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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第一章 災厄の赤き月
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Ⅳ-Ⅴ 決行の夜

2017.1/3 更新分 1/1

 闇に閉ざされた街路を、ダリアスは慎重に歩み進んでいた。

 夜の城下町の、裏通りである。すでに誰もが眠りに落ちているはずの刻限であるので、町は静まりかえっており、どこにも松明や燭台の火は見られない。そんな深い闇の中を、ダリアスは月明かりだけを頼りに進んでいるのだった。


 腰にはギムから預かった長剣を下げ、懐には自前の短剣を隠し持っている。そうして身に纏っているのは、ギムから買い与えられた町人の服と革の外套だ。

 それで頭巾もかぶっているので、衛兵にさえ出くわさなければ、ただの旅人を装うことはできるだろう。もともと城下町は野盗などが潜り込めないように警備されているので、町の民たちは旅人に対しても寛容であった。


 だから、警戒すべきは衛兵のみである。

 しかしまた、衛兵たちは松明などで足もとを照らしながら巡回しているものなので、遠目でもこちらが先に発見することができる。街路の交差する場所さえ入念に用心しておけば、そうそう見とがめられることもないはずであった。


(しかし相手はまともな衛兵とも限らないからな。決して油断することはできないだろう)


 なるべく足音をたてないようにひたひたと道を急ぎながら、ダリアスはそのように考える。

 ダリアスはついにこの夜を王宮に忍び込む決行の時と定めたのである。

 脳裏には、まださきほど別れたばかりのギムとラナの姿が焼きついている。


 ギムは、穏やかに微笑んでいた。

 ラナも必死に涙をこらえながら、微笑んでくれていた。

 もう一度あの笑顔を見ることがかなうのか、すべてはセルヴァの思し召しだ。


 そうして半刻ばかりも道を進むと、やがて目印の彫像が見えてきた。

 大きな家の門柱に飾られた、酒神マドゥアルの彫像である。

 月明かりではその福々しい姿をしっかりと見定めることもかなわなかったが、ぽこんとせり出た丸い腹は輪郭だけで確認できるので、まず間違いはない。果実酒の原料であるママリアの豊穣を司るマドゥラスの像は、酒屋や食堂などで祀られることが多かった。


 ダリアスは門柱の影にひそみ、チッチッと軽く舌を鳴らす。

 すると、逆の門柱から細長い人影がひょっこりと姿を現した。


「お待ちしてましたよ、ダリアス様。……ダリアス様ですよね?」


「ああ」とうなずきながら、ダリアスも姿を現してみせた。

 革細工屋のデンは、ほっとしたように胸を撫でおろす。


「あんまり遅いんで、衛兵の連中にとっつかまっちまったんじゃないかと心配してましたよぅ。……さ、裏口はこっちです」


 高い煉瓦塀に囲まれた酒屋を、デンとともにぐるりと半周した。

 裏口ももちろん、ぴたりと閉ざされている。無法者の少ない城下町とはいえ、これだけ立派な酒屋であるならば、侵入者に対する用心も怠ってはいないだろう。


「でも、裏口のあるここの辺りだけは、塀に杭を植え込んでないらしいんですよ。俺の遊び仲間であるこの酒屋の息子が悪さをして家から締め出されたとき、ここを登ってこっそり部屋に戻ったって話ですから」


「うむ。それでは俺が支えになるので、実際に杭が埋まっていないかを確かめてみてくれ」


「ええ? ダリアス様に支えてもらうなんて、そんな恐れ多い……」


「しかし、俺のように図体の大きい男をお前が支えることはできぬだろう?」


 言いながら、ダリアスは塀のそばで膝をついてみせた。

 しばらく逡巡したのち、デンは「失礼いたします……」と、ダリアスの肩に足を掛けてくる。

 そうしてダリアスが中腰の体勢になると、デンの首は塀の高さを超えた。


「ああ、大丈夫ですね。塀の上には杭の抜けた穴ぽこが空いてるだけです。家の中も、真っ暗ですよ」


「では、そのまま登ってしまうといい」


 ダリアスはデンを驚かさないよう、ゆっくりと身体をのばしていった。

 デンは塀にしがみつき、そこに腰を落ち着けた上で、ダリアスに腕をのばしてくる。


「俺は大丈夫だ。先に降りて待っていてくれ」


 デンはうなずき、塀の向こう側に姿を隠した。

 それを見届けた上で、ダリアスも塀に手をかける。

 腕をいっぱいにのばしてようやく指先が届くぐらいの高さであったが、ダリアスは反動をつけずによじ登ることができた。

 背中の傷痕は少し引っ張られるような感じがするが、痛みはない。ひと月ぐらいも休ませてもらったおかげで、ダリアスの傷は九割がた回復していた。


(残りの一割は、気力で補ってやる)


 今日という日を逃せば、次の好機は半月以上も先になってしまう。それでダリアスは、早急にこの計略を実行に移す決意を固めたのだった。


 デンと同じようにいったん塀の上で腰を落ち着け、大きな建物のどこにも明かりが灯っていないことを確認してから、地面に飛び降りる。

 そこにも煉瓦が敷きつめられており、そこそこの衝撃が背中にまで走り抜けたが、傷が痛むことはなかった。


「それじゃあ、こっちです。暗いんで足もとに気をつけてください」


 デンには馴染みのある場所であるらしく、危なげのない足取りで闇の中を進み始めた。

 何かおかしなものを蹴飛ばしてしまわないように気をつけながら、ダリアスもその後を追いかける。


「ここが酒蔵です。ちょっと待っていてくださいね」


 やがて大きな蔵の前に辿り着いたデンは、懐から出した鉄の鍵で扉の錠を外してしまった。


「その鍵は、どうやって手に入れたのだ?」


「へへ。息子のやつが予備の鍵を持ち歩いてたんで、こっそり拝借したんですよぉ。あいつ、酒屋のくせに酒に弱いんです」


「それでは、盗人そのものではないか」


 ダリアスが呆れて言葉を返すと、デンはもう一度笑ったようであった。


「衛兵につき出すなんて言わないでくださいよ? こいつも王国を救うためなんですから、何てことはありません。鍵はどこか、家の入り口の辺りにでも転がしておくんで、そうしたらあいつがうっかり落としたってことになるでしょう」


「……お前の尽力には本当に感謝しているぞ、デンよ」


「へへ。王国のためなんですから、セルヴァだって俺の罪を許してくれますよ」


 デンは懐に鍵をしまい込むと、音がしないようにゆっくりと扉を開き始めた。

 発酵したママリアの香りが、夜気に溶けて漂ってくる。ダリアスはもうひと月も口にしていない、果実酒の香りだ。


 蔵の中は窓もないので、外界よりもさらに暗かった。

 開けた扉から差し込むわずかな月明かりの他には、目の頼りになるものもない。しかたないので扉は限界いっぱいまで開き、そのまま中に踏み込むことになった。


 そこに積まれていたのは、莫大な量の酒樽だ。

 ここから確認できるだけでも、とてつもない量である。これほど大きな酒屋であるから、王城に果実酒を届けるという栄誉を賜ることもかなったのだろう。


「こっちですよ、ダリアス様。この荷車に積まれているのが、明日お城に届けられる分です」


 デンの声で振り返ると、右半分だけが月明かりに照らされた荷車が見えた。二頭引きのトトスで引かれる、かなり大きめの荷車だ。


「よし。この中に忍び込めばいいのだな?」


「ああ、いや、ただこの中に隠れていただけじゃあ、さすがに城門で衛兵に見つかっちまいますよぉ。だから、えーと……ああ、これです。こっちに来てください」


 デンの姿が、闇に溶けてしまう。

 それを追って壁際に足を踏み込むと、そこにも酒樽が山と積まれているようだった。


「こっちの樽は、空っぽなんです。だから、荷車の中の樽をひとつこっちのとすり替えて、その中に隠れちまえばいいと思うんですよね」


「ああ、酒樽の中に身を潜めるのか」


「……十二獅子将たるダリアス様に、そんなこそ泥みたいな真似をさせるのは気が引けちまうんですけど……」


「何を案ずることがある。この身の潔白を晴らすためなら、どのような真似でもしてみせるさ」


 ダリアスがそのように答えると、デンはほっと息をついたようだった。


「これだけでかい酒樽だったら、ダリアス様でも剣ごと隠れられると思うんですよね。で、城門をくぐるときも、いちいち酒樽の中身を改めたりはしないって話ですから、お城の食料庫かどこかに運ばれるまで、何も危険はないはずです。……その後は、何がどうなっちまうかもわかりませんけど……」


「大丈夫だ。きっと王宮の酒蔵まで運び込まれるのだろう。そこまで入り込めれば、あとは俺の裁量でどうとでもできる」


 最大の難関は、やはり最初の城門であるのだ。

 夜間は跳ね橋が上げられてしまうし、日中は大勢の衛兵に守られている。そこさえ通過することができれば、あとはダリアスの才覚ひとつであった。


「でも、本当に大丈夫なんですか? お城には衛兵がうようよしてるんでしょう?」


「ああ。しかし、先の布告でディラーム老が健在であることは知れたからな。何であれ、ディラーム老だけは薄汚い陰謀などに加担しているはずはないと信ずることができる。まずは近衛兵の目を盗みながら、ディラーム老の行方を捜し求めるさ」


 ダリアスは月明かりの差す場所まで退き、騎士の誓いの礼をしてみせた。


「アルグラッドの民、ドッズの息子デンよ、お前の親切には必ず報いるとここに誓おう。俺の身の疑いが晴れる日を待っていてくれ」


「そ、そんな、俺みたいなもんにそんな大層な真似をされちゃあ――!」


 と、思わず声が大きくなるのを慌てて自制しつつ、デンもダリアスの前までまろび出てきた。


「お、俺もラナやギムと気持ちは一緒です。この酒蔵を出た後も、決してヘマはやらかしません。どうぞあの、ダリアス様、ご武運を……」


「うむ。本当に感謝しているぞ、デンよ」


 そしてダリアスは、言うか言うまいか迷っていた言葉を口にした。


「ギムとラナにもよろしく伝えてくれ。……そして、ラナを頼んだぞ」


「え? ラナが何です?」


「ラナのことを、好いているのだろう? あの娘には、お前のように勇敢で心正しい若者がお似合いだ」


 とたんにデンは、闇の中でもそうとわかるぐらい顔を真っ赤にした。


「な、何を仰ってるんですか、ダリアス様は? お、俺なんて、きっとラナには出来の悪い弟ぐらいにしか思われてないですよぅ」


「それならば、頼りになる男になれるよう精進すればよいではないか」


 言いながら、ダリアスはちくちくと胸が痛むのを感じていた。

 いったい何に由来する痛みなのか、ダリアスにも正確なところはわからない。ただダリアスは、ラナの幸福を願っているばかりであった。


(俺が生きて戻ったときには、何としてでも恩義に報いよう。しかし、俺が戻れなかった、そのときは――)


 あの心優しいラナであれば、ダリアスの死でどれだけ悲しむかもわからない。ダリアスは、ラナの母親の恩人の息子なのだ。


 そんなダリアスと出会ってしまったことがラナの悲しみや不幸になってしまうことは、あまりに堪え難い。ダリアスは自身の不徳で魂を返すことになっても、それであのように善良なラナが悲しむことなど、決してあってはならないことだった。


(ラナに相応しいのは、あの娘と同じぐらい善良な人間だ。刀をふるうしか能のない俺など、ラナに何をしてやれるはずもない)


 ダリアスは、そのように信じていた。

 しかし、どうしても胸の中の疼きを止めることはできなかった。

 ラナの見せてくれた微笑みや、娘らしい無邪気なふるまい、ときおり見せる母親のような表情――そして、その頬を伝う涙や、ダリアスを抱きすくめた身体の体温までもが蘇ってきてしまう。


 それらのすべてを振り払って、ダリアスはデンに笑いかけてみせた。


「それでは、人目につく前に仕事を片付けよう。酒樽というのは、どのようにして蓋を開けるのだ?」


「ああ、まずは荷車の酒樽を下ろしちまいましょう。そいつは念のため、空樽の奥のほうに隠しておいたほうがいいでしょうね」


「酒樽を下ろすのだな。よし、それでは俺が荷車に上がるので――」


 そのとき、不吉な気配がダリアスの首筋を撫でた。

 何が起きたのかもわからぬまま、入り口のほうを振り返る。それと同時に、ダリアスは長剣の柄をつかんでいた。


「何者だ? この家の人間か?」


「え? いったいどうされたんですか、ダリアス様?」


 デンの言葉は黙殺し、ダリアスは一点をにらみ続けた。

 やがて――そこにゆらりと、人影が蠢く。


「ダリアス様……どうぞお考えをお改めください。そのような真似をして王宮に踏み込んでも、せっかく長らえたお生命を無駄にするばかりでございます……」


 それは低く潜められた、不吉な木枯らしのような声音であった。

 ゆらゆらと黒影がゆらめいているが、まだ扉の陰から姿を現そうとはしない。

 剣の柄を握りなおしながら、ダリアスは足場を整える。


「俺は何者だと問うている。この家の人間ではないのだな――?」


「はい。このひと月、ずっとダリアス様の居所を捜しておりました……そうしてダリアス様を捜していたのは、わたしひとりではございません……」


 デンがガタガタと震えているのが気配で伝わってくる。

 ダリアスたちの行状は、すでに見破られてしまっていたのだ。

 ダリアスは無念の咆哮を呑み込みながら、いつでも剣を抜けるように身がまえた。


「そして現在の王宮は、悪しき意志に支配されてしまっております……そこにダリアス様が単身で踏み込まれても、決して凶運を退けることはかなわないでしょう……」


「ふん。まるで自分はその凶運とやらと関わりがないような口ぶりだな」


「王宮の内にあって、この凶運からまぬがれられる者はおりません……それゆえに、ダリアス様には短慮をお控えいただきたく思うのです……いまだ完全にはお怪我の癒えぬディラーム将軍と手を取り合ったところで、ダリアス様の無念を晴らすことはかなわないでしょう……」


「ほう、お前はずいぶんこのたびの陰謀について精通しているようだな。その調子で、知っていることをすべて話してもらおうか」


「ご随意のままに……ですが、この場ではいつ余人の目に触れるとも限りません……安全な場所までご案内いたしましょう……」


「安全な場所だと? そのようなものが存在するなら、教えてもらいたいものだ。お前はいったい、俺をどこまで連れていこうというつもりだ?」


「まずは、わたしの準備した城下町の隠れ家に……その後は、五大公爵家のいずれかとなりましょう……」


「五大公爵家だと? ルアドラでは、どこの誰とも知れぬ連中が俺の帰りを待ちわびているのだろうな」


 ダリアスが言い返すと、黒い影がまたゆらゆらと蠢いた。

 どうやら扉の陰に潜んだ何者かが声もなく笑っているようだった。


「失礼いたしました……ルアドラに派遣されたのは、ジョルアン将軍の副官であった人物です……かの御仁は新たな十二獅子将と定められたので、ダリアス様にとってはもっとも危険な場所となりましょう……」


「それではやはり、ジョルアンが――」


「そして、ウェンダ将軍を失ったバンズ公爵領においてはその副官が新たな十二獅子将と定められましたが、かの地は公爵家でも最大の武力を備えておりますため、今でも厳しく監視下に置かれているか……あるいは、副官であった人物もすでに敵方に与している危険がありますな……」


 ダリアスの言葉をさえぎって、その何者かはそのように述べたてた。


「なおかつ、ヴェヘイム公爵家も現在、王家を取り巻く暗雲に呑み込まれつつありますので、残る公爵家はふたつのみ……西竜海を支配するダーム領か、バンズ公爵家に次ぐ武力を擁するマルラン領しかありません。そのどちらが身を寄せるに相応しいかは、これからダリアス様とご相談の上で決定したく思います……」


「俺と相談だと? お前はいったい、何者なのだ?」


 ダリアスはさらに腰を落としつつ、問うた。


「名前も名乗らず、姿も見せず、そのような物陰から賢しげな言葉を吐くだけの人間など信用できるものか。俺に斬られたくなければ、まずは姿を現して堂々と名乗りをあげるがいい」


「お目汚しでございます……そして、わたしなどの名を告げても、ダリアス様の心に何か影響をもたらすことはかなわぬのでしょうな……」


 そうしてその人物は、ようやく物陰から姿を現した。

 月明かりを背にしているため、人相などはまったくわからない。しかもその人物は暗い色合いの長衣を纏い、深々と頭巾を傾けているようであった。


 ただひとつだけ、この暗がりでもわかることがある。

 その人物は、まるで幼子のように小さな体躯をしていたのだ。


「わたしはバウファ神官長の従者にて、祓魔官たるゼラでございます……官人とは名ばかりの卑しき身分でございますが、どうぞお見知り置きを……」


 そうしてまた、新たな邂逅がもたらされた。

 それがこの先にどのような意味を持つものなのか、神ならぬダリアスにはとうてい予見できるはずもなかった。

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