Ⅰ-Ⅷ さらなる旅路
2020.8/22 更新分 1/1
けっきょくナーニャは身を休めるいとまもなく、王都を出立することになってしまった。
しかもこのたびに向かう先は、ゼラド軍が迫り寄っているというグリュドの砦という場所である。どうしてナーニャばかりがこのような苦難を背負わなければならないのかと、リヴェルは心の一番深い部分で無念の思いを噛みしめていた。
(でも……同行を許されただけ、まだ幸せなほうなのかな……)
グリュドの砦を目指しているのは、六名。ナーニャとリヴェルとゼッド、クリスフィアとイフィウスとペルアという顔ぶれであった。チチアとタウロ=ヨシュは、そのまま王都に居残るようにと命じられてしまったのだ。
六名は三頭のトトスにまたがって、街道を駆けている。
ドエルの砦という場所を占拠したゼラド軍の目をくらませるために、大きく東回りでグリュドの砦を目指しているという話であったが、もちろん初めて王都を訪れたリヴェルには右も左もわからなかった。
ナーニャが目覚めたその日の内に王都を出て、五大公爵領のヴェヘイムという領地を通過したのち、一夜を休んで、また街道を駆けている。そのヴェヘイムという領地も妖魅に襲撃されたという話であったが、主要部は避けて荘園の真ん中を通り過ぎたためか、被害のほどはまったくわからなかった。
現在は、王都を出て二日目の昼である。
中天に簡単な食事を済ませた後は、また一心に街道を駆けている。リヴェルがひとりで思い悩んでいると、同じトトスに乗っていたクリスフィアが「どうしたのだ?」と声をかけてきた。
「ずいぶん浮かぬ顔をしているようだな。もちろん心の弾むような状況ではなかろうが、何か不安があるのなら、ひとりで抱え込む必要はないぞ、リヴェルよ」
クリスフィアは、アブーフの女騎士である。しかも侯爵家の嫡子という話で、とても美しい面立ちをした若い女人であるのに、いつでも凛然としている。リヴェルの顔を横合いから覗き込みながら、その手は正確にトトスの手綱を操っていた。
「な、何も抱え込んでいるわけではないのですが……どうしてわたしはこんなにも無力であるのだろう、と……そんな埒もない思いが、いつまでも胸を離れないのです」
「人間には、それぞれの使命がある。わたしは女だてらに剣などを振り回しているが、それはわたしが騎士であるからだ。騎士ではないお前が武力を求める必要はないのだぞ」
そう言って、クリスフィアは力強く笑った。
リヴェルには眩しく思えてならない笑顔である。
「確かにわたしは、騎士でも何でもありません。すべての家族を失って、故郷から追い出された無力な小娘です。やっぱりこんなわたしには、なんの価値もないということなのでしょうか……」
「この世に価値のない人間などは存在はしない。お前が故郷を追放されてしまったのは、故郷の連中がお前の価値を見出すことができなかったゆえであるのだろう。まったく、愚かな連中だな」
クリスフィアの言葉には、迷いがない。それこそ、敵を斬る刀のように鋭い口調であった。
しかし、その灰色の瞳は優しげにリヴェルを見つめている。
「そしてお前は、故郷を追放されたゆえに、カノン王子と巡りあうことになったのであろう? ならばきっと、それこそが正しき運命であったのだ。何も気に病む必要はあるまいよ」
「でも、わたしは……ナーニャに守ってもらうばかりで、何の役にも立つことができません。せめてゼッドのように、刀を振るうことができればよかったのですが……」
「刀を振るうばかりが、役割ではないぞ。この世で刀を振るうことを得意にしている人間など、百人の中にひとりもいなかろう。一見は無力に見える幼子や老人や女人にも、大事な役割というものが存在するのだ」
そう言って、クリスフィアは口をほころばせた。
「カノン王子にとって、お前は心の支えであるはずだ。そのような役目を果たせる人間など、この世には数えるほどしか存在すまい。お前はもっと、自分の存在を誇りに思うべきであろうな」
「誇りだなんて……わたしのほうこそ、ナーニャを頼ってばかりの身であるのに……」
「いや。お前がカノン王子を頼っているように、カノン王子もお前を頼っているはずだ。だからこそ、我々もお前に同行を願ったのだぞ。もしもお前を引き離そうとしたならば、カノン王子は我々を敵と見なしてしまうだろうからな」
力強く笑いながら、やはりクリスフィアの眼差しは優しかった。
「お前の役目は、カノン王子の孤独を癒やして、心の安らぎとなることだ。胸を張って、お前の役目を果たすがいい。それは、お前とヴァルダヌス殿にしか果たせぬ役目であるのだからな」
クリスフィアのよく通る声音が、リヴェルの胸の奥底にまで染み渡るかのようであった。
クリスフィアやイフィウスは、どうしてこんなにも強く、優しくあれるのか――強いからこそ、他者に情けをかけるゆとりも生まれるのか。無力なリヴェルには、とうてい及びもつかない話であった。
(あの、メルセウスやホドゥレイル=スドラという人たちも……それに、レイフォンやティムトという人たちも……みんな強くて、みんな優しい……こんな人たちに囲まれていれば、きっとナーニャもカノン王子として幸せに生きていくことが……)
リヴェルがそんな風に考えていると、クリスフィアが「おい」と顔を近づけてきた。
「どうしてお前は、そのように泣きそうな顔をしているのだ? わたしは何か、言葉を間違えてしまったか?」
「い、いえ、決してそのようなことは……」
「頼むから、涙などこぼしてくれるなよ? お前のように可愛らしい娘を泣かしてしまったら、わたしは居たたまれないではないか」
クリスフィアは片方の手を手綱から離すと、頭巾に包まれたリヴェルの頭をいささか乱暴に撫でさすってきた。
その荒々しくも優しい所作にこそ涙をこぼしてしまいそうになりながら、リヴェルは「はい」とうなずいてみせた。
◇
そうしてさらに二日が過ぎて、黄の月の二十五日――その夜のことである。
その夜の宿は、デレの砦という場所であった。
砦といっても王都や要所からあげられる狼煙の中継地点に過ぎず、兵士も百名ていどしか配備されていない。とうてい作物など収獲できなそうな荒れ地に、小ぶりな物見の塔が建てられているだけの、ごく小規模な拠点である。
「さて、ゼラド軍の動向はどうであろうかな。頼むぞ、ペルアよ」
兵舎の一室に腰を落ち着けるなり、クリスフィアはそのように言いたてた。
ペルアという人物はうっそりとうなずいてから、窓のほうに寄っていく。人目を忍ぶために粗末な旅装束を纏っているが、彼は聖教団というものに属する神官職の人間であった。クリスフィアと志を同じくするゼラという人物の従者で、この中では彼だけが伝書鴉というものを扱えるのだという話であった。
ナーニャは寝台に腰をかけたまま、その人物の行動を目で追っている。リヴェルとゼッドはそのすぐそばに控え、イフィウスは部屋の入り口あたりで黙然と立っていた。
グリュドの砦を目指す旅はすでに四日目が終わりに差しかかっていたが、けっきょく今日までは伝書を受け取る機会がなかったのだ。王都やグリュドで何か異変が生じたりはしていないか、リヴェルも人知れず胸を騒がせることになった。
ペルアは胸もとから小さな笛を取り出して、それを吹き鳴らす。しかし、人間の耳には何の音色も聞こえない。その特殊な笛の根によって、彼らは伝書鴉を招き寄せるのだそうだ。
しばらくして、黒い影が窓の桟に舞い降りた。
黒い羽毛に包まれた、巨大な鴉である。初めてその姿を目の当たりにしたリヴェルは、思わず息を呑んでしまった。
そんなリヴェルのかたわらで、ナーニャは「へえ」と笑っている。
「笛の音で鴉を呼び寄せるなんて、ほとんど魔術だね。神に仕える聖教団でそんな怪しげな術式が横行しているなんて、なかなか興味深い話だよ」
「は……こちらはわたくしの主人であるゼラ様が、諜報活動を行うために取り入れた技となりますので……聖教団においても、取り扱えるのはゼラ様とその従者のみとなります……」
まだ若いのに陰気な顔をしたペルアは、くぐもった声でそのように答えた。
そして、鴉の足から取り外した小さな筒を、クリスフィアのほうに恭しく捧げる。
「どうぞ……王都からの伝書でございます……」
「うむ。返書をしたためるので、鴉には待たせておいてくれ」
そんな風に答えながら、クリスフィアは筒から小さな紙片を取り出した。
それを読み下していく内に、クリスフィアの目が丸くなっていく。
「ほう……この四日ほどで、ずいぶんと情勢が動いているようだぞ。王都のほうは、平穏そのものであるようだがな」
「では、ゼラドぐんにうごぎが?」
イフィウスの言葉に、クリスフィアは「うむ」とうなずく。
「ドエルの砦は、やはりゼラドの先遣隊に明け渡すことになった。そこに潜んでいた聖教団のデックなる者が、偽王子の一行との接触に成功したそうだ」
「へえ」と、ナーニャは目を細める。
そちらをちらりと見やってから、クリスフィアはまた書面に目を落とした。
「まずは、伝書の内容を余さず伝えさせていただこう。……二日前の夕刻に、ゼラドの先遣隊はグリュドの砦に到着した。そこに猫神アメルィアが出現したため、ゼラド軍の進軍を止めることもかなわず、ドエルの砦を明け渡すことになった――と、ここにはそのように記されているな」
「猫神アメルィアか。それはまた大物だ」
ナーニャは悪い精霊のように、くすくすと笑った。
「それで、ダリアス将軍という人物が、聖剣の力で猫神アメルィアを退けることになったのかな?」
「うむ。砦の兵士たちにも多少の被害が出たが、百名までには及ばなかったらしい。さすがはダリアス殿だな」
「まったく、呆れた話だよ。この半月ていどで、蜘蛛神ダッバハ、疫神イスィクヮ、猫神アメルィアが討伐されてしまったというのだからね。僕の退治した蛇神ケットゥアも加えれば、七邪神の四体までもがすでに退けられているということだ」
妖しい微笑みをたたえたまま、ナーニャはそう言った。
「まあ、大神の御子なんていうのはそれ以上の怪物なんだから、僕がどうこう言える話ではないけどさ。……それで? 《まつろわぬ民》や地神の御子は登場していないのかな?」
「うむ。グリュドの砦においても、それ以降は平穏であるらしい。ただし、ゼラド軍の本隊の到着は、やはり二日後に迫っているとのことだ」
厳しい表情で言いながら、クリスフィアはナーニャに向きなおった。
「まあ、こちらの道行きも順調であるので、ゼラド軍に後れを取ることはなかろう。これより、レイフォン殿に返書をしたためたく思うが……カノン王子から、何か伝えたいことはあろうかな?」
「そうだね。一点だけ、確認してほしいことがある」
ナーニャの真紅の双眸が、ゆらりと鬼火のような光をたたえた。
「ドエルの砦という場所にいる、偽物の第四王子――その人物もまた白膚症であるかどうかを聞いてもらえるかな?」
「うむ? どうして、そのようなことを?」
「君だって、『禁忌の歴史書』を読んでいるのだろう? 『神の器』の条件を忘れてしまったのかい?」
「『神の器』の条件とは……この世を憎悪していることと、いずれの王国の血筋であるかということと……」
そこでクリスフィアは、ハッとしたように口をつぐんだ。
「……そして、その身にひとつの欠損とひとつの過剰を負っている、ということか」
「そう。僕にとっては白膚症が欠損であり、半陰陽が過剰だった。メフィラ=ネロは、眼球の過剰と背骨の欠損だね。その偽物の王子が白膚症なら、ひとつの欠損を負っていることになる」
「そ、それでは偽王子こそが、地神の御子であるというのか? そやつはグリュドの砦ではなく、ドエルの砦に居座っているのだぞ?」
「そんなに慌てなくても、あのティムトという少年だったら、とっくに察しているのじゃないかな」
クリスフィアは「ああ……」と息をついて、小さく首を横に振った。
「伝書には、聖教団のデックを使って偽王子の一行を脱出させるつもりだと記されていた。それはロア=ファムの姉を救うための処置なのだろうと考えていたのだが……きっとティムトも、偽王子が地神の御子であるという可能性を鑑みているのであろうな」
「うん。あの少年は、びっくりするぐらい頭が回るようだったからねえ。正直に言って、あまりそばにはいたくない相手だよ」
「うむ? どうして頭の回る人間をそばに置きたくないのだ?」
「だって、こっちの内心を見透かされそうで、不愉快じゃないか」
ナーニャが妖艶に微笑むと、クリスフィアは眉を吊り上げた。
「恐れ多くも、カノン王子よ。その言い草は、感心できぬな。確かにティムトは誰よりも知略に長けているが、それはあやつの美点であるはずだ。そのようなことを理由にして、あやつを忌避しないでいただきたい」
その剣幕に、さしものナーニャもきょとんとすることになった。
「どうしたんだい? 君がそんな風に声を荒らげるのは、珍しいように思うね」
「これまでは、あなたに敬意を払っていたからな。しかし、さきほどの言葉は聞き捨てならん。あなたこそ、どうかティムトの内心を慮っていただきたい」
そんな風に言いながら、クリスフィアはずかずかとナーニャのほうに近づいてきた。
「あやつは我々の中で、誰よりもあなたの身を案じていた。あやつは自分の内心をさらすことを嫌っているが、あの取りすました顔の下にはとても温かい人間らしい心が隠されている。そんな内心も知らぬまま、あなたがあやつを忌避するなどとは、とうてい我慢がならんのだ」
「……どうして彼が、僕なんかにそこまで肩入れしないといけないのさ?」
「知らん。しかしあやつは、すべての家族を失った上で、貴族という身分も失い、レイフォン殿の従者として生きるようになったのだと聞いている。そういう人間であれば、孤独の苦しさと、孤独を救ってくれる人間の温もりを、誰よりも強く思い知らされているだろう」
そこまで言って、クリスフィアはふっと表情をやわらげた。
その灰色の瞳が、優しい光をたたえてリヴェルを見やってくる。
「語っていて、気づいたぞ。リヴェル、お前もそういう立場であったからこそ、カノン王子と心を通じあわせることがかなったのではないか? それに、故郷と身分を捨てることになった、ヴァルダヌス殿もな」
リヴェルは、とっさに言葉を返すこともできなかった。
ナーニャもまた、戸惑った幼子のように口をつぐんでいる。その白い指先が、リヴェルの手をそっと握りしめてきた。
「とにかく、ティムトがどのような人間であるかは、カノン王子ご自身の目で見極めていただきたい。確かにあやつは偏屈者であろうが、カノン王子はまがりなりにも年長者であるのだからな。年長者は年長者らしく振る舞ってもらいたく思うぞ」
「……僕は十六年間も幽閉されていたんだよ? それで人並みの常識や倫理を背負されるのは、重荷だよ」
すねているような顔と口調で、ナーニャはそう言った。これまでは、身近な相手にしか決して見せることのなかった表情だ。
その顔を見て、クリスフィアは満足そうに笑う。
「あなたの失われた時間は、これから取り戻していけばいいのだ。そのためならば、わたしもいくらでも力を尽くそう。……それでは、返書をしたためるかな。王子らは、ゆっくり身体を休めるがいい」
クリスフィアはきびすを返して、部屋の隅に設えられた卓のほうに向かっていった。
その背中を見送るナーニャの顔は、やはり叱られた幼子のように不満げで、そして可愛らしかった。