Ⅲ-Ⅵ ひとつの終焉
2020.6/27 更新分 1/1
クリスフィアは、戦慄していた。
神聖なる黒羊宮の謁見の間が、魔なるものに蹂躙されてしまっていたのだ。
床も壁も天井も、すべてが氷雪に覆われてしまっている。
凍てついた床には近衛兵たちの亡骸が累々と横たわり、その代わりに立ちはだかるのは、氷雪の妖魅どもだ。
まるで北の地に出没するムフルの大熊のように巨大な妖魅が、何体も立ちはだかっている。その巨体はぼんやりと青白く発光し、顔の中心には青い鬼火のごとき隻眼が燃え、口からは氷の牙が、指先からは氷の鉤爪が生えのびていた。
そしてそのおぞましき妖魅どもの中心に、さらにおぞましき妖魅の首魁が立ちはだかっている。
上半身は、人間の形状だ。カノン王子に負けないぐらい妖艶な、若い娘の姿である。ただし、その裸身は青い光の紋様に埋め尽くされており、額には第三の瞳が爛々と燃えていた。
なおかつその下半身は、氷雪で作られた獣のそれである。カロンの大牛のように巨大な胴体で、そこから生えた四本の逞しい足が凍てついた床を踏みしめている。悪夢のように、おぞましい姿であった。
(これが……メフィラ=ネロか)
その手の松明を握りなおしながら、クリスフィアは鋭く視線を巡らせた。
メフィラ=ネロからそれほど遠からぬ位置で、聖剣を掲げたジェイ=シンがたたずんでいる。左腕で抱えている少女は、おそらくジェイ=シンの伴侶であろう。
そこから何歩か手前には、レイフォンとティムトが控えており、その足もとには二名の兵士たちがへたり込んでいる。
そして、ジェイ=シンのさらに奥側にへたり込んでいるのは――おそらく、新王ベイギルスだ。この場で呼吸をしている人間は、おそらくそれですべてであった。
(なんとか、最悪の事態だけはまぬがれたようだな)
床には数多くの亡骸が転がされているし、クリスフィアたちがここまでやってくる間でも、屍鬼と化した兵士たちを何名も斬り伏せている。
しかしそれでも、王と同志たちは生き永らえていたのだ。
犠牲となった者たちの冥福を祈りつつ、西方神には感謝の言葉を捧げるべきであるはずだった。
(あとは、このメフィラ=ネロを討つだけだ)
その仕事を果たせるのは、カノン王子だけである。
カノン王子はその華奢な指先でリヴェルの肩を抱きながら、静かにメフィラ=ネロの異形を見返していた。
メフィラ=ネロもまた、カノン王子の姿を一心にねめつけている。
もはや両者の瞳には、おたがいの姿しか映っていないかのようだった。
「せっかくあんたの代わりに西の王国を木っ端微塵にしてやろうとしているのに、あんたはそれを邪魔立てしようってのかい、火神の御子?」
「ずいぶんと恩着せがましい言い草だね、メフィラ=ネロ。君がこの地を訪れたのは、単に魔力を回復させるためだろう? 察するに、君を育てた《まつろわぬ民》よりも、僕を育てた《まつろわぬ民》のほうが、よほど優秀だったということなのかな。この地は結界も穴だらけで、これだけの魔力があふれかえってしまっているものね」
カノン王子は世間話でも楽しんでいるような気安い口調で、そのように応じていた。
「でも、魔力はすべての御子を活性化させる。この地で大きな力を振るえるのは君だけじゃないんだよ、メフィラ=ネロ」
「ふうん? あんたがその魂を残らず大神に捧げようっていうんなら、こっちの思惑通りだけどねえ」
「僕は決して、人間としての魂を手放したりしない。力半分で、君の存在を浄化してあげるよ」
メフィラ=ネロの三つの瞳が、さらに凄まじい炎を噴きあげた。
「都合のいいことばかりほざくんじゃないよ、この出来損ないが! あんたは神でも人間でもない、惨めで哀れな化け物だ!」
広間に立ちはだかっていた巨大な氷獣たちが、金属的な咆哮をあげながら、こちらに躍りかかってきた。
それと同時に、カノン王子の周囲に控えていた者たち――ヴァルダヌスやタウロ=ヨシュやイフィウスたちが、持参してきた油の樽を蹴り倒す。キャメルスからの伝書でレイフォンらが宮殿にも準備させていた、火の罠である。
床に広がった油の池にクリスフィアが松明を突きつけると、炎の壁がたちのぼった。
そして、そこから生まれ出た炎の渦が、氷獣どもを呑み込んでいく。大熊のごときその巨体は、一瞬で黒い塵と化すことになった。
そこに、耳をふさぎたくなるような絶叫が響きわたる。
ゆらめく炎の向こう側で、メフィラ=ネロが白い肩から血をこぼしていた。
メフィラ=ネロが手の平をかざすと、鮮血が凍りついて、傷口をふさいでしまう。メフィラ=ネロは悪鬼のごとき形相で、背後を振り返った。
そこに立ちはだかっているのは、いつの間にかすべての人々を背後にかばっていた、ジェイ=シンだ。
「貴様を倒すと、俺はあらかじめ宣言しておいたはずだ。また、妖魅を倒すのに不意打ちが卑怯だとは思わんぞ」
「この腐れ野郎が……だったら、あんたから氷漬けにしてやるよ!」
すると、カノン王子が大きく右腕を振りかざした。
新たに生まれた炎の竜が、背後からメフィラ=ネロに襲いかかる。その炎に呑み込まれる寸前、メフィラ=ネロは横合いに大きく跳びすさっていた。
「僕も順番を待つつもりはないからね。せいぜい孤独な境遇を噛みしめるがいいよ」
気づけば、カノン王子の妖艶なる顔にも炎の紋様が浮かびあがっていた。
そして、その身にぴったりと寄り添ったリヴェルが、泣きそうな面持ちで王子の顔を見上げている。
「ナーニャ、あまり無理をすると……」
「大丈夫だよ。僕は絶対に、人間であることを諦めたりはしないと言っただろう?」
炎そのもののように燃えあがる真紅の瞳が、人間らしい情愛をその内ににじませながら、リヴェルを見下ろす。
カノン王子は、向かってくる敵に対しては問答無用で反撃できるが、自ら能動的に炎を操るだけで、人間としての魂を削られてしまうのだ、と――クリスフィアは、この王都までの道中でそのように聞き及んでいた。
(カノン王子は、我が身を犠牲にしてでもメフィラ=ネロを討ち倒そうという覚悟であるのだ。わたしたちが怯むわけにはいかん!)
クリスフィアは、扉の向こうに控えていた兵士たちに向きなおった。
「さあ、油の樽をもっとよこすのだ! メフィラ=ネロを、この場で仕留めるぞ!」
「うむ。倉のほうからも、予備の樽を運ばせているさなかだ」
そのように答えたのは、巨大な樽を片腕で掲げたホドゥレイル=スドラであった。この場に乗り込んだ三千名からの兵士たちは、人海戦術で宮殿中の油樽をかき集めていたのだ。
「あれが、メフィラ=ネロか……聞きしにまさる妖魅であるようだな」
言いざまに、ホドゥレイル=スドラはクリスフィアのかたわらにまで進み出てきた。
そして、空いた左手で油樽から垂れたこよりに火を灯す。
「何をしているのだ? それでは小さく燃えるだけで、魔術の役には立たんぞ?」
「魔術に頼らずとも、炎は妖魅に痛撃を与えるのであろう? それを、試してみたいのだ」
ホドゥレイル=スドラは右肩の上に樽を担いだまま、横合いから左手を添えた。
まるで樽を投じようとしているような体勢であるが、いかに森辺の狩人の膂力でも、それを正確に命中させることは難しいだろう。メフィラ=ネロは、野獣のように俊敏であるのだ。
ホドゥレイル=スドラは普段通りの沈着な眼差しで、広間の奥を見据えていた。
そこにたたずんでいるのは、ジェイ=シンたちである。
ジェイ=シンの青く輝く目が、ちらりとホドゥレイル=スドラを見返したかに思えたとき――その手の聖剣が、鋭く振り下ろされた。
黄金と漆黒の輝きが絡み合った斬撃が、メフィラ=ネロへと飛ばされる。
メフィラ=ネロは、氷獣の足で再び跳びすさった。
それと同時に、ホドゥレイル=スドラが油の樽を投げつける。
メフィラ=ネロが着地をしたその場所に、油の樽が飛来した。
樽はあっけなく割れ砕け、黒ずんだ油がメフィラ=ネロをしとどに濡らし――そして、こよりの火種が油を炎へと転化させた。
メフィラ=ネロの上半身が、真紅の炎に包まれる。
メフィラ=ネロは絶叫をあげながら、狂ったように身もだえた。
そこに、ジェイ=シンのさらなる斬撃が届けられる。
油の炎はすぐに消えたが、メフィラ=ネロは逃げる間もなく、背中を二つに断ち割られた。
今度は真紅の鮮血が、メフィラ=ネロの絶叫とともに飛散する。
「素晴らしい連携攻撃だね。これは、グワラムに集まってくれた数万の軍勢にも匹敵するような援軍だ」
カノン王子が、笑いを含んだ声でそのように言いたてた。
「わかったろう、メフィラ=ネロ? 君の命運は、もう尽きているんだ。すでに魂を失っているその肉体を、父なる大地に返すがいいよ」
「ふざけるんじゃないよ……本番は、ここからさ!」
面を上げたメフィラ=ネロは、さらにおぞましい姿に成り果てていた。
ホドゥレイル=スドラの投じた油樽の炎によって、表皮を焼かれてしまったのだ。いまやその肉体はあちこちから赤い血肉を覗かせており、それでもなお、青い光の紋様に埋め尽くされていた。
「あんたたちは、みんな大神の生け贄だ! 石の都と一緒に滅んで、寝ぼけた大神の糧になるがいいさ!」
メフィラ=ネロの足もとから氷雪の塊が盛り上がり、その下半身を包み込んだ。
さらに、凍てついた床から二本の氷雪の柱が生えのびる。その先端は、指を握った拳の形をしていた。これは、氷雪の巨人の前腕部であるのだ。
めきめきと音をたてながら肥大化した巨人の腕は、その拳で石造りの天井を殴りつけた。
巨大な石くれが、雨のように降りそぼる。クリスフィアたちの足もとも、大きな地震いのように揺れていた。
「これはいけない。こんな場所で、氷雪の巨人を生み出すつもりか。……みんな、宮殿の外に避難するんだ! 油の樽は、放っておいていい!」
カノン王子が、凛とした声音でそのように命じた。
まるで――王のように威厳のある立ち居振る舞いだ。
兵士たちはその声音と恐怖の念に背中を押されるようにして、回廊のほうに飛び出していく。それに逆らって、ホドゥレイル=スドラが広間の奥に進もうとすると、カノン王子が真紅の紋様の浮かびあがった指先で、その手首を捕らえた。
「僕の言葉が聞こえなかったのかい? 急いで逃げないと、生き埋めだよ」
「……しかし、同胞たるジェイ=シンとリミア・ファ=シンを置いていくことはできん」
カノン王子は、「大丈夫だよ」と微笑んだ。
その双眸は炎のように燃え、美麗な顔にはびっしりと妖しい紋様が浮かびあがっているというのに――幼子のようにあどけない笑顔である。
「彼の手にしている聖剣という魔術道具は、実に大した代物だ。四大神の加護に守られた彼らは、これぐらいのことで魂を返したりはしないよ」
「しかし……」
「それに君は、彼らよりも守るべき存在があるのだろう?」
メルセウスは、回廊のほうでホドゥレイル=スドラを待っているはずであった。
ホドゥレイル=スドラは一瞬だけ固くまぶたをつぶってから、反転して広間を飛び出していった。
「さあ、僕たちも行こう。表で、メフィラ=ネロを迎え撃つんだ」
カノン王子にうながされて、クリスフィアたちも広間を出た。
回廊のほうも、大きく揺れている。黒羊宮の人々には避難するように呼びかけておいたので、いまや屋内に留まっているのはクリスフィアたちのみであろう。今にも壁や天井が崩れてきそうな震動の中、一行は後ろも見ずに出口を目指すことになった。
(銀獅子宮に続き、黒羊宮も朽ち果てるか……)
息せき切って駆ける中、クリスフィアはそのように考えた。
しかし、宮殿などはいくらでも建てなおすことができる。クリスフィアたちは、それよりもかけがえのないもののために戦っているはずであった。
「くっそー! なんであたしが、こんな目にあわなくちゃならないんだよ!」
クリスフィアのすぐかたわらを駆けていた少女チチアが、やけくそのようにわめいていた。そのほっそりとした手は、タウロ=ヨシュの大きな手に引かれている。
「むだにさわぐな! たいりょくがつきるだけだぞ!」
「体力なんて、とっくに尽きてるよ! こんな場所まで、寝ないでトトスを駆けさせてきたんだからね!」
タウロ=ヨシュは走りながら、いきなりチチアの身体をすくいあげた。
「うひゃー!」と騒ぎながら、チチアは慌ててタウロ=ヨシュの首っ玉にかじりつく。
「い、いきなり何すんのさ! あたしは荷物じゃないんだよ!」
「さわがないぶん、にもつのほうがましだ!」
タウロ=ヨシュにはまだ十分に体力が残されていたらしく、チチアを抱えたままクリスフィアを追い抜いていった。
ヴァルダヌスやイフィウスも狼のように俊足であり、カノン王子は――やはりリヴェルの手を引いて、懸命に駆けている。カノン王子こそ、誰より疲弊しているはずであるのに、その足取りに澱みはなかった。
この世ならぬ力が、カノン王子を動かしているのだろう。
真紅の紋様を顔や手の先に浮かばせたカノン王子は、明らかにメフィラ=ネロと同質の存在であった。そのほっそりとした身体からは、今も炎のような熱気が噴きこぼれているのだ。
カノン王子も、もはや人間とは呼べぬ存在であるのだろう。
しかし――その内には、まだ人間としての魂が残されている。リヴェルやホドゥレイル=スドラに向けられる表情や声音から、クリスフィアはその一点を信ずることができていた。
やがて行く手に、宮殿の出口が見えてくる。
クリスフィアたちがもつれあうようにして外界に飛び出した瞬間、黒羊宮が崩落した。
山が地崩れを起こすように、宮殿の黒い石材が崩れ落ち――
そしてその中心から、青白く光る氷雪の巨人が身を起こした。
宮殿の前庭に集結していた兵士たちは、驚愕のうめき声をあげている。
それは、マルランに出現した氷雪の巨人よりも、遥かに巨大な姿をしていた。
その頭頂部には、青い恒星のごとき光が輝いている。そこに、紫色の炎が入り混じっているのは――おそらく、メフィラ=ネロの眼光であるのだろう。彼女はかつてグワラムにおいても、このおぞましき異形をさらしていたのだった。
「さあ、決着をつけようじゃないか、火神の御子! もうあんたの手妻に惑わされたりはしないよ!」
巨人の頭頂部で、メフィラ=ネロが吠えている。
「さっきの一幕で、ようやくわかったよ! どうやらあんたは、自分から炎を生み出すことができないみたいだね! 無理に炎を生み出すと、たちまち魂をかじられるって寸法だ! そうとわかりゃあ、もうあんたの好きにはさせないよ!」
「だったら、どうしようっていうんだい? 君は僕のことを、殺したいほど憎んでいるんだろう?」
カノン王子は、よく通る澄みわたった声で、そのように言いたてた。
普通であれば、遥かな上空に鎮座するメフィラ=ネロの耳には届かないように思うが――何か常ならぬ力によって、メフィラ=ネロはその言葉を聞き届けたようだった。
「あんたほど憎たらしい存在は、どこを探したっていないだろうよ! ……だけどあたしの目的は、あんたを『神の器』として覚醒させることさ! だったら無理に、あんたをいたぶる必要はないんだよ!」
氷雪の巨人が身じろぎをして、瓦礫の山から一歩踏み出した。
その方向に存在するのは――美しい白亜で造られた、白牛宮だ。
「とりあえず、王都の宮殿をひとつ残らず踏み潰してやるから、あんたは指をくわえて眺めてるがいいよ! 西の王国は、これでおしまいさ!」
「……僕を殺すのを、あきらめるっていうのかい?」
「あんたを殺すより、あんたを絶望させたほうが、よっぽど面白いからね! そうして絶望したあんたが大神に魂を捧げたら、それであたしらの勝ちってわけさ!」
地響きをたてながら、メフィラ=ネロの操る巨人がさらに前進した。
そのとき――重いうなりが、暗い天空を駆け抜けた。
次の瞬間、巨大な岩石が巨人の左肩に激突する。
砕け散った氷片が、青白くきらめきながら闇に散った。
ぐらりと倒れかかった巨人は、黒羊宮の残骸を蹴散らして踏みとどまる。
「糞どもが……またそんな玩具を持ち出したのかい!」
それは、宮殿を取り囲む城壁の外から撃ち込まれた、投石器の攻撃であった。
クリスフィアたちが宮殿を目指しているさなか、巨人の侵入を迎え撃とうと投石器の準備をしている一団と出くわしたので、それはこちらの危急に備えるように命じておいたのだ。
さらにいくつかの岩石が投じられたが、それは巨人をかすめて闇の向こうに消えていった。
メフィラ=ネロは、怨念に満ちみちた声音で哄笑する。
「どうやら城壁が邪魔になって、それ以上は近づけないようだね! だったら、そんな石っころ――」
そこに、黄金色の閃光が走り抜けた。
氷雪の巨人の顔面が、その閃光に斬り刻まれる。さきほどよりも多くの氷片が、火花のように弾け散った。
「外れたか! さすがに、弓を射るようにはいかんな!」
どこからか、ジェイ=シンの声が聞こえてきた。
姿は見えないが、どこかの地上から聖剣を振るったのだろう。メフィラ=ネロは狂った獣のようにわめきながら、足もとの瓦礫を滅茶苦茶に踏みにじった。
「四大王国の叡智たる投石器に、四大神の祝福を受けた聖剣――どちらも素晴らしい力だけど、やはり『神の器』にとどめを刺すには、一手足りないね」
カノン王子が、ひどく静かな声でつぶやいた。
その身に取りすがったリヴェルが、「ナーニャ……?」と不安そうに応じる。
「大丈夫だよ。……僕を信じてくれるかい、リヴェル?」
「……はい。わたしは、ナーニャを信じます」
リヴェルが、ナーニャの胸もとに頬をうずめた。
慈愛に満ちた面持ちで、リヴェルの髪を撫でたカノン王子は、その身に纏っていた外套でふわりと少女の身体をも包み込んだ。
「僕は限界いっぱいまで、この魂を大神に捧げよう。それで、この夜の騒ぎはおしまいだ」
カノン王子は、燃える双眸で前庭の兵士たちを見回した。
「さあ! その手の松明を高く掲げるがいい! 西方神セルヴァの裁きの炎が、父なる大神アムスホルンの忌み子を焼き尽くすだろう!」
カノン王子の姿が、真紅と黄金に包まれた。
灼熱の竜巻が吹きあがり、その熱気に圧されるようにして、クリスフィアも後ずさる。
炎の向こうに、カノン王子の姿がうっすらと透けていた。
その双眸は、炎よりも激しく燃えさかっている。
その熾烈な輝きが、確かな慈愛をたたえてヴァルダヌスを見つめた。
「ゼッド、ここで待っていてね。僕は、必ず戻ってくるから」
「……俺も、ナーニャを信じている」
カノン王子はあどけなく微笑みながら、頭上に目を向けた。
次の瞬間、炎の渦巻きがカノン王子の身を天空へと舞い上げる。
それはまるで――炎の翼で天を駆ける、西方神のごとき姿であった。
真紅と黄金の灼炎は、氷雪の巨人の頭よりも高く舞い上がる。
そして、壮麗なる軌跡を描きながら、巨人の周囲を旋回した。
氷雪の巨人は咆哮をあげながら、巨大な拳をぶんぶんと振り回している。
投石器の岩石が、その胸もとに激突した。
地上から放たれた聖剣の斬撃が、巨人の右腕を肩から粉砕する。
残された左手で、巨人が炎の鳥をつかまえようとしたとき――三千から成る兵士たちの手の松明が、いっせいに炎を噴きあげた。
氷雪の巨人の燐光めいた輝きが、炎の輝きに呑み込まれる。
氷雪の巨人は――いや、メフィラ=ネロは、鉄の板を引き裂くような絶叫をほとばしらせた。
炎に包まれたその巨体に、さらに岩石が撃ちつけられる。
聖剣の斬撃は巨人の右足を叩き斬り、その巨体を地面に沈ませた。
そして――炎の鳥は、燃える巨人の頭頂部へと滑降した。
世界が、七色の閃光に染められる。
その閃光が消えたとき、巨人の姿も消えていた。
どん、とクリスフィアの肩が突き飛ばされる。
ヴァルダヌスが、かつて巨人のたたずんでいた場所へと駆けだしたのだ。
クリスフィアはまだ何も考えられない状態のまま、無我夢中でその後を追うことになった。
クリスフィアの後からも、何名かの人間が追従してきている。わざわざ振り返ろうとは思わなかったが、すぐに横合いまで追いついてきたホドゥレイル=スドラとメルセウスの姿は確認することができた。
先頭を駆けていたヴァルダヌスが、「ナーニャ!」と鋭い声をあげて、瓦礫の中にひざまずいた。
その場には、すでに何名もの人々が集っている。ジェイ=シンに、彼の伴侶であるリミア・ファ=シン、レイフォンとティムト、新王ベイギルス――それに、名も知れぬ二名の兵士たちだ。
彼らは地面の一点を中心にして、輪を作っていた。
ヴァルダヌスとレイフォンの間に身体をねじこんだクリスフィアは、そこに横たわるカノン王子の姿を見出した。
カノン王子は、壊れた人形のように手足を地面に投げ出していた。
その秀麗なる面からは光の紋様が消え、真紅の双眸はまぶたに隠されている。
その表情は静謐そのものであり、まるで安らかに眠っているかのようだった。
そんなカノン王子に膝枕をするような格好で、リヴェルが深くうつむいている。
どのような表情をしているのかはわからなかったが、リヴェルの目からこぼれる涙が、カノン王子の白い頬に落ちていた。
「ナーニャ……」とうめきながら、ヴァルダヌスはカノン王子の胸もとに手の平をそっと置いた。
自分もひざまこうとしたクリスフィアは、思わずぎくりと身体をすくめてしまう。カノン王子のかたわらには、メフィラ=ネロの遺骸までもが横たえられていたのだ。
メフィラ=ネロの遺骸は、その下の瓦礫と見分けも難しいぐらい、黒く汚されていた。もともと油樽の炎で炙られていたその肉体が、さらに熾烈な炎で焼かれていたのだ。
しかも、メフィラ=ネロは下半身を喪失していた。
腰から下が、存在しないのだ。ただし、その部位はひときわ激しく焼かれていたので、完全に炭化しており、血の一滴もこぼれていなかった。
黄金色の豪奢な巻き毛も、抜けるように白い肌も、あちこち焼け焦げてしまっている。もともとはカノン王子に負けないぐらい美麗な顔立ちであったのに、それも半ばは赤い肉が剥き出しとなり、さらにあちこちが黒く焦げていた。額と左の眼球は消失し、跡にはぽっかりと赤黒い眼窩が覗くばかりだ。
見るも無残な姿である。
しかし――まぶたの閉ざされた右の目からは透明の涙がこぼれ落ち、その焼け焦げた顔はカノン王子と同じぐらい安らかな表情であるように見えてしまった。
「どちらも……死んでしまわれたのか……」
聞き覚えのない声が聞こえてきたので、クリスフィアは半ば無意識にそちらを振り返った。
見覚えのない兵士が、クリスフィアの斜め向かいで呆然とたたずんでいる。その身に纏っているのは、王都の兵士の甲冑であった。
「……お前に、この者たちの死を悼む資格はない」
と――伴侶を左腕に抱いたジェイ=シンが、そちらに近づいた。
王都の兵士は、虚無的な顔つきでジェイ=シンを振り返る。ジェイ=シンばかりでなく、伴侶のリミア・ファ=シンも鋭い眼差しでその兵士を見据えていた。
「何も証はないのだがな。この聖剣が、そのように告げてくれているのだ」
「証は、あるでしょ。この人、なんか普通じゃないもん」
兵士は一瞬で獣のような形相となり、腰の刀に手をかけた。
その手が刀を抜き放つより早く、ジェイ=シンが真っ直ぐに聖剣を突き出す。兵士は甲冑を纏っているにも拘わらず、その無造作な一撃で胸から背中まで串刺しにされていた。
驚くクリスフィアたちの目の前で、兵士は地面に倒れ込む。
すると、さらに驚くべきことが起きた。
兵士の姿が、一瞬で奇怪な老人の姿に変じたのだ。
甲冑などは纏っておらず、漆黒の外套を纏っている。背丈は頭ひとつ分ほども小さくなり、その手の長剣は澱んだ紫色に照り輝く毒の短剣に変じていた。
醜悪な相貌をした老人である。
蛙を潰したような顔いっぱいに、深い皺が寄っている。いびつな形をした頭には真っ白な髪がまばらに散っており、力なく開いた口からは黄色い歯が覗いていた。肌は死人のような灰色であり、その瞳はぽっかりと空いた深淵のように漆黒だ。
「やあやあ、これはかつてグワラムにおいて、空いっぱいに広がっていた、《まつろわぬ民》と同じ顔をしているようだね」
いきなりキャメルスが、クリスフィアの横からにゅっと顔を覗かせた。彼もまた、この場に群れ集っていたのだ。
「メフィラ=ネロを『神の器』に仕立てあげた、《まつろわぬ民》か。では……これで本当に、終わったのだな」
クリスフィアがそのようにつぶやくと、「うん……」と力なく応じる声が聞こえてきた。
「少なくとも、氷神の御子に関してはね……残るは、風神の御子と地神の御子か……」
振り返ると、わずかばかりにまぶたを開いたカノン王子が、幼子のような顔で微笑んでいた。
リヴェルはぽたぽたと涙をこぼしながら、カノン王子のなめらかな頬を、左右からそっと包み込む。
「ナーニャ……ようやく戻ってきてくださいましたね……」
「うん……リヴェルとゼッドの温もりが、僕を呼び起こしてくれたんだよ……」
カノン王子は右手でリヴェルの手を、左手でヴァルダヌスの手をつかみ取った。
そのまぶたはすぐに閉ざされてしまったが、王子は産まれたての赤子のように無垢な寝顔となっていた。