Ⅴ-Ⅱ 決行の日
2020.2/22 更新分 1/1
そうして訪れた、運命の日――黄の月の二十七日である。
その日こそが、ドエルの砦からの脱出の決行日であった。
それはすなわち、ゼラド軍の本隊がグリュドの砦に到着する日取りとなる。ゼラドの本隊が到着してしまえば、王都の軍との戦いも回避できぬはずであったが――知略家と名高い王都のレイフォンなる人物は、その日こそを脱走決行の日と指示してきたのだった。
(まあ、あたしなんかには及びもつかない悪巧みがあるんだろうさ。あたしはシルファを守り抜くことを考えるだけだ)
この二日間で、メナ=ファムはそのように覚悟を固めていた。
メナ=ファムたちには、外界の様子がさっぱりわからない。伝書鴉というあやしげなものを使って王都やグリュドの人間とやりとりをしているダックは、さぞかし色々なことをわきまえているのであろうが、メナ=ファムたちにはそれらをなかなか語ろうとしなかったのだ。
(今にして思えば、そいつはあたしらを信用していないってことだったのかね。あたしらがこっそりゼラドの連中と内通していたら、すべてが台無しになっちまうから、あんまり迂闊なことは言えないってわけだ)
もちろん、メナ=ファムたちが会ったこともないレイフォンという人物に信用されているわけがない。何せこちらはシルファを偽の第四王子に仕立てあげて、ゼラド軍をここまで呼び寄せてしまった大罪人であるのだ。普通であれば、シルファを暗殺でもしてこの世から抹消してしまうのが、一番の早道であっただろう。
あちらがそのように短絡的な真似をしなかったのは、何かしらの事情があってのことなのかもしれないが――ともあれ、メナ=ファムたちを救ってくれようという考えであるのなら、全力でそれにすがるしかなかった。
計画の決行日を知らされてからの二日間は、平穏そのものであった。
近在の砦から攻撃を仕掛けられることもなく、ただのんびりと時間が過ぎていく。ただ、その平穏さにこそ、エルヴィルは不穏の気配を嗅ぎ取っているようだった。
「ドエルの砦まで侵攻されて、王都の軍がこうまで何の動きも見せないというのは、ありえないことだ。やはり王都のレイフォンは、常ならぬ策略でゼラド軍を撃退しようと考えているのだろう」
聞けば、ここから王都までは、トトスにまたがって三、四日の距離であるという。このドエルの砦には三万からのゼラド軍がのさばり、さらに五万の軍勢が鼻先まで迫っているのだから、普通であれば黙っていられるわけがないのだ。
しかしメナ=ファムは、もうそういったことを気にしないように努めていた。
外の騒ぎは、外の連中に任せておけばいい。メナ=ファムは、シルファを守ってこの砦から脱出する。そのことだけに、すべての力を尽くそうという覚悟であった。
そうして脱出の決行日も、日中は何事もなく時間が過ぎていき――昼の食事を終えたところで、ようやくひとつの異変が生じた。
ゼラド軍の大隊長ラギスが、ひさかたぶりにメナ=ファムたちの前に姿を現したのだ。
「息災なようだな、王子殿下。それに、メナ=ファムよ。ずいぶん長いこと、ほったらかしにしてしまったな」
ラギスは飢えた獣のように両目をぎらつかせながら、そのように言い放った。
ラギスは、エルヴィルの計画した陰謀の、秘密の協力者である。王都を陥落させたのちは、シルファが次代の王となり、そして、半陰陽であることを公表した上で、ラギスを伴侶に迎える――というのが、ゼラドの大公ベアルズをも出し抜こうという、秘密の計画であったのだった。
その計画がすでに破綻しているということを、ラギスはまだ知らされていない。本物の第四王子と、エルヴィルにとっての恩人であるヴァルダヌスという者が、生存している可能性が高いということを、ゼラドの者たちはまだ誰ひとりとして知らないのだ。
「……ふふん。このような場所に閉じ込められて、さぞかししょぼくれているのだろうと思っていたのだが……どうやらそれは、杞憂であったようだな」
ラギスは獣のように笑いながら、そう言った。
その姿を見返しながら、メナ=ファムはふっと考える。
(思えば、こいつに対してもずいぶん不義理な真似をしちまうんだね。こいつにすべてを押し隠したまま、とっとと逃げ出しちまおうっていう作戦なんだからさ)
ラギスは、ベアルズ大公が伴侶ならぬ相手に産ませた子であるのだという。あの、怠惰で幼稚なふとっちょ公子たちは、このラギスの腹違いの兄弟であるということだ。
しかし、不義の子であるラギスが大公家を名乗ることは許されない。そんな不遇の扱いに怒りを覚えたラギスは、父たる大公を出し抜いて王国の支配者となるべく、エルヴィルの陰謀に加担することに相成ったのだった。
(でもそれは、きっと正しいことじゃない。あんたもエルヴィルみたいに正気に戻ってくれることを祈っているよ、ラギス)
メナ=ファムがそんな風に考えている間に、ラギスはシルファへと近づいてきた。
「王子殿下よ、約束の時はもうすぐだ。俺はこの手で現在の王を斬り捨てて、お前に玉座を与えてみせよう。そして、ゼラドの者たちからもお前を守り抜き、ともに王国を支配するのだ」
危険な笑みを浮かべたラギスに詰め寄られて、シルファは青ざめた顔をしている。
しかし、血の色を透かせたその灰青色の瞳は、ラギスの笑顔からそらされたりはしなかった。
「それまでの間、決して俺を裏切るのではないぞ。もしもお前が、俺を裏切ったならば……誓って、この世に生まれたことを後悔するほどの目にあわせてくれよう」
「……はい。あなたもまた約束を守ってくれるものと、わたしも心から信じています」
透き通った声で、シルファはそのように答えた。
ラギスはひとつ鼻を鳴らすと、満足した様子で身を離す。
「以前とは比べ物にならぬほど、肚も据わったようだな。……それでは、失礼する。お前たちは、せいぜいくつろいでいるがいい」
「待ちなよ。あんたはそんな話をするためだけに、わざわざこの部屋を訪れたのかい?」
メナ=ファムが口をはさむと、ラギスは「まあな」と唇の片方を吊り上げた。
「俺の部隊は、しばしドエルを離れることになった。その前に、念を押しておこうと考えたまでだ」
「ドエルを離れる? ついに王都とやりあうのかい?」
「その際は、エルヴィルの力を借りることになろう。あとは、察しておけ」
ラギスは最後に底ごもる笑い声を響かせて、部屋を出ていった。
しばらく時間を置いてから、メナ=ファムはエルヴィルとともに奥の書架へと身を寄せる。ダックが身をひそませている、隠し部屋の入口である。
「ダック、今のはどういう話だったんだい? あんただったら、わかるんだろ?」
「はい……ベアルズ大公の率いる軍勢が、グリュドの砦に迫っているのです……周囲の砦からの襲撃を警戒して、このドエルからも一万の軍を派遣することと相成りました……ラギス大隊長は、その指揮官に任命されたのです」
「ふうん。ようやくベアルズ大公のお出ましかい。あたしらの計画に、今さら変更はないんだろうね?」
「はい……これぞまさしく、レイフォン様の待ち望んでいた展開でありましょう……この夜に、ドエルからの脱出を果たしたく思います……」
ならば、メナ=ファムたちにも不満はなかった。
三万から成る軍勢の一万がドエルを離れたところで、こちらの有利になることはないように思えるが――そのようなことは、考えてもしかたがない。あとはダックの案内に従って、ドエルの砦から逃げのびるのみであった。
窓から下界を見下ろしてみると、確かに中庭でゼラドの兵士たちが出陣の準備を進めている。
ドエルからグリュドまでは、荷車を引いていても半日足らずの距離である。トトスにまたがって駆けさせれば、数刻で到着することができるだろう。
かつてグリュドの砦に出現したおぞましい妖魅はどうなったのか、そもそも現在のグリュドの砦には、どれだけの王都の軍勢が潜んでいるのか。
そんなことを知るすべもないままに、メナ=ファムたちは人事を尽くすしかなかった。
(あと心配なのは、ギリル=ザザとドンティか。……あんたたちも、どうにか上手く逃げのびておくれよ)
そうしてその後は異変らしい異変が起きることもなく、メナ=ファムたちは夜を迎えることになった。
本日は軍議でエルヴィルが呼び出されることもなく、晩餐も普段通りの刻限に届けられた。ラギスの部隊が出陣した他は、平穏すぎるぐらいに平穏な一日だ。
晩餐をたいらげたメナ=ファムたちは、いつも通りに食後の談笑を楽しんでから、やがて寝所へと身を移す。
それぞれの寝具に身を横たえて、一刻が過ぎ、二刻が過ぎ――
そうしてとっぷりと夜も更けたところで、ようやく寝所の扉がひそかに開かれることになった。
狩人としての明敏な感覚でそれを知ったメナ=ファムは、すかさず寝台の上で身を起こす。
細く開いた扉の向こうには、灯篭を掲げたダックの姿があった。
「お待たせいたしました……脱出を、決行したく思います……」
「了解」と短く返して、メナ=ファムはシルファの肩を揺さぶった。眠れるものなら眠っておいたほうがいいと言いつけておいたので、シルファもついさっきようやく寝息をたて始めたところであったのだ。
その間に、足もとの寝具で身を休めていたエルヴィルとラムルエルも身を起こす。黒豹のプルートゥは、なかなか目を覚まさないシルファの頬を優しくなめていた。
「ちょうど寝入ったところで気の毒だけど、出立だそうだよ、シルファ」
「はい……わたしは、大丈夫です……」
ようやく身を起こしたシルファは、眠気を払うように小さく頭を振った。
その短く切りそろえられた銀灰色の髪を撫でてやってから、メナ=ファムはダックに向きなおる。
「ゼラドの連中にあやしまれないように、夜着に着替えちまったんだよね。これじゃあ不用心だから、着替えさせてもらっていいだろうね?」
「……早急にお願いいたします……」
ダックはすうっと広間のほうに引っ込んでいった。
シルファはもっとも簡素な衣服を身に纏い、メナ=ファムとエルヴィルは甲冑の下につける分厚い鎧下の胴着を纏う。荒事を警戒するならば甲冑を纏ったほうが安全であろうが、それではあまりに目立ちすぎてしまうだろうという判断だ。ただしもちろん、長剣と短剣を置いていくことはできなかった。
そうして最後には、全員が頭巾つきの外套を纏う。
これで、準備は万端であった。
「待たせたな。案内を願いたい」
エルヴィルが小声で呼びかけると、ダックは恭しげに書架のほうを差し示した。
書架の位置が横にずれており、壁にぽっかりと四角い穴が空いている。隠し部屋への入り口である。
「どうぞ、こちらに……わたくしがお足もとを照らしますので……」
エルヴィルを先頭に、ラムルエル、プルートゥ、シルファ、メナ=ファムの順番で入り口をくぐった。
最後にやってきたダックが壁をまさぐると、書架が動いて入り口をふさぐ。石の都の、からくり仕掛けだ。
「なるべく、お声はたてないように……隠し通路は、こちらでございます……」
そこは、表の回廊と大差のない、石造りの通路であった。
ただし、きわめて隘路である。ふたりが並んで歩くことが困難なほどで、明かり取りの窓すら存在しないためか、たいそう息苦しく感じられた。
しばらく進むと、先陣を切っていたダックが足を止めて、床にうずくまる。
その骨ばった指先が床をまさぐると、床の一部が四角く持ち上がった。
「こちらが、階下へと通ずる梯子となります……くれぐれも、手や足をすべらさぬようにご注意ください……」
それは、人間がひとりぎりぎり通れるていどの、四角い漆黒の穴であった。
この暗鬱な空間を通り抜けない限り、明るい行く末をつかむことはできないのだ。メナ=ファムは、小さく震えるシルファの肩をつかみながら、母なるシャーリに祈りを捧げることになった。