Ⅰ-Ⅲ 災厄の痕跡
2020.2/29 更新分 1/1
ナーニャの一行が西の王都アルグラッドを目指すために、グワラムを出立してから五日目――黄の月の十九日である。
その日も朝から順調な道行きであったが、昼下がりの小休止の時間に、ちょっとした異変が報告されることになった。
「隊長殿。王都よりの狼煙を確認いたしました。こちらにおいでいただけますでしょうか?」
伝令役である兵士の呼びかけに応じて、キャメルスはトトスの車を出ていく。残されたのは、ナーニャの一行――ゼッドとリヴェル、チチアとタウロ=ヨシュ、そしてイフィウスの六名であった。
この四日間で、ナーニャは少しずつ回復してきている。しかし、歩くにはまだ余人の介助が必要であったし、体温もそれほど下がってはいない。表面上は平気な顔をしているが、その身の内には想像を絶する苦痛が渦巻いているのだろう。ナーニャは炎の魔術を行使する回数を重ねるたびに、心身の回復が覚束ないようになってきているように感じられた。
「グワラムを出て、もう四日か……あと数日で、王都に到着することができるのだろうね」
厚く重ねた敷物の上に座したナーニャは、誰にともなくそのようにつぶやいた。
それに応じたのは、ずっとタウロ=ヨシュと小声で語らっていたチチアである。
「……ねえ。あんた、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫って、何がだい? 身体は、ずいぶんと楽になってきているよ」
「身体のほうもだけど、そうじゃなくって……あんた、王都なんかには近づきたくなかったんでしょ?
彫像のように不動であるイフィウスのほうをちらちらと見やりながら、チチアは小声で言いたてた。
ナーニャは美しい白銀の髪をかきあげながら、「ああ」と笑う。
「その件か。まあ、本当だったら王都なんかに近づく気はなかったけど……かといって、メフィラ=ネロを放っておくことはできないからね。メフィラ=ネロに西の王都を潰されてしまったら、王国の一大事だろう?」
「それはそうかもしれないけど……」
「うん。メフィラ=ネロとの決着をつけた後は、僕自身の問題をどうにかしないといけないんだろうね。……余計な口出しをせずに見守ってくれていることを感謝しているよ、イフィウス」
イフィウスは、月光のように冷ややかな眼差しでナーニャを見た。
「わだじはおうごぐをずぐうだめに、あなだのぢがらがびづようであるどがんがえだまでだ。あなだをごぐばづずるのは、メヴィラ=ネロをじりぞげだあどでもおぞぐはあるまい」
「うん、ありがとう。まずは、メフィラ=ネロを退けないとね」
そのとき、車の外に出たキャメルスが早々に戻ってきてしまった。
「お待たせしたね。それでは、出発するとしようか」
キャメルスが扉を閉めて座席に落ち着くと、待つほどもなく車が動き始める。
かたわらのゼッドにそっともたれかかりながら、ナーニャはキャメルスに微笑みかけた。
「狼煙というのは、なんだったのかな? もしかしたら、王都の軍勢が出迎えに来てくれるとか?」
「ああ、いや、我々には無関係の狼煙であったよ。だけどまあ、おかしな誤解を生んでしまわないように、いちおう説明させてもらおうかな」
いつでも穏やかなキャメルスは、普段通りのやわらかな口調で言葉を重ねた。
「さっきのはね、王都の軍の出陣を告げる狼煙であったのだよ。王都の軍が、これから向かおうとしている砦に対して受け入れの要請を送ったわけだね。……で、王都の軍の向かう先は、南方だ」
「南方か。確かに、僕たちとは無関係のようだね」
「うん。普通に考えれば、ゼラドの軍を迎え撃つための出陣だね。メフィラ=ネロが咽喉もとにまで迫っているこの時期に、厄介なことだよ」
ナーニャとキャメルスは茶飲み話のように語らっていたが、軍人たるイフィウスは鋭く瞳を光らせていた。
「じがじ、ゼラドがうごぐには、じぎがばやいようにおもえる。なにが、いべんでもあっだのだろうが?」
「それは、わかりません。ゼラド軍の目にとまるのを警戒しているのか、ただ南方に出陣するという旨しか告げられておりませんでしたよ。兵力も指揮官も、不明です」
「ふうん。狼煙のひとつで、兵力や指揮官の名を告げることも可能なのかい?」
ナーニャがのんびり問いかけると、キャメルスは笑顔で「それはそうさ」と応じた。
「狼煙の色や煙を区切る回数で、そういったことを告げることができるのだよ。ただまあ……王都の軍はグワラム戦役を終えたばかりだし、半数の十二獅子将を失ったところであるのだから、苦しい戦いを強いられることに間違いはないだろうね」
「…………」
「あ、申し訳ありません、イフィウス殿。もちろん、王都の苦境を茶化しているわけではないのですよ。ただ僕は、ゼラド軍との戦いに身を投じた経験がないため、あまり実感がわかないようなのです」
アブーフは北方の領地であり、ゼラドは南方の領地であるのだから、それは当然の話であるのだろう。ゼラドからもマヒュドラからも遠い領地で、戦とは無縁の人生を送っていたリヴェルにとっても、ゼラド大公国などというのは風聞で聞くだけの存在に過ぎなかった。
(でも、戦争か……人間は、どうして戦争なんてするんだろう)
リヴェルがそのように考えている間に、キャメルスがまた声をあげていた。
「さて、それでは今後の行路についてもお伝えしておきましょうか。本日は、夕刻までにベッドの町を目指す予定です。そこで一夜を明かしたら、次の日没ぐらいにはマルランに到着できるかと思われます」
「マルラン」と、ナーニャが反復した。
「それは、王都の一部である五大公爵領の名であるはずだよね。明日の夜には、もう王都に到着してしまうということなのかな?」
「うん。でも、五大公爵領というのはたいそう広大な領地であるという話だからね。トトスに車を引かせたこの部隊では、マルランから王都までに丸一日はかかるのじゃないかな」
「そうか……」と、ナーニャは思案深げに白銀の睫毛を伏せた。
「わずか四日で、そこまで王都に近づけるとは思っていなかったよ。グワラムから王都まで、徒歩だったら半月以上はかかるのだろうしさ」
「いやいや、グワラムから王都までは、ずいぶん街道が整備されているようだからね。それを辿れば、徒歩でも半月はかからないのじゃないかな。……もっとも、街道を外れて辺境の森や荒野を突き進んでいたら、半月でも足りないぐらいなのだろうけれどね」
そんな風に答えてから、キャメルスはにっこりと微笑んだ。
「それで、君は何を案じているのだろうね? 道行きが順調すぎると、何か不都合でも生じるのかな?」
「いや。気を引き締めなおしているだけだよ。僕たちがメフィラ=ネロを追い抜いたりしていなければ、もう目前に脅威が迫っているはずだからね」
目を伏せたまま、ナーニャはすっと赤い唇を吊り上げる。
「本当だったら、もう少し回復の時間が欲しかったところだけど……そんな泣き言を言っているいとまもないみたいだ。確認させてもらうけど、火の準備は万全だね?」
「うん。別の車に、油の樽をどっさりと準備しているよ。さすがに投石器までは準備できなかったけどさ」
「それは、王都で準備してもらおう。氷雪の巨人に投石器が有効であるということは告げてくれたんだよね?」
「うん。先日の書簡でね。……でも、一度は死にかけたメフィラ=ネロが、そんなすぐに氷雪の巨人なんかを準備できるのかな?」
「それは、この地にどれだけの魔力があふれかえっているかだろうね。メフィラ=ネロがすべての力を取り戻していないことを祈るばかりだよ」
そんな不吉な言葉を残して、ナーニャは敷物に身を横たえた。
「僕は、少し眠らせてもらおうかな。王都が近いなら、僕も少しでも力を取り戻しておかないとね。……何かあったら、すぐに起こしておくれよ」
幸いなことに、しばらくはナーニャの眠りをさまたげるような異変も勃発しなかった。
ときおりキャメルスがイフィウスやゼッドに語りかけるぐらいで、行軍は静かに進められていく。部外者であるキャメルスに陣取られていると、リヴェルたちも迂闊な言葉は口に出せないのだ。
太陽は西に傾いていき、車内はどんどん暗くなっていく。
そうして、そろそろ燭台が必要なのではないか、というぐらいに日が落ちたとき――リヴェルたちを乗せた車は、ようやく動きを停止させた。
「ベッドの町に到着かな」と、キャメルスは大きくのびをした。
「まあ、ベッドというのは小さな町なんでね。適当に食事だけ買い求めて、また車や天幕で夜を明かすことになると思うよ。十名や二十名分の宿を提供してもらうことができたとしても、戦力を分散させるべきではないだろうしね」
すると、車の扉がいささかならず乱暴に叩かれた。
ゼッドやイフィウスは、すみやかに表情を引き締める。キャメルスは、きょとんとした面持ちで身を起こした。
「どうしたんだい? まさか、氷雪の妖魅でも出現したのかな?」
「いえ、そういうわけではないのですが……しかし、魔術師ナーニャが必要であるかもしれません」
扉の外から響いてくる兵士の声は、緊迫しきっていた。
キャメルスが目を向けると同時に、ナーニャは寝具から身を起こす。
「聞こえていたよ。何か、異変が生じたようだね」
「うん、どうやらそのようだ。各自、武装をお願いするよ」
武装と言っても、長剣を携えているのはゼッドとイフィウスとキャメルスのみだ。チチアとタウロ=ヨシュは短剣の所持だけが許されており、ナーニャとリヴェルに至っては完全に手ぶらであった。
一行が車を降りてみると、世界は薄闇に包まれている。
太陽は西の果てに没しかけ、空は暗い紫色だ。前後にのびた二千の軍勢の兵士たちは、おのおの松明に火を灯しているところであった。
リヴェルたちが身を寄せ合って待機していると、伝令の兵士から報告を受けていたキャメルスが頭をかきながらこちらに向きなおってくる。
「部隊の先頭は、すでにベッドの領内に足を踏み入れているのだけれどね。どうにも普通ではない様子であるようだよ」
「普通ではないというと?」
「領民の姿がなく、明かりを灯している家も皆無であるらしい。これだけ日が落ちているのに明かりを灯そうともしないのは、ちょっと普通ではないよね」
「それは、もっともだ」と、ナーニャは真紅の瞳を妖しくきらめかせた。
「それじゃあ僕たちも、そのベッドの町とやらを拝見させていただこう。念のために、油の樽を積んだ車の同行をお願いするよ」
「ああ、やっぱりそうなるのか。どうか杞憂であってほしいものだね」
すると、無言で話を聞いていたゼッドが、ナーニャの身体を両腕で抱きあげた。
ナーニャはくすくすと笑いながら、ゼッドの髪に頬をすりつける。
「なんとも格好がつかないけれど、このほうが手っ取り早いだろうね。リヴェル、チチア、なるべく僕から離れないようにね」
そうして一行は、街道に立ち並んだ兵士たちの脇を抜ける格好で、ベッドの町を目指した。
キャメルスは落ち着き払った様子であるが、兵士たちは動揺をあらわにしている。この場にいる兵士たちは、全員がメフィラ=ネロや氷雪の妖魅たちの脅威を体験した身であるのだ。あの悪夢が再来するかもしれないと考えれば、動揺するのが当然であった。
しばらくすると、黒い巨大な影が眼前に迫ってくる。ゼッドの町を守る石塀だ。そこに設えられた両開きの大きな門は開け放たれたままであり、それを守る人間の姿もなかった。
キャメルスの引き連れた十名ばかりの兵士たちと、油の樽を積んだ車とともに、門をくぐる。
伝令の兵士が告げていた通り、町は闇に閉ざされていた。
あちこちに松明の火がうかがえるが、それは町を探索する兵士たちのものであろう。少なくとも、街路の脇に立ち並ぶ家は静まりかえっており、窓に明かりも灯されていない。普通であれば夜の食事を始めている刻限であろうに、ベッドの町は廃墟のように虚ろな気配を漂わせていた。
「キャメルス隊長、やはり領民の姿は発見できません。ただ、争った跡なども見当たらないようなのですが……」
「うん。これは、どういうことなんだろうね?」
キャメルスに視線を向けられると、ナーニャは悪い精霊のように微笑んだ。
「僕にもまだ、確たることは言えないけれど……ゼッド、手近な家の様子を確認させてもらおう」
ナーニャの指示に従って、ゼッドは右手側の家屋に近づいていった。
リヴェルやキャメルスたちもそれに追従し、その家屋の前に立ち並ぶ。松明の火に照らされるのは、何の変哲もない木と石造りの家屋であった。
「扉を開けてもらえるかい?」
ゼッドは無言で、タウロ=ヨシュを振り返った。ゼッドは左腕でナーニャを抱えあげており、そして右手は剣を振るう以外の動作が不如意であるのだ。
タウロ=ヨシュは精悍な面持ちで、扉をゆっくりと引き開けた。
扉の内部は、漆黒の帳に閉ざされている。
しばらくその闇を凝視していたナーニャは、かたわらに控えていたキャメルスを振り返った。
「ちょっと足もとを照らしてもらえるかな?」
ゼッドが身を引くと、兵士のひとりが松明を足もとに突きつけた。
その瞬間、リヴェルの背筋に冷たいものが走っていく。
そこに残されていたのは、このような場所に存在するはずのないもの――きらきらと輝く、氷雪の破片であった。何か氷の塊でも引きずったかのように、家の床に氷雪の白い痕跡が残されていたのだ。
「どうやらこの町の領民は、氷雪の妖魅と化してしまったようだね。メフィラ=ネロの魔術で絶命させられて、生ける屍になってしまったのだと思うよ」
リヴェルの頭上から、ぎりっという音色が響きわたった。タウロ=ヨシュが、奥歯を噛み鳴らしたのだ。
タウロ=ヨシュの家族や同胞も、そうして生ける屍と化してしまったのだ。氷漬けの人間が妖魅として襲いかかってくる姿を思い出したリヴェルは、悲鳴をこらえるために固く唇を引き結ぶことになった。
「それは、由々しき事態だね。でも、その気の毒な領民たちはどこに行ってしまったのだろう? いくら小さな町とはいえ、千人や二千人ぐらいの領民はいたと思うのだけれど……」
「どうだろうね。近隣の町を襲っているのかもしれないし、王都を目指したのかもしれない。どちらに突撃するべきかは、君の判断におまかせするよ」
「やれやれ。どの道、この夜は眠ることを許されないようだね」
あくまで柔和な表情は崩さずに、キャメルスは背後の兵士たちを振り返った。
「予定を変更して、五大公爵領のマルランを目指す。町を探索させていた人員は撤収させて、すぐに出発だ」