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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第八章 再生の道
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Ⅰ-Ⅶ 王都の朝

2020.7/18 更新分 1/1

 氷神の御子メフィラ=ネロが魂を返して、丸一日と少しが経過した朝――昏々と眠り続けていたナーニャが、ついに目覚めることになった。


「大丈夫ですか、ナーニャ? どこか苦しいところはありませんか?」


 ずっとナーニャのもとに付き添っていたリヴェルは、激しく惑乱する思いを押し殺しながら、なるべく小さくひそめた声でそのように問いかけてみせた。

 半分だけまぶたを開いたナーニャは、ぼんやりとリヴェルの顔を見上げてくる。硝子細工のように美しいその面には、すぐに幼子のように無防備な微笑みがひろげられることになった。


「ああ、リヴェル……目覚めてすぐにリヴェルの顔を見られるというのは……何にも代えがたい幸福だね……」


「……でしたら、こうしてナーニャの目覚めに立ちあえるわたしだって、同じぐらい幸福だと思います」


 リヴェルはたちまちこぼれ落ちそうになる涙をなんとかこらえながら、火のように熱いナーニャの指先を握りしめてみせた。

 ナーニャはしばらくリヴェルの顔を見つめてから、目だけで周囲の様子をうかがおうとする。


「ここは……? ずいぶん立派な寝所みたいだね……」


「はい。ここは、王宮の一室です。王都の方々は、白牛宮とお呼びになっていました」


「白牛宮……王都の誇る七つの宮殿のひとつだね……書物で名前を知っただけで、足を踏み入れたことはないけどさ……」


 弱々しくかすれた声で、ナーニャはそのように言いたてた。


「そんな立派な場所で、僕が寝かされているということは……さしあたって、罪人扱いはされていないみたいだね……僕を大罪人と見なすなら、『裁きの塔』とかいう場所に運ばれていたはずだからさ……」


「はい。レイフォン様と仰る貴族の御方が、この場で休むように申しつけてくださいました。ナーニャが力を取り戻したら、あらためて話を聞かせてほしいとのことです」


「レイフォン……クリスフィアが言っていた、宰相代理とかいうお人だね……そのお人も無事だったんなら、幸いだ……」


 そう言って、ナーニャは見果てぬ何かを追い求めるように目をすがめた。


「ねえ、リヴェル……僕は、メフィラ=ネロを討ち倒したんだよね……?」


 リヴェルは、胸に広がる鈍い痛みをこらえながら、「はい」と答えてみせた。


「メフィラ=ネロの亡骸は、聖堂という場所で焼き清められたそうです。メフィラ=ネロは……確かに魂を返しました」


「そうか……」と、ナーニャはまぶたを閉ざした。


「リヴェル……君は、あんなに恐ろしいメフィラ=ネロのことさえ、憐れんでいたよね……悪いのはすべて《まつろわぬ民》で、彼女には何の罪もなかったのにってさ……」


「……はい」


「僕も頭では、それを理解しているつもりだった……だからべつだん、僕はメフィラ=ネロのことを恨んだり憎んだりはしていなかったし……ただ、リヴェルやゼッドたちを守りたい一心だったんだ……」


「はい、もちろんわかっています」


「いや……僕は、わかっていなかったよ……僕は、なんだか……まるでこの手で家族を殺めたような心地なんだ……実の親や兄弟を死なせてしまったときだって、こんな気持ちにはならなかったのにさ……」


 静かに閉ざされたナーニャのまぶたから、透明の涙がこぼれ落ちた。

 それを見て、リヴェルもたまらず涙をこぼしてしまう。リヴェルは胸の奥底からこみあげてくる嗚咽をなんとか呑み下して、ナーニャのほっそりとした指先をぎゅっと握りしめてみせた。


「メフィラ=ネロは……とても安らかな顔で魂を返していました。ナーニャはきっと、絶望の中でもがき苦しむメフィラ=ネロの魂を救ったのです。わたしは、そのように信じています」


 ナーニャは囁くような声で、「ありがとう」とだけ言った。

 そして、口もとに気恥ずかしそうな微笑をたたえる。


「こんな姿は、リヴェルやゼッドにしか見せられないね……そういえば、ゼッドたちはどこに行ったんだい……?」


「ゼッドは朝までナーニャのもとに付き添っていましたが、さきほどレイフォン様に呼ばれて出ていきました。チチアとタウロ=ヨシュは、隣の部屋に控えているはずです」


「そうか……今は、朝なのかい……?」


「はい。ナーニャがお眠りになってから、二度目の朝となります。日付は黄の月の二十二日だと、宮殿の方々が教えてくださいました」


「日付か……王都を出奔して以来、暦なんて気にしたこともなかったな……」


 ナーニャは、また遠い目つきになっていた。

 前王殺しの大罪人とされて王都を出奔することになったナーニャが、ついに生まれ故郷へと帰還することになったのだ。これまでは、感慨に耽るいとまもなかったことであろうが――現在は、どのような思いが去来しているのだろう。


「それじゃあ、チチアたちを呼んできますね。チチアもタウロ=ヨシュも、ずっとナーニャのことを心配していたのです」


「あ……その前に、この顔をなんとかしてもらえないかな……? リヴェルだって、そんな顔でチチアたちの前に出ていくつもりかい……?」


 それでリヴェルは、ふたりがまだ涙で頬を濡らしていたことを気づかされた。

 悪戯っ子のように微笑むナーニャのことを愛おしく思いながら、乾いた織布でナーニャと自分の頬を清める。そうしてリヴェルが、あらためて立ち上がろうとしたとき――寝所の扉が、外から叩かれた。


「ねえ。王都の連中が、まだそいつは起きないのかってせっついてきてるんだけど――」


 扉の隙間から顔を覗かせたのは、チチアに他ならなかった。

 そうして寝台の様子を見て取ったチチアは、「あーっ!」と大きな声を張り上げる。


「あんた、起きてんじゃん! なんだよ、もう! 起きたらすぐに声をかけろって言ったでしょー!?」


「ご、ごめんなさい。ちょうど今、そちらに声をかけようとしていたところで……」


「どうだかね! あたしらの目を盗んで、こっそり乳繰り合ってたんじゃないのー?」


 すると、チチアの頭の上にタウロ=ヨシュの顔も覗いた。


「ナーニャ、めざめたか。ちからをとりもどせたのなら、なによりだ」


 そんな風に言ってから、タウロ=ヨシュは大きな拳でチチアの頭をそっと小突いた。


「ナーニャはめざめたばかりなのだから、そのようにさわぎたてるものではない。おまえは、そこつすぎるのだ」


「うっさいなー! 気安く人の頭にさわんないでよ!」


 チチアは顔を赤くしながら、タウロ=ヨシュの足を蹴り飛ばした。

 すると、両名の向こう側から低い女性の声が聞こえてくる。


「カノン王子は、目覚められたのだな。レイフォン殿がなるべく早急に言葉を交わしたいと申したてているのだが、如何なものだろうか?」


 それはどうやら、アブーフの女騎士クリスフィアであるようだった。

 ナーニャは薄く笑いながら、リヴェルのほうに手を差しのべてくる。


「リヴェル、身体を起こしてもらえるかい……? 貴族を相手に寝そべったままというのは、きっと非礼だろうからね……」


「は、はい……でも、大丈夫なのですか?」


「大丈夫だよ……何も心配はいらないさ……」


 リヴェルは眉を下げながら、ナーニャの手を取った。

 さらに、背中のほうにも手を差し入れて、ナーニャが身を起こすのを手伝う。寝台に半身を起こしたナーニャは、「ふう……」とけだるげに息をついた。


「これでよし、と……チチア、とりあえずクリスフィアに入ってもらっておくれよ」


 チチアは不本意そうに口をとがらせながら、寝所の扉を大きく開いた。

 その向こう側に立ちはだかっていたのは、やはりクリスフィアだ。かたわらには、彼女の従兄弟であるキャメルスの姿もあった。


「失礼する。お身体のほうは大丈夫か、カノン王子よ?」


「うん……まあ、ほどほどにね……」


「丸一日も昏睡していたので、このまま魂を返してしまうのではないかと心配していたぞ。こうして再会の挨拶をすることができて、何よりだ」


 そう言って、クリスフィアは力強く微笑んだ。

 ナーニャがこの世ならぬ炎を操る姿をあれだけ目の当たりにしても、彼女の態度や表情に変わりはないようだった。


「しかし、まだまだ身体は辛かろう。例のレイフォン殿という御方が面会を望んでおられるのだが、あとどれだけの休養が必要であろうか?」


「うん……? 僕はこうして、君とも面会しているけれど……もしかしたら、こちらから謁見の間にでも出向かないといけないのかな……?」


「いや。レイフォン殿は、そのように格式ばった気性ではない。それに、銀獅子宮に続いて黒羊宮までもが瓦解してしまったので、現在の王都には謁見の間というものが存在しないのだ」


 冗談めかして言いながら、クリスフィアは肩をすくめた。


「ついでに言うと、新王ベイギルス陛下はあの夜の騒ぎで熱を出してしまい、ずっと臥せっておられるのだ。よって、王陛下が恢復あそばれるまでは、前王弑逆についての審問を開くこともまかりならん。……まあ、そうでなくとも、そのような横事にかまけているひまはないのだがな」


「へえ……前王弑逆の審問が、横事扱いであるのかい……?」


「そう。それに関して、レイフォン殿はカノン王子との面会を望んでおられるのだ」


 クリスフィアの灰色をした瞳に、たちまち鋭い光が閃いた。


「どうやら《まつろわぬ民》には、まだ残党が残されているようでな。その件に関して、カノン王子のご意見をうかがいたいのだ。この寝所でもかまわんから、レイフォン殿と言葉を交わしてはもらえないだろうか?」


「うん……僕はべつだん、かまわないよ……王国一の知略家と名高いヴェヘイム公爵家の嫡子というのがどんな人物であるのか、楽しみなところだね……」


 ナーニャがそのように答えると、クリスフィアは皮肉っぽく苦笑した。


「レイフォン殿をそのように紹介したのは、このわたしであったな。ならばわたしは、この場でカノン王子に詫びなければならないだろう」


「詫びる……? どうしてまた……?」


「わたしは、虚言を吐いていた。公衆の面前では明かすことのできない秘密があったのだ。……おい、キャメルス、これは他言無用であるぞ?」


「はいはい。もうどのような話を聞かされたって、僕が驚かされることはないように思うよ」


 キャメルスもまた、リヴェルの記憶にある通りの朗らかな笑顔であった。

 そんなキャメルスの笑顔を横目でねめつけてから、クリスフィアはこほんと咳払いをする。


「レイフォン殿に知略を授けているのは、その従者であるティムトという者であるのだ。ティムトは奥ゆかしい気性をしているため、人の注目を集めることを忌避している。それで、己の知略はすべてレイフォン殿の手柄であるという体裁を保っているわけだな」


「へえ……そんな秘密を、僕たちなんかに明かしてしまってもいいのかい……?」


「《まつろわぬ民》に関して語るのに、体裁を保っているゆとりなどは存在しない。それだけ、事態は逼迫しているのだ」


 クリスフィアの言い様が、リヴェルに新たな不安を抱かせた。

《まつろわぬ民》の残党とは、いったい何の話であるのだろう。メフィラ=ネロとそれを煽動していた《まつろわぬ民》を討ち倒したというのに、これ以上どんな懸念が存在するというのか――我知らず、リヴェルはナーニャの手を握りしめてしまった。


「では、レイフォン殿らをこの場に招集させていただく。キャメルス、お前はこの場に控えていろ」


「はいはい、仰せのままに」


 そうしてクリスフィアが寝所を出ていくと、キャメルスはナーニャに笑いかけてきた。


「もはやあなたは、完全にカノン王子と認知されてしまったようですね。今後は僕も、態度を改める他ないようです」


「うん……だけど僕は王位継承権を剥奪されているし、前王殺しの疑いをかけられている身だからね……そんな人間に、敬意を払う必要はないように思うよ……」


「ええ。とりあえずは、クリスフィアを見習ってカノン王子と呼ばせていただきます。殿下という敬称をつけないのは、王位継承権の剥奪と前王殺しのどちらに由来しているのでしょうね」


 言葉づかいが変わっただけで、キャメルスの態度に変わりはないように思えた。

 このキャメルスも、クリスフィアと行動をともにしていたメルセウスにホドゥレイル=スドラという者たちも、誰もがナーニャに敬意を払ってくれているように感じられる。それは、王子という身分に対してではなく、ひとりの人間に対しての敬意である。リヴェルには、それが何より喜ばしく思えた。


 しばらくして、表のほうが騒がしくなってくる。クリスフィアは、ずいぶん大勢の人間を引き連れてきたようだ。チチアとタウロ=ヨシュは警戒心をあらわにしながら、寝台のかたわらまで歩を進めてきた。


「やあ、どうも、お初にお目にかかります、カノン王子。……ようやくお会いすることができましたね」


 先頭を切って寝所に入室してきた人物が、穏やかな声でそう言った。

 背の高い、とても秀麗で貴族らしい風貌をした若者である。

 優雅で、気品に満ちていて――しかし、とても優しそうな眼差しをしている。この場所には北の民であるタウロ=ヨシュや、北との混血であるリヴェルも同席しているのに、それを忌避する様子もなかった。


「私がクリスフィア姫の同志で、レイフォンと申します。ヴェヘイム公爵家の第一子息であり、現在は宰相代理の役職をお預かりしていますが……そのように些末な話は、横に置いておきましょう。とにかく、こうしてあなたとお会いすることができて、心から嬉しく思っています、カノン王子」

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