Ⅳ-Ⅶ 伝書
2020.8/8 更新分 1/1
ダリウスのもとにその伝書が届けられたのは、猫神アメルィアを退けた日の翌日であった。
一読し、ダリアスは「なんたることだ」とうめき声をもらしてしまう。同じ執務室に控えていた者たちは、そんなダリアスをいぶかしそうに見やっていた。
「どうしたんです? ずいぶん泡を食っているようじゃないですか」
そのように問うてきたのは、ダリアスの副官たるルブスであった。かつてはダーム公爵家の侍女レィミアの下僕であった、陽気な若者である。その他の面々――ラナ、ゼラ、ロア=ファム、タールスといった者たちも、無言のままにダリアスの返答を待っている。素知らぬ顔をしているのは、部屋の隅で兵法書を読みふけっているリッサばかりだ。
現在のグリュドの砦は、ようやく平穏と規律を取り戻したところであった。猫神アメルィアと無数の妖魅どもに襲撃されて、兵士たちの大多数は正気を失いかけてしまったのだが、ダリアスとルブスが一日がかりでそれを統制することになったのである。
それでも数十名ばかりの兵士たちは錯乱の末に寝込んでしまっていたが、残る兵士たちは我を取り戻していた。猫神アメルィアというのはその禍々しい姿を目にしただけで正気を損なわれるような存在であったが、それはすでにダリアスの手によって闇の向こうに退けられている。一夜が明けて、太陽神の恵みが大地にまで届けられると、兵士たちは元来の勇敢さを取り戻すことがかなったのだった。
夜が明けるまで兵士たちの面倒を見ていたダリアスは、伝書鴉を王都に戻してから、わずかばかりの仮眠を取った。そうして兵糧を腹に入れて、再び兵士たちの様子を確認し、これならば問題あるまいと執務室に戻ったところで、王都から新たな伝書が届けられたのだった。
「まさか、王都が陥落しちまったんじゃないでしょうね? ゼラドの先遣隊三万はみすみす見逃すことになっちまいましたけど、ドエルの砦にはディラーム将軍の率いるこちらの本隊が控えていたはずですよね?」
「いや……うむ……ディラーム老の率いる本隊はガヴァの砦に移動して、ドエルの砦をゼラド軍に明け渡したのだと記されている」
「ドエルの砦を、明け渡した? どうしてまた、そんな真似を? ドエルの砦ってのは、王都にとっても最終防衛線でしょう?」
「ちょっと待ってくれ。俺も、混乱しているのだ」
ダリアスは波打つ心を何とかなだめながら、小さな紙片に記された文字をもうひとたび読み下す。
しかし何度読み返しても、ダリアスの心から驚きの念が去ることはなかった。
「……我々は、《まつろわぬ民》の手引きをしていたベルデンを討伐した。それでようやく王都のレイフォンたちも、この数日で起きていた数々の出来事を書面に記すことにしたらしい」
ダリアスがそのように言いたてると、傷ついた身体を長椅子に横たえていたロア=ファムが、黄色い瞳を無念そうに陰らせた。ロア=ファムは護衛役の兵士たちの中でも、とりわけベルデンを信頼していたようであるのだ。
「それにしても、わずか数日でこれだけのことが起きていたとは……なんだか、レイフォンにからかわれているような心地だ」
「いったい、何だというのでしょう? どうか我々にもお聞かせ願えないでしょうか?」
神経質そうな面立ちをした若き武官タールスが、焦れた様子でせっついてくる。彼は、ロア=ファムを護衛するために編成された部隊の、現在の指揮官である。もともとはお目付け役という立場であったようだが、元来の指揮官であったベルデンが背信者として処断されてしまったため、今後は彼がすべての責任を担わなければならないのだ。
「すまんな。もったいぶっているわけではないのだ。ただ、どうにも信じ難い話ばかりで……まあいい。とにかく、聞いてもらおう。皆にも俺の驚きを理解してもらえるはずだ」
ダリアスは呼吸を整えてから、文書の頭に視線を落とした。
「順番に行くぞ。文書に記せる文字には限りがあるので、そのつもりで聞いてくれ。……まず、三日前に五大公爵領マルランが妖魅に襲撃された件は、無事に落着した。その場に駆けつけたクリスフィア姫たちの部隊と――第四王子カノンの一行の手によって、妖魅は退けられたのだそうだ」
文書の一行目を伝えるだけで、執務室には驚愕と惑乱の気配が沸騰することになった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。第四王子カノンってのは、なんの話です? そのお人は、ゼラド軍が擁しているって話だったでしょう?」
「それは偽者であるに違いないという話であっただろうが? どうやら本物のカノン王子が、かつての十二獅子将であったヴァルダヌスとともに、マルランに姿を現したのだそうだ」
「信じられません!」と、ルブスを押しのけるようにしてタールスが発言した。
「そもそもカノン王子は、すでに魂を返しているという話であったでしょう? そのカノン王子が、どうしてマルランなどに……」
「カノン王子は、《まつろわぬ民》によって『神の器』という呪いをかけられている。その身に宿された呪いの力を駆使して、妖魅を返り討ちにしたのだそうだ。……やれやれ、ティムトの考えはことごとく真実を言い当てていたようだな」
深く息をついてから、ダリアスは次の行に目を移した。
「しかし、驚くのはまだ早いぞ。カノン王子はそのまま王都にまで踏み入って、同じく『神の器』の呪いをかけられた氷神の御子メフィラ=ネロをも撃退したのだそうだ。妖魅の襲撃を受けた王都は数多くの死傷者を出し、黒羊宮は崩落――と、記されている」
「黒羊宮が、崩落……で、では、ベイギルス王陛下は?」
「王陛下も息女たるユリエラ姫も、ご無事であられるようだ。レイフォンやクリスフィア姫たちも、事なきを得たらしい」
タールスは安堵の息をつき、へたりこむようにして長椅子に腰を下ろした。
しかし、文書はまだ半分も読み終えていない。
「それでだな……カノン王子の一行は、トトスに跨ってこのグリュドの砦を目指しているそうだ。三日後の、黄の月の二十七日までには到着する予定であるので、そのつもりでいてもらいたいと記されている」
「カ、カノン王子が、このグリュドの砦に? こんな場所に、いったい何の用があるっていうんです?」
「ゼラド軍の擁する第四王子が偽者であると暴きたてるため――そして、この地に潜伏していると思われる《まつろわぬ民》と大神の御子を迎え撃つため、だそうだ」
その言葉に、ロア=ファムががっくりとうなだれた。
偽者の正体が暴かれれば、そのそばに控えているというロア=ファムの姉もただでは済まないだろう。ダリアスも、我がことのように胸を痛めることになった。
「ロア=ファムよ、お前の心中は察するが――」
「俺のことは、かまわないでくれ。すべては、あの馬鹿な姉が招いたことであるのだ」
ロア=ファムは固くまぶたを閉ざして、そのように言い捨てた。
ラナもまた、悲嘆の表情でそんなロア=ファムを見守っている。ロア=ファムとはつい先日出会ったばかりの間柄であるのだが、そんな相手にも心をかけずにはいられない、ラナはそういう娘であるのだった。
「……で、《まつろわぬ民》と大神の御子ってのは? ダリアス殿は昨晩、邪神を退けたってのに、まだ話は終わってないっていうんですかい?」
ルブスがことさらおどけた様子で、そのように言いたててきた。
ダリアスは、「うむ」とうなずいてみせる。
「邪神などが出現したのだから、この地には確かに《まつろわぬ民》が存在するのだろう。そして、大神の御子というのは邪神をも上回る難敵であるので……カノン王子が到着するまでは、なんとか聖剣の力で大神の御子を食い止めてほしいとのことだ」
「だったら、今のカノン王子も邪神よりおっそろしい存在だってことですかい? こいつはまた、胸の弾む話ですねえ」
「うむ……こちらに向かっているのは、カノン王子とその身内たるリヴェル、ヴァルダヌス、クリスフィア姫、聖教団のペルア――そして、イフィウス殿の六名となる」
「イフィウス殿?」と、長椅子に沈み込んだタールスが面を上げた。
「イフィウス殿とは、まさかルデン元帥の副官であられたイフィウス殿ではありませんでしょうな? あの御方は、グワラム戦役においてルデン元帥とともに魂を返されたはずでありましょう?」
「それが、カノン王子とともに王都に帰還したらしい。これまでは、グワラムで虜囚の憂き目にあっていたのだそうだ」
タールスは、いっそう疲弊した顔で長椅子の背にもたれた。
「なんだかもう、驚く気力も尽きてしまったようです。……伝書は、それで終了でしょうか?」
「いや。さらに、ドエルの砦についても記されている。ゼラドの先遣隊は、そこで本隊の到着を待つかまえであるようだが……ただひとり砦に居残っていた聖教団のデックなる者が、偽王子との接触に成功したようだ」
彫像のように動きを止めていたロア=ファムが、愕然とした様子で目を見開いた。
「待て。それでは、俺の姉は――」
「メナ=ファムと名乗る人物は、現在も偽王子のもとに留まっている。先刻は、このことを告げようと思っていたのだ」
そう言って、ダリアスはロア=ファムに笑いかけてみせた。
「聖教団のデックは、ゼラドの本隊が到着すると目されている三日後の夜に、偽王子の一行を砦の外に脱出させる役目を負っているのだそうだ。その日ならば、砦の守りも手薄になるだろうと見込んでの計略なのであろうな」
「では……俺の姉も、それとともに……?」
「偽王子の一行と記されているのだから、お前の姉が外される理由はあるまい。そもそもレイフォンたちは、お前の姉をも救うために、お前を使者として扱ったのだからな」
ロア=ファムは長椅子の上に身を起こすと、激情をこらえるように眉をひそめた。
「俺は……俺は、どうするべきであるのだろう? 俺に何か、果たせる役目は存在しないのだろうか?」
「今のところ、お前に対する指示は出ていない。しかし、この三日間でどのように情勢が変化するかもわからないのだから、今は身を休めて力を蓄えるべきであろう」
「そうか……」と、ロア=ファムは目を伏せようとした。
しかし途中で、ハッとしたようにダリアスを見つめてくる。
「そ、そうだ。ギリル=ザザとドンティはどうなったのだ? あやつらは、たったふたりでゼラドの軍を目指していたはずなのだが……」
「その者たちについては、記されていないな。デックなる者が偽王子の一行と接触したのは昨晩の遅くであるのだから、まだそれほど込み入った話はできていないのだろうと思う」
「そうか。まあ、あやつらであれば、そうそう危険な目にあうこともないように思うが……」
他者のことを思いやるロア=ファムは、年齢相応の幼い顔になっていた。
それを快く思いながら、ダリアスは「さて」と室内の面々を見回していく。
「王都から届けられた書面の内容は、以上だ。俺たちとしては、ゼラド軍の様子をうかがいつつ、《まつろわぬ民》の襲撃に備える他あるまい。これまで以上に王都との連絡を密にして、用心に用心を重ねたいと思う」
「ダリアス様……ディラーム将軍のもとにも、わたくしの手の者は配置されたのでしょうか……?」
ゼラの問いかけに、ダリアスは「うむ」とうなずいてみせた。
「ディラーム老と合流した王都の軍の本隊に、聖教団の人間も同行していたそうだ。その者と、王都に居残っている者、ドエルに潜伏しているデック、カノン王子に同行しているペルア――お前の手の者である四名は、これで全員が要所に配置されることになったな」
「はい……レイフォン様とティムト様であれば、それを十全に駆使することがかないましょう……」
「うむ。あとは、カノン王子らの到着を待つばかりだな」
ゼラは、ぴくりと肩を震わせた。
その姿に、ダリアスはつい笑ってしまう。
「ティムトの言っていた通り、カノン王子は生きておられたのだ。それと対面を果たすまで、決して生命を粗末にするのではないぞ、ゼラよ」
ゼラは無言のまま、頭を垂れるばかりであった。
彼は隠者トゥリハラに使者として見込まれながら、けっきょくカノン王子を凶運から守れなかったことに、強い自責の念を抱いていたのだ。
しかし、カノン王子は生きていた。
生きて、自らの手で凶運を退けようと力を尽くしているのである。
(なんというか……粉々に砕けた壺の破片が、ようやくすべて集められたような心地だな)
あとはその破片を正しく組み上げて、再びそれを破壊せんと迫りくる襲撃者を退けるのみである。
腰に下げた聖剣の柄を撫でながら、ダリアスはそんな風に考えていた。