Ⅳ-Ⅴ 顕現
2020.5/30 更新分 1/1
ダリアスはラナの肩を抱いたまま、悲鳴の聞こえてきた隣室の扉を蹴破った。
夕陽も差さない薄闇の部屋に、従士の若者が横たわっている。その上に覆いかぶさっているのは――さきほどダリアスが斬り捨てたのと同じ姿をした、妖魅だ。
「おのれ!」と、ダリアスは聖剣を振り下ろした。
真紅と漆黒のきらめきが斬撃と化して、妖魅の身を真っ二つにする。毛むくじゃらで平べったい異形をした妖魅は、濁った断末魔とともに消滅した。
「おい、しっかりしろ! すぐに手当てをしてやる!」
ダリアスは、従士のもとに駆け寄った。
従士の咽喉もとは血にまみれており、顔は土気色に変じている。恐怖に見開かれたその目が一瞬だけダリアスを見て――すぐに光を失った。
「くそっ!」と言い捨てるダリアスの手の中で、ラナが小さく震えている。
しかしダリアスが声をかけようとすると、ラナは悲壮な面持ちで「大丈夫です」という言葉を絞り出した。
「わたしのことなどは、どうぞおかまいなく……ダリアス様は、ご自身のお仕事をお果たしください」
ダリアスはラナの肩を握る手にぎゅっと力を込めてから、ともに部屋を飛び出した。
回廊の果てには階段があり、階下からも喧噪の気配が伝わってくる。そちらでも、妖魅が人間を脅かしているのだろう。
ダリアスは一瞬思案してから、もとの執務室へときびすを返した。
室内に足を踏み入れるなり、「ひゃあっ!」というリッサの悲鳴が聞こえてくる。
「リッサ!」
ダリアスは、寝所の中に飛び込んだ。
それと同時に、寝台へと飛びかかる妖魅の異形が目に映った。
しかしダリアスが聖剣を振りかざすより早く、白銀の光が薄闇に閃く。寝台に座していたロア=ファムが半月刀を一閃させて、妖魅を叩き斬ったのだ。
毛むくじゃらの肉体を断ち斬られた妖魅は、黒い塵と化していく。
床にへたり込んでいたリッサは、「何ですか、もう!」と不平の声をあげた。
「妖魅を斬るなら、床を跳躍する前に始末をつけてくださいよ。思わず変な声を出してしまったじゃないですか」
「……お前は退魔の護符というもので守られているという話ではなかったか?」
「自分の身に危険がないとわかっていても、不気味なものは不気味でしょう? だいたい僕は、毛むくじゃらの生き物とは相性が悪いんです」
分厚い兵法書を胸もとにかき抱いたリッサは、不満そうに頬をふくらませている。
その姿にいくぶん心を和まされながら、ダリアスはロア=ファムに笑いかけてみせた。
「さすがはシャーリの狩人だな。しかし、傷のほうは大丈夫なのか?」
「痛み止めの薬草を飲んだばかりなので、しばらく不自由はないだろう。あまり退屈だと、眠気に襲われるやもしれんがな」
そのように語るロア=ファムの双眸が、薄暗い部屋の中で黄色く燃えている。たとえ薬草を服していても、すべての痛みが消えることはないだろう。その姿から感じられるのは、手負いの獣じみた気迫であった。
「幸か不幸か、退屈するいとまはないだろう。階下に降りて、兵士たちと合流するぞ」
ラナとリッサは、ゼラが準備していた灯籠を受け取った。日没は、もう目の前に迫っているのだ。
「ゼラド軍が到着しようかというこの刻限に、妖魅が現れようとはな。いかに俺が愚鈍であっても、これを偶然と信ずることはできんぞ」
「では……やはり誰かが、妖魅の手引きをしているのでしょうか……?」
回廊のほうに歩を進めながら、ゼラがそのように問うてくる。
ダリアスは「だろうな」と短く応じた。
「あのレイフォンが、裏切り者の存在を示唆していたのだ。ならばどこかに、《まつろわぬ民》と通じた裏切り者が潜んでいるのだろう。……とにかく今は、目前の脅威を退けるのだ」
ダリアスたちが回廊に出ると、階下からの喧噪はいっそう激しくなっていた。
床には、最初の犠牲者である守衛が変わらぬ姿で横たわっている。その亡骸を見下ろしつつ、ダリアスはリッサに呼びかけた。
「リッサよ、ダームにおいては生命を奪われた人間までもが妖魅と化して襲いかかってきた。このたびは、そういった懸念も不要であるのだろうか?」
「死者を眷族として従えるのは、疫神ムスィクヮか屍神ギリ・ラァか……あるいは、《神の器》と化した大神の御子ぐらいのものでしょう。あんな毛むくじゃらの獣魔を従えているのは、猫神アメルィアしかありえませんよ」
「では、死者の身を斬り捨てる苦しみは負わなくて済むのだな。それは、僥倖だ」
ダリアスは死したる守衛に短く祈りの言葉を捧げてから、石の回廊を駆け抜けた。
階段の下からは、兵士たちのわめき声や絶叫が聞こえてくる。しんがりはロア=ファムにまかせて、ダリアスはひと息に階段を駆け下りた。
「臆するな! 妖魅など、我らの敵ではないぞ!」
言いざまに、足もとから飛びかかってきた妖魅――獣魔を斬り捨てる。
そこは外界へと通ずる扉に面した広間であり、数多くの兵士たちが獣魔を相手取っていた。
前庭に集合していた兵士たちが、異変を察知して屋内になだれ込んできたのだろう。広間には、すでにいくつもの亡骸が無惨に横たえられていた。
「槍ではなく、剣を使え! 妖魅は、鋼の武器が弱みであるのだ! 王国の領土を穢す妖魅を一掃せよ!」
ダリアスは、天井からじわじわと黒いしみのようなものが広がっていくのに気づいて、そちらに聖剣を振りかざした。
黒と赤の閃光が、それらの影が形を成す前に消滅させる。どうやらこの獣魔どもは、文字通り闇の向こうから生まれ出ているようだった。
「妖魅にはかまわず、外に出よ! そして、火の準備をするのだ! 妖魅は太陽と火を嫌う! 太陽が完全に没してしまう前に、ありったけの松明に火を灯せ!」
咽喉も嗄れよと叫びながら、ダリアスは次々と獣魔を斬り捨てていった。
この世ならぬ聖剣の力に、兵士たちはどよめきをあげている。そちらに向かって、ダリアスはさらに声を振り絞った。
「この場の妖魅は、俺に任せろ! 妖魅のさらなる襲撃に備えて、火の準備をするのだ! 日が落ちれば、こやつらはいっそうの暴虐を振るうことになるぞ!」
兵士たちは雷に打たれたかのように立ちすくむと、逃げるような勢いで出口の扉に殺到した。
その背中に追いすがろうとする獣魔どもに、ダリアスは光の斬撃を叩き込んでいく。広間には、獣魔どもの叫喚が満ちることになった。
やがてすべての兵士たちが屋外に消えると、残された獣魔どもは金属的なうなり声をあげながらダリアスたちに向きなおってくる。外界にはまだ、赤みがかった夕陽が差しているのだ。かつてダームの港町が疫神ムスィクヮに襲撃された際は暗雲の垂れこめた曇天の日であったが、本日は朝から快晴であったのだ。
「日の下では息をすることもできぬ怪物どもめ。その穢れた生命を、闇に返してくれる!」
ダリアスは、群がる獣魔どもを縦横に斬り捨てた。
そうして聖剣を振るうたびに、えもいわれぬ脱力感が足もとから這いのぼってくる。しかし、手の平や胸もとにラナの体温を感じると、そんな感覚もすぐに消え去った。ダリアスは己の魂を削って四大神の力を顕現させており、それを『聖剣の鞘』たるラナがすぐさま癒やしてくれているのだった。
「……次から次へと湧いて出るので、きりがないな。俺たちも広間を走り抜けて、外界に出るぞ」
「わかった。あなたの背中は、俺が守ってみせよう」
ロア=ファムの頼もしい返事を聞いてから、ダリアスは広間に足を踏み出した。
獣魔は聖剣の敵ではなかったが、日の当たらない暗がりから次々に出現する。ダリアスは松明の火で群がる羽虫を追い払っているような心地で、それらをすべて退けていった。
そうして外界に飛び出すと、大勢の兵士たちが息せき切って駆け寄ってくる。その中には、さきほど別れたばかりのルブスやベルデンやタールスの姿もあった。
「ダリアス将軍、こいつは何の騒ぎなんです? ゼラド軍だって、もう目の前に迫ってるはずなんですよ?」
ルブスは苦笑まじりの声で、そのように呼びかけてきた。
ベルデンとタールスは、ロア=ファムのもとに駆け寄っていく。
「おい、そんな身体で剣を振り回して大丈夫なのか、ロア=ファムよ?」
「お前のような怪我人がしゃしゃり出る場面ではない。大人しく寝ておくべきであろうが?」
ロア=ファムは半月刀を引っさげたまま、そんな両名の姿を鋭く見比べた。
「寝台で休んでいたら、妖魅に襲われることになったのだ。外に出よというのは、ダリアス将軍の命令だ」
「そうだ」と、ダリアスも応じてみせた。
「妖魅というのは太陽を嫌うので、屋内のほうこそが危険であろう。今の内に火を焚いて、迎え撃つ準備をする他ない」
「なるほど、太陽をねえ。……あれ? それじゃあ俺たちも数日前に妖魅に襲われたとき、朝まで待っていれば使命をほっぽり出す必要もなかったってことなんでしょうか?」
ベルデンがうろんげな声をあげると、このていどの駆け足で息を切らしていたリッサが「いいえ」と声をあげた。
「あなたがたが出くわしたのは、獣の屍骸に憑依した妖魅でしょう? 現世の存在に憑依した妖魅というのは、太陽の下でも動くことがかなうのですよ。聞いたお話から推察するに、それらは疫神ムスィクヮの配下であったのでしょうね」
「そうか。ではやはり、ギリル=ザザたちも妖魅にやられてしまったのかもしれんな」
ベルデンは、無念そうに溜め息をついた。
そちらにかまっているゆとりもなく、ダリアスはルブスに向きなおる。
「さきほど火の準備をするように言いつけたのだが、その命令は伝えられているか?」
「ああ、はい。ダリアス将軍のご命令だあとかいう声が聞こえてきたんで、いちおう伝令を走らせておきましたよ。お叱りを受けずに済むなら、幸いです」
どうやらルブスは妖魅の姿を目の当たりにした様子もなく、へらへらと笑っている。かつてはレィミアの下僕であり、ダーム脱出の際には力を添えてくれた変人の若者だが――このルブスが裏切り者であるという可能性はあるのだろうか?
(やはりそれは、考えにくいところだな。こやつが《まつろわぬ民》に与する立場であったなら、もっと上手いやりようはいくらでもあったはずだ)
しかしこの場には、一万二千から成る軍勢が控えている。その中の誰が裏切り者であるのか、詮索している余裕はなかった。
「よし。松明だけではなく、かがり火の準備をしろ。城壁のほうには、もう伝達されているな?」
「そりゃあゼラド軍が迫っているんですから、城壁のかがり火はとっくに準備済みでしょう。ほら、砦のほうにだってもう火が灯されておりますよ」
ダリアスが見上げると、城郭や物見の塔にも火が灯されているさなかであった。
太陽はほとんど没しかけ、東の空などはほとんど藍色に変じているのだ。その姿に、ダリアスは眉を曇らせることになった。
「砦にも物見の塔にも、まだあれだけの人間が控えているのだな。日が没したら、あの者たちの身が危ういかもしれん」
「そうは言っても、すべての人間を砦の外に出すことはかなわないでしょう? くどいようですが、ゼラド軍が鼻先に迫っているんですから――」
その時、物見の塔に設置された鐘が激しく叩き鳴らされた。
敵襲の合図である。
ついにゼラド軍が、視認できる位置まで迫ってきたのだ。
「噂をすれば、なんとやらですね。相手の出鼻をくじくおつもりなら、出陣の準備は整っておりますよ」
「いや……開門は、しない。このまま砦に立てこもり、ゼラド軍を迎え撃つ」
「籠城戦ですか」と、ルブスは面白くもなさそうに笑った。
「そりゃあ相手は三万で、その後にさらなる本隊も控えてるって話なんだから、正面衝突は避けたいところですけどねえ。でも、一兵も出さずに籠城戦じゃあ、相手を勢いづけちまうんじゃないですかね」
「しかし、どこから妖魅が湧いて出るかもわからぬこの状況で、兵を動かすのは危険であろう。妖魅とゼラド軍に挟撃されれば、全滅の憂き目にあうやもしれんぞ」
すると、あらぬ方向からも「籠城戦ですか?」という声が聞こえてきた。
振り返ると、ゼラの後方に移動していたベルデンが仏頂面で立ち尽くしている。タールスのほうは、まだロア=ファムのもとにぴたりと寄り添っていた。
「ダリアス殿のお力があれば、ゼラドの黒蛇どもとて敵ではありますまい。ルブス殿の仰る通り、初手から籠城戦のかまえというのは、あまりに弱腰ではござらんかな」
「妖魅の存在さえなければ、俺も出陣を考えていた。しかし、日が没しようとしているこの刻限では、あまりに危険であろうと思う」
「そうですか……」と、ベルデンは溜め息をついた。
その右腕が、すっとゼラの首もとに回される。その指先には、銀色の短剣が握られていた。
「であれば、この場で仕事を果たす他ありませんな。ゼラド軍との乱戦のさなかであれば、もっと好機があるだろうと考えておったのですが……いや、残念です」
「ベルデン! それは、なんの真似だ!」
叫んだのは、ロア=ファムのかたわらにいたタールスであった。
ロア=ファムは、ただ鋭く細めた目でベルデンの姿を見やっている。
ベルデンは、無精髭を生やした厳つい顔に、困ったような笑みをたたえていた。
「人質を取るならば女人でしょうが、そちらはダリアス殿とロア=ファムにしっかり守られてしまっているので、手が出なかったのです。この小さな猿のような小男に人質としての価値があることを祈るばかりでありますよ」
「……お前が、裏切り者であったのか」
ラナの肩に手を置いたまま、ダリアスは身体ごとベルデンたちに向きなおった。
短剣を咽喉もとに突きつけられた体勢で、ゼラは彫像のように不動である。
「裏切り者の存在は、王都からも示唆されていた。お前は、《まつろわぬ民》の手の者であったのか?」
「さてね。雇い主の正体なんて、俺には見当もつきゃしません。人の家族を人質に取るような、小便臭い下衆野郎ですよ。……まあ、今では俺も同じ立場に成り下がっちまいましたけどね」
陽気で大らかなベルデンの顔に、一瞬だけ悪鬼のような表情がよぎった。
ダリアスは「そうか」と息をつく。
「十二獅子将のシーズも、家族を人質に取られて《まつろわぬ民》に操られていた。お前も同じような身の上であったということか」
「へえ、あのシーズ殿も? そいつはお気の毒な限りですね。……そのシーズ殿は、ダリアス殿に斬り伏せられたんで?」
「いや。最後は、妖魅の毒によって生命を奪われた。《まつろわぬ民》などの命令に従っても、待つのは破滅だけということだ」
「そいつは仕方のないことです。大事な家族のためならば、自分が破滅するしかないってことでしょうよ」
ベルデンの顔が、ふいに泣き笑いのような表情をたたえた。
「俺がこれまでにしてきたことなんて、実にちっぽけなことなんですがね。……俺はただ、自分の居場所を常に伝えていただけなんですよ。でもきっと、そいつを目印にして、どこかの誰かは俺たちに妖魅なんざをけしかけてきたんでしょうねえ。つまりは、ロア=ファムと一緒に王都を出た人間の半分は、俺の裏切りで魂を返したってことです。だったら俺も、安楽に死にたいなんて望むことはできやしません」
「ならば、それ以上の罪を重ねるな。《まつろわぬ民》というのは、四大王国の滅亡を悲願としている邪教徒であるのだぞ?」
「それでもね、俺は家族を守らなきゃいけないんですよ」
ベルデンは同じ表情のまま、短剣をさらにゼラの咽喉もとに押しつけた。
「ダリアス殿が握っている、その聖剣とかいうやつをこっちに渡してください。そいつをへし折ったら、俺の任務は完了です。あとは、お好きなように斬り刻んでください」
「目的は、やはり聖剣か。……しかし、王都に潜んでいた《まつろわぬ民》は、すでに魂を返しているのだぞ?」
「だったら、どこかのお仲間が後を引き継いだんでしょうよ。俺に新たな命令が下されたのは、つい昨晩のことですからね」
ベルデンはその双眸に畏怖の光をにじませながら、そう言った。
「あいつらはね、眠っている間に夢の中で命令を飛ばしてきやがるんです。これじゃあ、逆らいようがないでしょう? さあ、その聖剣ってやつをよこしてくださいよ。それともやっぱり、このちっぽけな小男には人質としての価値なんてありゃしなかったんですかねえ?」
ダリアスは無言のまま、聖剣を足もとに放り捨てようかという仕草を見せつけた。
ベルデンの注意が、一瞬そちらにそれたとき――外套の内側に隠されていたゼラの左手が、銀色に光るものをベルデンの手の甲に突きたてた。
ベルデンは悲鳴をあげて、短剣を取り落とす。
ゼラはその手首を左手一本でつかみ取ると、驚くような俊敏さでベルデンを地面に組み伏せた。右手には灯篭を掲げたままであったが、その火がほとんどゆらめきもしなかったほどの、鮮やかな手際である。
「さすがだな。というか、想像を超えた動きであったぞ、ゼラよ」
「いえ……ダリアス様が気をそらしてくださったおかげでありましょう……」
ゼラにひねりあげられているベルデンの右の手の甲には、銀色の針が刺されたままであった。その周囲が赤紫色に腫れているのは、おそらく毒の効果であろう。
「そのゼラもまた、リッサを守るための護衛役であったのでな。それを人質に取ろうなどとは、浅はかなことだ」
苦い思いを胸の中で噛み殺しながら、ダリアスはベルデンの姿を見下ろした。
「お前は、幽閉させてもらうぞ。《まつろわぬ民》について問い質したいところだが、今は時間がないのでな」
「そいつは駄目ですよ。俺は、家族を守らなきゃならんのです」
地面に押しつけられたまま、ベルデンは首をねじってダリアスを見上げてきた。
その瞳に、うっすらと涙が浮かべられている。
「ロア=ファム……痛い目を見せちまって、悪かったな。タールス殿も、大事な副官を死なせることになっちまって……心から申し訳なく思ってるよ」
「待て! 何をするつもりだ!」
ロア=ファムがベルデンのもとに駆け寄るのと同時に、何か硬い音が響いた。
ベルデンは恐ろしい絶叫とともに、身体をのけぞらせる。ゼラはすかさず手を離して、安全な位置まで後ずさった。
ベルデンは、自分の咽喉もとをかきむしりながら、地面の上でびくびくとのたうち回る。
その口から、血の混じった泡とともに木の実の破片が吐き出された。
「毒の実をかじったのだな! なんと愚かなことを……!」
ロア=ファムは黄色い目を燃やしながら、ベルデンの大柄な身体を抱きあげた。
「死ぬな、ベルデン! 家族を置いて、お前だけ逃げるつもりであるのか!?」
「俺が死ねば……家族を殺す理由もなくなる……」
ごぼごぼと血の泡を噴きながら、ベルデンは最後に悲しそうに微笑んだ。
「本当にすまない……お前の姉が……救われることを祈っている……」
ベルデンの首が、がくりとのけぞった。
ロア=ファムは、血がにじみそうなほどに唇を噛みしめながら、その身をそっと地面に横たえた。
「ベルデンは……出会ったときから、俺に親切にしてくれた。俺が手傷を負ったときも、親身になって手当てをしてくれたのだ」
「……しかし、こやつが裏切り者であったという事実に変わりはあるまい」
タールスが、感情を押し殺した声でそのように応じた。
「こやつの裏切りのせいで、わたしの副官であるバズは魂を返すことになった。こやつは……その罪を、自分の生命で贖ったのだ。あとは天上の西方神が、こやつの魂を裁いてくれよう」
ロア=ファムは赤い蓬髪を激しく揺らしつつ、立ち上がった。
その黄色い目が、さまざまな激情を渦巻かせながら、ダリアスを見つめてくる。
「きっとベルデンは、善良な人間だった。そんなベルデンを狂わせたのは、《まつろわぬ民》だ。俺は必ず、《まつろわぬ民》をこの世から根絶させる」
「うむ。俺も同じ思いでいるぞ、ロア=ファムよ」
ダリアスがそのように応じたとき、どこかで深々と溜め息がつかれる気配がした。
「でしたら、目前の脅威をどうにかするべきではないでしょうかね。……どうやら完全に、日が没してしまったようですよ」
そのように発言したのは、もちろんリッサであった。
それと同時に、ダリアスは聖剣の柄から強い熱を感じ取る。これは、強力な妖魅の出現を教える予兆であるはずだった。
「ゼラド軍よりも先に、妖魅を相手取らなくてはならぬようだ。……各人、警戒せよ! 妖魅が現れるぞ!」
ダリアスの言葉は、伝令役の兵士たちによって一万二千の軍勢に伝えられていく。
しかし、それが周知されるより早く――悲鳴まじりの声が、あちこちからあげられた。
「なんだ、あれは……あれは、なんなのだ!?」
ダリアスは、頭上を振り仰いだ。
そこに、この世ならぬ存在が現出していた。
砦の横合いに立ちはだかった物見の塔に、黒い影がべったりとへばりついている。その影がうねうねと蠢いて、途方もなく巨大な怪物の姿を形づくろうとしていたのだ。
それは、闇のように黒く、獣のように毛むくじゃらの異形であった。
頭の天辺には三角の形をした耳が生えており、双眸は炎のような真紅に燃えあがっている。その全身が、闇を凝り固めたかのような獣毛に覆われているのだ。
なんと巨大な怪物であろうか。
体長は、人間十名分ほどもあるだろう。あのような巨体が前庭に飛び降りてきたならば、何十名もの兵士たちがひと息で踏み潰されてしまいそうだった。
兵士たちは、狂乱の絶叫をあげている。
ダリアスも、悲鳴をこぼしてしまわないように、決死の思いで奥歯を噛みしめていた。
その手に握った聖剣の柄は、火のように熱くなっている。
聖剣がここまでの危急を伝えるのは、ダームの聖堂で疫神ムスィクヮと相対したとき以来のことであった。
「……あまりまじまじと見つめないほうがいいですよ。普通の人間であれば、見ているだけで魂を削られてしまうでしょうから」
どこかから、リッサの声が聞こえてきた。
「あれは、猫神アメルィアです。七邪神の、一神ですよ。……どうやらあなたは、また神殺しの業を背負わなければならないようですね」