Ⅴ-Ⅶ 地神の怒り
2020.8/15 更新分 1/1
「シルファ、あんた……いったい、何をするつもりなんだよ!?」
シルファのほっそりとした身体を抱きすくめながら、メナ=ファムはそのように叫ぶことになった。
その間も、シルファとメナ=ファムを乗せた岩山のごとき存在は、生あるものであるかのように移動をしている。その先に待ちかまえているのは、ドエルの砦の物見の塔だ。
この岩山のごとき存在は、岩石でできた巨人であったのだ。
その巨人が一歩足を踏み出すごとに、頭頂部のメナ=ファムたちは凄まじい震動に脅かされる。メナ=ファムは、とびきりの悪夢を見せつけられているような心地であった。
「シルファ! こいつは、あんたが動かしてるんだろう? ドエルの砦なんか目指して、いったいどうしようってのさ? あそこには、ゼラドの連中がまだどっさり居残ってるはずなんだよ!?」
メナ=ファムがいくら語りかけようとも、シルファは答えようとしなかった。
その美麗なる面や肉体は、黄金色に輝く紋様にびっしりと埋め尽くされてしまっている。
短めに切りそろえた銀灰色の髪は突風にあおられているかのように逆立ち、そしてその双眸は――妖魅のように、赤く燃えさかっていた。
さらに、シルファの肉体は腰から下が巨人の頭頂部に埋まってしまっている。
また、黒い岩石で構築された巨人の体躯も、黄金色にぼんやりと照り輝いているのだ。
シルファと巨人が、どういった思惑でドエルの砦に近づいているのか。また、ゼラドの兵士たちがこのような怪物を眼前に迎えたら、いったいどのように振る舞うのか――メナ=ファムとしては、そんなことを想像するだけで悪寒を禁じ得ないところであった。
「シルファ! ゼラドの連中は、あんたに悪さなんてしていないだろう? エルヴィルをあんな目にあわせたのは……あの忌々しい妖魅なんだ! エルヴィルの仇を取りたいなら、あの妖魅を探すべきだろうよ!」
すると――岩の巨人が、歩を止めた。
シルファの小さな唇から、獣のごときうめき声がもらされる。
「エル……ヴィル……」
「そう、エルヴィルだよ! あんたは、死んだエルヴィルの分まで――!」
メナ=ファムの必死な呼びかけは、シルファの絶叫によってかき消されることになった。
憎悪と絶望に燃え狂う双眸からは、新たな血の涙が噴きこぼれる。シルファは狂ったように身をよじり、紋様の輝く両腕を天に突き上げながら、慟哭した。
(やっぱり、あんたは……エルヴィルを失った悲しみのせいで、こんな姿に……)
メナ=ファムは、たとえようもない悲哀に胸をふさがれることになった。
シルファの憎悪と絶望は、すべてエルヴィルの死によってもたらされたものであるのだ。獣のように狂乱するシルファの胸中に、どれだけの悲しみが渦巻いているのか――メナ=ファムは、己の身を引き裂かれるような心地であった。
(あんたは、何も悪くない。それなのに、どうしてこんなことに……)
暴れ狂うシルファの身体を抱きすくめながら、メナ=ファムは心の片隅に暗い疑念を覚える。
シルファにこのような凶運をもたらしたもの――それはさきほど、メナ=ファムたちの鼻先をよぎっていたはずであった。エルヴィルが妖魅に生命を奪われる直前、不吉に笑う老婆の声が響きわたったのである。
(この夜にこそ、大神の御子は覚醒する……あいつは、そんな風に言っていたはずだ)
ならば、このおぞましい岩の巨人こそが、「大神の御子」というものであるのだろうか?
メナ=ファムには、まったく理解の及ばない話であったが――それでも、ひとつだけはっきりした。シルファは何者かの邪悪な意思によって、このような凶運に見舞われることになったのだ。
(どこのどいつだか知らないけど……そいつには、絶対に然るべき報いを受けさせてやる!)
そんな思いを胸に、メナ=ファムはいっそう強い力でシルファの身体を抱きすくめた。
そこに――天啓のごとき声が響きわたった。
「おい! お前たちは、そのようなところで何をやっているのだ!?」
メナ=ファムは、己の正気を疑うことになった。
それは、このような場で聞こえるはずのない声であったのである。
「とっとと、こちらに降りてこい! その巨人めは、とてつもなく危険な存在であるはずだぞ!」
「ギ……ギリル=ザザ!」
メナ=ファムは愕然としながら、下界に視線を走らせた。
闇の中に、ぽつんと赤い松明の火が灯されている。その火が照らしだしているのは――トトスにまたがったギリル=ザザの姿に他ならなかった。
この岩の巨人は、人間の十倍ほどもあろうかという巨体をしている。よって、下界にたたずむ人間の姿など、豆粒のような小ささであったが、狩人として鍛えられたメナ=ファムの目がそれを見間違うことはなかった。
浅黒い肌をした、長身で頑健なる若き狩人の姿である。
メナ=ファムは、悪夢の中で新たな幻想でも見出したような心地であった。
「な……なんであんたが、こんなところにいるのさ!」
「旗本隊の連中を焚きつけて、ドエルの砦を脱出したのだ! そうしたら、逃げる途中でこの巨人めが目に入ってな!」
緊迫した声の中に、どこかふてぶてしい笑いの響きも感じられる。このような怪物を目の前にしてさえ、彼の勇敢なる魂にゆらぎは存在しないようだった。
「それでこっそり様子をうかがいに近づいてみたら、お前たちの姿も見て取れたのだ! とにかく、こちらに降りてくるがいい!」
「無理だ! この怪物は、シルファなんだよ! シルファの身体は、この怪物とくっついちまってるんだ!」
さすがにギリル=ザザの表情まで見て取ることはできなかったが、その松明の火が内心の驚きを表すかのようにゆらりと揺れた。
「……だったら、この場から退くように言いきかせろ! このままでは、ゼラドの軍勢に取り囲まれることになるぞ!」
「ゼラドの軍勢……?」
メナ=ファムは、慌てて前方に視線を巡らせた。
行く手には、ドエルの砦が立ちはだかっている。その足もとに、無数の小さな明かりが蠢いているのが見えた。
「あちらの物見の塔からも、その巨人の姿は丸見えであるのだろう! わかったら、とっとと逃げるのだ!」
「だから、無理だって! シルファは、正気を失っちまってるんだよ!」
シルファの身体をかき抱きながら、メナ=ファムはそのようにわめき返してみせた。
「いいから、あんたは逃げておくれよ! シルファは……あたしが、なんとかする!」
「なんともならぬから、このような目にあっているのではないのか? まったく、世話の焼けるやつだな!」
ギリル=ザザはトトスを操って、巨人の背後に回り込んだ。
そうして松明を掲げたまま、鞍に下げられていた弓と矢筒を取り上げる。その姿に、メナ=ファムは息を呑むことになった。
「あ、あんた! いったい何をするつもりさ!」
「案ずるな! お前の大事な偽王子を傷つけるつもりはない!」
言いざまに、ギリル=ザザは矢を射った。
夜の闇を引き裂いて、矢は巨人の後頭部に命中する。
それと同時に、雷鳴のごとき轟音が響きわたった。
巨人が、怒りの咆哮をあげたのだ。
そして――メナ=ファムの腕の中にあるシルファもまた、憎悪の形相で背後を振り返った。
「そら、こちらについてこい!」
ギリル=ザザは反転して、砦とは逆の方向にトトスを走らせていた。
巨人は地響きをたてながら、そちらの方向に向きなおる。そして、ギリル=ザザを追うために足を踏み出した。
(馬鹿な! なんて無茶な真似を……!)
メナ=ファムは、必死の思いでシルファの身体にすがりつく。そうしなければ、たちまちこの高みから地面に放り出されてしまっていただろう。巨人はトトスにも負けない勢いで歩を進めていたのだった。
(くそっ! このままじゃ、ギリル=ザザが踏み潰されちまう!)
メナ=ファムはシルファの頭を抱え込み、その耳もとで怒鳴りつけてみせた。
「やめな、シルファ! あれは、ギリル=ザザだ! あんたはロクに喋ったこともないだろうけど、あいつはあたしたちの味方なんだよ! あたしたちを助けるために、さんざん骨を折ってくれたんじゃないか!」
「…………ッ!」
「あんたが悲しいのは、わかってる! でも、なんの罪もない相手を傷つけたって、どうにもならないだろ! そんな真似をして、エルヴィルが喜ぶとでも思ってるのかい!?」
巨人が、ぴたりと動きを止めた。
メナ=ファムはシルファの両肩をつかんだまま、身を離す。
シルファは獣のごとき憎悪の形相で、虚空をにらみつけていた。
「エル……ヴィル……」
「そうだよ、エルヴィルだよ! エルヴィルは、あんたが幸福になることだけを願ってたんだ! あんたはエルヴィルの分まで、幸せにならなきゃいけないんだよ!」
シルファは細い咽喉をのけぞらして、天空へと目をやった。
その口から、獣の断末魔じみた叫びが放たれる。
その咆哮に命じられたかのように、世界が震撼した。
巨人は、毛ほども動いていない。ただ、大地が激しく鳴動したのだ。
ギリル=ザザは、トトスごと地面に転がることになった。
トトスはそのままうずくまってしまい、ギリル=ザザだけが立ち上がる。しかし、大地はまだ鳴動したままであった。
歩くことも覚束ないギリル=ザザのもとに、巨人がずしんと足を踏み出す。
これほど激しく揺れ動く地面の上を、巨人は平然と歩いていた。
もう三歩と進まぬ内に、ギリル=ザザは踏み潰されてしまうだろう。メナ=ファムは心臓に短剣を突き立てられたような心地で、再びシルファの身体を抱きすくめることになった。
「駄目だよ、シルファ! そんなに、この世界が憎いのなら……どうか、あたしを最初に殺しておくれ! エルヴィルを助けられなかったのは、あたしのせいだ! あたしさえエルヴィルを守ることができたら、こんなことにはならなかったんだ!」
世界を揺るがす轟音にも負けじと、メナ=ファムはそのように叫んでみせた。
気づかぬ内に、その頬を涙が伝っている。
「あたしはあんたを守ると誓ったのに、けっきょく何もできなかった! あんたがこんな風になっちまったのは、みんなあたしのせいなんだ! だから、あたしはどうなってもいい! でも、あんただけは……どうにか、幸せになっておくれよ……」
轟音が、少しずつ遠ざかっていく。
メナ=ファムは何かの予感にとらわれて、シルファから身を離した。
天をにらみつけていたシルファの顔が、メナ=ファムのほうを向いている。
その面には黄金色の紋様が浮かべられたままであり、メナ=ファムを見つめるその双眸にも、憎悪と絶望の炎が灯されたままであったが――
しかし、その顔には幼子のごとき悲嘆の表情が浮かべられていた。
「メナ……ファム……」
「ああ、メナ=ファムだよ。あんたを守ることができなかった、大馬鹿野郎さ」
メナ=ファムは、シルファのほっそりとした指先をぎゅっと握りしめてみせた。
「あたしのことは、好きにしていい。でも、関係ないやつのことを傷つけたりしちゃあ駄目だよ、シルファ」
「わた……しは……」
「あんたは、シルファだよ。自分の名前も忘れちまったのかい?」
涙で頬を濡らしたまま、メナ=ファムはシルファに笑いかけてみせた。
シルファの瞳からも、透明の涙がこぼれ落ちる。その涙が、かつての血の涙を洗い流していった。
「メナ……ファム……わた……しを……」
「うん、なんだい?」
「わた……しを……ころ……して……」
メナ=ファムはシルファの指先を握りしめたまま、逆の手をシルファの頬にそっと当てた。
「そればっかりは、御免だね。あんたに殺されるのはかまわないけど、あんたを殺すなんて無理な話さ」
「でも……わた……しは……」
そこまで言って、シルファはまぶたを閉ざしてしまった。
激情をこらえるように、その身体が震えている。
そこに、地上からの声が響きわたった。
「おい! 悪いが、あまりのんびりとはしておられぬようだぞ!」
それは、ギリル=ザザの声であった。
行く手から、おびただしい数の明かりが近づいてきていたのだ。
ドエルの砦を背にしているのだから、そちらの軍勢ではありえない。では、いったい如何なる軍勢であるのか――メナ=ファムたちには、知るすべもなかった。