Ⅰ-Ⅴ 同じ志のもとに
2020.5/9 更新分 1/1
「ナーニャ!」と叫びながら、リヴェルはナーニャのもとに駆け寄ることになった。
マルランの領土に突入して、氷雪の巨人を一瞬で消滅させてみせたナーニャは、街路の上で幽鬼のように立ち尽くしている。その足もとに、大勢の兵士たちが倒れ伏しているのが見えた。
街路の先にはマルランの城を守る城壁が立ちはだかっており、その手前の広場では兵士が氷雪の妖魅を相手取っているようだ。そちらでは戦争そのもののような熱気と狂騒が渦巻いているようであるのに――この街路には、死の静寂が漂ってしまっている。倒れ伏した兵士たちは誰もが白い氷雪にまみれており、人形のように微動だにしていなかった。
「ナ、ナーニャ、この方々は……?」
「マルランを守るために戦っていた兵士たちだろう。残念ながら、その大半は巨人の息吹で魂を返してしまったみたいだ」
妖しい微笑をたたえながら、感情の読みにくい声でナーニャはそのように答えた。
「かろうじて生き永らえているのは、そちらの女性とそちらの男性と……あと、その下のおふたりもご存命のようだね」
「ええ……僕の大事な友人が、身を挺して守ってくれたようです……」
弱々しい声が、足もとから聞こえてくる。その場には背の高い男性がうつぶせで倒れており、その下に若者と老人の姿も見えた。声をあげたのは、貴族のように端正な顔をした若者である。
「無茶をしすぎだよ、ホドゥレイル=スドラ……君にもしものことがあったら、森辺の族長たちに申し訳が立たないじゃないか……」
「……それは、こちらの台詞だな。俺の使命は、あなたを無事にジェノス城まで送り届けることなのだぞ」
若者の上に覆いかぶさっていた男性が、ゆっくりと身を起こしていく。すると、その髪や鎧にはりついていた氷雪がぴしぴしと音をたてながら地面に落ちた。
東の民のように浅黒い肌をした、長身の青年である。その茶色がかった瞳には、静かに燃えあがる炎のような眼光が灯されていた。
「へえ。生き永らえているどころか、君は自力で起き上がることができるのだね。これは驚異的な生命力だ」
ナーニャが感心したように言うと、長身の青年――ホドゥレイル=スドラと呼ばれたその者は、いっそう熾烈に眼光を燃やした。
そしてその手が、半ば凍りついた長剣を握りなおす。
「お前は、何者だ。お前からは、氷雪の巨人とも比較にならぬほどの、不吉で邪悪な気配がする。人間の姿をしてはいるが、決して尋常な存在ではあるまい」
「うん。僕ほど呪われた存在は、この世に存在しないのだろうと思うよ」
ナーニャがそんな風に答えたとき、背後からキャメルスの率いる兵士たちが近づいてきた。リヴェルは思わず先んじてしまったが、ナーニャの炎の魔術の巻き添えにならないようにと、彼らは待機を命じられていたのだ。
「ナーニャ、いったいどうなったのかな? 氷雪の巨人は退治できたようだけれども、あちらはまだ大変な騒ぎであるようじゃないか」
「うん。マルランの兵士たちが、妖魅に応戦しているようだね。でも、あちらに駆けつける前に、まずはこの場の妖魅を一掃しなければならないからさ」
「この場の妖魅? 見たところ、その場には兵士たちの亡骸しか見当たらないようだけれども」
「だから、彼らこそが妖魅なのだよ。氷雪の妖魅に殺められた人間は、魂を暗黒にとらわれてしまうのだからね」
白銀の髪を優美な指先でかきあげながら、ナーニャはそう言った。
「ただ、この場には四名ほどの生存者がいるみたいだ。一緒に焼き尽くされてしまわないように、そちらで保護してもらえるかな?」
「おお、生存者がいるのなら、もちろん――」と、そこでキャメルスは息を呑んだ。
「ク、クリスフィアじゃないか! どうして君が、こんな場所にいるんだい!?」
キャメルスは、街路に横たわった女性のもとに駆けつけた。
女性だが、ホドゥレイル=スドラと同じように白革の鎧を纏っている。その灰色の瞳が、弱々しくキャメルスを見返した。
「やはりお前か、キャメルス……どうしてお前が、カノン王子と行動をともにしているのだ……?」
その言葉に、リヴェルは愕然と立ちすくんでしまった。
あまりにも突然に、ナーニャの正体が露見してしまったのだ。
リヴェルはがくがくと膝を震わせながら、ナーニャの腕に取りすがる。
しかし――クリスフィアなる女騎士の言葉を聞いたキャメルスは、ちょっと困ったように微笑むばかりであった。
「話せば、長くなるのだよ。それよりも、今は君の身が心配だ。ああもう、まるで雪山で遭難したみたいに身体が冷えてしまっているじゃないか」
「わたしの身など、どうでもいい……それよりも、早く妖魅どもを……」
クリスフィアがそのように答えかけたとき、ホドゥレイル=スドラが「そうか」と言葉をかぶせた。
「白き髪に、赤い瞳……確かにお前の姿は、王都で聞いていたカノン王子の容姿と合致する。そのようなことも失念するぐらい、俺は我を失ってしまっていたのだな」
「我を失っていたのかい? 君はこの場の誰よりも冷静であるように思うけれどね」
ナーニャが笑いを含んだ声で答えると、ホドゥレイル=スドラは足もとの若者と老人を守るようにして立ちはだかり、長剣を振りかざした。
「王都の者たちは、お前を保護するべきだと言いたてていた。しかしお前は、どの妖魅よりも遥かに邪悪で不吉な気配がする。……《神の器》という呪いは、そうまで人の魂を蝕んでしまうものであるのか?」
「驚いたな。君は《神の器》のことまで知っていたのかい? どうやら王都には、僕の想像以上に叡智を備えた人々がいるようだね」
ナーニャは、ふっと目を伏せた。
その端麗なる面には、妖艶なる微笑みがたたえられたままであったが――とたんに、幼い迷い子めいた表情になってしまう。リヴェルは深い悲哀にとらわれながら、いっそう強くナーニャの腕を抱きすくめることになった。
「まあとりあえず、問答をするのは後回しにするべきだろうと思うよ。君だったら、この場に満ちた瘴気を感知することもできるんじゃないのかな?」
ホドゥレイル=スドラは険しく眉を寄せつつ、足もとの若者に手を差しのべた。
すると、そのかたわらに倒れていた老人は、手を借りることもなく自力で立ち上がる。その姿に、若者は「ああ」と微笑んだ。
「そうか……ご老体は、魔除けの護符というものを携えておられたのですよね……どおりでご老体の側からは、氷雪の冷たさを感じなかったはずです……」
「うむ。実のところ、地面に落ちた際に腰を打って、そちらが痛くて立ち上がれなかったのだ。まったく、情けないことよな」
雪のように白い髪をした老人は、とても優しそうな顔で微笑んだ。
そしてその理知的な瞳が、その場にたたずむ人間を順番に見回していく。
「何やらずいぶんややこしい事態に陥ったようだが、そちらの御仁の言う通り、まずは妖魅の始末をつけるべきであろう。氷雪の妖魅に害された人間は、屍鬼と化してしまうのだからな」
「その始末は、僕が受け持つよ。君たちは、安全な場所まで下がるといい」
ナーニャの視線を受けて、キャメルスが後方の部下たちに手ぶりで指示を与えた。自力で歩くことのかなわないクリスフィアと若者に救いの手が差し伸べられて、ナーニャの背後へと導かれていく。
それに続いて歩を進めていたホドゥレイル=スドラは、通りすぎざまにナーニャへと声をかけた。
「さきほどの言葉は、一部撤回する。お前はどのような妖魅よりも、邪悪で不吉な気配を発しているが……決して人間としての心は失っていないようだ」
ナーニャは薄く笑ったまま、何も答えようとしなかった。
ホドゥレイル=スドラも返事を期待していたわけではないのか、そのまま後方に下がっていく。
そして――街路を埋め尽くさんばかりに累々と横たわっていた兵士たちの亡骸が、ぎくしゃくとした動きで身を起こし始めた。
起き上がった亡骸の双眸は、鬼火のように青く輝いている。リヴェルもこれまで何度となく遭遇してきた、屍骸の妖魅――さきほどの老人の言葉を借りるならば、屍鬼として生まれ変わってしまったのだ。
「ナーニャ、新しい油の樽に火を灯すべきかな?」
「いや。このていどの妖魅を相手に、そこまでの準備は不要だね。何本かの松明を、こちらに投げつけておくれよ」
後方から投げつけられた松明が、ナーニャと屍鬼たちの間に落ちた。
そちらに足を踏み出そうとしたナーニャは、ふっとかたわらのリヴェルを見下ろしてくる。
「リヴェルも、下がっていていいんだよ? 妖魅の燃やされるさまを見せつけられたって、何も楽しいことはないだろう?」
「……わたしは、お邪魔ですか?」
リヴェルがそのように答えると、ナーニャはあどけなく口をほころばせた。
「そんなわけがないじゃないか。決して僕から離れてはいけないよ?」
ナーニャが足を踏み出すと、屍鬼たちもくぐもったうめき声をあげながら近づいてきた。
とたん――足もとの松明から炎が噴きあがり、先頭の屍鬼に襲いかかる。真っ赤な炎に包まれた屍鬼は、苦悶に身をよじらせながら倒れ伏した。
ナーニャは松明を拾いあげ、さらに歩を進めていく。
ナーニャに悪意を向ける屍鬼は、次々と焼き尽くされていくことになった。
炎の竜が闇を駆け巡り、世界を赤く染めあげていく。
この世のものとも思えない、恐ろしい風景である。
しかしこれは、ナーニャが生み出している炎であるのだ。
その恐ろしさも、美しさも、ナーニャそのものであるかのように感じられる。ならば、リヴェルが目をそらすことはできなかった。
◇
それから、半刻ほどが過ぎ――すべての妖魅は、マルランの領地から消え失せることになった。
戦いを終えた人々は、怒号のような勝ち鬨をあげている。ナーニャたちが到着する前から、兵士たちは妖魅と死闘を繰り広げていたのだ。激しい恐怖を押し殺して、ついに勝利をつかみ取った兵士たちは、一種陶然としているようだった。
だが、ナーニャの一行は勝利の余韻にひたっていることも許されない。
すべての妖魅を退けたのち、ナーニャはあらためてクリスフィアやホドゥレイル=スドラといった人々と相対しなければならなかった。
「なるほど。つまり、この場で戦っていたのはマルランの騎士団ばかりではなく、王都の軍勢も二千名ほど含まれていたということだね」
まるで両者の仲介役であるかのように、その場を取り仕切っていたのはキャメルスであった。
あちこちに燃える炎や亡骸の始末はマルランの兵士たちに任せて、一同は広場の片隅に身を寄せていた。周囲はキャメルスの率いる兵士たちが固めているので、この密談を覗き見ることは誰にもかなわないだろう。
その場には、王都から駆けつけてきたという四名の人間が居並んでいた。
アブーフの女騎士クリスフィア、ジェノスの剣士ホドゥレイル=スドラ、ジェノスの貴族メルセウス、王都の学士長フゥライという顔ぶれである。フゥライを除く三名は氷雪の巨人の息吹をまともくらっていたため、ありあわせの毛布にその身をくるんで、気つけの果実酒を口にしていた。
「まあ、王都から加勢の軍勢が駆けつけたというのは、べつだん驚くような話ではないのだろうけれど……その中に君が含まれているというのは、やっぱり解せないね、クリスフィア」
キャメルスが苦笑気味の表情を向けると、クリスフィアは「やかましい」と言い捨てて、革の水筒の果実酒をなめた。
まるで男のような立ち居振る舞いだが、実に美しい凛然とした娘である。キャメルスが道中で語っていた、王都に逗留している従姉妹というのが、このクリスフィアであったのだった。
「お前が王都に向かっているという話は聞いていたがな、キャメルスよ。しかし、お前がカノン王子を連れているなどとは、伝書にも記されていなかったはずだ。まず釈明すべきは、お前のほうであろう」
「うーん、それはまあ、王都に無用の混乱をもたらしたくなかったというか何というか……そもそも僕は、彼がカノン王子であるなどということは聞かされていなかったわけだからね」
「しかし伝書には、『グワラムを救った炎の魔術師は行方をくらませた』と記されていた。お前が王都への伝書に虚言を綴ったという事実に変わりはあるまい」
クリスフィアは、容赦なく追及してくる。ついさきほどまでは死人のように真っ青な顔をしていたが、今は頬にも血色が戻り、灰色の瞳は爛々と輝いている。これほど秀麗で美しい容姿をしているのに、彼女は獅子のような猛々しさを有しているようだった。
「それにお前は、そちらの人物がカノン王子であるということを看破していたのではないのか? わたしがその名を告げたときも、顔色ひとつ変えていなかったではないか?」
「うん、まあね。でも、何か確証があったわけではないよ。カノン王子の話題に及ぶと、彼のお仲間たちが動揺する気配が見られたから、もしかして……と、当たりをつけていただけの話であるのさ」
そう言って、キャメルスは別の方向に視線を転じた。その場にたたずんでいたのは、奇妙な仮面の剣士イフィウスである。
「それに、ナーニャの正体がカノン王子だとしたら、イフィウス殿も看破していたのだろうと思ったからさ。そのイフィウス殿が口をつぐんでいるのに、余所者の僕が騒ぎたてるわけにはいかないだろう? それでナーニャに逃げられたりしたら、王都の窮地を救うことも難しくなってしまうのだからさ」
「……相変わらず、口ばかりがよく回る男だ。お前などと話していても、埒が明かん」
と――クリスフィアは、強い眼光をたたえた瞳でナーニャを見据えた。
魔術を駆使したナーニャは、いくぶんぐったりとした様子でゼッドにもたれかかっている。その美しさに挑みかかるような調子で、クリスフィアは言いたてた。
「ともあれ、あなたと出会えたのは僥倖だ、カノン王子よ。我々は、ずっとあなたの行方を探し求めていたのだからな」
「ふうん……前王殺しの大罪人として、処刑をするためかな?」
「違う」と、クリスフィアははっきりと言いきった。
「いや、赤の月の災厄の日に、前王がどのような凶運に見舞われたのか、我々には推測を立てることしかできなかったが……何にせよ、すべては《まつろわぬ民》の陰謀であったはずだ。罪を贖うべきは、あなたではなく《まつろわぬ民》であろう」
ゼッドとは逆側からナーニャに寄り添っていたリヴェルは、思わずその火のように熱い指先を握りしめてしまった。
ナーニャは、同じ強さでリヴェルの指先を握りしめてくる。
「ずいぶん奇妙なことを言うのだね……このキャメルスは、王都への伝書で《まつろわぬ民》についても書き記したそうだけれど……それが前王殺しとどう関わってくるというのかな……?」
「こやつの伝書など、関係ない。我々はもうひと月以上も前から、王都で《まつろわぬ民》を相手取ることになっていたのだ。……ええい、どこから話せばいいものか、見当もつかぬな」
クリスフィアは毛布から引っ張り出した手で、綺麗な亜麻色をした髪をかき回した。
「とにかく我々は、《まつろわぬ民》を退治するための同志として、あなたの存在を探し求めていた。なんとか、力をお貸し願いたい」
「王都の人々が、《まつろわぬ民》を相手取っていた、か……これは、想像を絶する展開だね」
ナーニャはその面に、精霊じみた微笑をたたえた。
「でも、君はアブーフの人間で、そちらのおふたりはジェノスの人間だ。王都の人間と呼べるのは、そちらのご老人だけのようだけど……現在の王は、いったいどのように考えているのだろうね?」
「王陛下のことは、脇に置いてもらいたい。どのみち陛下も我々の力に頼りきりなのだから、口をはさむこともなかろうよ」
そう言って、クリスフィアはぐっと身を乗り出した。
「何より今は、《まつろわぬ民》を討ち倒すことが先決であろう? 我々はそのように考えているのだが、カノン王子はそうではないのか?」
「うん……それはもちろん、そうなんだろうね。そのためにこそ、僕は王都を目指していたのだからさ」
ナーニャは同じ微笑みをたたえたまま、真紅の瞳をまぶたに隠した。
「だけどそれなら、こんな場所でのんびり語らってる場合ではないかもね……最終的に、メフィラ=ネロは王都を滅ぼすつもりなのだろうからさ……」
「うむ、確かにな。我々の同志であるティムトという者も、マルラン襲撃は陽動作戦なのではないかと疑っていたのだ。こうしている間にも、メフィラ=ネロの毒牙は王都に迫っているやもしれん」
果断に言いながら、クリスフィアは毛布をはねのけた。
その秀麗な顔に、戦いの女神を思わせる笑みが浮かべられる。
「後の始末はマルランの騎士団に任せて、我々は王都に引き返すとしよう。トトスの準備をさせるので、しばしお待ちいただきたい」
「あ、ちょっと」と、キャメルスが声をあげた。
「それなら僕たちも同行させてもらわなければならないけれど、荷車はどうしたものだろうね? あちらには、炎の魔術に必要な油の樽を準備しているのだよ」
「荷車などを引いていたら、王都までは一日がかりだぞ! 油の樽なら王都にも山ほど準備されているのだから、何も案ずる必要はない!」
「そうか。そちらでもきちんと、メフィラ=ネロの襲撃に備えてくれていたのだね」
キャメルスは、満足そうに微笑んだ。
「では、我々もトトスにまたがって、王都に参ずることにしよう。アブーフの部隊二千名が、護衛役をつかまつるよ」
「ふん! 父上の許しもなく、勝手に兵を動かしおって! アブーフに戻ったら、髪が抜け落ちるほどの説教をくらことになるぞ!」
クリスフィアはにやりと笑いながら、従兄弟の胸もとを荒っぽく小突いた。
「では、しばし失礼する。指揮官たる千獅子長を失ってしまったので、王都の部隊はわたしがまとめあげなくてはならんのでな」
そんな言葉を残して、クリスフィアは立ち去っていった。
キャメルスも「やれやれ」と身を起こす。
「それではこちらも、進軍の準備を進めるとしよう。ナーニャたちは……いや、カノン王子とお呼びするべきなのでしょうかね?」
「ふふん。僕は自分がカノン王子であると認めた覚えはないよ。……少なくとも、この騒ぎが収まるまでは、風来坊の魔術師でいるべきなのだろうしね」
「それなら、よかったよ。僕もアブーフの人間として、王家の跡目争いなどには巻き込まれたくないのでね」
飄然とした笑みを残して、キャメルスも兵士たちの向こうに消えていった。
残されたのはナーニャの一行と、クリスフィアを除く王都の三名だ。
その中から、ぐったりとしているメルセウスの面倒を見ていたホドゥレイル=スドラが、ナーニャのほうに視線を飛ばしてきた。
「……俺もあなたを、ナーニャと呼ぶべきなのであろうか?」
呼称が「お前」から「あなた」に変じていた。
そして、戦いの場では熾烈な光をたたえていた瞳が、ひどく沈着な眼差しになっている。それは、学士長のフゥライにも負けないぐらい、理知的で澄みわたった眼差しであった。
「うん。そうしてもらえたら、ありがたく思うよ。僕はもう、二度とその名を名乗らないと誓った身なのでね」
「そうか。……あなたには、謝罪の言葉を申し述べさせてもらいたい」
「謝罪?」
「うむ。あなたを邪悪で不吉な存在だなどと言いたてたことを、俺は深く悔いている」
そう言って、ホドゥレイル=スドラは冷たい石の街路に片方の拳をついた。
「もちろん、この世ならぬ力を振るうあなたは、とてつもなく不吉で邪悪な存在だ。だがそれは、《まつろわぬ民》によって与えられた力であり、あなたに責任はないのだと聞いている。ならば、あなたを責めたてるべきではなかった。あなたが、これほどに苦しんでいるということを……さきほどは、感じ取ることができなかったのだ」
「嫌だな。僕はそんな弱みをさらけだしたつもりはないのだけれど」
ナーニャは、ちょっと気恥ずかしそうに微笑んだ。
ナーニャとしては、きわめて珍しい表情である。
そんなナーニャの姿を見つめながら、ホドゥレイル=スドラはゆっくりと首を横に振った。
「あなたの心は、悲哀と無念で軋んでいる。そしてあなたは、我が身にかえても愛する者たちを救おうとしている。そんな思いが、痛いほどに伝わってくるのだ。……あなたの強靭で清らかな心に、俺は敬服する。どうかさきほどの失言は許してもらいたい」
「困ったなあ。これでは妖魅扱いされたほうが、まだ気楽だよ」
ナーニャがそのように答えると、毛布にくるまったメルセウスがくすりと笑った。
「こちらのホドゥレイル=スドラは、モルガの森辺の狩人です。森辺の民というのは、人の心の機微を察するのに長けているのですよ。しかもホドゥレイル=スドラは、森辺の民の中でもひときわ明哲でありますからね。……彼に心情を隠すのは、きわめて困難であると思し召しください」
「それは、厄介な御仁だね。人の心を見透かすのは楽しいけれど、自分の心を見透かされるのは勘弁だ」
ナーニャはリヴェルの手を握りしめたまま、甘えるようにゼッドの胸もとに頭をこすりつけた。
ナーニャの熱を指先に感じながら、リヴェルは深い感慨を噛みしめている。出会って一刻も経たぬ内に、ナーニャの内面を看破できるような人間が現れたのだ。ナーニャはひどく困惑してしまっているようだが、それは絶対に幸福な出会いであるはずだった。
(それに王都の人たちは、ナーニャの事情をわかってくれていた……ナーニャがどれだけひどい運命を背負わされていたか、それを理解してくれている人たちがいたんだ)
そのように考えると、リヴェルは涙をこぼしてしまいそうだった。
もちろん王都の人間の全員が、ナーニャの存在を許しているわけではないのだろう。しかしそれでも、ナーニャの知らないところでナーニャのことを思いやっている人間が存在するのだと考えただけで、リヴェルは胸が詰まるほどの喜びを覚えることがかなったのだった。