Ⅱ-Ⅴ 蹂躙
2020.5/16 更新分 1/1
「てやーっ!」という裂帛の気合とともに、リミア・ファ=シンは鋼の長剣を振り下ろした。
寝所から姿を現そうとしていた、兵士の屍骸――氷雪の屍鬼は、その一撃で頭を断ち割られる。
しかし、血飛沫や脳漿が周囲に撒き散らされることはなかった。
その屍骸は、骨の髄まで凍らされていたのである。脳天を粉々に砕かれた屍鬼は、赤くきらめく氷片を飛散させながら倒れ伏すことになった。
「な、なんだこいつは! 斬っても斬っても立ち向かってくるぞ!」
と、逆の側から惑乱した兵士の声が響きわたる。レイフォンたちとともにやってきた案内役の兵士も、果敢に屍鬼を相手取っていたのだ。
回廊に通ずる扉の向こうから現れた屍鬼は、両腕を振りあげて兵士に押し寄せている。その動きは老人のように鈍重であったので、兵士も何とか迎え撃つことができたようだが――しかし、どれだけ胴体に斬撃を浴びせても、その屍鬼は痛痒を覚えた様子もなかった。
「頭です! 頭を砕かねば、屍鬼を滅することはできません!」
ティムトが叫ぶのと同時に、屍鬼が右腕を振りかざした。
長剣を弾かれた兵士は、均衡を失って倒れ込んでしまう。
屍鬼が、その上にのしかかろうとした瞬間――レイフォンのかたわらを、黒いつむじ風のようなものが吹き過ぎていった。
「えーいっ!」という掛け声とともに、リミア・ファ=シンが屍鬼の頭を叩き斬る。
頭の上半分を失った屍鬼は、棒きれのように倒れ込んだ。その屍骸を受け止めることになった兵士は、世にもあわれげな悲鳴をほとばしらせることになった。
「大丈夫ですか!? もうご心配はいりませんよ!」
リミア・ファ=シンは、すらりとした足で屍鬼の肉体を蹴り飛ばし、兵士を救出した。
そののちに、「あ」と口もとを手でふさぐ。
「思わず、足蹴にしてしまいました。……どうも申し訳ありません。あなたの魂が安からんことを、森と西方神にお祈りいたします」
リミア・ファ=シンは無惨な屍骸に目礼をすると、倒れた兵士に手を差しのべて立ち上がらせた。
「とりあえず、この部屋に入り込んできた分は始末できましたね。でも、回廊のほうからは不吉な気配を感じます」
「ああ、あちらにも数体の亡骸が転がされていたはずだからね。……それを始末しない限り、階下に降りることもできないわけか」
レイフォンが重く溜め息をつくと、リミア・ファ=シンは「大丈夫です」と口をほころばせた。
「数体ぐらいなら、わたしたちだけでも何とかなります。この妖魅というのは腕力が凄そうですけれど、動きはあんなに鈍重でしたからね!」
レイフォンは、あらためてリミア・ファ=シンの姿を検分することになった。
やはりどこからどう見ても、小柄で可愛らしい少女である。すでにジェイ=シンという伴侶を得ている身であるが、そうとは思えないぐらいに幼く見える。背丈などはレイフォンよりも頭ひとつぶんぐらいは小柄であるし、体格もごくほっそりとしているのだ。
しかし――その小さくて細い身体には、普段以上の猛烈な生命力がみなぎっているように感じられた。
これは、森辺の民の夜着であるのだろうか。胸もとから膝の上ぐらいまでを覆う渦巻模様の装束を纏っており、その上から七分袖の薄い上衣を羽織っている。黒い髪を短めに切りそろえて、黒い瞳を明るく輝かせる、とても愛くるしい少女であるのだが――そのしなやかな指先には、敵の血で汚された長剣が軽々と掲げられているのだった。
「本当に驚いたね。ほんの手習いとは思えないような剣技であったよ。そもそも、人間の姿をした妖魅に躊躇いもなく斬りかかれるなんて、並大抵の胆力ではないはずだしね」
「いえいえ、そんな大層な話ではありません。けっきょくわたしはかまど番として生きることを選んだので、剣技などは本当に手習いであるのです」
笑顔でそのように語ってから、リミア・ファ=シンはふっと目を伏せた。
「それに、こちらの方々は……今でこそ安らかに眠られておりますが、さきほどまではまぎれもなく人間以外の何かでした。それを斬り伏せるのに、躊躇いは必要ないかと思います」
「ええ。氷雪の妖魅に生命を奪われた人間は、屍鬼という妖魅に変じてしまうのです。その魂を救うには、頭を砕いて本当の死を与える他ありません」
ティムトが低い声でそのように告げると、リミア・ファ=シンは毅然と面を上げた。
「そうですか! それならわたしは喜んで、この刀を振るいましょう! 死してなお肉体を操られてしまうなんて、そんなのあまりにひどすぎます!」
「うん。なんとしてでもこの場を切り抜けて、ジェイ=シンのもとに向かわないとね」
レイフォンも、最初に弾き飛ばされた長剣を拾いあげることにした。
ギムやデンやフラウには、刀を振るう能力など備わっていないことだろう。それはティムトも同様であるのだから、レイフォンまでもが苦手な剣術から逃げることはできなかった。
「ジェイ=シンは、黒羊宮で陛下のおそばに控えている。階下に降りれば大勢の武官たちがいるはずだから、階段まで道を切り開こう」
「承知しました! 先陣は、わたしにおまかせください!」
裸足のままであるリミア・ファ=シンは、ひたひたと扉のほうに近づいていった。
壁に背中をぴったりとつけて、開け放たれた扉から回廊の様子をうかがう。その黒瞳には、また熾烈な炎のような輝きが宿されていた。
「この位置からは、回廊の片方向しか拝見できませんが……逆の方向にも、不吉な気配を感じます。どなたか、背中を守っていただけますか?」
「よ、よし。レイフォン様は、どうぞお下がりください」
兵士の男が額の冷や汗をぬぐいつつ、リミア・ファ=シンの後ろに並んだ。
回廊のほうに視線を据えたまま、リミア・ファ=シンはひそめた声でさらに続ける。
「あなたは、向かって右側からの妖魅を食い止めてくださいますか? その間に、わたしは左側に隠れている妖魅を始末します」
「しょ、承知した。今度こそ、剣士としての役目を果たしてみせよう」
リミア・ファ=シンの気迫が伝染したのか、兵士も恐怖の表情を消していた。
レイフォンたちは、息を呑んでその姿を見守るしかない。ほんの半刻ほど前までは安楽な眠りをむさぼっていたというのに、悪夢のような展開であった。
「一、二の、三、で行きましょう。……一、二の、三!」
ふたりの姿が、扉の向こうに消えた。
何か、硬い物を打ち合わせるような音色が響きわたる。妖魅が長剣を振るうとは思えないので、おそらくはリミア・ファ=シンたちが半ば凍てついた屍鬼の頭蓋を叩き斬る音色であるのだろう。
回廊の右手側に飛び出したリミア・ファ=シンが、一瞬だけレイフォンたちにその横顔をさらして、今度は左手側へと駆けつける。とたんに、硬い音色が重なり合って、恐ろしい死の重奏を響かせた。
「とりあえず、目につく相手は始末できました。回廊まで出てきていただけますか?」
リミア・ファ=シンの声に従って、おそるおそる回廊に出てみると――右手側には二体、左手側には五体もの屍骸が横たえられていた。
兵士は肩で息をついており、リミア・ファ=シンは刀身にこびりついた血肉の破片を振り払っている。凍てついた血肉は薄闇の中に赤くきらめいた。
「ご覧の通り、回廊の突き当たりまでは安全を確保できました。下のほうが騒がしいので、そちらでも妖魅が暴れているのかもしれませんね」
「王宮が、こうまで妖魅に蹂躙されてしまうとはね。これは、セルヴァの歴史に刻まれてしまうような一大事に違いないよ」
そんな言葉を交わしながら、レイフォンたちは慎重に足を踏み出すことになった。
確かに階下からは、さきほどよりも激しい喧噪が伝わってきている。いかに歴戦の勇士たちでも、いきなり妖魅に襲撃されては足をすくわれてしまうはずだった。
「嫌な感じですね。まるでわたしたちが眠っている間に、世界が違うものへと変貌してしまったかのようです」
先頭を切って歩いていたリミア・ファ=シンが、そのようにつぶやいている。
そうして回廊の中ほどにまで達したとき――鎧戸の壊された窓から、青白い輝きが飛び込んできた。
世にも哀れげな絶叫が、回廊中に響きわたる。
ちょうど窓の付近にいた兵士が、氷雪の妖魅――氷獣に咽喉笛を噛み裂かれてしまったのだ。
リミア・ファ=シンは稲妻のように長剣を閃かせて、氷獣の頭部を木っ端微塵にした。
氷獣は黒い塵と化し、血まみれになった兵士は力なく倒れ込む。その咽喉もとからあふれかえった血液は、途中でぴしりと凍りついた。
「不吉な気配があちこちに渦巻いていたため、窓から襲われることを予見できませんでした。……やっぱりわたしは、狩人にも剣士にもなれません」
リミア・ファ=シンは無念そうに言いながら、きゅっと唇を噛みしめた。
その足もとから、兵士がのろのろと起き上がる。その双眸は、青い鬼火と化していた。
「……あなたの魂が安からんことを」
祈るように言い、リミア・ファ=シンは長剣を振り下ろした。
再びの死を迎えた兵士は、石敷きの回廊にぐしゃりとくずおれる。
「行きましょう。残りの方々は、わたしがお守りすると誓います」
「いえ。もっとも重んじなければならないのは、あなたご自身のお生命であるのです」
ティムトがすかさず声をあげると、リミア・ファ=シンは御伽噺で有名な姫騎士ゼリアのように勇ましい顔で微笑んだ。
「ならば、自分の生命ともども、あなたがたをお守りいたします。決してわたしから離れないでくださいね」
そうしてレイフォンたちは、回廊の突き当たりにまで到達した。
回廊は右に折れており、その最果てには階段が見える。妖魅の姿はなかったが、階下からの狂騒はいっそう鮮明になっていた。
左右の窓や扉にも注意を払いながら、レイフォンたちは前進する。
そうして、階段にまで達すると――階下から、青白い影が肉迫してきた。
氷の爪と牙を生やし、細長い顔に青い隻眼を光らせる、氷獣である。
リミア・ファ=シンは、一撃のもとにそれを斬り伏せた。
さらに今度は、複数の氷獣が階段を駆けのぼってくる。
「下がっていてください!」と言い放つや、リミア・ファ=シンは大きく長剣を振りかざした。
白銀にきらめく刀身が、次々と氷獣を討ち倒していく。
それは凄まじい剣技でありながら、何かの舞のように美しかった。
(これが、本当に……剣士ならぬ少女の技であるのか)
それは、剣術などには何の興味もないレイフォンをして、心を奪われるような光景であった。
黒い髪と瞳を持ち、褐色の肌をしたリミア・ファ=シンは、黒い炎のように乱舞して、おぞましい妖魅どもを駆逐していく。氷獣は野獣のように俊敏であるのに、このリミア・ファ=シンという少女はそれを上回る身体能力を備えていたのだった。
そこに――不吉な音色が響く。
何体目かの氷獣を斬り伏せるのと同時に、リミア・ファ=シンの長剣が真っ二つに折れてしまったのだ。
リミア・ファ=シンは易々と斬り伏せていたが、氷獣というのは氷と同様の硬さを有しているのだろう。それを何体となく相手取っていれば、鋼の刀身が限界を迎えるのも当然である。
そんなことを瞬間的に考えながら、レイフォンは半ば無意識に自分の手にある長剣を振り上げていた。
「リミア・ファ=シン! これを――!」
レイフォンは、力まかせに長剣を投げつけた。
長剣は、うなりをあげてリミア・ファ=シンの頭上に迫る。
折れた長剣の柄を放り捨てたリミア・ファ=シンは、ごく無造作に手をのばして、飛来する長剣の柄をつかみ取った。
そしてその勢いのままに長剣を振り下ろすと、新たな氷獣が首を刎ね飛ばされて、黒い塵と化す。
それから十を数えるぐらいの時間が過ぎたのち、ようやくリミア・ファ=シンが動作を停止した。
「ふう」と息をついてから、リミア・ファ=シンは背後のレイフォンたちに笑いかけてくる。
「ありがとうございます、レイフォンさま! 剣が折れたままであったら、わたしも無傷ではいられなかったかもしれません!」
「それでも、敗北することはなかったということだね」
「はい! 必ずお守りすると、誓いましたので!」
そんな風に言ってから、リミア・ファ=シンは階段のほうに向きなおった。
そうして大きく息を吸い込むと、驚くほどの大声を張り上げる。
「妖魅の弱点は、頭です! 胴体を斬っても意味はありませんので、頭を狙ってくださーい!」
レイフォンたちが駆けつけると、階下では兵士と屍鬼たちが死闘を繰り広げているさなかであった。
そして誰かが火を放ったのであろうか、黒い煙がじわじわと押し寄せてきている。まるで敵軍に宮殿まで攻め込まれたかのような有り様であった。
「なんとかあの場を突破して、黒羊宮まで急ぎましょう。王陛下とジェイ=シン殿の身に、何かあったら……王国が滅びかねません」
そんな風に言ってから、ティムトはフラウたちを振り返った。
「あなたがたは、どこかの部屋に避難してください。これから向かう先は、この場よりも危険であるはずです」
「承知しました。わたくしたちがご一緒したら、足手まといになってしまいますものね」
フラウは表情を引き締めると、ギムやデンを振り返った。
「そちらのお部屋をお借りしましょう。妖魅は鎧戸を破るほどの力を持っているので、棚や長椅子などで窓をふさぐのです」
「わ、わかったよ……こんな無茶苦茶な騒ぎなのに、あんたは物凄く冷静なんだな」
デンが泣き笑いのような顔で応じると、フラウは困ったように微笑んだ。
「わたくしを心配する姫様が、どこかから勇気を届けてくださったのかもしれませんね。……さあ、急ぎましょう」
「うむ。お前さんがたも、くれぐれも気をつけてな」
ギムは死人のような顔色になっていたが、それでも何とか平静を保っていた。
そうして三名は、リミア・ファ=シンが安全を確認した部屋の中へと姿を隠す。
回廊に残されたのは、レイフォンとティムトとリミア・ファ=シンの三名のみ――レイフォンたちにとっては、ここからが正念場であった。
「金狼宮の出口は、階段を降りて右手側です。黒羊宮までの行き道は……ご存じではありませんよね」
「はい。そちらには、まだうかがったことがありません」
「僕たちが、ご案内します。……レイフォン様も、この場に留まられたほうがよろしいのではないでしょうか?」
「そんなわけにはいかないよ。私は宰相代理であり、軍の指揮権までお預かりしてしまったのだからね」
そしてレイフォンは、ティムトだけを危険にさらす気持ちにもなれなかった。
ティムトはしばしレイフォンの顔をにらみつけてから、リミア・ファ=シンに向きなおる。
「では、行きましょう。妖魅の相手は兵士たちにお任せして、真っ直ぐ黒羊宮に向かうのです」
「はい。回廊を降りたら、右手側ですね。宮殿を出るまでは、わたしが先頭を進ませていただきます」
そのように宣言をしたリミア・ファ=シンに続いて、レイフォンとティムトも階段を駆け下りた。
階下の通路は、兵士たちであふれかえっている。氷雪の妖魅の姿はなく、相手はすべて屍鬼であるようだ。さきほどのリミア・ファ=シンの助言が届いたのか、その大半はすでに頭を砕かれて、床に横たわっているようだった。
「弱点は、頭ですよ! 相手の動きは鈍いので、何も憶する必要はありません!」
道すがらでもそのように叫びながら、リミア・ファ=シンは手近な屍鬼の頭を粉砕した。
おそらくリミア・ファ=シンは、気配で人間と妖魅を嗅ぎ分けることができるのだろう。こちらに背を向けて、人か妖魅かも判然としない相手にも、躊躇いなく長剣を叩きつけている。
(本当に凄いな。身体能力に秀でているというだけの話じゃない。彼女は……森辺の民というのは、心や魂の作りからして異なっているんじゃないだろうか)
そんな風に考えながら、レイフォンは回廊に転がされていた長剣を拾いあげた。
今のレイフォンにできるのは、この勇敢なる少女のために予備の長剣を準備しておくことぐらいなのであろうと思われた。
そうして回廊を突破して、レイフォンたちは外界に飛び出した。
頭上に屋根だけが設けられた、屋外の通路である。非常事態であるために、左右の灯篭にはすべて火が灯されている。その外側に澱んだ闇は深かったが、明かりの届く範囲に妖魅の姿は見当たらなかった。
「妖魅の気配はありませんね。ただ……向かう先に、尋常でない気配を感じます」
そのようにつぶやきながら、リミア・ファ=シンはぶるっと背中を震わせた。これほどに勇敢な少女が怖気だつほどの存在が、この先には待ちかまえているということだ。
「わたしは狩人ならぬ身ですので、ジェイたちほどつぶさに気配を探ることはできませんけれど……これがどれだけ危険な気配かは、嫌でもわかってしまいます」
「それでも、引き返すことはできないのです」
ティムトがすかさず声をあげると、リミア・ファ=シンは鋭く両目を光らせたまま、にこりと微笑んだ。
「引き返したりはしません。この先にジェイがいるというのなら、放ってはおけませんからね」
この場に妖魅はいないというリミア・ファ=シンの言葉を信じて、レイフォンたちは屋外の回廊を小走りで移動することになった。
黒羊宮が近づいても、人の気配は感じられない。王のもとには十分な近衛兵が残されているし、防衛兵団の兵士たちはそれぞれ任務を帯びることになったので、もうこのような場所をうろつく理由もないのだろう。
(城下町の外には、氷雪の巨人が押し寄せているんだったな。まったく……なんて夜なんだ)
何度となく溜め息を噛み殺している間に、レイフォンたちは黒羊宮に辿り着いた。
その入り口を守っていた守衛たちは、びっくりまなこでレイフォンたちを見返してくる。レイフォンもリミア・ファ=シンも抜き身の長剣を握りしめていたのだから、それが当然であろう。
「ど、どうなさったのですか、レイフォン様? 何やら金狼宮のほうが騒がしいようですが……」
「あちらは妖魅を迎撃しているさなかだよ。こちらに異常はないようだね」
「よ、妖魅と仰いましたか? はい、こちらに異常はございません」
宰相代理の特権を活用して、レイフォンたちは長剣を手にしたまま黒羊宮へと踏み込んだ。
さきほどまでは騒がしかった黒羊宮も、現在はしんと静まりかえっている。謁見の間へと歩を進めていくと、その道中でリミア・ファ=シンが囁きかけてきた。
「不吉な気配は、強まるいっぽうです。この先には、間違いなく妖魅か何かが待ち受けているはずですよ」
「そうか。また窓から侵入したのかもしれないね。……もっと手勢を集めるべきかな?」
レイフォンの問いかけに、ティムトは厳しい面持ちで「いえ」と応じた。
「近衛兵はすでに謁見の間に集められているのですから、残りの手勢などたかが知れていますし……相手が強力な妖魅であれば、犠牲者を増やす結果にしかならないことでしょう」
「では、わたしは何のためにジェイのもとに向かうのでしょう?」
今さらのように、リミア・ファ=シンが小首を傾げた。
無人の回廊を進みながら、ティムトはそちらをねめつける。
「あなたは、ジェイ=シン殿の『鞘』であるのです。あなたはジェイ=シン殿のそばに控えてくだされば、それでいいのです」
「よくわかりませんけれど、それならわたしにも務まりそうなお役目ですね」
リミア・ファ=シンが力強く微笑んだとき、謁見の間に到着した。
扉の左右には、やはり守衛が何事もなかったかのように立ち並んでいる。レイフォンはともかく、見知らぬ少女までもが長剣を引っ下げている姿を見て、守衛たちは眉をひそめた。
「いったい何事でありましょうか? 王陛下のお許しもないままに、そのような御方をお通しすることはできないのですが……」
「それなら、王陛下にお許しを賜ろう。レイフォンが来たとお伝えしてくれ」
「はあ……」と不審の念をにじませつつ、守衛は扉の内に声をかけた。そこには次の間が設置されており、小姓から王へと言葉が伝えられるのだ。
が――返ってきたのは、人間の悲鳴であった。
守衛が慌てて扉に手をかけようとすると、リミア・ファ=シンが「お待ちを!」と掣肘する。
「妖魅の気配がたちのぼっています! わたしがお相手をしますので、左右から扉をお開きください!」
言いざまに、リミア・ファ=シンは長剣を掲げて扉の前に立ちはだかった。
惑乱の表情を浮かべる守衛たちに、レイフォンは「従ってくれ」と命令する。
守衛たちは槍を握りなおしつつ、もう片方の空いた手を扉に掛ける。
そうして、扉が開かれると――その内から、吹雪のような氷雪の烈風が吐き出された。
リミア・ファ=シンは、獣のような俊敏さで横合いに跳びすさる。
そちらに向かって、巨大な影が襲いかかった。
氷獣である。
しかしそれは金狼宮で見たものよりも遥かに巨大で、なおかつ後ろ足で立ち上がっていた。体長は人間以上であり、ムフルの大熊のように厚みのある体格をしている。
守衛たちは悲鳴をあげ、リミア・ファ=シンは長剣を振りかざした。
遥かな高みに存在する氷獣の顔面が、その一撃で粉々に吹き飛ばされる。断末魔の雄叫びをあげながら、氷獣は黒い塵と化した。
「お、王陛下! 陛下はご無事であられますか!」
守衛のひとりが、次の間に跳び込もうとした。
その眼前に、ゆらりと立ちはだかったのは――死人の顔色をした、小姓である。
「危ない!」と叫ぶなり、リミア・ファ=シンは守衛に体当たりをかました。
転倒した守衛の背中を跳び越えて、小姓の頭を長剣で叩き割る。屍鬼と化した小姓は、そのまま人形のように倒れ伏した。
「こ、これは……」と、もう片方の守衛がうめき声をあげる。
次の間は、床も壁も天井も、白い氷雪に覆われてしまっていた。
さらにその向こう側――薄闇に包まれた謁見の間からは、ぞっとするような冷気が届けられてくる。まるで雪山にでも足を踏み入れてしまったかのようだった。
「ジェイ! ジェイは無事なの!?」
リミア・ファ=シンは、恐れげもなくその内に踏み込んでいく。
レイフォンとティムトも、二名の守衛とともにその後を追うことになった。
そこに待ち受けていたのは、悪夢のような光景であった。
広大なる謁見の間もまた、白い氷雪に支配されてしまっている。
絨毯が敷かれていたはずの足もとにも、白い氷雪が敷きつめられ――さらに、近衛兵たちの屍骸が累々と横たえられていた。
その中央に、異形の存在が立ちはだかっている。
上半身は人間で、下半身は氷雪の四つ足に支えられた、まごうことなき怪物だ。それはカロンの大牛のように巨大な氷獣であり、首が生えるべき場所から人間の上半身を生やしていたのだった。
「あら……王を救いに来たわりには、ずいぶんちっぽけな援軍ね」
人間の上半身が、こちらを振り返る。
それは、妖艶なる女の姿をしていた。
黄金色をした髪が、渦を巻きながら背中まで流れ落ちている。抜けるように白い肌は、ところどころに氷雪がこびりついており、その上半身もまた氷の彫像であるかのようだった。
邪悪な精霊のように美しい。
その双眸は、ぎらぎらと紫色に燃えさかっており――そして、額には第三の目が憎悪の炎を噴きあげていた。
メフィラ=ネロである。
それはグワラムから届けられた伝書に記されていた通りの、メフィラ=ネロの姿をしていた。
《神の器》の呪いをかけられた、氷神の巫女――メフィラ=ネロが、ついに王都に現れたのだ。
「まあ、いいわ。あんたたちも、あたしの配下に加えてあげるわよ」
メフィラ=ネロは、にいっと唇を吊り上げる。
その口内には一本の歯も存在せず、唇の内側にはすべてを呑み込む深淵のごとき暗黒が形成されていた。