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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第八章 再生の道
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Ⅲ-Ⅳ 邂逅

2020.4/18 更新分 1/1

「氷雪の……巨人……」


 クリスフィアは、呆然とした声でつぶやいた。

 それからすぐに、咽喉もとまでせりあがってきた恐怖心を力ずくでねじ伏せる。戦いの場で恐怖に縛られれば、そこに待つのは破滅のみであるはずだった。


「……あれがグワラムからの使者が語っていた、氷雪の巨人というやつなのだな。なるほど、ムフルの大熊とも比較にならぬような図体をしているようだ」


 その手の松明を痛いぐらい握りしめながら、クリスフィアはそのように言いたててみせた。

 その間も、氷雪の巨人は城下町の外壁を殴打している様子である。地鳴りのごとき鳴動が、町の中央にたたずむクリスフィアたちのもとまで届いてくるかのようだった。


「しかしあの図体が災いして、城壁を破壊しない限りはこちらに近づくこともできぬようだな。フゥライ殿よ、あれはどのようにして討ち倒せばよいのであろうか?」


「うむ……巨人であろうと、妖魅であることに変わりはない。その怪力と、口から吐くという氷雪の息吹に注意をしながら、炎で全身を焼き尽くすか、鋼の武器、もしくは投石器などで頭を打ち砕けば、退治することはできよう」


 クリスフィアと同じトトスにまたがったフゥライは、厳しく引き締まった声でそのように応じてきた。

「投石器か」と、クリスフィアは一考する。


「マルラン城の側でも火の罠は尽きているようであるし、あのように巨大な怪物の頭を鋼の剣で打ち砕くことは難しい。ならば、投石器の準備をする他なかろうな」


「マルラン城には、投石器が存在するのであろうか?」


「うむ。こちらではグワラムに攻め込む際の物資が保管されているという話であったのだ。王都で采配を振るっている我らの幼き賢者が、そのように語らっていた」


 クリスフィアは外壁の上に浮かび上がる巨人の青い眼光から目をもぎ離し、背後のマルラン城を振り返った。

 マルラン城を取り囲む城壁にはかがり火が灯されて、その間を武官たちが右往左往している姿が見て取れる。高みにいる彼らにも、城下町の外にまで迫った巨人の異形は視認できているはずであった。


 いっぽう城壁の外側で屍骸の妖魅を相手取っている王都の兵士たちは、新たな異変に気付いた様子もない。目の前の戦闘に心をとらわれて、それ以外のことに注意を向ける余裕もないのだろう。こちらは二千からの軍勢であったが、屍骸の妖魅どももほぼ同数であったのだ。


「こちらの城門は、閉ざされたままか。この上は、屍骸の妖魅どもを殲滅したのちに、投石器の準備を要請するしかなかろうな。この状態で、巨人のほうにまで手が回るとは思えん」


「そのように悠長なことは言っておられぬようだぞ、クリスフィアよ」


 と、ホドゥレイル=スドラが落ち着いた声で言った。

 落ち着いてはいるが、その裏側に緊迫の気配を漂わせた声音である。


「新たな妖魅が現れたようだ。屍骸の妖魅とともに、こちらも殲滅する必要があろう」


 クリスフィアは息を呑みながら、ホドゥレイル=スドラの視線を追った。

 ホドゥレイル=スドラは、城下町のほうをにらみ据えている。こちらの城壁とあちらの外壁の間に存在する、城下町の町並み――夜の闇に閉ざされつつあるその空間に、青い鬼火が無数に瞬いていた。


「なんだ、あれは……屍骸の妖魅が、まだ潜んでいたのか?」


「いや、屍骸の妖魅よりも邪悪な気配を感じる。また別口の妖魅であろうな」


 そのように答えながら、ホドゥレイル=スドラはおもむろに地面へと降り立った。手綱を託されたメルセウスは、このような際でも微笑をはらんだ面持ちで「おや」とつぶやく。


「どうしたんだい、ホドゥレイル=スドラ? 何故いきなりトトスから降りてしまったのかな?」


「あちらの妖魅は、人間よりも小さい――というか、獣のように身を伏せているのだ。トトスに乗ったままでは、頭を打ち砕くこともできん」


 じりじりと近づいてくる鬼火の群れと相対しながら、ホドゥレイル=スドラはそのように言いたてた。その茶色の瞳は、もはや炎のように燃えさかっている。


「近づく妖魅は、俺がすべて斬り払う。……しかし、主人の身を守る以外のことにまで手は回りそうにない。クリスフィアよ、どうにかあちらの兵士たちにも正しい指示を送ってもらいたい」


「……承知した。メルセウス殿よ、手綱さばきに自信はあるのか?」


「ええ。剣術はからきしですが、トトスの早駆けであれば勲章をいただいたこともありますよ」


 これだけの窮地に陥りながら、メルセウスはまだ優雅さを取りつくろうゆとりがあるようだった。

 それを心強く思いながら、クリスフィアは「よし」とうなずく。


「では、フゥライ殿もあちらのトトスに移ってもらいたい。わたしもいずれはトトスを降りて、あちらの妖魅を相手取ることになろうからな」


「うむ。……つくづく難儀な夜だの」


 フゥライもまた、飄然と微笑んでいる。ただ退魔の護符に守られているというだけでなく、ダームでの体験が糧となっているのであろう。普通であれば、このような状況で笑っていられるはずもなかった。


 そうしてフゥライの身をメルセウスに預けたクリスフィアは、死闘を繰り広げている兵士たちのほうに近づいていく。

 少し目を離している間に、屍骸の妖魅はだいぶん数を減じた様子であった。やはり動きが鈍いために、トトスにまたがった兵士たちの前ではあらがうすべもないのだろう。


 ただし、兵士たちのほうも無傷というわけではない。あちらこちらに兵士やトトスの遺骸も転がされており、その中には頭を打ち砕かれているものも多かった。おそらくは魂を返したのちに、その者たちも妖魅と変じてしまったのだろう。


(こちらの軍勢だけでは、手が足りん。どうあっても、マルランの騎士団にも出陣してもらう他ない)


 クリスフィアは松明を打ち捨てて、再び長剣を抜き放った。

 もはや周囲は、乱戦の様相である。仲間の刀に傷つけられぬように手綱をさばき、時には眼前の妖魅を斬り伏せて、クリスフィアはマルラン城の城門へと駆けつけた。


「我々は、王都の第一防衛兵団である! マルランよりの要請によって、援軍として駆けつけた身だ! マルランを見舞った脅威を退けるために、騎士団の力をお借りしたい!」


 ぴったりと閉ざされた城門に向かって、クリスフィアは言葉を叩きつけてみせた。


「我々は、二個大隊に過ぎぬのだ! この数で、妖魅のすべてを退けるのは難しい! よってこれより、挟撃の陣を敷きたく思う! 我々は城下町の側に後退をするので、妖魅どもが追ってきたならば、その後背を攻め込むのだ!」


 返事をする者はいない。

 しかしクリスフィアは、かまわず声を振り絞った。


「ただし、そちらが力を惜しむようであれば、妖魅を殲滅することは難しかろう! よって、そちらの騎士団が挟撃の陣に加わらぬようであれば、我々はそのまま城下町を突破して、王都に引き返す! 後の始末は、自分たちでつけるがいい! わたしに言えるのは、以上だ!」


 クリスフィアは左右から忍び寄ってきた妖魅どもを斬り伏せて、城門のそばから離脱した。

 それからすぐに、五体の騎兵がクリスフィアのもとに駆け寄ってくる。その内の一名は、この軍勢の指揮官である千獅子長であった。


「ク、クリスフィア姫、今の言葉はどういうことであるのだ? マルランを見捨てて逃げることなど、決して許されぬぞ?」


「おお、ちょうどあなたを捜そうと思っていたところだ。全軍に後退を命じていただきたい。……城下町の方角より、新手の妖魅が迫っているのだ」


「あ、新手の妖魅?」


「うむ。そちらはトトスから降りて相手取る必要がある。どうあっても、マルラン騎士団の助力が必要であるのだ。我々は城下町まで後退し、半数は屍骸の妖魅を相手取り、残る半数で新手の妖魅を相手取るべきであろうな。マルラン騎士団が腰を上げれば屍骸の妖魅は一掃できるであろうから、そののちに総勢で新たな妖魅を殲滅するのだ」


 そしてさらにその後には、氷雪の巨人まで控えている。しかし、そこまで伝えている猶予はなかった。


「さあ、うかうかしていると、こちらこそが挟撃されてしまうぞ! 全軍後退の命令を下すのだ!」


 言いざまに、クリスフィアはトトスを駆けさせた。

 しばらくの静寂ののち、野太い音色が闇に響きわたる。伝令係が、角笛を吹き鳴らしたのであろう。クリスフィアが後方を見やると、王都の兵士たちが一斉に後退を始めていた。


(さあ、騎士団の誇りを見せてみろ。さもなければ……本当に故郷を失うこととなろう)


 そんなことを考えている間に、ホドゥレイル=スドラたちの背中が見えてきた。

 青い鬼火のごとき眼光を有する妖魅たちは、すでにその鼻先にまで迫っている。ホドゥレイル=スドラが言っていた通り、それは地を這うようにして前進していた。


「なんとか間に合ったな、ホドゥレイル=スドラよ」


 クリスフィアは地面に飛び降りて、トトスの尻をぽんと叩いた。トトスはとぼけた面持ちのまま、暗い路地裏に駆け去っていく。

 ホドゥレイル=スドラは、メルセウスとフゥライの乗ったトトスを守るように立ちはだかっていた。クリスフィアは、剣を振るうのに必要なだけの距離を取って、その横合いに立ち並ぶ。


 そのとき、背後から凄まじい鬨の声が聞こえてきた。

 マルラン城の城門が開かれて、ようやく騎士団を出撃させたのだ。

 その頃にはこちらの軍勢の先頭集団も追いついていたので、クリスフィアはそちらに呼びかけてみせた。


「新手の妖魅は、もう目の前だ! こちらの戦いに加わる者は、トトスを降りて応戦せよ!」


 いったいどこまで事情は伝わっているのか。兵士たちは固く強張った顔の中で目だけを爛々と光らせながら、トトスを降りた。戦闘に没入することで、恐怖や困惑の感情を押し殺している様子である。


 その間も氷雪の巨人は外壁を殴打しており、その音色が大気を揺るがしていたが、そちらを仰ぎ見ようとする者も多くはない。それよりも、目前の妖魅はもう石を投げれば届くぐらいの距離にまで迫っていたのだった。


「……襲いかかられる前に、敵の正体を見極めておきたいところだな」


 クリスフィアは、手近な兵士から受け取った松明を、妖魅の群れに目掛けて放り投げてみせた。

 妖魅たちは金属をこすりあわせるような咆哮とともに、松明の火から逃げまどう。ぽとりと地面に落ちた松明の火に照らし出されたのは――棒切れのように細長い胴体に四本の足を生やした、気味の悪い怪物であった。その顔には青い隻眼が、口には氷の牙が、足先には氷の爪が生えのびている様子である。


「ふん。いかにも妖魅らしい、おぞましき姿だな」


「あれは、氷獣だ。口から氷雪の息を吐き、爪と牙で人間を害する。頭を砕けば、塵に返ろう」


 トトスの上から、フゥライがそのように告げてくれた。

 クリスフィアは「よし」と長剣を握りなおす。


「あの妖魅も、弱点は頭だ! 屍骸の妖魅よりは素早かろうから、くれぐれも油断するのではないぞ!」


 背後では、すでに屍骸の妖魅との戦いが再開されている。それらの喧噪に負けぬように、クリスフィアは声を張り上げた。


 その瞬間――先頭を進んでいた氷獣が、地面を蹴ってクリスフィアに飛びかかってくる。

 クリスフィアは長剣を一閃させて、その頭部を割り砕いてみせた。

 氷獣はあっけなく四散して、そのまま黒い塵と化していく。


「見たか! 西方神に守られた我々に、妖魅などを恐れる理由はない! すべての妖魅を斬り伏せて、王都の剣士の誇りを示すのだ!」


 さらなる氷獣が、次々と襲いかかってきた。

 兵士たちは、怯むことなくそれを迎え撃つ。先に屍骸の妖魅を相手取ったことで、十分に肚も据わったようだった。


(やはり相手が妖魅であれば、むやみに恐れる必要はないのだ。我々には、四大王国の叡智たる鋼の剣があるのだからな)


 そのように念じながら、クリスフィアも氷獣を斬り伏せていく。

 そのかたわらでは、ホドゥレイル=スドラも森辺の狩人としての力量をぞんぶんに発揮していた。

 森辺の狩人は、人間離れした身体能力を有している。なおかつホドゥレイル=スドラは、西の民には珍しいぐらいの長身であった。その長身から繰り出される斬撃は、どこか月の光のように冴えざえとしながらも、暴風雨のように氷獣どもを蹴散らしていた。


「こやつらは、脆いぞ! 何も憶する必要はない! 滅して、闇に返すのだ!」


 ついには、名も知れぬ武官までもが、そのようにがなりたてていた。生命を懸けた戦いに、酩酊を始めたのであろう。

 氷獣は、屍骸にたかる蟻や蛆虫のように際限なく湧いて出てきたが、それでも怯む者はいなかった。その手の松明は地面に打ち捨てて、千名からの兵士たちがこの戦いに身を投じているのだ。仲間が氷の牙に倒れても、すかさず長剣を振り下ろし、一瞬で仇討ちを果たしてしまう。心中に潜む恐怖が大きければ大きいほど、彼らはいっそう荒ぶるのかもしれなかった。


(しかし、問題はこの後だ)


 クリスフィアがそのように考えたとき、重々しい音色が闇を粉砕した。

 ちょうど氷獣たちの勢いが衰えたところであったので、多くの兵士たちが愕然と立ちすくむ。それは――ついに外壁が崩落した音色であった。


「く、来るぞ……!」


 誰かが、ひび割れた声を発している。

 闇の中にぽかりと浮き上がっていた双眸が、地響きをたててこちらに近づいてきていた。

 距離があるので、まだどのような姿をしているのかはわからない。

 しかしその角張った頭は、二階建ての家屋よりも高い位置にそびえていた。


 無人の街路を踏みしめて、小山のような黒影が地響きをたてて前進してくる。

 それは、極限まで張り詰めていた兵士たちの心を揺るがすのに相応しい、おぞましき姿であった。


「……投石器の準備をせよ! あの巨人めは、それで退けられるはずだ!」


 クリスフィアは、そのように声を振り絞ってみせた。

 しかし背後では、まだ屍骸の妖魅を相手取った死闘が繰り広げられているさなかである。マルラン騎士団がどれだけの部隊を放出したかは不明であったが、そちらには怒号のような鬨の声が飛び交っており、クリスフィアの言葉が伝わった様子もなかった。


「これは、伝令が必要だな。おい、トトスを呼び戻して、マルラン城に危急を伝えるのだ。投石器で氷雪の巨人を迎え撃て、とな」


 兵士のひとりが青ざめた顔でうなずき、横合いの路地に駆け出していく。

 それを横目に、ホドゥレイル=スドラが低くつぶやいた。


「投石器とやらの準備が整う前に、俺たちが踏み潰されてしまいそうだな。……クリスフィアよ、俺の主人を守ってもらえるだろうか?」


「うむ? ホドゥレイル=スドラは、どうしようというのだ?」


「手近な家屋の屋根にのぼって、あやつの頭上に斬りかかる。頭を砕けば、滅することがかなうのであろう?」


 さすがのクリスフィアも、その言葉には呆れることになった。


「あ、あんな巨人の頭を長剣で割り砕こうというのか? まあ、ホドゥレイル=スドラであれば可能なのかもしれないが……」


「どうか、頼む。俺は何としてでも、主人を無事な姿でジェノスに連れて帰らなければならないのだ」


 ホドゥレイル=スドラが、クリスフィアに向きなおってくる。

 その瞳は火のように燃えあがっていたが、その面長の顔には哲人めいた沈着さがたたえられたままであった。


「……承知した。この身にかえても、メルセウス殿は守ってみせよう」


「ありがたい。このような異郷でクリスフィアのように信義のある人間と友になれたことを、嬉しく思っている」


 ホドゥレイル=スドラは、ふいに口もとをほころばせた。

 そうすると、とたんに屈託のない表情となる。クリスフィアがホドゥレイル=スドラの笑顔を目にしたのは、おそらくこれが初めてのことであった。


「では、行ってくる。きちんとクリスフィアの言うことを聞くのだぞ、我が主人よ」


 ホドゥレイル=スドラは、さきほどの兵士とは逆の側に駆け去った。

 その間にまた氷獣どもが押し寄せてきたので、クリスフィアたちは応戦を開始する。しばらくの休息の間に、氷獣どもはまた同じだけの数が湧いて出たように感じられた。


 兵士たちは、迫る来る巨人への恐怖から逃げるように、長剣を振りかざす。

 本当に逃げ出したりする人間がいなかったのは、僥倖であった。もしもひとりでもそのような人間がいたならば、緊張の糸がぷっつりと切れて、総崩れになっていたことだろう。


 そうして、クリスフィアたちが死闘を繰り広げているさなか――いよいよ氷雪の巨人の異形があらわにされた。

 頭が大きく、腕が長く、ほとんど拳をひきずるようにして歩を進めている。その巨体はすべてが白い氷雪で構築されており、ただ双眸だけがぎらぎらと青く燃えさかっていた。


 クリスフィアの背後から、幾多の悲鳴が響きわたる。こちらに背を向けて屍骸の妖魅を相手取っていた兵士たちも、巨人の接近に気づいたのだろう。どこの誰が放ったものか、火もつけていない矢が闇の中に弧を描き、巨人の四角い頭に弾かれて、街路に落ちた。


(これは……銀獅子宮の隠し通路に潜んでいた、大蛇の妖魅にも劣らない妖魅であるようだな)


 クリスフィアは恐怖に屈してしまわないように、ぎりぎりと奥歯を噛み鳴らした。


(しかしジェイ=シンは、あの大蛇の妖魅をも一刀のもとに斬り伏せていたのだ。同じ森辺の狩人たるホドゥレイル=スドラであれば――)


 クリスフィアがそのように念じたとき、天空に人影が浮かびあがった。

 氷雪の巨人の背丈よりも、遥かに高い位置――四階建ての建造物の屋根の上から、ホドゥレイル=スドラが身を投じたのだ。


 天空に浮かんだ月を背景に、ホドゥレイル=スドラが氷雪の巨人に斬りかかる。

 それはまるで、神話の一幕であるかのような光景であった。


 巨人は青い双眸を妖しく光らせながら、頭上を仰ぎ見る。

 その顔面の下部に、洞穴のごとき口が開かれた。

 巨人の巨体が、青白い燐光に包まれる。巨人が何らかの攻撃を発動させようとしていることは明らかであった。


 しかし、それよりも早く――ホドゥレイル=スドラが、巨人の頭部にまで到達していた。

 闇に煌めく白刃が、巨人の眉間に振り下ろされる。


 その瞬間、青白い閃光が爆発した。

 同時に、雪山の吹きおろしめいた突風が、クリスフィアたちの頭上を駆け巡っていく。

 巨人のあげる断末魔が、世界そのものを震撼させた。


 そして――閃光が消失したのち、巨人の巨体もまたこの世から消え去っていた。

 兵士たちが、驚愕と歓喜の声を炸裂させる。


 その声が、途中で凍りついた。

 クリスフィアも、愕然と立ちすくむことになった。

 巨人が消えたことにより、その巨体に隠されていた恐るべき光景があらわにされたのだ。


 新たな巨人が、こちらに近づいてきていた。

 巨人は、一体ではなかったのだ。

 巨人は街路をふさぐほどの巨体であったため、その真後ろに潜んでいた同じ存在を完全に覆い隠していたのだった。


「……クリスフィアよ、見ての通りだ。そしてあの巨人の背後には、もう一体の巨人が潜んでいる」


 クリスフィアは、びくりと横合いを振り返った。いつの間にか、ホドゥレイル=スドラがこちらに戻ってきていたのだ。

 ホドゥレイル=スドラの手にある長剣は、真ん中のあたりでぽきりと折れてしまっている。ホドゥレイル=スドラはそれを放り捨てると、地面に倒れていた兵士の手から長剣をもぎ取った。


「こうなれば、もうひとたび屋根にのぼるしかない。しかし、次の一体を仕留めている間に、最後の一体はこの場所を通過してしまうだろうな」


 そうしたら、あとはマルラン城の城壁まで、高い建造物は存在しない。

 ホドゥレイル=スドラの瞳には、さきほどまでよりも熾烈な眼光が灯されていた。


「とにかくあと一体は、この場で迎え撃つ。あとは投石器とやらの準備ができれば――」


「いや、待て! 何か様子がおかしいぞ!」


 こちらに迫っている巨人の巨体が、青白く輝き始めていた。

 ぴしぴしと氷雪の欠片を撒き散らしながら、その口があんぐりと開けられていく。さきほどの巨人と同じ挙動である。


「いかん! 氷雪の息を吐くぞ! 身を伏せるのだ!」


 そのように叫びながら、フゥライはメルセウスを背後から抱きすくめて、地面に飛び降りてきた。

 ホドゥレイル=スドラがふたりの身体を抱き止めて、身を伏せる。クリスフィアもそれにならいながら、声を張り上げた。


「総員、身を伏せよ!」


 いったい何名の兵士たちがその命令に従えたのか、クリスフィアには見届けることができなかった。クリスフィアが声をあげるのと同時に、凄まじい烈風が全身に叩きつけられてきたのだ。


 骨の髄まで凍るような、それは氷雪の嵐であった。

 視界は一瞬で白銀に染まり、目を開けていることもかなわない。そのような真似をしていたら、眼球までもが凍てついてしまいそうだった。


(こんな……馬鹿な……)


 クリスフィアは、そのまま地面にくずおれることになった。

 手足に、力が入らない。氷雪の嵐が消え去っても、クリスフィアの肉体は凍てついたままであり、痺れるような痛みに五体を縛られていた。


(わたしは……ここまでなのか……?)


 痛むまぶたを無理やり持ち上げると、遥かなる天空に巨人の双眸が瞬いていた。

 そして、街路を揺さぶる地響きが、巨人の接近を伝えてくる。このままでは虫けらのように踏みにじられてしまうのであろうが、クリスフィアには指一本動かすことはかなわなかった。


(すまない、フラウ……お前だけは、どうか無事にアブーフまで戻ってくれ……)


 その瞬間である。

 クリスフィアの視界が、真紅に染まった。


(なに……?)


 氷雪の巨人が、真紅に燃えあがっていた。

 長い両腕を振り回し、苦悶の絶叫をあげている。その巨体は見る見る間に溶け崩れて、幻影のようにこの世から消え去った。


「ふう……巨人は二体だけだったか。三体ぐらいはいたような感じがしていたんだけどな」


 と――銀の鈴を転がすような声音が、クリスフィアの耳に忍び込んできた。

 真紅に染まっていたクリスフィアの視界に、白い人影が割り込んでくる。巨人を焼き尽くした紅蓮の炎を背景にして、何者かがクリスフィアに近づいてきたのだ。


 それは、男とも女ともつかない、魔性のように美しい人間であった。

 白銀の髪は背中にまで流れ落ちており、その肌も作りもののように白い。それこそ、氷雪でこしらえた美神の彫像であるかのようである。


 ただし、瞳と唇だけが血のように赤い。

 そしてその瞳は、背後の炎と呼応するかのように、妖しくゆらめいていた。


「あとは氷獣と、屍鬼だけだね。油の樽は、もう必要ないだろう。松明で援護をお願いするよ」


 誰かに向かってそのように告げてから、その妖しき存在はふっとクリスフィアを見下ろしてきた。

 赤い唇が、性悪な精霊のように微笑をたたえる。


「こんな間近から氷雪の息吹をくらって生き永らえているなんて、大した生命力だね。だけど、君たちの手当てをするのは、すべての妖魅を片付けてからだ」


 クリスフィアは、夢でも見ているかのような心地であった。

 それぐらい、その存在はこの世にありうべからざる美しさを有していたのだ。


 そうしてクリスフィアは、ついに悲運の第四王子カノンとの邂逅を果たしたのだった。

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[一言] 持ってる剣は折れても、ホドゥレイル=スドラは折れない!
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