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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第八章 再生の道
223/244

Ⅳ-Ⅵ 祈り

2020.7/4 更新分 1/1

 淡い紫色の薄暮に閉ざされた世界において、この世ならぬ怪異が顕現していた。

 グリュドの砦の物見の塔に、巨大なる毛むくじゃらの怪物――猫神アメルィアがへばりついているのだ。


 身の丈は人間の十倍ほどもあり、その巨体はうねうねと蠢く漆黒の獣毛に覆われている。三角の形をした耳に、四本の足と長い尻尾を持つその姿は、東の王国に棲息するという猫や豹を思わせるが――ただ巨大なだけでなく、その身からは尋常の生き物ならぬ禍々しさが発散されていた。


 顔の真ん中に輝く真紅の双眸には、得体の知れない怨念の炎が宿されている。

 そして何よりおぞましいのは、一万二千名にも及ぶ兵士たちを睥睨するその双眸に、人間とは異なる明らかな知性が宿されていることであった。


(これは、まぎれもなく邪神だ……大神とともに眠りに落ちたはずの、七邪神の一神であるのだ)


 熱く脈動する聖剣を握りなおしながら、ダリアスはそのように考えた。

 ダリアスは、かつてダームにおいても邪神と遭遇している。この目の前の邪神に負けないぐらい巨大な、赤子の頭部に蝙蝠の胴体を持つ怪物――疫神ムスィクヮである。この猫神アメルィアが、疫神ムスィクヮと同質の禍々しさを持っていることに疑いはなかった。


(しかし俺は、疫神ムスィクヮを退けることができた。ならば……この猫神アメルィアを退けることだってできるはずだ!)


 そんな風に念じながら、ダリアスは自らを奮い立たせた。そうでもしないと、魂を蝕む恐怖に屈してしまいそうであったのだ。

 ダリアスの周囲では、多くの人々が地面にへたりこんでしまっていた。

 しかし、それを怯懦と誹る気持ちにはなれない。さきほどリッサも忠告していた通り、あれは見ているだけで魂を削られるような、それほどの存在であったのだ。邪なれども、相手は神――本来は、人間ごときが立ち向かえる存在ではなかったのだった。


(……そのために、この聖剣が存在するのだ)


 ダリアスは、かたわらのリッサを振り返った。


「リッサよ、猫神アメルィアを相手取るにあたって、何か助言はもらえるのか?」


「僕は師匠のおかげで、数々の魔導書を拝読することがかないましたけれどね。さすがに邪神を討滅する方法などが記された書は、存在しませんでしたよ。神を滅ぼすことができるのは、それよりも高次の存在のみということですね」


「では、四大神の祝福を受けたこの聖剣で叩き斬るのみ、ということだな。相分かった。お前はこの場で、ルブスたちの助けになってやってくれ。……おい、ルブス!」


「ひゃ、ひゃい!」と、ルブスは素っ頓狂な声をあげる。

 見ると、ルブスはそっぽを向いている上に、そのまぶたを固くつぶっていた。


「な、なんですかね、ダリアス殿? あのおっそろしい怪物の幻影は消えてくれましたか?」


「幻影ではない。あれこそが、妖魅の首魁たる邪神であるのだ」


「よしてくださいよ! そんなもんが、人間の前に出てきちゃいけないんです!」


「それは、俺も同じ気持ちだ」と、ダリアスは無理に笑ってみせた。


「その許されざるべき存在の相手は、俺が受け持ってやろう。その間、お前はこの場を守るのだ」


「こ、この場といいますと? 開門して、ゼラド軍を迎え撃てってことですかい? それなら、喜んで引き受けますよ」


「いや。日が没したのだから、この場にはこれまで以上の妖魅が出現する恐れがある。兵士たちがむざむざと魂を失ってしまわないように、お前が指揮を取るのだ」


「ダリアス殿は、どこかに行っちまうんで?」


「この場所からでは、聖剣の攻撃も届くまい。ゆえに、物見の塔を昇ろうと思う」


 そう言って、ダリアスは自分の胸もとに取りすがっているラナを見下ろした。


「ラナ。恐ろしいのはわかっているが、お前を置いていくことはできん。目を伏せて、決して邪神の姿を見るのではないぞ」


「はい……ダリアス様のおそばにあれれば、何も恐ろしくはありません」


 雨に濡れた幼子のように震えながら、ラナはそのように言っていた。

 そのほっそりとした肩を、ダリアスはいっそう強い力でつかんでみせる。


「では、この場は任せたぞ、ルブス。いっそのこと、あの邪神めは幻影ということにしてしまえ。あのような幻影は黙殺して、妖魅の襲撃に備えるように伝令を走らせるのだ」


「承知しましたよ。できれば一生、目をつぶっておきたいところですがね」


 ダリアスはひとつ苦笑してから、物見の塔に向かおうとした。

 そこに、「待て」と声をかけられる。


「塔の中とて、妖魅は出るはずだ。そちらの退治には、俺が手を貸そう」


 それは、シャーリの若き狩人ロア=ファムであった。

 その張り詰めた顔を見返しながら、ダリアスは「いや」と首を振ってみせる。


「聖剣さえあれば、妖魅など恐れるものではない。お前は、この場でその力を振るってくれ」


「しかし――」


「お前の力は、この場でこそ必要であるのだ。砦の部隊が全滅してしまえば、ゼラド軍を迎え撃つこともできなくなってしまうのだからな」


 ダリアスは、強い声音でそのように言ってみせた。


「見ての通り、兵士たちの多くは魂を抜かれてしまっている。この状態で妖魅に襲撃されれば、多くの兵士たちが地に伏すことになろう。なんとかお前の力で、この兵士たちを鼓舞してやってくれ」


「……わかった」と、ロア=ファムは黄色い瞳を光らせた。


「確かに助力が必要であるのは、ダリアス将軍よりもこの場の兵士たちであるようだな。ならば俺が、この場の留守を引き受けよう」


「頼んだぞ」と言い置いて、今度こそダリアスは足を踏み出した。

 物見の塔を目指しながら、ダリアスも道すがらで声を張り上げる。いかに最優先すべきは邪神の討伐であっても、この砦に集結した兵士たちの指揮官はダリアスであるのだ。


「あの怪物は、魔術師の生み出した幻影だ! 魔術師は、俺がこれから討伐してくれる! お前たちは、妖魅のさらなる襲撃に備えるのだ! 西方神が、忠実な子たるお前たちを見守ってくれているぞ!」


 砦の前庭に立ち並んだ兵士たちは、正気を失った顔でダリアスの言葉を聞いていた。

 ラナを抱え込むようにして地を駆けながら、ダリアスはさらにがなりたててみせる。


「あの幻影は、人間の心を惑わせるぞ! 目をそむけ、剣を取るがいい! 火を焚いて、妖魅の襲撃に備えよ! あんな怪物は、この世に存在しないのだ! 幻影などに惑わされるな、王国の戦士たちよ!」


 そんな号令にどれだけの効果があったか確かめる間もなく、ダリアスは物見の塔に到着していた。

 兵士が出入りをするために、扉は大きく開かれている。その入り口に掛けられていた灯籠を、ダリアスはラナに手渡した。


「聖剣の輝きだけでは、心もとない。ラナはこれで、足もとを照らしてくれ」


「はい。承知しました」


 ラナは震える指先で、灯籠を受け取った。

 その顔は死人のように青ざめてしまっているものの、表情に迷いや惑いは見られない。それを心強く、そしてひそかに愛おしく思いながら、ダリアスは物見の塔に足を踏み入れた。


 物見の塔は七階建てであり、最上階まで螺旋階段が設えられている。転落時の被害を抑えるために、各階には踊り場が準備されており、外壁の側にはいくつもの窓が切られていた。

 すでに黄昏刻であるために、屋内は暗い。聖剣の放つ輝きと灯籠の輝きだけを目の頼りにして、ダリアスは慎重に歩を進めていった。


 三階の踊り場が見えてきたところで、ラナが声もなく息を呑む。

 そこには、長剣を握りしめた兵士が倒れ伏していたのだ。


「妖魅にやられてしまったようだな。死者までもが妖魅に変じないのは、幸いだ」


 それでもダリアスは十分に用心をしながら、遺骸のかたわらをすり抜けた。

 そうして、新たな階段に足を掛けると同時に、今度はダリアスまでもが息を呑む。

 四角く切られた窓が、漆黒の獣毛にふさがれていたのだ。

 この外壁の向こう側には、猫神アメルィアがべったりと張りついている。そのように想像しただけで、首筋の毛がちりちりと逆立っていった。


(この場で痛撃を与えるべきか、それとも最上階まで昇って頭を攻撃するべきか……そもそも相手は、邪神であるのだ。頭や心臓を狙うことに、意味などあるのだろうか?)


 ダリアスは、しばしその場で思い悩むことになった。

 しかし、そのように逡巡する意味はなかった。窓をふさいだ漆黒の獣毛に、突如として青い鬼火が灯されたのだ。


 考える間もなく、ダリアスは聖剣を振り下ろした。

 四色に輝く聖剣から、真紅と漆黒の閃光が斬撃と化して、青い鬼火を消滅させる。それと同時に、濁った断末魔が響きわたった。


「これは……!」


 左手でラナの肩をぎゅっとつかんだまま、ダリアスは後ずさった。

 漆黒の獣毛に、再び鬼火のごとき眼光が灯されたのだ。たちまちそれは平べったい毛むくじゃらの姿を持つ獣魔と化し、階段の上にくにゃりとこぼれ落ちた。

 さらに、四角く切られた窓の向こうから、同じ獣魔が何体も出現する。猫神アメルィアは、その身から獣魔を生み落としているのだった。


「なるほどな。邪神を討伐しない限り、妖魅はいくらでも湧いて出るということか」


 ダリアスは、さして広くもない踊り場で、縦横に聖剣を振るうことになった。

 聖なる力を備えた斬撃が、次々と獣魔を屠っていく。聖剣がこの手にある限り、獣魔はダリアスの敵ではなかった。


(しかし、これでは階上に進むことができん。……邪神めも、そのためにこうして足止めをしているということか?)


 ダリアスは意を決し、聖剣を振るいながら階段に足を掛けた。

 続々と出現する獣魔を斬り伏せながら、一段ずつ螺旋階段を上がっていく。

 そうして、獣魔を生み出す窓を真横に見る段にまで達したところで、ダリアスはおもいきり聖剣を繰り出した。


 真紅と漆黒の輝きが光の渦となって、窓の向こうにへばりついた邪神の身を刺し貫く。

 それと同時に、足もとや壁がびりびりと震えた。

 おそらく邪神が、苦悶の咆哮をほとばしらせたのだ。

 しかし、窓は獣毛に埋め尽くされたままであり、また獣魔どもを生み始めた。

 それらをすかさず斬り伏せてから、ダリアスは一気に階段を駆けのぼる。


(やはり、聖剣を自由に振るうには、もっと広い空間が必要だ。最上階にまで上がり、邪神めの頭を叩き斬ってくれよう!)


 背後から忍び寄る獣魔どもに斬撃を飛ばしつつ、ダリアスは階段を駆けのぼった。

 螺旋階段をぐるりと一周し、四階の踊り場が見えてくる。そこにはすでに、無数の獣魔どもが蠢いていた。


(そんなことだろうと思っていたわ!)


 ダリアスは、前後に聖剣を振りかざした。

 その間も、足を止めることはない。どちらの側からも無数に獣魔が出現するならば、立ち止まることこそが悪手であるはずだった。


(このていどの妖魅であれば、ラナの身は護符で守られるはずだからな。心からの感謝を捧げるぞ、トゥリハラよ)


 なおかつ、ダリアス自身も同じ護符を首から下げている。これならば、多少の無茶をしてでも突き進む決断を下すことができた。


 四階の窓を通りすぎても、前方からは獣魔が押し寄せてくる。そしてその数は、階段を一段上がることに増殖した。これより階上の窓からは、のきなみ獣魔が生み出されているのだろう。しまいには、前後ばかりでなく壁や天井からも獣魔に跳びかかられることになった。


「最上階は、もうすぐだ! なんとかこらえてくれ、ラナ!」


 左手に灯籠を掲げたラナは、荒い息をつきながらうなずいていた。

 五階の踊り場と窓を過ぎて、最上階はもう間もなくだ。

 そのとき――聖剣の柄が、びくりと脈動を大きくした。

 それこそ酷使された心臓のように、ダリアスの手の中でびくびくと脈打っている。これは、さらなる危険が迫っている合図であった。


(今度は何だ? 何にせよ、邪神よりも大きな脅威に見舞われることはあるまい!)


 そのように念じながら、ダリアスは突き進んだ。

 その目前に、巨大な闇が立ちはだかる。

 それは、螺旋階段の通路をみっしりと埋め尽くすほどに巨大な、毛むくじゃらの怪物であった。その双眸は真紅ではなく鬼火のごとき青色であったが、猫神アメルィアを小ぶりにしたような姿である。


「邪神の眷族か!」


 ダリアスは、これまで以上の力で聖剣を振り下ろした。

 それに呼応した聖剣が、これまで以上の輝きをほとばしらせる。その一撃で邪神の眷族は消滅したが、その背後にはまったく同じ存在が立ちはだかっていた。


 なおかつ、ダリアスたちの背後からはひっきりなしに獣魔どもが迫ってきている。そちらに聖剣を振りかざそうと身をよじった瞬間、邪神の眷族は黒い爪の生えた前足をダリアスたちに振り下ろしてきた。


 ダリアスはほとんど本能で、邪神の眷族のほうに聖剣をひるがえした。

 丸太のような前腕が、その斬撃で消滅する。それと同時に、強い衝撃に背中を叩かれて、ラナが悲鳴をあげることになった。


「くそっ!」と、ダリアスは今度こそ後方に聖剣を振り下ろす。

 獣魔どもがダリアスたちに跳びかかり、護符の力で弾き飛ばされたのだろう。踊り場で蠢いた獣魔どもが、聖剣の輝きに焼き尽くされることになった。


「大丈夫か、ラナ!?」


「だ、大丈夫です。少し、驚かされただけです」


 木っ端の妖魅といえども、やはりあれだけの数であれば、護符を携えた人間に衝撃を与えることぐらいはできるのだ。ならばやはり、それよりも遥かに強大な魔力を有するであろう邪神の眷族の攻撃をまともに喰らうわけにはいかなかった。


 後方からさらなる獣魔どもが迫ってくる前に、ダリアスは目前の敵へと聖剣を振り下ろす。

 邪神の眷族は消滅したが、その背後にはまた同じ存在が控えていた。


(これでは、キリがない。如何にラナの存在が俺の魂を癒やしてくれようとも……その力とて、無限ではないはずだ)


 ダリアスは後方の獣魔どもを蹴散らしてから、再び階上へと突進した。

 目の前に迫る邪神の眷族には、聖剣の切っ先を真っ直ぐに突き出す。そこから生まれた光の渦が、三体目の怪物を消滅させた。


 当然のごとく、その背後には四体目の怪物が潜んでいる。

 ダリアスは足を止めぬまま、その巨体も斜めに斬り伏せた。

 数歩を進むごとに背後の獣魔も斬り伏せて、また前方の怪物も斬り伏せる。それを繰り返す内に、ようやく六階の窓を越えることができた。


 ラナばかりでなく、ダリアスの息も荒くなっていく。

 それは、肉体の疲れであるのか、魂の疲れであるのか――それも判然としないまま、ダリアスはがむしゃらに突き進んだ。

 そうしてもう何体目かもわからぬほどの邪神の眷族が消え失せたとき、その背後にようやく望むべきものが出現した。

 最上階へと通じる、扉である。


 逸る気持ちを抑えながら、ダリアスは背後からの獣魔を入念に斬り伏せた。

 そして、ラナに頼んで扉を開かせる。ラナの肩から手を離したくはなかったので、こればかりはラナに頼むしかなかった。


 ラナが開いてくれた扉から、その向こう側の空間へとまろび出る。

 同時にダリアスは足で乱暴に扉を叩き閉めた。閂などは存在しないので、この頑丈な木造りの扉が獣魔どもを防いでくれることを期待するしかない。


 そうして、その場を見渡そうとしたダリアスは――

 そのまま、硬直することになった。


 最上階の七階に、外壁というものは存在しない。四方を見渡せるように、そこでは柱だけで屋根が支えられていた。

 屋根の中央からは、大きな鐘が垂れている。先刻、ゼラド軍の接近を告げるために鳴らされていたのが、この鐘だ。


 しかしダリアスは、そのようなものを認識してはいなかった。

 ダリアスの視界は、ただひとつの存在によって埋め尽くされていたのである。


 それは、猫神アメルィアの顔であった。

 さきほどまでは物見の塔の横合いにへばりついていた猫神アメルィアが、この高さまで這いずりあがって、この最上部の空間を覗き込んでいたのである。


 ラナの手から、灯籠が落ちた。

 ラナも、同じものを目にしてしまったのだろう。

 しかしダリアスは、ラナや足もとの灯籠に目を向けることができなかった。ダリアスの眼球は、目の前の脅威に縛りつけられてしまっていたのだった。


 巨大な、毛むくじゃらの顔である。

 顔だけで、ダリアスの背丈よりも高さがある。真紅に輝く双眸などは、そのひとつずつが人間の頭よりも巨大なほどであった。


 その、眼球そのものが真っ赤に燃え上がる怪物の双眸が、真っ直ぐにダリアスたちを見据えている。

 そこに渦巻くどろどろとした怨念が、ダリアスたちの魂を縛っているのだった。


 そして――ダリアスは、はっきりと恐怖していた。

 疫神ムスィクヮとは暗い聖堂の中で相対したので、その恐るべき顔貌は一瞬しか垣間見ることがなかった。また、地上からこの怪物を見上げていたときは、あまりに距離があったため、細部を見て取ることもできなかったのだ。


 しかし今は、その顔貌がまざまざと浮かびあがってしまっている。

 ダリアスの手にした聖剣の輝きが、そのおぞましい顔貌をくっきりと照らし出してしまっていたのだ。


 それは、毛むくじゃらの顔であった。

 しかし、獣の顔ではない。疫神ムスィクヮと同じように、それは人間の赤子めいた顔貌をしていたのだった。


 遠目には、びっしりと獣毛に覆われていたように見えたのに、少なくともこの顔だけは、獣毛がまばらである。それゆえに、その下の素顔が透けて見えてしまっているのだ。


 生まれたての赤ん坊か、あるいは限りなく年経た老人のごとき、しわくちゃの顔である。あまりに巨大であるために、その皺の一本ずつが濃い陰影を刻んでいることまで見て取れた。


 何よりおぞましいのは、その口もとであった。

 大きく横に裂けたその口は、半月の形に吊りあげられており――無力な人間たちを嘲るかのように、にんまりと微笑んでいたのだった。


 そしてその口の端から、恐ろしいものが垂れている。

 鮮血にまぶれた、人間の足である。

 おそらくは、鐘を鳴らしていた兵士の遺骸であるのだろう。そこからこぼれた鮮血が、石敷きの床に血だまりをつくっていた。


(こいつは……こいつには、知能がある。人間よりも、遥かに上等な……それが俺には、何より恐ろしいのだ)


 痺れきった頭の片隅で、ダリアスはぼんやりと考えた。

 やはりこれは、神であるのだ。

 人間よりも、高次の存在なのである。


『……どうやらあなたは、また神殺しの業を背負わなければならないようですね』


 虚ろになった心の中を、下界で聞いたリッサの言葉が吹き過ぎていった。

 ダリアスは、ダームにおいてもこのような存在を斬り伏せてしまったのだ。

 むろん、聖剣といえども神を滅ぼすことなどできないに違いない。四大神の祝福を受けた聖剣は、ただその力で邪神を再び眠らせているに過ぎないはずであった。


 しかし、それがどれだけ背徳的なことか――人間に過ぎない自分が神に刃を向けるなど、どれほど恐れ多いことか――ダリアスは、その内の魂を四方から無茶苦茶にひねりあげられているような心地であった。


(しかし、それでも……)


 ダリアスは、聖剣の柄を握りなおした。

 自分が聖剣を取り落としていないことが、信じ難い気持ちであった。

 しかしダリアスはしっかりと聖剣の柄を握りしめており、そこからは炎のように熱い波動が届けられていた。

 まるで、ダリアスの怯懦を叱咤しているかのようだ。

 我々は、この邪神よりも高次な存在であると――四大神が、そのように囁きかけてくるかのようだった。


(猫神アメルィアよ……あなたもまた、いまだ目覚めるべきではないのだ)


 ダリアスは、聖堂で西方神に祈るような心地で、聖剣を振り上げた。

 猫神は、まだ笑っている。

 本当に、それでいいのだな、と――怯えるダリアスの姿に、ほくそ笑んでいるかのようだった。


(……俺は、自分の道を信ずる!)


 ダリアスは、聖剣を振り下ろした。

 真紅と漆黒に、黄金と蒼白の輝きまでが闇を染めあげて――世界を、震わせた。


 凄まじい力の脈動が、竜巻のように吹き荒れながら、黒い塵に返っていく。

 そうして閃光が消えた時、ダリアスたちの視界を埋め尽くしていた猫神アメルィアの姿も消失していた。


 ダリアスの手を離れて、ラナがうずくまる。

 ラナは胸の前で両手を組み合わせて、何かに強く祈っていた。

 ダリアスもまた、聖剣の鍔を心臓のあたりに押し当てて、祈りを捧げることになった。


(ようやく、わかった……『神の器』に仕立てられたカノン王子ばかりでなく、邪神やその眷族たちとて、安楽な眠りを妨げられたに過ぎないのだ……)


 ダリアスは聖剣を押し抱いたまま、ラナのかたわらに膝をついた。


(どうか、再びの安楽な眠りを……あなたの眠りを妨げた《まつろわぬ民》は、必ずや討ち倒します)


 そうしてダリアスは、グリュドの砦を邪神の脅威から守ることになった。

 その間に、三万から成るゼラドの軍勢はグリュドの砦を素通りして、ドエルの砦を目指していたのだった。

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