Ⅱ-Ⅳ 災厄の幕開け
2020.4/11 更新分 1/1
五大公爵領のマルランに妖魅が出現したという急報が届けられた日の、夜――白牛宮の執務室の寝所で安らかな眠りをむさぼっていたレイフォンは、時ならぬ騒乱によって叩き起こされることになった。
「レイフォン様、目をお覚ましください。緊急事態です」
寝台に横たわっていたレイフォンの肩が、がくがくと揺さぶられる。レイフォンが不平のうなり声をあげつつまぶたを開くと、ティムトの緊迫しきった顔が目の前にまで迫っていた。
「やあ、ティムト……こんな夜中まで、ご苦労様……」
「ねぎらいの言葉など不要ですので、目をお覚ましください。王都に、氷雪の巨人が出現したのです」
「ひょうせつのきょじん……」と繰り返してから、レイフォンはがばりと身を起こすことになった。
「ひょ、氷雪の巨人だって? つまり、噂のメフィラ=ネロとやらが、ついに王都にまで踏み込んできたということかい?」
「詳細は不明です。謁見の間に城下町からの伝令役が控えているとのことですので、急ぎましょう」
ティムトの声は普段通りの沈着さを保持していたが、その色の淡い瞳には真剣きわまりない光が宿されている。どうやら、たちの悪い冗談でレイフォンをからかっているわけではないようだった。
「うん、了解したよ。まずは着替えを……という猶予などは残されていないのだろうね」
「ご理解いただけているのなら、どうぞお急ぎください」
「わかったよ。でも、さすがに夜着で宮殿内をうろつくことはできないだろう?」
レイフォンは寝台から床に降り立つと、壁に掛けられていた外套を羽織ることにした。これでも不調法なことに変わりはないが、せめてもの気休めである。
「さあ、準備はできたよ。……ティムトはひと足早く目覚めたために、着替える猶予も残されていた、ということかな?」
「いえ。僕は最初からこの格好で身を休めていただけのことです」
ティムトは普段通りの、従者のお仕着せを纏っていたのだ。そのほっそりとした指先が、レイフォンの手首をつかんで引っ張ってきた。
「さあ、早く。王陛下も、謁見の間でお待ちのはずです」
そうして執務室を出ると、回廊には案内役の兵士が待ち受けていた。燭台に照らされるその顔にも、緊張の色が濃い。
「どうぞ、こちらに。黒羊宮までご案内いたします」
白牛宮は文官のための宮殿であるためか、このような際でもしんと静まりかえっている様子であった。
しかし、いったん屋外に出て黒羊宮まで踏み込むと、戦時のような騒がしさである。壁の燭台や灯篭には残らず火が灯されて、おもに武官と思しき人間たちが慌ただしく回廊を行き交っていた。
「王都に氷雪の巨人が現れたということは……マルランはあえなく突破されてしまった、ということなのかな?」
ほとんど駆け足で回廊を進みながらレイフォンがそのように尋ねると、ティムトは「どうでしょう」と鋭く言いたてた。
「マルランとは伝書鴉でやりとりするすべもありませんので、実情はわかりません。……ただし、マルラン以外の公爵領が突破されたと考えるほうが自然であるように思います」
「ふうん? どうしてそう思うのか、聞かせてもらってもいいかな?」
「……氷雪の巨人は南方から出現し、城下町を囲う城壁を襲撃しているのです。ならば、北方のマルランではなく南方の領地を突破されたと考えるほうが自然でしょう」
さしものレイフォンも、言葉を失うことになった。
王都の南方に位置する五大公爵領とは、すなわちレイフォンの故郷たるヴェヘイムであったのだ。
「うん、そうか……ティムトは最初から、マルランへの襲撃は陽動なのではないかと疑っていたものね。その間に、反対方向のヴェヘイムが襲撃されてしまったというわけか」
「……公爵家の皆様がご無事であることを、西方神に祈りましょう」
「大丈夫だよ。父上たちも、むざむざと魂を返すようなお人らではないからね」
レイフォンは明るく笑うことで、胸中にわきあがってくる不安感を呑み下してみせた。
そこでようやく、謁見の間に到着する。兵士が扉を開くと、そちらにも昼間のように明かりが灯されていた。
「おお、来たのだな、レイフォンよ! さあ、其方もこちらに控えるのだ!」
玉座では、新王ベイギルスが肥え太った身体を震わせていた。護衛役たるジェイ=シンは、そのかたわらで爛々と青い瞳を燃やしている。そして玉座の正面には近衛兵たちがずらりと整列しており、それに左右をはさまれる格好で、赤い腕章をつけた伝令の兵士が膝をついていた。
玉座の手前の壇にまで歩を進めたレイフォンは、ティムトとともに伝令の兵士を見下ろす。その兵士こそ、死人のような顔色になってしまっていた。
「さ、さあ、伝令の内容を繰り返してみよ! 一句もらさず、レイフォンにも伝えるのだ!」
「かしこまりました。……ただいまより四半刻の前、城下町が氷雪の巨人に襲撃されました。現在、城壁に群がった巨人どもを火の罠にて迎撃しておりますが……撃退までには至っておりません」
「巨人ども、ということは、複数存在するのだね。氷雪の巨人というのはどういった存在で、何体ほど存在するのかな?」
「は……あれは文字通り、氷雪の塊が生命を得たかのような存在であり……身の丈は城壁の八分目ほど、口から凍てついた息を吐き、両の拳で城壁を殴打しております。その数は……報告によると、五体ほどであるようです」
「ふむ。火の罠でも、撃退することは難しいのかな?」
「はい……火をつけた油の樽をぶつけると、やや怯んだ様子を見せるようですが……それで撃退するには及ばないようです」
そこで兵士は、恐怖の念を打ち払うように強く首を振った。
「また、巨人どもは凄まじい怪力を有しておるようで……城壁は、激しい地震いにでも見舞われたかのように揺れ動いております。このまま放置しておけば、城壁を破壊される恐れもあるのではないかと……」
「そ、そのような怪物を王宮に近づけるわけにはいかん! なんとしてでも、第一の城壁で食い止めるのだ!」
そんな風に言ってから、ベイギルスはジェイ=シンの左腕を抱え込んだ。
「た、ただし、このジェイ=シンを連れ出すことはまかりならんぞ! 王都に残された全兵団員を投入してもかまわんので、それで妖魅めを迎撃するのだ!」
レイフォンは溜め息を噛み殺しつつ、ティムトの耳もとに口を寄せた。
「事ここに至っては、体裁を取り繕ういとまもないだろう。君の口から適切な指示をお願いするよ、ティムト」
さしものティムトも否やとは言わず、身体を横向きにして新王と兵士の姿を見比べた。
「城下町の兵舎には、火の罠の予備が準備されています。第一防衛兵団の二個大隊を増援として送るとともに、そちらの物資を城壁まで運ばせましょう。なおかつ、第一の城壁を突破される可能性も考慮して、城下町の街路に投石器を設置するお許しをいただきたく思います」
「な、なんでもかまわん! とにかく、妖魅を退けるのだ!」
ティムトは鋭く、兵士を見据えた。
「城下町の混乱具合は如何なものでしょう? この騒ぎはすでに伝えられているのですよね?」
「は、はい。それこそ城壁に投石器の攻撃でもくらっているかのような有り様でありますため……安穏と眠っていられるのは、南側の城壁からほど遠い区域の者たちのみでありましょう」
「では、伝令の兵士を走らせて、領民たちは家の中に避難するようにと周知をお願いいたします。増援の出撃は、その後に」
兵士はうなずき、謁見の間を飛び出していった。
その背中を見送りながら、ジェイ=シンが「おい」と声をあげる。
「ついに妖魅が現れたのだ。今こそ、俺の出番なのではないのか?」
「いえ。あなたは我々にとって、最後の切り札ともいうべき存在です。今は王陛下と宮殿の守りを一番にお考えください」
そんな風に答えてから、ティムトはきつく眉根を寄せた。
「ところで、ご伴侶は現在、どこにおられるのでしょうか?」
「リミア・ファは、金狼宮だ。ギムたちの面倒を見るように言いつけたのは、お前たちなのであろうが?」
「では、あちらの寝所で休まれているのでしょうか?」
「当たり前だ。夜の間も、俺はこちらの寝所のそばで控えていなくてはならないのだからな」
ティムトは舌打ちでもこらえているような面持ちで言葉を重ねた。
「この夜こそは、ご伴侶をお手もとに置いておかれるべきでしょう。すぐにこちらまでお呼びしますので、夜が明けるまではともにお過ごしください」
「なに? あいつと一緒に王を守れとでも抜かすつもりか?」
「その通りです。王陛下におきましては、ご異存がありますでしょうか?」
「伴侶でも何でも好きにするがいい! とにかくジェイ=シンは、我を守るのだ!」
「では、どうかこの場でお待ちください」
言うが早いか、ティムトは壇の下に降り立った。
レイフォンも、慌ててその後を追いかける。
「おいおい、ティムト。私たちが、自ら伝令の役目を果たすのかい?」
「王のもとには、守りが必要です。この場でもっとも手が空いているのは、武力を持たない僕たちでしょう」
それでもここまで案内をしてくれた武官は、レイフォンたちの後を追いかけてきてくれた。その武官と一緒に回廊まで逆戻りをしながら、レイフォンは首を傾げる。
「それにしても、リミア・ファ=シンをジェイ=シンのそばに控えさせるというのは、どうなのだろう。彼女の身に危険が及んだりはしないのかな?」
「それを守るのは、ジェイ=シン殿のお役目です。僕たちに、選択の余地はありません」
回廊を駆けながら、ティムトはじろりとレイフォンをにらみつけてくる。
「本当にメフィラ=ネロがこの王都にまでやってきたのなら、ジェイ=シン殿は筆舌に尽くし難いほどの過酷な戦いを強いられることとなります。相手は邪神よりも遥かに強大な力を持つ、《神の器》なのですよ? たとえ退魔の聖剣を手にしていようとも、勝てるかどうかは不明です。ならば、聖剣の鞘たるご伴侶には、常におそばにいてもらうべきでしょう」
「ううん、それはそうなのかもしれないけれど……」
「何度でも言いますが、選択の余地はありません。王国の存亡がこの夜にかかっているということを、どうかご自覚ください」
そんな言葉を交わしている間に、金狼宮へと到着した。
守衛に事情を説明して、また回廊へと足を踏み込む。さすがにこちらは武官のための宮殿であるので、黒羊宮に劣らぬ騒がしさであった。
「目的の部屋は、どちらでありましょうか?」
と、案内役の武官が振り返ってくる。ディラーム老の配下はすべて王都を出立してしまったため、彼は後任を託された第二防衛兵団の所属であったのだ。
説明をするのも面倒であったので、今度はレイフォンたちが先に立って、回廊を進む。ギムやデンたちは、今でもディラーム老のための執務室の寝所に籠っているはずであった。
行き来する武官たちの間をすり抜けて、宮殿の二階へと駆けあがり、さらに回廊を奥へと進む。そうして、最後の曲がり角を曲がったとき――レイフォンたちは、愕然と立ちすくむことになった。
回廊に、武官たちが累々と横たわっている。
そして、左手の壁に設えられた窓の鎧戸が、無残に破壊されていた。
「こ、これはいったい……?」
案内役の武官が、手近な武官のもとにひざまずく。
その肩ごしに、レイフォンも倒れた武官の姿を覗き込んでみると――その顔は青白く変色し、口の端からは紫色の舌が垂れていた。
「た、魂を返しております……しかも、これは……まるでマヒュドラの雪山かどこかで息絶えたかのような……」
そう、それらの武官はいずれも凍死していたのだった。
光を失った目の周囲や、弛緩した口もとなどには、白い氷雪が浮かんでいる。まるで、全身の水分が一瞬で凍てついたかのようである。
その無惨な死にざまを見届けたティムトは、きつく歯を食いしばりながらレイフォンの手首をつかんできた。
「急ぎましょう。もしも、あのリミア・ファ=シンという御方にもしものことがあったのなら……王都は、滅ぶかもしれません」
レイフォンは、ティムトとともに回廊を駆けだした。我を失っていた武官も、おっとり刀で追従してくる。
床で倒れている武官の数は、五名ほどであった。その何名かは、長剣を握りしめている。窓から侵入した妖魅と戦い、そして敗れることになったのだろう。
目的の扉の前にも、二名の武官たちが倒れ伏している。
そして、扉は大きく開かれていた。
(くそ、なんてことだ!)
レイフォンは、扉の前で倒れていた武官の手から、長剣をもぎ取った。レイフォンが得意とするのは徒手の格闘術であり、剣技のほうはからきしであるのだが、妖魅を退けるには鋼の武器を頼る他なかった。
レイフォンの姿を見て、武官も今さらのように抜刀する。いっぽうティムトは、壁に掛けられていた灯篭を手に取った。炎もまた、魔を退ける効能を有しているのだ。
そうして、そろそろと執務の間に踏む込むと――そこには、誰の影もなかった。
ただし、寝所に通ずる扉も、大きく開かれてしまっている。レイフォンはほとんど絶望的な心地で、そちらに駆け寄ろうとした。
その瞬間である。
何か青白い不気味な影が、寝所の中から飛び出してきた。
レイフォンは「うわあ!」とわめきながら、長剣を振りかざす。
凄まじい衝撃が手の平に走り抜け、長剣はどこかに飛んでいってしまった。
「よ……妖魅だ!」と、武官が悲鳴まじりの声をあげる。
まさしくそれは、妖魅であった。
四本の足で獣のように立ちはだかっているが、まともな獣ではありえない。その細長い身体は青白い燐光のように照り輝いており、口や足の先には氷の牙と爪を生やし、そして、顔の真ん中には鬼火のような隻眼を燃やしていた。
「氷獣です。鋼の剣で頭を潰すか、もしくは炎で焼き清めれば、退治することはかないます」
ティムトが低くつぶやくと、武官は恐怖に青ざめながら長剣の柄を握りなおした。
そのとき――寝所の向こうから、新たな影が飛び出してきた。
「こらー! あなたの相手は、わたしでしょ! 他の人に悪さをするのはやめなさい!」
レイフォンは、再び言葉を失ってしまった。
それは鋼の長剣を振りかざした、夜着姿のリミア・ファ=シンであったのだ。
氷獣は氷雪でできた肉体を軋ませながら、リミア・ファ=シンを振り返る。
それと相対するリミア・ファ=シンは、黒い瞳を炯々と輝かせていた。
レイフォンよりも頭ひとつぶんぐらいは小柄であるのに、鋼の長剣を軽々とかまえている。しかもその立ち姿は、どう見ても剣術の心得がある人間のそれであった。
「あなたは、よくない存在です。あなたにもあなたなりの言い分があるのかもしれませんけれど、多くの人たちを殺めたあなたを放っておくわけにはいきません」
リミア・ファ=シンは、落ち着き払った声でそのように言いたてた。
ちょっと幼げで愛くるしいその顔には、歴戦と剣士とまごうばかりの気合がたたえられている。
「さあ、来なさい。もうわたしの前では、誰も殺めさせませんよ」
氷獣は金属的な咆哮をほとばしらせて、リミア・ファ=シンに襲いかかった。
リミア・ファ=シンはひゅっと呼気を鳴らして、長剣を一閃させる。
白銀のきらめきが、中空で氷獣の頭部を打ち砕いた。
それと同時に、氷獣の肉体も木っ端微塵に弾け散り、そして黒い塵と化していく。
長剣を下ろしたリミア・ファ=シンは「ふう」と息をついてから、レイフォンたちに向きなおってきた。
「あ、誰かと思えば、レイフォンさまとティムトじゃないですか! もしかしたら、加勢に来てくださったのですか?」
「いや、加勢というか……き、君は剣術を修めていたのかい?」
「はい。ほんの手習いですけれど」
そんな風に言いながら、リミア・ファ=シンはにこりと微笑んだ。
「でも、自分の身を守れるぐらいの修練は積んできたつもりです。……みなさーん、もう大丈夫ですよー!」
すると、寝所の向こうからわらわらと人影が出現した。同じ場所で身を休めていた、ギムとデンとフラウである。
「ああ、リミア・ファ=シン……本当にありがとうございました!」
フラウが背後から、リミア・ファ=シンの小さな身体を抱きすくめる。リミア・ファ=シンはくすぐったそうに笑いながら、その手の長剣をフラウから遠ざけた。
「ほらほら、刃が当たったら危ないですよ! ……ご覧の通り、わたしたちは無事です」
「はい。あの恐ろしい妖魅が何頭もやってきて、守衛の方々はみんな魂を返してしまったのですが……リミア・ファ=シンが、わたくしたちを守ってくださいました」
見ると、寝所の扉の向こうにも、倒れ伏している武官の足が見えた。その長剣を手にしたリミア・ファ=シンが、その恐るべき剣技を披露する事態に至ったのであろう。
「何はともあれ、無事であったのは何よりだ。とにかく、黒羊宮に向かおう。我々は、君たちを迎えに来たのだよ」
「そうですか。でも、そう簡単には行かないかもしれません」
と――無邪気に微笑んでいたリミア・ファ=シンの黒瞳が、再び黒い炎を宿した。
「フラウ、どうかお離れください。ギムとデンも、どうぞあちらに……何か、嫌な気配がします」
フラウたちを壁際に追いやると、リミア・ファ=シンは寝所のほうに視線を飛ばした。
同じ方向に目をやったレイフォンは、愕然と立ちすくむ。寝所に倒れ伏していた武官が、のろのろと不自然な動き方で身を起こしたのだ。
「レ、レイフォン様! こちらにも――!」
と、武官が恐怖に震える声をあげる。
回廊に通ずる扉の向こうからも、奇怪な存在が顔を覗かせていた。
青い顔で、霜の浮かんだ舌を垂らした、武官の屍骸である。その双眸は、さきほどの氷獣と同じく鬼火のような青い光を灯していた。
「どうやらこちらの方々は、人間ならぬ身に変じてしまったようですね。……なんて悲しいことでしょう」
低い声でつぶやきながら、リミア・ファ=シンは長剣をかまえなおした。
「このような所業は、決して許されません。母なる森と父なる西方神の名のもとに、あなたがたを断罪させていただきます」
そうしてリミア・ファ=シンは、寝所から這い出してきた屍骸の妖魅へと斬りかかった。
これが、王都を襲った災厄の幕開けであったのだった。