Ⅰ-Ⅵ 破滅の足音
2020.6/13 更新分 1/1
マルランという領地を出立した軍勢は、ひたすら闇の中を突き進んでいた。
荷車はマルランに置いてきてしまったので、その全員が直接トトスにまたがっている。一刻を争う事態であったので、それは致し方のない処置であったのだろうが――ナーニャと引き離されてしまったリヴェルは、その道中をひどく不安な心地で過ごすことになった。
リヴェルを乗せてトトスを走らせているのは、王都の騎士たるイフィウスであったのだ。
ナーニャはゼッドと、チチアはタウロ=ヨシュと同じトトスに乗っていたので、リヴェルはこの寡黙なる騎士に同乗を願う他なかったのだった。
もちろんイフィウスに悪心などは抱いていないし、それどころか、彼はナーニャとリヴェルにとって生命の恩人ともいうべき存在であった。
また、ナーニャの正体に気づきながら、ここまでそれを黙認してくれたという恩もある。彼がどれだけ誠実で、そして勇敢な人間であるかは、リヴェルも心から理解しているつもりであった。
ただその反面、イフィウスがリヴェルの存在をどのように判じているかは、謎である。
リヴェルは北の民との混血であるので、ただでさえ西の民には疎まれる立場だ。それに、リヴェルやチチアやタウロ=ヨシュは、イフィウスに対して自らの素性を明かしていない。この三名は、ただ「ナーニャに救われた」という名目だけで行動をともにしていたのだった。
(わたしはべつに、やましいところのある身の上ではないけれど……でも、ナーニャが第四王子カノンであるということを知りながら、ずっと一緒に旅をしていた。王都の人間にしてみれば、それは許されない罪であるはず……)
そんな風に思い悩むリヴェルの心を慰めてくれるのは、マルランで出会ったクリスフィアという女騎士の言葉であった。
彼女は、第四王子カノンの罪を問わないと、はっきり明言してくれたのだ。
罪を犯したのは《まつろわぬ民》であり、第四王子カノンもその陰謀の犠牲者に他ならない。王都の立場ある人々がそのように念じて、ナーニャと手を携えることを願ってくれていると、そんな風に語っていたのだった。
クリスフィアは見るからに明け透けな人柄であり、ナーニャをたばかっているようには思えない。それと同行しているホドゥレイル=スドラ、メルセウス、フゥライといった人々も、それは同様であった。
だが――そうすると、リヴェルの胸には新たな不安感がわきおこってきてしまう。
リヴェルはこの先も、ナーニャとともに生きていくことがかなうのだろうか?
ナーニャは第四王子であり、ゼッドは王都の将軍だ。本来であれば、リヴェルが口をきくことも許されないような身分なのである。
ナーニャが王子としての立場を取り戻したあかつきには、もうリヴェルなど近づくこともできなくなってしまうかもしれない。そのように考えると、リヴェルは泥沼に沈んでいくような絶望感に見舞われてしまうのだった。
(そんなことよりも、今はメフィラ=ネロを止めることを一番に考えないといけないのに……どうしてわたしは、こんなに不甲斐ないんだろう)
ナーニャの存在がかたわらにあれば、このような気持ちに見舞われることもない。ただ、こうしてナーニャと引き離されてしまうと、リヴェルはたちまち身も世もない悲嘆にとらわれてしまうのだった。
「……だいじょうぶが?」
と――ふいに頭上から、濁った声が降ってきた。
リヴェルは思わず首をすくめながら、おそるおそる後方を振り返る。トトスの手綱を握ったイフィウスは、顔を正面に向けたまま、目だけでリヴェルを見下ろしていた。
「おまえのようなおざなごには、ごのようにながぎのじがんをドドズにのっでいるだげで、ぐづうであろう……もうじばじのじんぼうだ」
リヴェルには半分ぐらいしか聞き取ることはできなかったが、それでもイフィウスが自分の身を思いやってくれていることは理解できた。
彼の眼光は月光のように冷たいが、その内には人間らしい情愛が隠されているのだ。リヴェルは自分ばかりがちっぽけで価値のない存在であるように感じられて、いっそう深い悲嘆にとらわれることになってしまった。
「……大丈夫です。わたしのことは、お気になさらないでください。ナーニャの背負っているものに比べたら、これぐらいのことは……」
「じがじおまえは、ナーニャのぞんざいぞのものをぜおっでいる……ぞれもまだ、げっじでがるいものではあるまい」
鼻と上顎を欠損しているイフィウスは、聞き取りづらい声音でそのように言葉を重ねてきた。
「おまえはぞのようにぢいざいのに、ゆうがんで、ぎょうじんだ……まだ、だれよりもぜいれんなごごろをもっでいるようにがんじられる……ナーニャがおまえのようなにんげんにじだわれでいるがらごぞ、わだじはナーニャをじんじでみようどぎめだのだ」
「わ、わたしはそんな……」と言いかけたリヴェルの目から、大粒の涙がこぼれてしまった。
イフィウスは、切れ長の目を困惑したように細める。
「なぜ、なぐのだ……わだじはなにが、おまえをがなじまぜでじまっだだろうが?」
「ち、違います。申し訳ありません。わたしは、本当に……そんな言葉には値しない、ちっぽけな人間に過ぎないのです」
リヴェルは両手で鞍の握り環をつかんでいたので、涙をぬぐうこともできなかった。
大きく揺れるトトスの背中の上で、弾けた涙が後方に吹き過ぎていく。
そのとき、トトスの歩調がゆるめられた。
顔を上げると、前方の遥かな高みに点々と火が燃えている。さきほどのマルランでも目にした、城壁のかがり火であろう。一行は、ついに王都に到着したのだ。
「ナーニャ、先頭のクリスフィアたちに合流しようか。城門をくぐるには、あれこれ説明が必要だろうからね」
それほど遠くない位置から、キャメルスの声が聞こえてきた。
しばらくして、並足となったイフィウスのトトスに誰かがトトスを寄せてくる。見ると、それはナーニャを乗せたゼッドのトトスであった。
「このまま前進だってさ。イフィウスとタウロ=ヨシュも遅れないようにね」
そのように言ってから、ナーニャはうろんげに眉をひそめた。
「おや……どうしてリヴェルは涙をこぼしているのかな? まさか、イフィウスが苛めたわけじゃないだろうね?」
「ち、違います。わたしは、ただ……勝手に心を乱してしまっただけで……」
ナーニャは納得のいっていない様子で、「ふうん?」と唇をとがらせた。
「リヴェルが僕のいない場所で心を乱してしまうなんて、胸を引き裂かれるような思いだよ。やっぱりリヴェルを目の届かない場所に置いておくものじゃないね」
「い、いえ、わたしは……」
「また怖い思いをさせてしまうだろうけれど、リヴェルには僕と一緒にいてもらうよ。リヴェルを守ろうという気持ちが、僕にまたとない力を与えてくれるはずだからね」
その言葉に、リヴェルはまた涙をこぼしてしまいそうであった。
その間に、周囲のトトスたちは足を止めてしまっている。左右に分かれたトトスたちの間をぬって、ゼッドとイフィウスとタウロ=ヨシュのトトスだけが街道を前進することになった。
その最果てに待ち受けていたのは、守衛と押し問答をしているクリスフィアの姿である。
クリスフィアはトトスを降りて、相手に詰め寄っている。長い槍を掲げた守衛は、そんなクリスフィアを困惑の表情で見返していた。
「客員隊長たるクリスフィア姫に指揮権が移されたというお話は、承知いたしました。ですが、そちらの部隊の帰還は早くても明日と聞かされておりましたので……」
「王宮に危機が迫っているから、休む間もなくマルランから戻ったのだ! いいからさっさと、城門を開くがいい!」
現在は、深夜というも愚かしい刻限である。当然のことながら、巨大な城門はぴったりと閉ざされていた。
城門の左右には兵舎が設けられており、そちらにも槍を掲げた兵士たちが整列している。王国の心臓部たる王都アルグラッドの城門は、夜を徹して警護されているのだ。
「それでは、少々お待ちください。宰相代理たるレイフォン様に、おうかがいを立てさせていただきますので……」
「だから、そのような猶予はないと言っている! 話のわからぬやつだな!」
すると、キャメルスが優雅な仕草で地面に降り立った。
「いったい、なんの騒ぎかな? こんなときこそ、心を落ち着けるべきだろうと思うよ。クリスフィアも、守衛の方々もね」
「は……貴官のご所属は?」
キャメルスとクリスフィアはよく似た白銀の甲冑を纏っているが、やはり細部は意匠が異なっているのだろう。守衛の男は、いっそう用心深げに槍の柄を握りなおした。
そんな守衛に、キャメルスはいつもの調子で軽妙に笑いかける。
「僕はアブーフの第一連隊長、キャメルスだ。僕が王都を目指していたことは、レイフォン殿にも伝えられているはずだよ。これは、レイフォン殿から授けられていた通行証だ」
キャメルスが銀色の小さな札を差し出すと、そこに刻まれた文面に目を通した守衛が、重々しくうなずいた。
「確認いたしました。キャメルス殿の部隊が王都に到着した際は、昼夜を問わずに王宮まで案内するようにとの命令を受けております」
そう言って、守衛は背後の仲間たちに開門の指示を飛ばした。
兵士のひとりが、その手の灯篭を何度か上下させる。それが城壁の上の仲間への合図となり、開門の準備が進められるようである。
クリスフィアは、鼻のあたりに皺を刻みながら、キャメルスを振り返った。
「……お前はいつ、レイフォン殿から通行証などを授かったのだ、キャメルスよ?」
「こちらから伝書を送った際、返書に添えられていたのだよ。レイフォン殿という御仁は、先見の明があられるようだね」
「ふん! だったら、わたしたちがこの夜に帰還することも見通してほしかったものだ!」
クリスフィアが、そのようにわめきたてたとき――
どこかで、遠雷のような音が響いた。
守衛たちは、うろんげに周囲を見回している。
「なんだ、今のは? 雨も降っていないのに、雷か?」
「うむ。投石器で城壁を攻撃されたかのような音でもあったが……まさかな」
そんな人々を嘲笑うかのように、同じ音色が響きわたる。
しかも今度は、その音色が鳴りやまなかった。ドーン……ドーン……と、微かながらも重々しい響きが、遥かな彼方から響き続けたのである。
「……氷雪の巨人だ」
と――ナーニャが、低くつぶやいた。
「どこかで氷雪の巨人が、城壁を殴りつけているんだろう。しかもこれは、一体や二体じゃないようだね」
「ついに来たか」と、クリスフィアは灰色の双眸を炎のように燃やした。
「とっとと開門せよ! そして、我らが入場したのちは、再び城門を閉ざすのだ! 妖魅の襲撃に用心するのだぞ!」
巨大に過ぎる城門は、ようやく軋んだ音色をたてながら開き始めたところであった。
クリスフィアは、フゥライの待つトトスの背中に飛び乗る。
「城門の向こうには、城下町が広がっている! ひと息に駆け抜けて、王宮を目指すぞ! カノ――あなたがたは、わたしたちとともに先頭を進むがいい!」
「うん。王都の結界は、完全に崩されてしまったようだね。この場所は、まるで……亀裂の入った、水晶の壺だ。今にも砕けて、中身がこぼれてしまいそうだよ」
守衛の目をごまかすために深く頭巾をかぶったナーニャは、その陰で真紅の瞳を妖しくゆらめかせた。
「妖魅はすでに、王都の領内にまで入り込んでしまったようだ。……でも、どうしてだろう? 王都の結界は強力だから、城壁も壊さずに乗り越えることはできないように思うのだけれどね」
「それはもしかしたら、大聖堂の崩落に関わっているのだろうか? 聖剣の力によって邪神は退けられたのだが、けっきょく大聖堂の床は抜けてしまったのだ」
クリスフィアが鋭く囁くと、ナーニャは「ああ」と妖艶に微笑んだ。
「結界の要たる大聖堂がそんな有り様じゃあ、ほころびが出るのも当然だね。……そもそもは銀獅子宮が焼け落ちた時点で、結界には大きな痛手だっただろうしさ」
「……では、メフィラ=ネロなる者が現れるのだな?」
クリスフィアの問いかけに、ナーニャはいっそう妖しく唇を吊り上げた。
「メフィラ=ネロは、もう現れている。この結界の、ちょうど中心部――王宮にまで、足を踏み入れてしまったようだね」