Ⅳ-Ⅲ グリュドの砦
2020.3/21 更新分 1/1
ダリアスとロア=ファムがサランの砦にて邂逅を果たした日の、翌日――ダリアスが率いる七千の騎兵隊は、再び街道を南に駆けていた。
ロア=ファムとベルデンとタールスの三名も、その軍勢に加わっている。彼らの処遇を定めるのは王都のレイフォンたちであったが、伝書鴉が戻るのを待っている余裕など微塵も存在しないのだ。伝書鴉は朝一番に飛ばして、その返事はグリュドの砦で受け取る他なかった。
手負いのロア=ファムは、ベルデンと同じトトスに乗っている。肋骨を三本も折っているというロア=ファムは、自力で捕まっている力も残されていないので、ベルデンの胴体に革紐でくくりつけられての強行軍であった。
トトスの背中で揺られながら、ロア=ファムはずっと歯を食いしばっている。たとえ痛み止めの薬を飲んでいようとも、折れた肋骨が痛まないわけはない。それでもロア=ファムは泣き言のひとつもこぼすことなく、その進軍に耐えていた。
(まったく、見上げたやつだ。レイフォンよ、頼むからロア=ファムの忍耐を無駄にしてくれるなよ)
任務に失敗したロア=ファムの処遇を決めるのは、王都のレイフォンたちである。もしもそちらから帰還の命令を下されたら、ロア=ファムはグリュドの砦から王都に逆戻りしなくてはならないのだ。レイフォンたちであれば、むやみにロア=ファムを責めたてることはなかろうが――しかしそれでも、気の毒なことに変わりはなかった。
(もしかしたら、ロア=ファムに代わってゼラド軍のもとに向かったというギリル=ザザとドンティの二名が、何か活路を見出しているやもしれんからな。かなうことなら、偽王子のそばにあるという姉ともども何とかしてやりたいところだ)
しかしダリアスは、その偽王子の一行というものについて、レイフォンたちほどの確かな見解を有していなかった。何せダリアスは長きの時間をダームで過ごしていたために、王都を見舞っていた騒動については話で聞くばかりであったのだ。
王都においてその一行の存在が確認されたのは、先月の頭頃であったという。西の王国の中央区域で、カノン王子を名乗る者が兵を募り、近在の野盗や無法者どもを成敗し、民の心を掌握しつつある、という報告が届けられることになったのだ。その頃にはダリアスもまだ王都に留まっていたが、ギムの家でずっと息を潜めていたので、そのような内情を知るすべもなかった。
前王らとともに焼け死んだはずのカノン王子が現れたとあっては、王都の者たちも放ってはおけない。すぐさま討伐の部隊が派遣されて、真偽を見極めることになった。その部隊を率いていたのは、ロネックの配下たる千獅子長である。
討伐部隊は、首尾よくその一行の所在を突き止めることがかなった。
しかし、いざ捕縛という段に至って、ゼラド大公国の軍勢に横合いからかすめ取られてしまったのだった。
その腹いせとして、討伐部隊の指揮官はロア=ファムを王都まで連れ去ることになった。ロア=ファムの姉――メナ=ファムなる人間が、カノン王子の一行に加わってしまっていたためだ。そのメナ=ファムは指揮官の千獅子長とも相対しており、討伐部隊の兵士たちをぞんぶんに悩ませたのだと聞いている。
そうして偽王子の一行はゼラド軍の手に落ち、ロア=ファムは王都で虜囚となることになった。
自分の配下たちを虚仮にされたロネックは、ロア=ファムを処刑すべしと言いたてていた。それを救ったのが、レイフォンやディラーム老たちである。得意の弁舌でロア=ファムの身柄をもらいうけることに成功したレイフォンたちは、偽王子をゼラド軍のもとから離反させるための計画を実行することになった――というのが、ロア=ファムにまつわる一件の顛末であった。
(しかも現在では、いっそう話がややこしくなってしまっているからな)
レイフォンやディラーム老――というか、その知略の要であるティムトは、カノン王子の生存を半ば確信している。ゼラド軍の擁する人物は真っ赤な偽物であり、グワラムに出現した炎の魔術師こそが真のカノン王子であると、そのように主張しているのだ。
こうなると、偽王子の一行の罪はいっそう重くなる。王家の人間の名を騙り、仇敵たるゼラド大公国に身を寄せて、進軍の契機を与えてしまうなど、なんべん首を刎ねられても贖えない罪であるはずだった。
(しかしまあ……ロア=ファムの姉などは、その偽王子にたぶらかされただけの話だからな。ロネックを筆頭とする奸臣どもを一掃した現在ならば、レイフォンの権限で罪を不問にすることも難しくはないだろう)
実際にレイフォンは、そういった書面をしたためて、ロア=ファムに託したのだと聞いている。その頃にはまだジョルアンの尻尾をつかんだばかりで、ロネックもバウファも健在であったという話であるのに、豪胆なことである。
何にせよ、偽王子の一行をゼラド軍から離反させることがかなえば、ロア=ファムもメナ=ファムも無罪放免となる。ロア=ファムは、そんなわずかな可能性にすがって、現在の苦境に耐えているのだった。
(許されざるは、カノン王子の名を騙る不埒者だな。その者だけは、何がどうあっても首を刎ねられることになるだろう)
しかしダリアスは、ひとつの懸念を抱いていた。
偽王子のかたわらには、エルヴィルというかつての千獅子長であった男が控えているらしいという話であったのだ。
エルヴィルは、カノン王子とともに前王殺しの大罪人と見なされていた、十二獅子将ヴァルダヌスの部下であった人物である。
ティムトの推察によると、首謀者はそのエルヴィルなのではないかと目されていた。
敬愛する上官を大罪人に仕立てあげられて逆上したエルヴィルが、偽王子などというものを祀り上げて、王国に叛逆の牙を剥いたのではないか――ティムトは、そのように推察していたのだった。
それが真実であるとすれば、諸悪の根源はエルヴィルとなる。
しかしティムトは、偽王子をゼラド軍から離反させることがかなえば、そのエルヴィルの罪も問わないと、書状にそのように書き記したのだという。本物のカノン王子は別の場所で生存している可能性が高いので、そのような謀略は今すぐ打ち捨てるべしと、そんな書状をエルヴィルに届けようとしているのだ。
真の首謀者はエルヴィルであるのに、偽王子を騙った人間だけが、処刑されてしまうかもしれない。その一点を、ダリアスは危惧しているのだった。
(そもそもそのエルヴィルという男がこんな馬鹿な真似をしたのは、ヴァルダヌスが前王殺しの大罪人とされてしまったためだ。ならばそれは俺たちと同じように、『まつろわぬ民』のせいで運命を狂わされたということではないか)
そうであれば、偽王子を騙っている人間も同様である。その人物が邪な気持ちでもって王国に牙を剥こうとしているのであれば、自業自得というものだが――そうではなく、エルヴィルの怒りと無念にほだされただけであるのなら、やはり陰謀の犠牲者と言えるはずだった。
(そのあたりのことは、またレイフォンらと話を詰める必要があろうな。王家の名を騙った人間を赦免するのは、きわめて難しい話なのであろうが……『まつろわぬ民』のせいで運命を歪められた人間を見過ごすことはできん)
そんな想念を抱えたまま、ダリアスは街道をひた走ることになった。
昼には中継地点たるドエルの砦を通過して、さらに街道を南に進む。
目的の地たるグリュドの砦に到着したのは、太陽が西の果てに沈む寸前のことであった。
「よくぞ耐えたな、ロア=ファムよ。ここが、グリュドの砦だぞ」
ベルデンの背中にへばりついたロア=ファムは、脂汗をにじませながら、小さくうなずくばかりであった。
大きく開かれた城門から、ダリアスたちはグリュドの砦に入場する。そこで待ちかまえていたのは、千獅子長の房飾りを垂らした五名の武官と供の兵士たちであった。
「到着をお待ちしておりました、十二獅子将ダリアス殿。王都からの指令により、駐屯部隊の五大隊がすでに到着しております」
「そうか。大儀だったな」
それは、この近在の砦に駐屯している防衛兵団の駐屯部隊であった。防衛兵団はおよそ二万の兵を有しているが、その半数はこうして要所の砦に派遣されているのである。
「こちらは七大隊の編成であるので、総勢は一万二千となるな。三万から成るゼラド軍を迎え撃つにはいささか頼りないが、ディラーム元帥の率いる遠征兵団が明日にはドエルの砦に到着するはずだ。それまでは、我々だけでグリュドを死守することになろう」
「なに、ゼラドの黒蛇どもを迎え撃つには十分でありましょう。偽物の王子などを旗頭として王国の領土を踏みにじったことを、後悔させてやりますわ」
王都の近在で暮らす人間は、ゼラドを黒蛇と称することが多い。ゼラドの兵士が、黒光りする鱗のような鎧を纏っているためである。また、ゼラドと深い絆を結んでいるジャガルの人間が、敵対国のシムの人間を黒蛇と称しているのは、いささか皮肉な話であった。お前たちが仲良くしているゼラドの人間も、しょせんは黒蛇であるのだぞという、そんな訓戒が込められているのであろうか。
ともあれ、ダリアスは最初の任務を果たすことができた。
あるいは、最初の任務を果たすための準備が整った、とでも言うべきであろうか。まずはゼラド軍に先んじてグリュドに入城することが、絶対的な大前提であったのだ。
「ゼラド軍の動きは、どのように伝えられているのだ?」
「は。さきほどの狼煙によりますと、ゼラド軍がこちらに到着するのは明日の夕刻前後になるかと思われます」
「そうか。七千だけでも騎兵で先行させた判断は、間違っていなかったということだな。……では、軍議は食事の後とさせてもらおう。部屋の準備をよろしく願いたい」
「承知いたしました。こちらの者がご案内いたします」
ダリアスたちは、まだ少年らしい面立ちをした従士の案内で、グリュドの城内に導かれることになった。
同行させたのは、副官のルブス、従者という名目のラナとリッサ、客員扱いのゼラ、そして、ロア=ファム、ベルデン、タールスの一行だ。
総指揮官たるダリアスには、軍議を行えるぐらい立派な執務室が与えられる。従士の少年に案内の礼を言い、部屋の外に追いやってから、ダリアスは一同にくつろぐよう声をかけた。
「ただその前に、ゼラには仕事を果たしてもらわねばな」
ゼラは「はい……」と応じながら、開け放たれたままであった窓に近づいていく。
そうしてゼラが懐から取り出した小さな筒を口にあてがうと、人間の耳には聞こえぬ笛の音によって、一羽の巨大な鴉が室内に呼び寄せられることになった。
「やはり、鴉に先んじられていたな。こちらがトトスで駆けている間に王都まで往復できるとは、まったく便利なものだ」
ダリアスの軽口を聞きながら、ゼラは鴉の足から小さな書簡を取り外した。長椅子にぐったりと倒れ込んだロア=ファムは、身を休めるいとまもなく緊迫した表情となっている。
ダリアスは、ゼラから受け取った書簡を開いて、素早く目を走らせる。
そうして内心で安堵しつつ、もうひとたび入念に書面の内容を確認してから、ダリアスはロア=ファムに向きなおった。
「任務が達成されていないのであれば、その遂行に力を尽くすべし。それが、レイフォンたちからの返事となる」
ロア=ファムは、「ああ」と詰めていた息を吐いた。
「俺はまだ、悪あがきをすることを許してもらえるのだな? ……寛大なはからいに、感謝する」
「感謝をするなら、レイフォンたちにだ。俺はただ、この現状をそのまま伝えたに過ぎぬからな」
ダリアスはゼラにも着席するようにうながし、自分もラナのかたわらに腰を下ろした。
「さて……問題は、ここからだな。お前たちには、こちらの事情を明かしておくべきだろうと思う」
ロア=ファムの様子を心配そうに見守っていたベルデンが、きょとんとした顔でダリアスに向きなおってきた。
「事情とは、何の話でありましょうかな? ダリアス殿らは、ゼラド軍を迎え撃つために、このグリュドの砦に参じたのでしょう?」
「それは、目的のひとつに過ぎん。俺にはもうひとつ、それと同じぐらい重大な任務を担わされているのだ」
ダリアスは目もとに力を込めて、ロア=ファムとベルデンとタールスの顔を見回していった。
「お前たちであれば、鼻で笑うこともなかろう。王都のレイフォンたちは、この地に妖魅が出現することを危惧しているのだ」
「何ですと?」と、タールスが腰を浮かせかけた。
「よ、妖魅とは、我々が遭遇した、あの動く屍骸どものことでありましょうか? あれらが、このグリュドを襲撃してくると……?」
「どのような妖魅であるかは、推測のしようもない。ただ、お前たちが妖魅に襲われたとなると、レイフォンらの危惧も妥当であったように思える。このたびの騒乱は、ゼラド軍の進軍をも含めて、大きな陰謀なのではないかと……レイフォンたちは、そのように考えているのだ」
そうしてダリアスは、『まつろわぬ民』に関して語ることとなった。
さらに、ロア=ファムたちが王都を離れてから、どのような騒乱が巻き起こったか――その概要は昨晩の内に伝えておいたが、魔なるものに関する情報は、あえて伏せていたのである。
「まさか……妖魅どころか邪神までもが、王都やダームに現れたというのですか? いくらなんでも、それはあまりに……」
「あれが真なる邪神であったのか、我々には確かめるすべもない。ただ、ダームにおいては数千名もの犠牲が出て、王都の大聖堂は半ば崩落することになった。それは、まぎれもない事実であるのだ」
タールスもベルデンも、驚きのあまり硬直してしまっていた。
その中で、ロア=ファムだけは爛々と目を燃やしている。
「妖魅の存在は、すでに王都でも周知されている。しかし、実際にそのおぞましい姿を目にした人間でなければ、覚悟を固めることも難しかろう。お前たちは心を乱すことなく、自らの任務に集中してもらいたい」
「み、自らの任務とは?」
「お前たちの任務は、そちらのロア=ファムを姉のもとまで送り届けることであろうが? 妖魅の退治は俺が受け持つので、お前たちはとにかく自身の安全をはかり、任務を達成させるのだ」
すると、ロア=ファムがかすれた声を振り絞った。
「では……俺の姉がこのような騒ぎに巻き込まれたのも、『まつろわぬ民』が元凶であるということなのか……?」
「現段階では、あくまで推測だがな。しかしお前も、レイフォンやティムトと顔をあわせているのであろう? あやつらは、確信もなしに妄言を撒き散らしたりはしなかろう」
「そうか……」と、ロア=ファムは固くまぶたを閉ざした。
「あやつらは、バズの生命を虫けらのように踏みにじった……その上、俺の馬鹿姉貴にまで毒牙をのばしていたということだな……」
「バズ?」
「……バズは、そこのタールスの部下であった兵士だ……」
妖魅に襲撃された際、ロア=ファムに同行していた兵士たちの半数ぐらいは魂を返したのだという話であったのだ。惑乱した様子で立ち尽くしていたタールスは、我に返った様子で顔をしかめて、ロア=ファムのほうを振り返った。
「お前はまだ、そのようなことを気にかけていたのか? バズは、自分の使命を全うしたのだ。お前が憐れむいわれはない」
「決して、憐れんでいるわけではない……バズは誇り高く生き、誇り高く死んでいったのだろう……しかし、バズを殺めた不埒者どもを許す理由にはなるまい……」
次にまぶたを開いたとき、ロア=ファムの黄色みがかった双眸には炎のような眼光が渦巻いていた。
「ダリアス将軍……森辺の狩人ほどではないにせよ、俺にも妖魅の気配を察することぐらいはできるはずだ……『まつろわぬ民』の野望をくじくために、どうか俺の力を使ってやってくれ……」
「しかし、お前の使命は姉を救い出すことであろうが?」
「……あの馬鹿姉貴も『まつろわぬ民』の手の平で踊らされているというのなら……あなたの力になることが、あいつを救うことにもなるのではないだろうか……?」
ダリアスは「そうか」と笑ってみせた。
「まあ、本当に妖魅が現れるかどうかは、五分といったところであろう。お前はどのような形であれ、姉を救うことを一番に考えるがいい。その中で、お前の力が必要となったときは、遠慮なく頼らせてもらおう」
「……あなたの温情に、心から感謝する……」
そうしてロア=ファムは再びまぶたを閉ざすと、長椅子の上で動かなくなった。ついに体力の限界を迎えてしまったのであろう。
(……このロア=ファムもまた、『まつろわぬ民』によって運命を狂わされたひとりであるのだ)
ダリアスは腰の聖剣に手をあてがいながら、まだ見ぬ敵に瞋恚の炎を燃やすことになった。
ゼラド軍が到着する明日までに、グリュドの砦がどのような運命を迎えることになるか――そのときのダリアスには、知るすべも存在しなかった。