使者として送りつけようというのか?」


「うむ。カノン王子の存在をもって、ゼラド軍の擁する人間が偽者であることを証し立てる。なおかつ、ゼラド軍を誑かしたのは《まつろわぬ民》であると主張して、その矛先を収めさせようという算段であるようだ」


 クリスフィアは、心底から呆れ返ってしまった。


「偽者の王子に関してはともかく、《まつろわぬ民》に関してはティムトの憶測であろう? それを、ゼラド軍の指揮官に直接ぶつけようというのか?」


「うむ。それがいわゆる、和睦の落としどころになるのだそうだ。ゼラド軍がここまで侵攻したのは、邪神教団たる《まつろわぬ民》の陰謀であったのだから、こちらがゼラドを罪に問うことはない。よって、王都の軍と刃を交えることなく撤退すれば、こちらも追撃することはない、と……伝書には、そう提示するように記されていた」


 そのように語るダリアス自身も、ずいぶん不明瞭な面持ちになってしまっている。

 ゼラド大公国は、もともと玉座の簒奪を目論んでいたのだ。それが王都の鼻先にまで八万もの兵を進めながら、おめおめと逃げ帰るものか――普通であれば、考え難い話であった。


「なるほど。あのティムトという少年も、《まつろわぬ民》や地神の御子がどこに潜んでいるものか、判じかねているというわけだね」


 カノン王子が、くすくすと笑い声をたてた。


「いや……判じかねているというよりは、すべての可能性を考慮しているといったほうが正しいのかな。《まつろわぬ民》と地神の御子が潜んでいるのは、ゼラド軍の本隊か、あるいはドエルの砦か――もしも正解がゼラド軍の陣中であれば、決して和睦などは受け入れないことだろう。なんとしてでも戦乱を勃発させて、『神の器』を発動させようと目論むはずだ」


「そうであれば、カノン王子はいっそうの危険に見舞われてしまうではないか?」


 クリスフィアがそのように言いたてると、カノン王子は妖艶なる流し目をくれてきた。


「僕の使命は最初から、《まつろわぬ民》と地神の御子を討伐することだよ。その場で地神の御子が顕現するなら、願ったりかなったりさ。むしろ、ドエルの砦の偽王子こそが地神の御子であったほうが、よほど厄介だね」


「その場合は、どうなるのだ?」


「その場合は、僕が口先三寸でゼラド軍の指揮官を丸めこまなくてはならないのだろうね。まったく、大した重荷を背負わせてくれるものだよ」


「待て」と声をあげる者があった。

 ロア=ファムが、思い詰めた面持ちで腰を浮かせている。


「偽者の王子が地神の御子というのは、なんの話であるのだ? そやつは、あなたの名を騙っている痴れ者に過ぎないのではなかったか?」


「あくまで、可能性の話だよ。ただ、決して小さな可能性ではないように思う」


 ロア=ファムの姉は、その偽王子と行動をともにしているのである。

 唇を噛んで黙り込むロア=ファムの姿に胸を痛めながら、クリスフィアはダリアスに向きなおった。


「ダリアス殿よ。ドエルの砦においては、デックなる者が偽王子の脱出に手を貸すという算段であるのであろう? その前に本物のカノン王子が姿を現してしまったら、そちらの計略が無に帰してしまうのではないか?」


「いや。グリュドの砦からドエルの砦までは、騎兵を使っても三刻の距離だ。ゼラド軍の本隊の到着が夕暮れ時であるのなら、そこから三刻の猶予が生じる。その間に、偽王子の一行を脱出させようという算段であるらしい」


 ティムトの中で、すべての算段は整っている、ということか。

 クリスフィアが小さく息をついたとき、部屋の扉が外から叩かれた。

 姿を現したのは、頭巾と外套で人相を隠した、子供のように小さな体躯をした人物――ゼラである。


「失礼いたします……王都より、伝書が届けられました……」


 ゼラは深くうつむいたまま、ダリアスのもとまで歩を進めた。

 それを受け取りながら、ダリアスはゼラに笑いかける。


「ご苦労だったな。……ゼラよ、こちらがカノン王子であられるそうだぞ」


 ゼラはいっそう頭巾を傾けて、その表情を押し隠してしまう。


「わたくしのように卑しき人間は、お目汚しでございましょう……隣室にて控えておりますので、ご用事の際はお申しつけください……」


「いや、しかし、お前はカノン王子との対面を待ち望んでいたのであろう?」


 かつてゼラは、隠遁の魔術師トゥリハラから、カノン王子をお救いするようにと夢で託宣を授けられることになったのだ。

 しかしゼラはその役目を果たすことがかなわずに、赤の月の災厄を迎えることになった。それで自責の念を抱え込んだゼラは、前王殺しの疑いをかけられたカノン王子の無念を晴らすためにと、これまで奔走していたのである。

 しかしゼラは決して面を上げようともしないまま、ダリアスからもカノン王子からも遠ざかっていった。


「わたくしのことは、どうぞお気になさらずに……それでは、失礼いたします……」


「あ、ちょっと」と、カノン王子が声をあげた。

 ゼラは雷にでも打たれたかのように、びくりとすくみあがる。


「君は、あのときの彼だよね? 僕に何か、言いたいことでもあるのかな?」


 ゼラは頼りなげに上体を揺らしながら、頭巾で隠した顔をカノン王子のほうに向けた。


「な……なんの話でございましょう……? 王子殿下に拝謁を賜るのは、これが初めてのはずでございますが……」


「僕は殿下などと呼ばれる立場ではないし、君は嘘をついているね。僕にだって、人並みの記憶力は備わっているんだよ」


 そう言って、カノン王子は頭上に浮かんだ自分の思念を見上げるかのように、視線を上げた。どこか、あどけなくも見える面持ちである。


「ええと……あれはたしか、銀獅子宮が燃える少し前のことだったね。君が窓から、僕の寝所を覗き込んできたんだ。『君は誰かな?』と問うたのに、君は答えてくれなかったよね」


 ゼラは完全に打ちのめされた様子で、その場に膝をついてしまった。


「たった……たったそれだけのことを、王子殿下はご記憶に留められていたのですか……?」


「だから、殿下じゃないってば。それまで僕のもとを訪れる人間なんてヴァルダヌスしかいなかったんだから、そんなの忘れっこないだろう?」


 そう言って、カノン王子はいくぶん気まずそうに眉を曇らせた。


「僕はうっかり、『何だ、ヴァルダヌスじゃないのか』なんて言っちゃったから、ずいぶん気が咎めていたんだよ。君のほうに用事はなくても、あのときのことを謝罪させてくれたら、僕としては幸いだね」


「ああ……」と突っ伏したゼラは、そのまま床に涙をこぼすことになった。

 カノン王子は、心から驚いた様子で目を見開く。


「な、何をいきなり泣いているのさ? そんなに僕の仕打ちが、腹立たしかったのかい?」


「そうではない。ヴァルダヌス殿の他にも、あなたの身を思いやっていた人間はいたということだ」


 クリスフィアは席を立って、ゼラの小さくも頑丈そうな背中を撫でてやった。


「この十六年間、あなたを救うことができなかったのは、王都の人々の罪であるのだろう。そう思えば、このたびの災厄も罪を贖うための試練であるのかもしれん。わたしはアブーフから参じた余所者であるが、同じ王国の民として力を尽くしたく思うぞ」


「君の言うことはいつもよくわからないよ、クリスフィア」


 カノン王子は唇でもとがらせそうな面持ちで、リヴェルとヴァルダヌスの指先を握りしめた。カノン王子をこよなく愛する両名は、慈愛にあふれた眼差しでその手を握り返している。


「我々は、王都において《まつろわぬ民》の陰謀を暴きたてるべく、奔走していた。それはすなわち、あなたにかけられた冤罪を晴らす行いであったのだぞ、カノン王子よ」


 クリスフィアは、そのように言ってみせた。


「しかし、王都の人々は奥ゆかしい人間ばかりであるので、わたしが代弁してやろう。この一件に関わった人間は、誰もがあなたの境遇に胸を痛めていた。このゼラも、ダリアス殿も、レイフォン殿も、ティムトも――もちろん、わたしやメルセウス殿やホドゥレイル=スドラもな。《まつろわぬ民》を討伐したあかつきには、あなたにもその事実を噛みしめてもらいたく思う」


 カノン王子はすねたような面持ちのまま、何も答えようとはしない。

 今は、それでかまわなかった。クリスフィアたちは、まず《まつろわぬ民》の陰謀を挫かなくてはならないのだ。


(だから、決して死んではならんぞ、カノン王子よ。あなたはこれまで不幸であった分、幸福になる資格があるはずなのだ)


 クリスフィアは、心の中でそのようにつぶやいておくことにした。

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