Ⅱ-Ⅲ 森辺の少女
2020.3/7 更新分 1/1
「……ついに王都に残されたのは、私たちだけになってしまったね」
白牛宮の執務室において、レイフォンがそのように言いたてると、『禁忌の歴史書』を読みふけっていたティムトは顔もあげずに「何のことでしょう?」と言葉を返してきた。
「何のことって、言葉のままの意味だよ。ディラーム老とイリテウス殿、それにダリアスとゼラ殿はゼラド軍を迎え撃つために出陣し、クリスフィア姫とメルセウス殿とホドゥレイル=スドラはマルランに出陣し――さかのぼれば、ロア=ファムとギリル=ザザもゼラド軍のもとに向かっている。王都に取り残されたのは、私たちとジェイ=シンだけじゃないか」
「……ジェイ=シンが残されているのなら、『私たちだけ』という表現は不相応であるように思います。また、五大公爵領たるマルランは、公的に王都の一部と認められているはずです」
「それはそうかもしれないけれど……ああもう、わかったよ。読書の邪魔をするな、ということだね」
「読書ではありません。研究と分析です」
卓上の書物に視線を落としたティムトの横顔は、真剣そのものであった。
すっかりぬるくなってしまったアロウの茶の残りをすすりながら、レイフォンは苦笑する。
「だけどティムトは王都の行く末を憂いているばかりではなく、知的好奇心を満たしているという一面も否めないのではないかな? そうやって、読書に没頭している姿を見ていると……ティムトの父君を思い出してしまうのだよね」
ティムトはほんの一瞬だけ、横目でレイフォンをにらみつけてきた。
「……何度も申し上げている通り、僕に父親の記憶はありません。そして、父は僕とまったく似たところのない人柄であったと、母から聞かされています」
「うん。人柄は正反対であったかもしれないけれどね。ティムトの父君は柔和かつ温厚で、誰に対しても礼節を欠かさないお人であったからさ」
「…………」
「あ、いや、ティムトが頑固かつ冷徹な礼儀知らずだなどと言っているわけじゃないんだよ?」
「……それ以外に、解釈の持ちようはないように思うのですが」
「まいったな。そんなにへそを曲げないでおくれよ。……とにかくね、あのお人はいつでも柔和かつ温厚であったけれど、知的好奇心の塊みたいなお人でもあったんだ。寝台の上で書物を読んでいるときなども、とてもやわらかな微笑をたたえつつ、眼差しだけは今のティムトのように真剣そのものであったんだよね」
ティムトはひとつ溜め息をついてから、今度はしっかりとレイフォンに向きなおってきた。
「父が魂を返したとき、レイフォン様は十歳の幼子であられたのでしょう? それなのに、そこまではっきりと記憶に残されるものなのでしょうか?」
「うん。私もそれほどたびたび顔をあわせたわけではないのだけれど……それで余計に、強く印象に残されたのかな。それだけの魅力と個性を持ったお人ではあったしね」
「…………」
「あのお人の口癖は、『僕は世界のすべてを解き明かしたいんだ』だった。……あのお人がご存命であったら、このような状況にあっても小躍りをして喜んでいたかもしれないね」
「僕はとうてい、喜ぶ気にはなれません」
ティムトは淡い栗色の髪をかきあげながら、長椅子の背にもたれた。
「この『禁忌の歴史書』を解読すればするほどに、背筋が寒くなる思いです。やはり、神の御業を人間が読み解こうというのは、不遜な行いであるのでしょう」
「おやおや、ティムトらしからぬ言い草だね。……それにその書は、我らの父たる四大神を邪神に貶める内容であるのだろう? だったら、嫌な気持ちになるのも当然さ」
「いえ。それでもこの書には、真実の一面が記されています。四大神や鋼と石の文明を悪しき存在と貶めている他には、欺瞞や齟齬も存在しないのでしょうし……それに、欺瞞や齟齬を抱えているのは、こちらも同じことでしょう」
その発言に、レイフォンは首を傾げてみせた。
「またおかしなことを言いだしたね。我々の抱える齟齬や欺瞞というのは、なんの話であるのかな?」
「僕たちは、魔術を不浄の存在と考えています。石の都の文明を根底から覆す、悪しき存在であると……だったら僕たちも、《まつろわぬ民》と同じようなものなのではないでしょうか? 彼らは魔術の文明のみを尊び、僕たちは石の都の文明のみを尊ぶ。そこに大きな差異はないように思います」
「でも……《まつろわぬ民》が悪逆であることに変わりはないだろう? 彼らは大神アムスホルンを復活させようという名目で、何名もの人間を害しているのだからさ」
「はい。ですがそれも、この世から調和が失われたゆえの結果なのではないでしょうか? 石の都の民たちが、魔術をも内包できるような文明を築くことができていれば……《まつろわぬ民》のような異分子を生み出さずに済んだのかもしれません」
レイフォンは、空になった茶の杯を手に立ち上がり、ティムトのほうに近づいていった。
「明敏すぎると、苦労が絶えないね。それは、十四歳の少年が抱え込むような苦悩ではないと思うよ」
レイフォンはティムトのやわらかい髪をくしゃっと撫でてから、そちらに置かれていた空の杯を取り上げた。
ティムトは乱れてしまった髪を撫でつけながら、とても不本意そうにレイフォンを見上げてくる。
「……そのように子供扱いすることはお控え願いたいと、なんべん言ったらご理解いただけるのでしょうか?」
「頭を撫でるのは子供扱いしてるんじゃなくて、親愛の表れさ。次は、ギギの茶でいいかな?」
そのとき、執務室の扉が外から叩かれた。次の間に控えていた小姓が、来客を告げてきたのだ。
「レイフォン様、ご面会を希望される御方が参られたのですが……如何いたしましょうか?」
「うん? どなたがいらっしゃったのかな?」
「ジェイ=シン様のご伴侶で、リミア・ファ=シン様と名乗られております」
レイフォンはきょとんとしながら、ティムトを振り返ることになった。
「おやおや、噂に名高いジェイ=シンの伴侶が、わざわざ面会に来てくれたのかな。まさか、ティムトが呼びつけたわけではないだろうね?」
「はい。さしあたって、僕がその御方を呼びつける理由はありません」
そんな風に答えながら、ティムトはずいぶんと深く眉をひそめていた。
「というか、その御方に関しては、くれぐれも用心するようにと伝えておいたはずなのですが、まさか単身で王宮内を動き回っているのでしょうか?」
ジェイ=シンは聖剣を振るうたびに、魂の力を削られてしまうという。そしてそれを回復するには、最愛の人間――つまりは伴侶の存在が必要となる、という話であったのだ。ダリアスにとってのラナと同様に、ジェイ=シンの伴侶である彼女も王国の行く末に関わる存在に成り果ててしまったのだった。
「それを確認するためにも、ご挨拶をさせていただこうかね。……いいよ、お通ししてくれ」
しばらくして、小姓の手によって扉が開かれた。
元気な足取りで入室してきた少女が、レイフォンたちに向かってぴょこんと一礼する。
「いきなりお邪魔してしまって、申し訳ありません! わたし、ジェイ=シンの伴侶でリミア・ファ=シンと申します!」
「ようこそ、リミア・ファ=シン。私がレイフォンで、こちらは従者のティムトだ」
ティムトは『禁忌の歴史書』を大事そうに抱え込みながら立ち上がり、礼を返した。
リミア・ファ=シンと名乗った少女は、にこにこと笑いながらレイフォンたちの姿を見比べている。
(ふうん……これが、ジェイ=シンの伴侶なのか)
それは、レイフォンがぼんやりと想像していた人物像とは、ずいぶん掛け離れた少女であるようだった。
まず、ずいぶんと若く見える。すでに婚儀をあげた身でありながら、「少女」と称するのがもっとも適切であるように思えるのだ。
髪や瞳は東の民のように漆黒で、肌も褐色をしている。背丈は十四歳のティムトよりもわずかに高いぐらいで、ほっそりとした身体を侍女のお仕着せに包んでいた。
顔立ちは、きわめて端正である。しかし、かつてダリアスが言っていた通り、美人というよりは可愛らしいというほうが相応であっただろう。黒い瞳はきらきらと光り、短めに切りそろえられた髪は、とてもやわらかそうだ。小柄でほっそりとしたその身体には、野生のランドルの兎みたいに生命力があふれかえっているように感じられた。
「ええと……とりあえず、そちらに座ってもらおうかな。ちょうど今、茶をいれなおそうとしていたところなんだよ」
「お茶ですか? でしたら、わたしがおいれします!」
お仕着せの裾をひるがえしながら、少女――リミア・ファ=シンはレイフォンに駆け寄ってきた。
「あ、いや、お客人に茶をいれてもらうのは悪いから――」
「でも、あなたは貴族なのでしょう? わたしは貴族に仕える侍女という名目で王都にやってきたので、どうぞおまかせください!」
問答無用で、レイフォンは両手に掲げていた空の杯を強奪されてしまった。
鼻歌まじりに部屋の奥へと向かったリミア・ファ=シンは、「うわあ」と声を弾ませる。
「すごく立派な茶器ですね! ギギに、アロウに、チャッチに、ラマムに……見たことのない茶葉もたくさん! どのお茶をおいれしますか?」
「ああ、うん。それじゃあ、ギギの茶でお願いするよ」
レイフォンは苦笑をこらえながら、ティムトの横に腰を下ろすことにした。
『禁忌の歴史書』を革の鞄に仕舞いこみながら、ティムトはすっかり仏頂面になってしまっている。ティムトは元気すぎる女性というものを、いささか苦手にしているのだ。
「ジェイ=シンはちょっとぶっきらぼうなところがあるから、ああいう元気な娘さんが伴侶に相応しいのかもしれないね」
レイフォンがこっそりそのように呼びかけてみても、ティムトは答えようとしなかった。
しばらくして、リミア・ファ=シンは盆を手に戻ってくる。そこには三人分の茶と、砂糖の壺もきちんと準備されていた。
「お待たせしました! このギギの葉も、すごく上等そうですね! 香りからして、違いがはっきりしています!」
「うん、ありがとう」
卓の上に茶の杯を並べたリミア・ファ=シンは、正面の長椅子にすとんと腰を下ろした。
それから、いくぶん慌てた様子で直立する。
「あっ! 貴族の前では、許しを得る前に座っちゃいけないんでしたよね! どうも失礼しました!」
「いや、最初に座るようにうながしているんだから、いいんじゃないのかな」
レイフォンの言葉に、リミア・ファ=シンはまたにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます! あなたはすごく偉い貴族なのに、あまり堅苦しくないのですね! わたし、堅苦しいのは苦手なんです!」
「うん。私も堅苦しいのは、苦手だよ」
苦い顔をしているティムトを余所に、レイフォンはなんだか愉快な心地であった。森辺の民の女性というのは、いったいどのような人柄であるのかと、レイフォンは長らく疑問に思っていたのだが――彼女は想像以上に明朗であり、そして魅力的であった。
(彼女とジェイ=シンが並んだら、なんだか兄妹みたいに見えてしまいそうだけど……でも、きっとお似合いなんだろうな)
ちょこんと座りなおした少女の姿を見返しながら、レイフォンはそんな風に考えた。
「それで、今日はどういったご用件であるのかな?」
レイフォンがそのように尋ねると、リミア・ファ=シンは「えーと」と可愛らしく小首を傾げた。
「用件ですか。用件は……特にありません」
「え? それじゃあ君は、何のためにここまでやってきたのかな?」
「それは、他にやるべきことが見当たらなかったからです」
そう言って、リミア・ファ=シンはぷっと頬をふくらませた。
「だって、今度はメルセウスさまやホドゥレイル=スドラまで王都を出ていっちゃったでしょう? ジェイは仕事の邪魔をするなって言って、ちっともかまってくれないし……わたし、とっても退屈なんです!」
「……退屈しのぎに、ヴェヘイム公爵家の嫡子たるレイフォン様のもとを訪れたということですか?」
ティムトが冷ややかな声で問い質すと、リミア・ファ=シンは「いえ!」と元気に首を振った。
「ジェイやメルセウスさまから、すべての責任者はレイフォンさまだとおうかがいしました! だから、責任を取っていただこうと思ったのです!」
「責任?」
「はい! だって、ジェイもメルセウスさまも、わたしには何も話してくれないのですよ? 王宮にはあれこれ風聞が飛び交ってるんだから、ジェイたちが何か危険な仕事のさなかにあることは丸わかりなのに……それで伴侶のわたしには何も話してくれないなんて、ちょっとひどくないですか?」
これはティムトに任せるべきだろうかと考えて、レイフォンは湯気をたてているギギの茶の杯を取り上げることにした。
苦みの強い芳香が、心地好く鼻腔をくすぐってくる。それを口にしたレイフォンは、思わず「おお」と感嘆の声をあげることになった。
「これは、見事な出来栄えだね。ギギの葉の持つ香りと味わいを、十二分に引き出しているようだ」
「えへへ。わたし、お茶のいれかたには自信があるんです!」
とたんにリミア・ファ=シンは無邪気な笑顔となって、自分の杯を取り上げた。
レイフォンと同じように、まずは香りを楽しんでから、可憐な唇に杯を運ぶ。とたんに、その目が幸福そうに細められた。
「本当に立派な茶葉ですね! わたし、こんなに香り豊かなギギの茶を口にしたのは、初めてかもしれません!」
「うん。その力を十全に引き出した君の手並みも、見事なものだよ」
「わたし、菓子作りを一番の得意にしてるんです! それで、菓子にはお茶がつきものでしょう? だから、お茶のいれかたもいーっぱい勉強したんですよねー」
リミア・ファ=シンはもうひと口、ギギの茶をすすると、満足そうに吐息をついて杯を下ろした。
「よかったら、今度わたしが菓子をお作りします! このギギの茶にぴったりの味を持つ菓子を作りあげてみせますね!」
「ああ、君はルイドという御仁にも、菓子を作ってくれたそうだね。そのおかげで、彼はずいぶん元気になったのだと聞かされているよ」
「はい! 菓子だけじゃなくて、料理も作ってあげましたよー。美味しいって言ってもらえて、すっごく嬉しかったです!」
彼女の笑顔は、まるで太陽のようだった。
人間とは、これほどに善意や好意といったものを剥き出しにすることができるのかと、レイフォンはいささか胸を打たれたほどである。
(森辺の狩人というのは尋常ならざる存在であったけれど……女性のほうも、まったく普通ではないみたいだな)
彼女はただ朗らかなだけではなく、その奥底に強靭さや精悍さといったものまでもが感じられた。
もしも彼女が怒りをあらわにしたら、どれほど恐ろしい目にあわされるか――そして、もしも彼女が悲しみをあらわにしたら、どれだけこちらも胸を揺さぶられてしまうか――きっと彼女は自分を取り巻く環境に臆することなく、その情感をさらけだすことができるのだろう。脆弱な人間には、決してかなわぬ所業であった。
「……それで君は、私に責任を問いたいという話であったね」
レイフォンがそのように切り出すと、リミア・ファ=シンは「はい!」と元気にうなずいた。
「でも、誤解しないでくださいね? 別に、あなたがたを責めたてようというつもりではないのです。人間にはそれぞれの仕事や役割というものがあるのですから、かまど番のわたしがみなさんの仕事に口を出すいわれはありませんものね!」
「それじゃあ、君はどうしようというのかな?」
「はい! だからわたしは、こうしてみなさんとお茶を楽しんでいます」
ティムトは額に手を添えて、溜め息とともに言葉をこぼした。
「それじゃあやっぱり、レイフォン様に責任を取らせるために、退屈しのぎの役割を求めているだけではないですか」
「えへへ。そういうことになっちゃうかもしれませんね!」
可愛らしく笑いながら、リミア・ファ=シンは小さく舌を出した。
どうもティムトの手には負えない様子であるので、レイフォンが口をはさむことにする。
「君には、申し訳ないと思っているよ。ギリル=ザザは長らく王都を離れてしまっているし、ジェイ=シンには王陛下の護衛役を申しつけられて、あげくにメルセウス殿とホドゥレイル=スドラはマルランに出陣だものね。これでは、気が休まらないのが当然だよ」
「いえ、みんなにはみんなの仕事があるのですから、それはいいのです。ただ、同胞であるわたしに何も説明してくれないのは、ちょっぴり寂しいし……ひとりぼっちだと、何をしていればいいのかもわからないのですよねー」
「そうか。だったら君にも、ひとつ仕事をお願いしようかな」
そう言って、レイフォンはリミア・ファ=シンに笑いかけてみせた。
「我々は、金狼宮に客人をおあずかりしているんだ。ギムに、デンに、フラウという人々なのだけれどね。よかったら、彼らの面倒をお願いできないかな?」
「ふうん? それは、どういう方々なのですか?」
「ギムとデンは城下町の人間で、フラウはクリスフィアという姫君の侍女だ。彼らも君と同じように、家族や主人が今回の騒ぎに巻き込まれてしまったため、身動きが取れなくなってしまったのだよ。ギムとデンなんかは、もうひと月近くも金狼宮に閉じ込められているんじゃないのかな」
「ひと月ですか! それは大変ですね!」
「うん。それでフラウの主人であるクリスフィア姫は、メルセウス殿とともにマルランへと向かうことになった。君とは似たような境遇であるのだから、色々と気持ちを分かち合うことができるのではないかな」
「承知しました! その方々と、お茶を楽しめばいいのですね?」
リミア・ファ=シンの無邪気な笑顔に、レイフォンも笑みを誘発されてしまった。
彼女はギムやデンと同じように、こちらで庇護するべき存在であるのだ。ならば、同じ場所にいてくれたほうが、こちらの気苦労も減ることだろう。
(一刻も早く、彼女を同胞たちと再会させてあげたいところだけど……ギリル=ザザやホドゥレイル=スドラたちは、今頃どうしているんだろうな)
ギリル=ザザはゼラド軍のもとに向かい、ホドゥレイル=スドラは妖魅の待つマルランへと出立した。どちらも、過酷な任務である。
しかし、あれほどの力を持つ森辺の狩人であるならば、むざむざと生命を散らすことにはならないだろう。レイフォンとしては、そのように信ずる他なかった。