Ⅲ-Ⅲ マルランの怪
2020.3/14 更新分 1/1
二千の兵士で構成された王都の軍勢は、白銀の矢のごとき鋭さで北西の領地マルランを目指していた。
王都は広大であるために、その周辺を取り囲む五大公爵領までは、車を引かせたトトスでも一日がかりとなる。トトスに直接またがったこの騎兵隊でも、半日がかりの道程となるはずであった。
この軍勢は日の高い内に王都を出立したので、日が暮れる前にはマルランまで辿り着くことができるだろう。トトスの手綱を握ったクリスフィアは、実に昂揚した心地でその道行きを過ごすことができた。
「フゥライ殿、お身体のほうは大丈夫であろうかな? 失礼ながら、ご老体にはいささか難儀な道行きであろう」
クリスフィアがそのように呼びかけると、「案ずるな」という柔和な声がすぐに返ってきた。学士長のフゥライは、クリスフィアと同じトトスにまたがっているのだ。
「町で書物を買いあさるために、人並みに足腰は鍛えておるつもりなのでな。ずっと書庫に閉じこもっておるリッサなんぞと比べれば、まだしも我慢はきくであろうよ」
「それは心強い」と、クリスフィアは兜の陰で笑うことになった。
フゥライは、謎の魔術師トゥリハラのもとで魔術や妖魅についてを学び、魔除けの護符まで授かったという話であったのだ。マルランを襲撃したという妖魅を相手取るのに、これほど頼もしい存在は他になかった。
(しかし、思えば奇妙な縁だな)
もともとクリスフィアは『禁忌の歴史書』についてを探るために、ダーム公爵領でこのフゥライを探し求めていたのだ。そのさなか、ダリアスやラナと邂逅を果たし、十二獅子将シーズの死を迎え――けっきょくフゥライとは出会えぬまま、王都に戻ることになった。そののちに、ダームに居残ったダリアスがフゥライと巡りあい、ともにトゥリハラのもとまで導かれることとなったのだった。
(そして今度は顔をあわせるなり、妖魅の討伐に向かおうというのだからな。天上の神々も、あまりに悪戯心が過ぎるというものだ)
そんな風に考えながら、クリスフィアは背後のフゥライへと再び呼びかけた。
「フゥライ殿は、レイフォン殿に願われて、この部隊に同行することになったのであったな? その際に、ダリアス殿やリッサについては聞き及んでいるのであろうか?」
「うむ。あちらはあちらで、ゼラド軍を迎え撃つために出陣したという話であったな。リッサもトトスに乗せられておるのなら、さぞかし不平をこぼしていることであろうよ」
「……フゥライ殿もリッサも荒事などとは無縁の学士という立場であるのに、つくづく難儀なことであるな」
「いやいや、王国の危急とあっては、武人も学士もあるまいよ」
フゥライは、あくまで鷹揚に笑っていた。
「儂とリッサは、トゥリハラ殿と相まみえることとなった。肝要なのは、その一点なのであろう。老い先みじかい儂の生命が、王国を救う一助となるならば……何も惜しむものではない」
「ご立派だ。フゥライ殿には、武人にも劣らぬ覚悟が備わっておられるようだな」
敬意をもって、クリスフィアはそのように告げてみせた。
「ところで、そのトゥリハラについてだが……実はわたしも、かのご老人と相まみえることとなったのだ」
「ほう? では、クリスフィア姫も聖剣を?」
「いや。退魔の聖剣を授かったのは、わたしとともにあったジェイ=シンという者だ。口惜しいことに、わたしにはそれを授かる資質がなかったらしい」
「ふむ。武人としては、口惜しく思うのが当然であるのやもしれぬが……人の子としては、幸いなのであろうよ」
「うむ? それはどういう意味であろうか?」
「あの聖剣は、神をも滅ぼす力を持っておる。現にダリアス殿は、疫神ムスィクヮを退けることがかなったのだからの。……しかし、神を滅ぼすことなど、元来の人間には許されぬ所業となる。それほどの運命を担うこととなったダリアス殿は、果たしてこの先どのような行く末を迎えるのか……それが気にかかってならんのだ」
フゥライの声には、深い感慨がにじんでいるようだった。
しかしクリスフィアは、「なるほど」と笑ってみせる。
「だが、それこそ案ずる必要はあるまい。ダリアス殿もジェイ=シンも、聖剣の所有者に相応しい力を備えているのだ。たとえどのような苦難が待ちかまえていようとも、ダリアス殿らが屈することはなかろう。わたしはそのように信じているし、他人顔をして眺めているつもりもない。もしもダリアス殿たちに忌まわしき運命が待ちかまえているというのなら、それをを切り開くために、ともに力を尽くす所存であるぞ」
「……うむ。やはり武人たるクリスフィア姫とこのような老いぼれでは、覚悟のほどが違っておるようだな」
そう言って、フゥライも小さく笑い声をたてた。
「詮無きことを言ってしまった。儂もなけなしの力を振り絞らせていただこう。王国と、王国の運命を担う若き勇士たちのためにな」
そうしてクリスフィアとフゥライは、人知れず絆を深めることになった。
途中で小休止をはさみつつ、軍勢はひたすら北西を目指す。
そうして夕刻が差し迫り、天空が茜色に染まりかけたとき――マルランを襲った災厄の証が、クリスフィアたちの前にさらされることになった。
(マルランに、火の手があがっている)
行く手の天空に、白や黒の煙がいくつもたちのぼっていた。
マルランの騎士団が、炎で妖魅を迎撃しているのだろう。氷雪の妖魅に炎と鋼の武器が有効であると伝えたのは、『禁忌の歴史書』でそれを学んだティムトに他ならなかった。
「クリスフィア姫! このまま、マルランに突入する! よもや異存はあるまいな?」
すぐそばでトトスを駆けさせていた指揮官の千獅子長が、緊迫した面持ちでそのように呼びかけてきた。
クリスフィアは内心の闘志をなだめつつ、「うむ!」と応じてみせる。
「ただし、くれぐれもご油断なきように! 敵は人間でなく、この世ならぬ妖魅であるのだ!」
二千の兵士で編成されたこの軍勢の中で、実際に妖魅とまみえたことがあるのは、クリスフィアとフゥライとホドゥレイル=スドラの三名のみであるのだ。初めて妖魅と相対する兵士たちが、怯まずに剣を振るうことはかなうのか。それが、第一の懸念であった。
「フゥライ殿、戦いの場に踏み入る前に、何か助言でもあろうか?」
クリスフィアの問いかけには、「いや」という言葉が返ってきた。
「相手が如何なる妖魅であるのか、この目で見ぬことには何も判ずることはできん。まずは、敵の正体を見極めるのだ」
「承知した。それでは、我々が先陣を切らせていただこう!」
もとよりクリスフィアたちは、部隊の先頭付近を駆けていた。マルランの領地は、もう目の前に迫っている。
最初に現れたのは、マルランの擁する広大な荘園であった。
まだ日は没していないのに、働く人間の姿は見えない。マルランが襲撃されたのは半日も前であったので、とっくに避難勧告が出されているのだろう。
それからやがて、石造りの城壁が近づいてくる。
マルランの城と城下町を守る、城壁だ。有史以来、マヒュドラの軍がここまで迫ったことはなかったが、そのような事態にあっても対処できるようにと、堅牢に造られた城塞であった。
「……どうして敵は、わざわざ城に攻め入ったのであろうかな。夜闇にまぎれて荘園を踏みにじれば、難なく王都を目指すこともできたはずだ」
クリスフィアがそのように言いたてると、フゥライはまた「いや」と答えた。
「石の都とは、それ自体が魔を退ける存在であるのだ。五大公爵領の城というのは、いわば王都を守るための結界なのであろう。その一角を崩さぬ限り、妖魅が王都に踏み入ることはかなわん」
「ふむ。しかしわたしは王都のど真ん中にある大聖堂にて、蜘蛛神ダッバハなどというとんでもない存在と対峙させられてしまったぞ?」
「それは長きの時をかけて、地の底から結界を打ち崩したのであろう。なおかつ、七邪神ほどの魔力を持つ存在でなければ、そのように大それた術式はかなわぬはずだ」
「そうか。では、我々はマルラン城を死守すればよい、ということだな」
そんな言葉を交わしている間に、城壁が目前に迫っていた。
それを右回りで迂回して、城門を目指す。分厚く堅牢なる城壁の向こう側からは、戦乱の気配がひしひしと感じられた。
「よし、城門は開かれているな」
二千の軍勢は、街道を駆けてきた勢いのままに、マルランの城下町へと突撃した。
城下町は――無人である。
あちらこちらから炎があがって、いくつもの煙をたちのぼらせているというのに――人間の影も妖魅の影も、どこにも見出すことはできなかった。
「なんだ、これは? 領民はどこに消えてしまったのだ?」
「妖魅とやらを恐れて、家屋の中に逃げ込んだのであろうか? そうだとしても、何か奇妙な様子だが……」
トトスを駆けさせながら、指揮官と副官が不審げに声を投げかけあっている。
同じ疑念を抱いていたクリスフィアは、すぐに答えを見出すことができた。
(そうか。争いの痕跡が残されているのに、どこにも遺骸が見当たらないのだ。妖魅などは黒い塵と化してしまうのだから、遺骸など残りようもないのであろうが……領民や騎士団の兵士たちがひとりも害されていない、などということはありえまい)
何せ、妖魅の襲撃からは半日以上が過ぎているのだ。それで城門は開け放たれたままであるし、消火の作業も為されていないのだから、マルランはいまだ騒乱のさなかであるのだろう。
そうであるにも拘わらず、犠牲者の姿が見当たらない。
その事実が、わけもわからぬままにクリスフィアの背筋を震わせた。
「よし、マルランの城を目指すぞ! 各自、用心して進め!」
指揮官の号令のもと、兵士たちは街路を突進する。
すると、メルセウスを後部に乗せたホドゥレイル=スドラが、クリスフィアのほうにトトスを寄せてきた。
「クリスフィア、くれぐれも用心を。この場には、大聖堂にも劣らぬ不吉な空気が渦巻いている」
「承知した。メルセウス殿も、トトスから振り落とされぬようにな」
「ええ、わきまえています」
このような際にあっても、メルセウスはゆったりと微笑んでいた。
二千の軍勢は左右からの襲撃に用心しつつ、町の中央部を目指してトトスを駆けさせる。煙のせいで視界は悪かったが、どこまで進んでも人間や妖魅が姿を現すことはなかった。
城下町には石畳が敷きつめられており、おおよその家屋は石造りか煉瓦造りである。あちこちで燃えているのは、妖魅を撃退するために放った油であるのだろう。中には油が燃えつきて、路面や壁に焦げ跡が残されているさまも見受けられる。延焼の心配は、さほどないようであった。
「うむ? あれは――」と、先頭を進む指揮官が鋭い声をあげた。
マルランの城が見えてきたのだ。
城壁に囲まれた城下町の中で、マルラン城はさらに堅牢なる城壁に守られている。これは、西の王国のいにしえよりの様式であった。
その城壁に、大勢の人間が群がっている。
そして城内の兵士たちが、その人々を迎撃していた。
城門は固く閉ざされており、兵士たちは城壁の上から下界の人々に矢を射かけているのだ。
それは一見、ごく通常の攻城戦であるように見えなくもなかったが――そうでないことは、すぐに知れた。城壁に群がった人々の大半は、甲冑も纏わず武器も携えていない、平民のなりをしていたのだ。
そんな姿で矢を射かけられているというのに、逃げ出そうとする者はなく、盲目的な執拗さで城壁に群がっているのが、異様きわまりなかった。
「何なのだ、あれは? 城を襲っているのは、妖魅ではなく人間ではないか?」
指揮官が、困惑しきった声をこぼしている。
しかしクリスフィアは、すでに真相に気づいていた。
「それは違う。あれは……あれこそが、妖魅であるのだ」
「なに? 何を言っているのだ、クリスフィア姫よ。妖魅など、どこにも見当たらぬぞ?」
「ならばどうして、矢で射たれて倒れる者のひとりもいないのだ? 見よ、あちらの者などは頭を砕かれているし、あちらの者などは内臓をこぼしている。それでも魂を返さずに、ああして自力で立ちはだかっているのは、何故なのだ? ……あやつらは、死して妖魅と化してしまったのだ」
「うむ」と、背後のフゥライが声をあげた。
「ダームにおいても、死人は妖魅と化していた。これは忌まわしき、死人操りの妖術であろう。どれだけ矢を射かけようとも、妖魅を滅することはできん。鋼の刃で、頭を砕くのだ」
「し、しかし、あやつは頭を砕かれても動いているではないか!」
ようやくこの事態を把握したらしい副官の男が、悲鳴まじりの声をあげた。
フゥライは「いや」と力のこもった声で答える。
「あれはおそらく、城壁の上から石でも落として頭を打ち砕いたのであろう。投石器ならばいざ知らず、ただの石くれで妖魅を退けることはできん。妖魅を滅することがかなうのは、文明の叡智たる武器のみであるのだ」
「あとは、火の罠なのであろうが……それはこの半日で、使い果たすことになってしまったのであろうな。だからああして、城に逃げ込む他なかったのだ」
その内に燃えあがる闘争心を何とかなだめながら、クリスフィアもそのように言ってみせた。
「死人が妖魅と化したのなら、街路に遺骸が残されていなかったのも当然であろう。あれらの大半は、マルランの領民なのであろうな」
「わ、我々はいったいどうすれば……?」
「知れたこと! 鋼の刃で、頭を砕くのだ!」
クリスフィアは左手だけを手綱に残し、腰の長剣を抜き放った。
「勇ある者は、わたしに続け! マルランの城を、救うのだ!」
クリスフィアは、妖魅どものもとへと突撃した。
すかさず、一体の騎兵が横に並んでくる。それはもちろん、ホドゥレイル=スドラとメルセウスを乗せたトトスであった。
「あの妖魅どもは、我々に目をくれる様子もないな。……しかし背後から斬りかかれば、さすがに黙ってはいなかろう」
「うむ。まずは我々に目を向けさせなければな」
城壁に群がった妖魅どもの後ろ姿が、ぐんぐんと目の前に迫ってくる。
そこに衝突する寸前で、クリスフィアは手綱を絞り、トトスの首を左側に巡らせた。
その行きがけで、妖魅の頭を長剣で打ち砕く。
頭蓋と脳髄を粉砕された妖魅は、声もなくその場にくずおれた。
クリスフィアはそのまま横合いにトトスを走らせつつ、片っ端から妖魅どもの頭を砕いていった。
人間の剥き出しの頭を砕く嫌な感触が、指先に滲みていく。
たとえ妖魅であろうとも、その肉体は人間であるのだ。
しかし――尋常なる人間とは異なる点も、確認できた。どれだけ派手に頭を吹き飛ばそうとも、そこから血飛沫があがったりはしなかったのだ。
それに、妖魅どもの群れからは、異様な冷気が感じられる。
ただ死人というだけの理由ではなく、妖魅どもは氷雪そのもののように凍てついているようだった。
(まるで、雪山で凍死した人間の屍骸を斬り伏せているような心地だな)
クリスフィアがそのように考えたとき、城壁に群がった妖魅の何体かがのろのろとこちらに向きなおってきた。
そうと見て取った瞬間、クリスフィアはまたトトスの首を巡らせて、石畳を逆戻りする。
トトスを駆けさせながら背後に目をやると、城壁から離れた妖魅どもが、両足を引きずるような格好でクリスフィアを追ってこようとしていた。
(ふん。血肉までもが凍てついて、まともに手足を動かすこともかなわぬようだな)
クリスフィアはすぐさま進路を変えて、再び妖魅どもへと突撃した。
さきほどと同じ要領で、今度は正面から妖魅どもの頭を撫で切りにしていく。たとえその身が凍てついていても、頭蓋の硬度に大差はなかった。
「見たか! 頭を砕けば、妖魅は滅する! そして、こやつらは欠伸が出るほどに動きが鈍い! 何も恐れる必要はないぞ!」
いったん妖魅どもから距離を取りつつ、クリスフィアは街路にたたずむ兵士たちへと声を張り上げた。
見渡す限りの城壁に、妖魅どもは取りすがっている。その数は、千や二千ではきかぬだろう。これだけの数の妖魅を、ホドゥレイル=スドラとふたりきりで殲滅することは不可能であった。
「しかし、混戦となっては身動きが取れなくなろう! こちらも左右に展開して、妖魅ごと城壁を囲むのだ! 危険を感じたときは後方に離脱し、体勢を整えよ!」
しばらくの沈黙ののち――王都の兵士らが、鬨の声をあげて妖魅どもに斬りかかった。
クリスフィアはほっと息をつきつつ、横合いにトトスを駆けさせる。
すると、ホドゥレイル=スドラのトトスが追従してきた。
「なんだ、こちらに来てしまったのか? わたしとは逆の側で、手本を見せてほしかったのだがな」
「いや。俺たちは戦力を分散させるべきではないように思う。それでは、次なる変事に対応できまい」
「次なる変事?」
「……これらの妖魅に、大きな脅威は感じない。この場には、もっと恐るべき何かが潜んでいるはずであるのだ」
森辺の狩人というものは、人間離れした感知能力を携えている。クリスフィアとしては、ホドゥレイル=スドラの言葉を疑う気持ちにはなれなかった。
「ではその前に、この妖魅どもを殲滅しておきたいところだな。こちらも、次なる手を打つことにするか」
手近な妖魅を斬り伏せてから、クリスフィアは城壁の上に立ち尽くすマルランの兵士たちへと呼びかけた。
「マルランの騎士たちよ! トトスさえあれば、これらの妖魅を恐れる必要はない! 鋼の剣で、頭を砕くのだ! 城門を開けるようであれば、助力を願いたい!」
五大公爵領には、それぞれ一万に近い軍勢が準備されているはずであるのだ。恐怖に心を縛られていなければ、クリスフィアたちが駆けつける前にこの妖魅どもを殲滅できていたはずであった。
(それが難しいからこそ、ティムトは我々の出陣を願ったのであろうな。まったく、ありがたい限りだ)
クリスフィアがそのように考えたとき、フゥライが「姫よ」と呼びかけてきた。
「ついに、太陽が没してしまったようだ。今後は、さらなる用心を願いたい」
「うむ?」と応じつつ、クリスフィアは素早く頭上に視線を巡らせた。
茜色であった天空は、紫色に変じている。昼と夜の狭間である、黄昏刻に差し掛かったのであろう。
「もとより妖魅というものは、太陽の下で力を振るえる存在ではない。こやつらは、人間の屍に憑依することによって、ようよう動いておるに過ぎぬのだ」
「では、いよいよここからが本番というわけだな」
クリスフィアは、再び城壁の上へと呼びかけた。
「マルランの騎士たちよ! 松明とかがり火の準備をお願いしたい! 闇に視界をふさがれては、勝機を失おう!」
城壁の上の兵士たちも、もはや黒い影法師である。彼らがどれだけクリスフィアの言葉を理解できているか、いささかならず心もとなかった。
「こちらでも、火の準備をしておくべきであろうな。トトスの上では、松明と剣のどちらかしか掲げることはできんが……それでも、火の準備をおろそかにすることはできまい」
「うむ。クリスフィアの判断は、いずれも的確であるように思う」
「ホドゥレイル=スドラにそのように言ってもらえるのは、光栄の限りだ」
クリスフィアは城壁のそばから離脱して、最初にたたずんでいた街路のほうを目指した。
次第に濃くなりまさっていく薄暮の中で、二千名の兵士たちは懸命に剣をふるっている。それらの背後に回り込みつつ、クリスフィアはまた声を張り上げた。
「一番隊の第一から第三中隊は、戦線から離脱せよ! 松明を灯して、城壁を囲むのだ!」
客員隊長なるクリスフィアに命令を下す権限はないが、指揮官の姿が見当たらないので、ここは軍規を逸脱する他ない。戦場にあっても、臨機応変がクリスフィアの信条であった。
「伝令を回せ! 一番隊の第一から第三中隊は、戦線離脱ののち、松明に点火! 他の隊員は、それを援護せよ!」
なかなか動きは見られなかったが、それでも何名かの兵士たちは街路のほうに後退し、それぞれ携帯していた松明に火を灯し始めた。
クリスフィアも長剣を鞘に収めて、自らも松明の準備をする。黒く乾いたラナの葉をこすりつけると、松明には速やかに火が灯された。
「わたしはひとまず、ホドゥレイル=スドラの目を助けよう。マルランの連中も、ようやく動き出したようだな」
城門はぴったりと閉ざされたままであったが、その代わりに城壁の上にかがり火が灯されていた。
世界を覆い尽くそうとしていた闇が、火神の力で退けられていく。火を司る西方神の子であれば、何より心を慰められるはずであった。
「よし。あとは妖魅どもを殲滅して――」
「クリスフィア」と、ホドゥレイル=スドラがクリスフィアの言葉をさえぎった。
松明の火に照らされて、ホドゥレイル=スドラの瞳は爛々と燃えている。その目が見据えるのは、城壁と反対の側であった。
クリスフィアは相応の覚悟をもって、背後を振り返る。
城下町の町並みは、闇の中に沈んでいた。
その向こう側には、町を守る城壁が立ちはだかっているのだろう。
その上に――青い鬼火が、灯されていた。
かがり火ならぬ、不気味な輝きである。
数はふたつで、真横に並んだ青白い鬼火が、闇の中にぽっかりと浮かびあがっている。
それを目にした瞬間、クリスフィアの全身に悪寒が走り抜けていた。
クリスフィアは、あのおぞましい輝きを知っている。
シーズの生命を奪った、毛むくじゃらの使い魔――銀獅子宮の地下通路に潜んでいた、蛇の妖魅ども――大聖堂の地下に巣食っていた、蜘蛛の妖魅ども――それらと同質の、得体の知れない憎悪と飢餓の念に狂った、それは妖魅の眼光であった。
「あれは、おそらく……氷雪の巨人であろう」
フゥライがそのように囁くのと同時に、落雷のごとき音色が響きわたった。
それは、氷雪の巨人が城壁を拳で殴打した音色に他ならなかった。