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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第八章 再生の道
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Ⅲ-Ⅴ 王国の民と魔なるもの

2020.5/23 更新分 1/1

 マルランの脅威を退けた王都の軍勢は、休息の間もなく王都に取って返すことになった。

 二個大隊で編成された軍勢は、千五百名にまで減じてしまっている。あれだけの脅威に見舞われて、犠牲者が五百名ていどで済んだことを、僥倖と思うべきなのかどうなのか――何にせよ、指揮官と副官の両方を失ってしまった兵士たちの双眸には、恐怖をも圧する怒りと無念の炎が渦巻いているように感じられた。


 そして王都の軍勢の背後からは、アブーフの軍勢が追従してきている。キャメルスがグワラムから率いてきた、二個大隊だ。彼らもマルランの目前で氷雪の屍鬼に遭遇したそうだが、今のところ被害者は出ていないとのことであった。


(それにしても、まさかキャメルスがカノン王子と行動をともにしていたとはな……)


 トトスの手綱を握りながら、クリスフィアはひそかに溜め息をついた。

 氷雪の息吹をまともにくらって、一時は生死をも危ぶまれたクリスフィアであったが、その身には元の力が戻りつつある。学士長フゥライによると、妖魅の放つ氷雪というのはこの世ならぬ存在であるために、それを放った主が塵に返れば、現世における影響力を失うはずだとのことであった。


 魔術に関して門外漢であるクリスフィアにはとうてい理解の及ばない話であったが、何にせよ、毛布にくるまって果実酒を飲みまくり、冷やされた身体に熱が戻ると、驚くぐらいに力がみなぎっていた。普通、凍死寸前にまで追い込まれた人間がそんな早々に回復するはずがないので、やはりあれは「この世ならぬ氷雪であった」ということになるのだろう。


(そうであって、幸いだ。キャメルスなどにすべての後事を託すことはできんからな)


 もちろんクリスフィアとて、キャメルスのことを信用していないわけではない。彼は幼少の頃より同じ場所で生まれ育った、大事な従兄弟でもあるのだ。

 だがしかし、キャメルスは剣の才覚というものを持ち合わせていない人間であった。まあ、人並みぐらいに剣を振るうことはできるのであろうが、騎士としての本格的な手ほどきをされる十三歳を迎えて以来、クリスフィアはキャメルスに後れを取った覚えがない。キャメルスの才覚は、剣技よりも知略や弁舌というものに偏っていたのだった。


(そんな身で連隊長の座を授かりながら、父上の許しもなく勝手に兵を動かしてしまったのだからな。アブーフに戻ったら、何度となく雷を落とされることだろう)


 しかしまた、キャメルスの協力がなければカノン王子がこれほど迅速にマルランまで辿り着くことはなかっただろう。

 そんなキャメルスの働きを無駄にしないためにも、クリスフィアたちは王都を目指さなければならなかったのだった。


「……よし、ここでしばし小休止だ」


 クリスフィアが声をあげると、伝令役の兵士が角笛を吹き鳴らした。

 白銀の矢のように街道を駆けていた軍勢が、ゆるやかに停止させられる。一刻を争う非常事態であっても、王都まではおよそ半日、六刻がかりの道のりであるのだ。途中で小休止を入れなければ、騎手もトトスももたなかった。


「おおよそ二刻ていどは進んだことだろう。小休止は、四半刻とする。各自、十分に身を休めておくのだ」


 指揮官も副官も魂を返してしまったため、客員隊長であるクリスフィアが指示を飛ばす。それに次ぐ身分である百獅子長たちも、その行いに異を唱えることはなかった。


「さて……カノン王子らに声をかけておこうかと思うのだが、ホドゥレイル=スドラらもどうであろうか?」


「うむ。同行させてもらえれば、ありがたい」


 水筒の水で咽喉を潤していたホドゥレイル=スドラが、うっそりとうなずき返してくる。そのかたわらでは、メルセウスがゆったりと微笑んでいた。


「さきほどは、ゆっくり言葉を交わせるような状況ではありませんでしたからね。僕も同行を許していただけたら、ありがたく思います」


「ホドゥレイル=スドラがメルセウス殿のおそばを離れるはずがあるまい。もちろん、ふたりまとめてお誘いしたのだ。……ああ、そういう場合は君主たるメルセウス殿の名をあげるべきであったかな?」


「いえいえ。この軍勢において、僕などは一番の役立たずなのですからね。宮廷の作法など持ち出したって、何の益もないでしょう」


 屈強なる狩人のホドゥレイル=スドラはもちろん、貴族の若君たるメルセウスもすっかり復調しているようであった。

 それらの両名とフゥライのみを従えて、クリスフィアは街道を北に進んでいく。カノン王子らは、アブーフの部隊の先頭でキャメルスと行動をともにしているはずであった。


 夜はとっぷりと更けているので、街道には兵士たちの掲げた松明の火が列となっている。その明かりに照らし出されるのは、街道にぐったりとへたり込んだ兵士たちと、大きな身体を丸めたトトスたちの姿だ。今日の中天ぐらいに王都を出て、六刻を駆けてマルランに駆けつけ、数々の妖魅を相手取ったのちに、すぐさま王都へと引き返すことになったのだから、誰もが疲弊しきっていた。


「……この兵士たちは、それほどトトスに乗ることに慣れていないようだな」


 ホドゥレイル=スドラがこっそり耳打ちしてきたので、クリスフィアは苦笑することになった。


「この兵士たちは、王都を守る防衛兵団の所属であるからな。そうそうトトスで遠出をする機会もないのであろう。……しかし、マルランでは誰もが力を尽くしてくれたのだから、賞賛に値すると思うぞ」


「うむ。あれは、いささか……恐ろしいようにも思える光景であったな」


「恐ろしい? 今、恐ろしいと言ったのか?」


 クリスフィアが驚いて聞き返すと、頭半分ほども高い位置で、ホドゥレイル=スドラは「うむ」とうなずいた。


「あれは、恐ろしい光景であったように思う。クリスフィアは、そう思わなかったのか?」


「いや、もちろんあれだけの妖魅を相手取ることになったのだから、恐ろしくなかったと言えば嘘になるが……それにしても、ホドゥレイル=スドラからそのような言葉を聞くのは、いささかならず意外であるように思うぞ」


「そうか。俺はこの身体よりも、魂のほうが凍てつくような心地だった」


 歩きながら、ホドゥレイル=スドラは深く息をつく。

 その茶色い双眸には、何かとても理知的な光がたたえられていた。


「あれはまさしく、王国と魔なるものの戦いであったように思う。新たな文明で大陸を支配した王国と、かつて王国を支配していた魔なるもの……それが、己の存在を懸けて、相争ったのだ。俺はそれを、恐ろしく……そして、悲しく思う」


「悲しいとは? 我々が、魔なるものに屈するわけにはいくまい?」


「しかし、大神アムスホルンが目覚めたとき、世界には魔術の文明が蘇るのだ。我々は、それと敵対することなく、手を取り合っていかなければならない……俺は故郷で、そのように教えられてきた。俺たちは、魔なるものと共存するべきであるのだ、とな」


 クリスフィアは、小首を傾げることになった。


「よくわからんな。たとえ魔術の文明が蘇ろうとも、妖魅と共存することはできまい? それとも我々は、妖魅に刃を向けることなく、滅びなければならないのか?」


「それでは、共存にならない。そしてまた、大神アムスホルンはいまだ蘇っていない。ゆえに、あの妖魅たちは……この世に存在してはならないものであるのだ。この世に存在してはならないものが、闇の向こうから引きずり出された。それこそが、《まつろわぬ民》の大罪であるのだろう」


「ふむ……」


「時が至れば、あの妖魅たちも正しき存在としてこの世にあれるのかもしれない。しかし、《まつろわぬ民》は闇の中に眠る妖魅たちを引きずり出して、王国の人間と戦わせている。これほどに大きな罪は、他にないように思う」


「ホドゥレイル=スドラは悲しんでいるというよりも、怒っているように感じられるな」


 そう言って、クリスフィアはホドゥレイル=スドラに笑いかけてみせた。


「わたしには理解の及ばない話ばかりであるようだが、《まつろわぬ民》に対する怒りだけは分かち合うことができるはずだ。ホドゥレイル=スドラと同じ道を進めることを、わたしは心から得難く思っているぞ」


「うむ……むやみに感情をこぼしてしまったことを、恥ずかしく思う」


「東の民でもあるまいし、そのようなことを恥じる必要はなかろう。……ああ、カノン王子らが見えてきたようだ」


 街道の真ん中に、ひときわ大きく松明の火が集められている。そこに、異形の者たちが集結していた。

 異形といっては言い過ぎかもしれないが、甲冑を纏った兵士たちばかりであるこの中で、彼らの姿は明らかに異彩を放っていた。


「お邪魔をするぞ、カノン王子よ。しばし、言葉を交わしていただきたい」


 カノン王子は、「やあ」と微笑んだ。それだけで、クリスフィアはわずかに息を呑んでしまう。異彩を放つ人々の中でも、やはりカノン王子の姿はひときわ目に立っていた。


 白銀の髪と真紅の瞳を持つ、驚くほどに美しい王子である。

 白膚症であるために、その肌も抜けるように白い。色彩を有しているのは、血の色をした瞳と唇ぐらいのものであるのだ。


(カノン王子は、半陰陽……男でもあり女でもある存在なのだと、ティムトたちが言っていたな)


 確かにこの王子は、少年としての美しさと少女としての美しさを両方備えているように思えた。

 陶磁器のように白い肌にはしみのひとつもなく、目鼻立ちは美神の彫像のように整っている。いちおうは女であるクリスフィアよりも遥かに華奢であり、乱暴に扱ったら容易く壊れてしまいそうな儚さがあった。


 それでいて、真紅の双眸は火のように輝いており、ほっそりとした身体からは陽炎のような生命力がたちのぼっているように感じられる。普通の人間とは異なる、それこそ魔なるもののような妖しいゆらめきだ。この精霊じみた存在が、人間と同じように物を食べ、汗をかき、夜には眠るのだということが、なかなか信じられないほどであった。


(このカノン王子に比べれば、他の者たちなど可愛いものなのだが……)


 クリスフィアはカノン王子に引き寄せられる視線を引き剥がして、その場にいる奇妙な面々を見回してみた。


 カノン王子がぐったりともたれかかっているのは、ゼッドと名乗る精悍な若者だ。おそらくは、これがカノン王子とともに王都を出奔した十二獅子将のヴァルダヌスであるのだろうと、クリスフィアは察しをつけていた。


 長身で、理想的なまでに鍛え抜かれた、まだ若い剣士である。いかにも貴族らしい端正な顔立ちをしているが、その深い茶色をした瞳は猛禽のように鋭く光っている。そしてその右頬から咽喉もとにかけては、無残な赤黒い火傷の痕が残されていた。

 その身に纏っているのは粗末な革の甲冑と外套であり、右腕にだけやたらと厳つい篭手を装着している。森辺の狩人と知遇を得る前であれば、これだけの剣士がこの世に存在したのか――と、目を見張るほどの力量がありありと感じられた。


 その逆側からカノン王子に寄り添っているのは、リヴェルと紹介された幼い少女である。

 年齢は、せいぜい十四、五歳であろう。北の民との混血であるとのことで、金褐色の髪と紫色の瞳をしている。見るからに繊細そうで、いつでも彼女はカノン王子の白い指先をぎゅっとつかんでいた。


 だが――よくよく見ると、彼女はただカノン王子に取りすがっているだけではない。カノン王子を頼みにしながら、どこか雛鳥を守る親鳥のような――カノン王子に害為すものがあるならば、この身を挺して守ろうかという気迫のようなものが感じられたのだった。


 こうしてゼッドとリヴェルにはさまれているとき、カノン王子はとても安らいだ顔をしている。リヴェルの素性は謎であったが、カノン王子にとってはゼッドと同じぐらい大事な存在であるのだということが、部外者のクリスフィアにもひと目で理解することができた。


 さらにカノン王子には、三名の連れがいる。

 王都の騎士イフィウスと、北の民タウロ=ヨシュ、そして謎の少女チチアである。


 イフィウスは、ロネックの卑劣な裏切りによって魂を返したルデン元帥の副官であった人物であるのだと聞かされている。彼はそのままマヒュドラ軍の手に落ちて、これまでグワラムで幽閉されていたのだそうだ。

 背丈はそれほどでもないが、すらりとした体躯をしており、かなりの剣士であることが察せられる。現在はゼッドと同様に粗末な甲冑を纏っているが、王都の騎士の甲冑を纏えば、さぞかし凛々しいことであろう。


 ただこの人物は、顔に奇妙な器具を装着させていた。鼻から上顎までを覆う、中途半端な仮面のような器具である。

 色の淡い瞳が輝く切れ長の目もとは涼やかであり、素顔はさぞかし美丈夫であろうと想像させるのだが――彼は若かりし頃の戦乱によって、鼻と上顎を欠損してしまったのだという話であった。


 まあ、イフィウスは素性もしっかりしているし、たまたまグワラムでカノン王子らと遭遇することになったのだろう。

 よって、クリスフィアが注意を引かれるのは、残りの二名であった。

 特にタウロ=ヨシュなどは、敵対国たるマヒュドラの領民であるのだ。


 金褐色の蓬髪に、爛々と光る紫色の瞳、赤く雪焼けした肌に、ムフルの大熊を思わせる巨体――クリスフィアも数えきれないほど刃を交えることになった、まぎれもない北の民の姿である。

 ただ彼は、自由開拓民であったらしい。

 ならば、セルヴァとの戦いに駆り出されることもなかったろうし、西の民を憎む気持ちも希薄であるのだろう。その身には甲冑も纏っておらず、ただ腰にごつい手斧だけを下げていた。


 最後のひとり、チチアは謎の存在である。

 褐色の髪に茶色の瞳、それによく日に焼けた黄色の肌をしているので、生まれは西の王国であろう。年頃はリヴェルと同程度であり、こちらは背丈も人並みであるのだが、むやみと発育のいい身体つきをしており、色香が匂いたっている。猫のようにまなじりのあがった目もとが印象的で、どこか場末の娼婦のように崩れた気配を発散させていた。

 右の手の甲に包帯を巻き、腰に大ぶりの鉈などを下げているが、おおよそ荒事に生きる人間ではないだろう。それでいて、妙に殺伐とした雰囲気があり、この一行の中ではとりわけ警戒心が強そうだった。


(こういうのを、同じ毛色のギャマは群れる、というのかな。ずいぶん奇妙な者たちばかりが群れ集ったものだ)


 小さく息をつきながら、クリスフィアは街道の上に腰を下ろした。

 メルセウスたちもそれにならうと、同じ場所で身を休めていたキャメルスが笑いかけてくる。


「それで、いったいどういう用件なのかな? まさか、今さらナーニャを罪人扱いするつもりではないだろうね?」


「やかましいぞ。わたしはお前ではなく、カノン王子と語らいに来たのだ」


 そんな風に答えてから、クリスフィアは眉をひそめてみせた。


「ところで、ナーニャというのはカノン王子が身を隠すために名乗っていた偽りの名であろうが? この期に及んで、どうしてまだその名を呼んでいるのだ?」


「いや、彼はまだ自分がカノン王子だとはっきり認めたわけではないからね。それに僕は、王子殿下に対する礼儀作法など身につけていないから、しばらくは流浪の魔術師ナーニャのままでいてもらおうと考えたんだよ」


「くだらんな。わたしはそのような戯れ事につきあう気はないぞ」


 男のようにあぐらをかいたクリスフィアは、カノン王子のほうにぐっと顔を突き出してみせた。


「あなたにはカノン王子でいてもらわんと、話が進まんのだ。……さきほどは慌ただしかったので、取り急ぎの話しかすることがかなわなかった。いくつかお尋ねしたいことがあるのだが、よろしいかな?」


「うん。僕で答えられることならね」


「うむ。おたがいが何を知っていて何を知らぬのか、それをつまびらかにしておくべきだと思うのだ。……まずは、《まつろわぬ民》についておうかがいしたい」


 カノン王子は静かに微笑みながら、クリスフィアを見返してきた。

 それだけで、クリスフィアは少し気圧されてしまいそうになったが、持ち前の闘志でぐっとこらえてみせた。


「あなたは《まつろわぬ民》によって、《神の器》の呪いをかけられた。しかし、《まつろわぬ民》の野望に手を貸す心情には至らなかったため、王都を出奔して行方をくらました。……我々はそのように考えているのだが、それで間違いはなかっただろうか?」


「うん。僕の敵は《まつろわぬ民》と、それに従う大神の御子たちだよ。……僕自身も、その御子のひとりに他ならないんだけれどね」


 カノン王子が、赤い唇を吊り上げた。

 とたんにその微笑が、魔物のような妖艶さをにじませる。


「僕は、この世界を――四大王国を守りたいと願っている。理由は、僕が大事に思っているゼッドやリヴェルたちが、四大王国の住人に他ならないからだ。……どうかそれを、信じてもらえるかな?」


「信じよう。あなたがそれらの人々を大事に思っておられるのは、まごうことなき真実であろうからな」


 まるで魔物と取り引きをしているかのような緊張感を胸に、クリスフィアはそのように答えてみせた。


「あなたと手を携えられることを、わたしは何より得難く思っている。我々は魔なるものと戦うための武器や叡智を手にしたが、それでも《神の器》たる大神の御子を退けることは難しいという見込みであったからな。同じ大神の御子であるあなたであれば、メフィラ=ネロなる者を退けることもかなうのであろう?」


「いや。正直に言って、五分の勝負では勝ち目がないよ。何せあちらは、魂のすべてを大神に捧げてしまったからね。中途半端に魂をかじられただけの僕には、本来あらがうすべもないんだよ」


 そう言って、カノン王子は真紅の瞳を妖しくきらめかせた。


「でも僕たちは、グワラムでメフィラ=ネロを退けることができた。それは、こちらのキャメルスを筆頭とする王国の軍勢が手を携えてくれたからだ。僕の魔術と、王国の軍勢、どちらが欠けていてもメフィラ=ネロを退けることはできなかっただろう。だから僕は、こうしてキャメルスたちと王都を目指すことになったんだよ」


「そうか。我々も『禁忌の歴史書』を手掛かりとして、魔なるものにあらがうための手段を構築している。ともに手を取り合い、《まつろわぬ民》の野望を打ち砕かねばな」


 カノン王子は、「へえ」とけだるげに微笑んだ。


「君たちは、『禁忌の歴史書』まで手中にしているのか。まあ、そうでなければ《まつろわぬ民》や《神の器》の存在を知ることもできなかったのだろうけれど……こんなことなら、僕は王都を逃げ出したりするべきではなかったのかな」


「いや。つい先日まで、王都の宮廷は《まつろわぬ民》の魔手によってかき乱されていた。あなたが王都に留まっていたならば、すぐさま処刑の命令が下されていたことだろう。《まつろわぬ民》に操られていた奸臣どもを一掃したのちに、こうしてあなたと巡りあうことがかなったのは、それこそ大神と西方神のはからいなのではなかろうかな」


「残念ながら、僕には大神の加護など期待できないよ。《神の器》というのは、眠れる大神を無理やり覚醒させようという禁忌の魔術であるのだからね。もしも大神が目覚めたならば、僕など真っ先に踏み潰されてしまうはずさ」


 カノン王子はくすくすと笑いながら、ゼッドの胸もとに頭をこすりつけた。

 かたわらのリヴェルは、そんなカノン王子の手を握りしめながら、一心にその横顔を見つめている。


「……俺からも、いいだろうか?」と、ホドゥレイル=スドラが声をあげた。


「《まつろわぬ民》とは、邪神教団のようなものであるのだろう? それはいったい、この世に何名ほど存在するのであろうか?」


「それは僕にもわからないけれど、彼らがすべての御子を同時に覚醒しようと目論んでいるのなら、最低でも四名は存在するのだろうね。火神の御子、氷神の御子、大地神の御子、風神の御子……それぞれの御子に《神の器》の術式を施すのに、少なくとも一名ずつの術者がつきっきりでいる必要があるはずだからさ」


「そうか。ではやはり、グワラムに現れたという《まつろわぬ民》は、こちらで討ち倒した《まつろわぬ民》とは別の人間であるのだな。《まつろわぬ民》は首を刎ねられても生き永らえることができるのかと、いささか懸念していたのだ」


「ふうん? 君たちは、《まつろわぬ民》を討ち倒したのかい? それは、誇るべき殊勲だね」


 カノン王子はいくぶん眠たそうにしていたが、クリスフィアも口を出さずにはいられなかった。


「我々が討ち取った《まつろわぬ民》こそ、カノン王子に《神の器》の術式を施した張本人であるのだろう。あやつは長らく宮廷に潜伏し、カノン王子が産まれる前からさまざまな陰謀を張り巡らせていたようであるのだ」


 カノン王子は、「ふうん?」と繰り返した。


「長らく王宮に潜伏していた、か……だったらもしかして、ゼッドも知ってるような相手だったのかなあ?」


 ゼッドは無表情のまま、クリスフィアに鋭い眼光を飛ばしてきた。

 それを真っ向から受け止めつつ、クリスフィアは「うむ」と応じてみせる。


「あなたがご存じであるかどうかはわからぬが、その名を小耳にはさんだことぐらいはあるやもしれんな。その者は、現在の王であられるベイギルス陛下の従者であり、薬師のオロルと名乗っていたのだ」


 しん、と奇妙な静寂が落ちた。

 それがすぐに、カノン王子の高笑いによって引き裂かれる。クリスフィアのみならず、多くの人間がぎょっと身をすくませることになった。


「薬師のオロルが、《まつろわぬ民》だって? こいつは、傑作だ! ……そうか、そうだったのか。これは気づかない僕のほうが迂闊だったよ! それとも、気づかせなかった彼を誉めるべきであるのかな!」


「な、何を笑っておられるのだ? カノン王子も、オロルのことを見知っていたのか?」


「うん、僕が覚えているのは一度きりだけどね。彼は親切に、僕とゼッドが王都を逃げ出す手助けをしてくれたんだよ」


 クリスフィアは、「なに?」と眉をひそめることになった。


「どうして《まつろわぬ民》が、王子らの出奔を手助けしなくてはならないのだ? あやつは王国を滅ぼすために、《神の器》などという魔術を王子に施したのであろう?」


「その術式が完成されなかったから、さらなる手管が必要だと考えたのだろうさ。僕が人間であることを捨てて、身も心も大神に捧げるようにと……僕の心に芽生えた希望を、完膚なきまでに打ち砕こうと画策したのさ」


 カノン王子の双眸が、また火のように燃えあがっていた。

 この世のすべてを燃やし尽くさんとする、紅蓮の業火のごとき眼光である。


「僕がどこに逃げようとも、凶運はどこまでも追ってくる。それで僕がゼッドをも失って、絶望の底に叩き込まれることを期待していたんだろう。また、僕が凶運を退けるためには、魂を犠牲にして魔術を振るう他ない。実際に僕は、これほどに魂を削ることになってしまったから……彼の目論見は、半分がた達成されたということだね」


「……そうか。《神の器》という魔術を完成させるには、対象となる人間がこの世界を憎悪しつくさなければならない、という話だったな」


 カノン王子の撒き散らす灼炎のような気配をこらえながら、クリスフィアはそのように言ってみせた。


「しかしあなたは、大事な相手も人間としての心も失ってはいない。《まつろわぬ民》の張り巡らせた陰謀を、あなたは見事に打ち破ったのだ、カノン王子よ」


「いや……僕はただ、ゼッドやリヴェルたちに守られていただけのことだよ」


 王子のほっそりとした身体から、激情の気配がすっと消失した。

 またゼッドの胸にもたれると、王子はリヴェルのほうを見る。王子の瞳にもリヴェルの瞳にも、慈愛の心情が光となってあふれかえっているかのようだった。


「ゼッドやリヴェルがいてくれたから、僕はこの世界を愛することができた……ゼッドやリヴェルの存在するこの世界を、僕は生命をかけて守りたく思う……僕は、そのためだけに生き永らえているんだ」


「ならば、あなたを守るのは我々の仕事となる」


 ホドゥレイル=スドラが、とても静かな声音で言った。


「あなたは王国の民を守り、王国の民はあなたを守る。それこそが、唯一の正しい道であるのだろう。ともに手を取り合い、《まつろわぬ民》を討ち倒したく思う」


「……いいのかい? 僕だって、《まつろわぬ民》が生み出した禁忌の存在であるんだよ?」


「しかしあなたは、我々と同じ志を抱いている。何よりも重要であるのは、その一点であるはずだ」


 カノン王子はやわらかい眼差しでホドゥレイル=スドラを一瞥してから、そっとまぶたを閉ざした。

 その顔は、母親の胸で眠る幼子のように安らかな表情となっていた。

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