Ⅳ-Ⅱ サランの砦
2020.2/15 更新分 1/1
七個大隊の騎兵から成るダリアスの部隊が、独自に進軍を開始してから二日後――黄の月の二十一日である。
一行は、至極順調に街道を突き進んでいた。最低限の荷物だけを携え、ほとんど身ひとつでトトスにまたがっているのだから、この世で最速の進軍であろう。王都からほど近いこの区域では、要所に砦や町が築かれているので、路銀や食糧の心配をする必要もないのだ。
ただしダリアスは、ひとつの憂いを胸中に抱え込んでいた。
伝書鴉の恩恵により、五大公爵領のマルランが妖魅に襲撃されたという事実を知らされたのである。
その事実を知らされたのは、昨日のことだ。王都では討伐部隊が編制され、二個大隊がマルランに派遣されたという。
しかしその中に、ジェイ=シンの名はなかった。
ジェイ=シンはダリアスと同じように、妖魅を滅する聖剣の所有者であったのだが、このたびの討伐部隊には組み込まれなかったのである。
理由は、わからない。ごく短い文面しか綴ることのできない伝書鴉の書簡では、そこまで詳細を書き記すこともかなわなかったのだろう。
もちろん、レイフォンおよびティムトには、何か考えがあってそのように采配を振るったのであろうが――ダリアスの胸に生じた不安が消えることはなかった。
(しかしそれでも、フゥライ殿が同行することがかなったのは、救いか)
フゥライも、ちょうど昨日になってダームから王都に帰還したのだそうだ。
フゥライは学士長に過ぎないが、魔術師トゥリハラから魔術や妖魅の知識を学んでいる。それに、ダリアスたちと同じように、退魔の護符を携えているのだ。よほどのことがなければフゥライの身に危険が及ぶことはないだろうし、その叡智は討伐部隊の大いなる力になってくれるはずだった。
(それにしても、クリスフィア姫やメルセウス殿やホドゥレイル=スドラまでもが同行することになろうとはな)
狩人であり剣士でもあるホドゥレイル=スドラはまだしも、残りの二名は侯爵家の嫡子なのである。しかも、彼らの故郷であるアブーフとジェノスは、王都からもっとも遠い領地であると同時に、王都に次ぐ豊かさを持つ領地でもある。特に、交易で栄えるジェノスなどはかねがね第二のゼラドに成り得るのではないかと囁かれていた領地であるので、その取り扱いには慎重を要するはずであった。
(まあ、現在はそのようなことにかかずらっている場合ではないというのは、百も承知だが……それにしても、大胆な采配だ)
どうせこれも、レイフォンの影に潜んだティムトの采配であるのだろう。明敏に過ぎるあの少年は、ダリアスよりも遥かな行く末を見据えた上で、行動を決しているに違いない。ダリアスとしては、そのように信ずる他なかった。
(それよりも、俺は俺の使命を果たさねばならんしな)
あちらのほうもそのように考えているのか、現在のところはマルランに関する続報も届けられていなかった。
まあ、王都からマルランまでは、トトスにまたがっても半日の距離であるのだから、クリスフィアたちが到着したのは昨晩の遅くになってからであろう。なおかつ、クリスフィアたちは伝書鴉などという便利なものも携えていないのだから、いまだレイフォンたちもマルランの状況を把握できていないのかもしれなかった。
(こちらの旅程は順調だから、明日にはドエルの砦を越えて、グリュドの砦に到着できるだろう。ゼラドの軍に後れを取ることはないはずだ)
そうして、その日の夕暮れ時――ダリアスの部隊は、目的の地であるサランの砦に到着することができた。
サランの砦は、ドエルの砦を目指す部隊が身を休めるための、中継拠点である。ゼラド軍に対する防衛拠点はあくまでグリュドであるために、サランやドエルに常駐の部隊は存在しない。ただ、兵舎や食糧庫や物見の塔を管理するための人間が、数百名ばかり滞在しているのみであった。
ダリアスたちの行軍は狼煙で伝えられていたので、城門は速やかに開かれる。
城門も城壁も、至極ささやかな規模である。敵軍がここまで攻め込んでくることは、想定されていないのだ。そうだからこそ、ダリアスたちは一刻も早くグリュドの砦まで駆けつけなければならなかったのだった。
「よし、今日はここまでだ。ラナも、ずいぶん疲れたろう?」
ラナがトトスから降りるのを手伝ってやりながら、ダリアスがそのようにねぎらうと、彼女は持ち前の健気さで「いえ」と首を横に振った。
「わたしなどは、荷物のように揺られているだけですので……手綱を操るダリアス様に比べれば、どうということもありません」
「しかし、鍛えていない人間が一日中トトスに揺られるというのは、それだけで苦痛であるはずだ。リッサなどは、いつも不平をこぼしているではないか」
「わたしは、大丈夫です。その……腰の皮膚が破けたりもしておりませんし……」
と、ラナは恥ずかしそうに頬を赤らめた。尻が痛い尻が痛いとわめくリッサの姿を思い出しているのだろう。そんな、常と変わらぬラナの様相が、ダリアスの心を和ませてくれた。
そこに、サランの関係者と思しき若い武官が駆けつけてくる。
「し、失礼いたします。十二獅子将のダリアス様でございますね? 至急、お目通りを願っている方々がおられます」
「お目通り? サランで他の部隊の人間と落ち合う予定はないぞ。近隣の部隊は、のきなみグリュドに集結しているはずだ」
「は、その方々は……なんでも、秘密裡の任務を負っているという話でありまして……」
どうにも要領を得なかったので、ダリアスは直接その者たちから話を聞くことにした。
トトスの始末は他の人間に任せて、ルブスとリッサも呼びつける。これが《まつろわぬ民》による罠か何かであるのなら、ラナとリッサの力も必要であるはずだった。
そうして武官に案内されたのは、これから向かおうとしていた兵舎の一室であった。
ダリアスの来訪が告げられると、扉が内側から開かれる。そこから現れたのは、ずいぶんとむさ苦しい髭面の男であった。
「おお、ダリアス殿! よくぞご無事で戻られた! 赤の月より、ずっとダリアス殿の身を案じておりましたぞ!」
「なに? 俺を見知っているのか?」
ダリアスの言葉に、男は愉快そうに笑いながら髭面をまさぐった。
「この面相では、無理からぬことでしょうかな。俺は、百獅子長のベルデンと申します。そら、先のゼラドとの戦いでは、陽動部隊を率いることになった――」
それでもダリアスはしばらく思い悩むことになったが、やがてようやく「ああ」と腑に落ちた。
「ディラーム老に紹介された覚えがある。あの、ベルデン殿か」
「そうですそうです。ディラーム老が第一遠征兵団長の頃からお引き立ていただいていた、あのベルデンです」
その人物であれば、戦や王都の祝宴で何度か言葉を交わした覚えがあった。ダリアスの父親ぐらいの年齢であるはずだが、陽気で大らかな人好きのする人物であった。
「確かに、見違えた。どうしてそのように、山賊のごとき髭を生やされているのだ?」
「これも、密命のためでありますな。我々はディラーム老のご命令で、旅人に身をやつしておったのです」
その言葉で、ダリアスはさらなる記憶を想起させられることになった。
「では、もしや……ロア=ファムなる自由開拓民の狩人を、ゼラド軍のもとまで送り届ける密命を?」
「その通りです。残念ながら、そのお役目を果たすことはかないませんでしたが……とにかく、お入りくだされ。事情をご説明いたします」
ダリアスは、さっぱりわけのわかっていないラナたちとともに、その部屋へと踏み込むことになった。
日没が近いので、部屋は薄暗い。そこにはベルデンの他に、二名の人間が待ちかまえていた。
片方は寝台で半身を起こしており、もう片方は寝台のかたわらに立ち尽くしている。前者は少年で、後者は若者だ。その、ちょっと神経質そうな顔立ちをした痩身の若者が、ダリアスの姿を見るなり最敬礼をした。
「十二獅子将のダリアス殿でありますね? 小官は、第一防衛兵団三番隊第二中隊所属、タールスと申します」
「第一防衛兵団? ……ああ、そうか。お目付け役として、第一防衛兵団の人間も同行しているのだという話だったな」
そのように応じながら、ダリアスは寝台のほうに目をやった。
ベルデンとタールスは市井の商人めいた身なりをしているが、いかにも王都の武官らしい雰囲気を漂わせている。しかし、寝台の上で静かに目を光らせているこの少年は――明らかに、彼らとは異質であった。
ぼさぼさの髪は赤みがかっており、黄褐色の肌は日に焼けている。顔立ちそのものは意外に端正であるのだが、そのほっそりとした身体には野生の獣めいた生命力が満ちており――そして、黄色く光るその双眸も、尋常ならぬ熾烈さをたたえていた。
「……察するに、お前がロア=ファムであるのだな?」
ダリアスの呼びかけに、少年は「うむ」とうなずいた。
「俺はシャーリの狩人、グレン族のロア=ファムだ。このように座ったままで、失礼する」
「それはかまわんが、どこか手傷でも負っているのか?」
その問いかけには、ベルデンが苦笑まじりに答えてくれた。
「ロア=ファムは、妖魅の襲撃によって三本もの肋骨をへし折られてしまったのです。本人はもう大丈夫だと言い張っておりますが、それをなだめて身を休ませております」
「妖魅に、襲撃されたのか?」
「ええ。その事情を、説明させていただきましょう。みなさん、どうぞ奥に」
奥と言っても、兵舎の狭苦しい寝所である。ダリアスたちは寝台のロア=ファムを囲むようにして立ち並び、ベルデンの言葉を聞くことになった。
「我々は二日ほど前に、妖魅の襲撃を受けました。カロンやムントといった獣の屍骸が妖魅と化して、我々に襲いかかってきたのです。五十余名の部隊員のおよそ半数が、それで魂を返してしまい……なんとか身動きの取れる人間だけで、このサランの砦に駆け込んだ格好となりますな」
「二日前なら、ちょうど俺たちが王都を出立した日となるな。王都に、使者は飛ばさなかったのか?」
「我々は、密命のさなかでありましたからな。ゼラドの密偵の耳をはばかって、事を大きくすることは許されなかったのです」
「しかし……その密命は、果たすことがかなわなかったのであろう?」
ロア=ファムがこの場にいることこそが、その証明である。彼の使命はゼラド軍に守られた偽王子の一行に接触して、離反するように説き伏せることであったのだ。
しかしベルデンは、「いえ」と首を横に振った。
「我々は、いまだ密命のさなかにあります。部隊員……と言っていいかどうかは難しいところですが、とにかく我々と志を同じくする人間が二名、ゼラド軍のもとに向かっておるのですよ」
ベルデンは、無精髭に覆われた顔に真面目くさった表情を浮かべながら、そう言った。
「その者たちが、ロア=ファムの代理人として、カノン王子を説き伏せることになっておるのです。その使命が正しく果たされたのかどうか、我々には知るすべもないのですが……」
「今のところは、果たされていないと考えるしかないようだな。ゼラド軍はいっかな勢いをゆるめることもなく、王都へと軍を進めているのだ」
「そうですか」と、ベルデンは溜め息をついた。
「やはり、あやつらでは荷が重かったか……その進軍を食い止めるために、ダリアス殿がこうして出陣することになったわけですな?」
「うむ。ゼラド軍は、あと三日と待たずして、グリュドの砦に到着してしまうだろう。俺たちは、それよりも先んじてグリュドの地を踏まなくてはならんのだ」
「ならば――」と、ロア=ファムが低く声をあげた。
「俺もその、グリュドの砦という場所まで同行を願いたい」
「何を言っておるのだ」と、ベルデンは顔をしかめた。
「お前は、肋骨を折っておるのだぞ? ナッツの宿場町からこのサランに辿り着くまでの間も、脂汗を流していたではないか」
「しかし俺は、姉を救わねばならんのだ」
黄色い瞳を爛々と燃やしながら、ロア=ファムはそのように言いたてた。
「どの道、この役目を果たすことができなければ、俺も処刑される身だ。あばらの痛みと引き換えに魂を返すなど、馬鹿げた話であるはずだ」
「いや、お前が処刑されることはなかろうと思うぞ」
ダリアスの言葉に、ロア=ファムはいっそう物騒な目つきとなった。
「何を言っている。生命を懸けて使命を果たすべしと、俺はディラームたちに言われているのだ。あのディラームが、俺をたばかったというのか?」
「いや。この数日で、大きく情勢が変わったのだ。お前を処刑すべしと言いたてていたロネックとジョルアンは……すでに、魂を返している」
「ええっ!?」と、ベルデンが目を剥いた。隣のターレスも、愕然と顔を引きつらせている。
「両元帥が、魂を返したと? いや、ジョルアン将軍が捕縛されるところまでは、俺たちも居合わせておりましたが……この数日で、何があったのです?」
「それを説明するには、ひと晩かかってしまいそうだな。ともあれ、王宮にのさばっていたジョルアンとロネックは、もういない。対して、お前を擁護していたディラーム老は元帥の座を取り戻し、レイフォンは宰相代理の座を授かった。お前はもともと何の罪も犯してはいないのだから、処刑されることもなかろう」
「しかし!」と、ロア=ファムは悲痛な面持ちで声をあげた。
「それでも、俺の姉の罪は許されぬはずだ! 馬鹿な姉だが、あいつを見殺しにすることはできない! 俺は……役目を果たさなければならないのだ!」
「そうか」と、ダリアスは笑ってみせた。
「何にせよ、頭を使うのは俺の仕事ではないのでな。お前の処遇に関しては、レイフォンとディラーム老に任せようかと思う」
「しかし、ディラーム老らは王都であるのでしょう? これから使者を飛ばしたところで、ゼラドとの戦端が開かれるほうが早いでしょうな」
「いや。こちらには伝書鴉という便利な道具があるので、明日の間には返事をもらえるはずだ」
そのように言いながら、ダリアスは無言で両目を燃やしているロア=ファムを見やった。
「お前が望むなら、俺の部隊に同行してもらおう。ただし、レイフォンたちの返事次第では、すぐさま王都に戻ってもらう。……それで、納得してもらえるか?」
「……了承した。寛大なはからいに、感謝する」
その目は爛々と燃やしたまま、不貞腐れたような口調でロア=ファムはそう言った。
その姿に、ダリアスはまた微笑を誘発されてしまう。
「お前はシャーリの生まれであるそうだが、やはり狩人というものは性根が似るのかな。どこか、ジェイ=シンに似ているように思えるぞ」
「……あなたは、ジェイ=シンを知っているのか?」
「顔をあわせたのは数日限りだが、それだけでも森辺の狩人の特異さは十分に思い知ることができた。……そういえば、お前たちにはギリル=ザザという森辺の狩人も同行しているのではなかったか?」
「ゼラド軍のもとに向かった片方が、そのギリル=ザザですな。もう片方は、案内人のドンティなる者です」
ベルデンの返答に、ダリアスは「ほう」と感心することになった。
「森辺の狩人が、ゼラド軍のもとに向かったのか。ならば、むざむざと討ち取られることはなさそうだな。案外、俺たちがグリュドの砦に到着する前に、ギリル=ザザたちが使命を果たして、ゼラド軍を撤退に追い込むかもしれんぞ」
「そうだとしても、俺は――」
「わかっている。何にせよ、俺たちはグリュドに向かわなければならんのだ。荷車などは使えんから、そのつもりで覚悟を固めておくがいい」
ダリアスは、確たる理由もないままに、このロア=ファムという少年を気に入ってしまっていた。
もちろん王都では、クリスフィアやディラーム老からロア=ファムの評判を聞いている。彼らの寵愛を受けるぐらいであれば、さぞかし心の清い人間であるのだろうと想像していたが――それ以上に、ロア=ファムは勇猛で頑なな人間であるようだった。
(それにこれでは文字通り、手負いの獣のようだ。さぞかし、姉の身を案じているのだろう)
もしかしたら、肉親に対するその情愛の深さこそが、ダリアスの心をとらえたのかもしれなかった。
ともあれ――そうしてダリアスたちは、新たな邂逅を迎えることになったのだった。