Ⅱ-Ⅱ 脆弱なる王
2020.2/1 更新分 1/1
ディラーム老とダリアスの率いる第二遠征兵団が王都を出立した日の、翌日――黄の月の二十日である。
今日も執務室で雑務をこなしていたレイフォンとティムトは、新王ベイギルスの用命で黒羊宮へと招かれることになった。
場所は、謁見の間に通じる王のための控えの間である。小姓の手によって扉が開かれると、そこにはいくぶん難しい顔をしたベイギルスと、それよりもさらに不機嫌そうな顔をしたジェイ=シンが待ちかまえていた。
「おお、待っておったぞ、レイフォンよ。まずは、楽にするがいい」
王の権威を振りかざすことに悦楽を覚えているベイギルスも、レイフォンに対してだけは常に寛容であった。腹心と見なしていた神官長バウファ、ジョルアン、ロネックの三名をいちどきに失ったベイギルスは、王国一の知略家と名高いレイフォンを宰相代理に指名して、全幅の信頼を置くことになってしまったのである。
(ティムトにしてみれば好都合なのだろうけれども、何とも面映ゆい限りだな)
内心でそのようにつぶやきながら、レイフォンは長椅子に腰を下ろすことになった。
従者という身分にあるティムトは、そんなレイフォンの斜め後方にたたずんでいる。ベイギルスの斜め後方にたたずんでいるジェイ=シンとは、ちょうど対角線になる位置取りだ。主人たるメルセウスの命令で新王の護衛役をつとめることになってしまったジェイ=シンは、それが不満でならないようにむっつりと口を引き結んでいた。
「多忙のさなかに、ご苦労であったな。ダリアスから、その後の音沙汰はあったのか?」
「はい。本日の朝方に、伝書鴉にて書簡が届けられました。ディラーム老のもとから離脱したダリアスの部隊七千は、グリュドの砦を目指して順調に進軍を続けているようです」
ゼラドの進軍が想定以上の速度であったため、ダリアスの部隊は取り急ぎ騎兵でグリュドの砦を目指すことになったのである。それは妥当な処置であるように思えたが、総指揮官たるディラーム老のもとに三千の兵しか残されないのは心もとなかったため、第一・第三の遠征兵団も予定を繰り上げて、本日未明に王都を出立する事態に至っていた。
「近隣の砦からもグリュドの砦に兵を集めるように狼煙をあげましたので、ゼラドの軍を迎え撃つのに不備はないでしょう。王陛下に置きましては、どうぞご心配なきように」
「うむ。自由開拓民の何とかいう者が、首尾よく偽王子めをゼラド軍から離脱させられるように願いたいものであるな」
胆の小さなベイギルスは、ゼラドとの戦いが回避できることを心から願っている様子である。
しかしもちろん、レイフォンにとってもそれは同様であった。相手が誰であるにせよ、戦争など回避できるに越したことはないのだ。そしてまた、ひょんなことから絆を結ぶことになったロア=ファムが無事に使命を全うできることを、レイフォンは何よりも強く願っていた。
「それで、本日おぬしを呼びつけたのは、他でもない。さきほど、北方から使者がやってきたのだ」
「北方から? またグワラムで、何か動きがあったのでしょうか?」
「いや。それはグワラムを鎮圧した部隊ではなく、そこから離脱したアブーフの部隊からの使者であった」
「アブーフ」と、レイフォンは反復する。それは他ならぬ、クリスフィアの故郷たる領地であった。
「グワラムを鎮圧した一軍には、アブーフの部隊も加わっていたのですか。それは、初耳でありました」
「うむ。アブーフなどは北東の果ての領地であるのだから、グワラムまで駆けつけるには時間がかかろう。しかし、グワラムから謎めいた援軍の要請を受けた際、その部隊はタンティに駐屯していたという話でな。タンティを空にするわけにはいかぬゆえ、そのアブーフの部隊が主力となってグワラムに駆けつけたのだそうだ」
そこでベイギルスは、たるんだ頬を不機嫌そうに揺らした。
「そのアブーフの部隊から、使者が届けられた。……きゃつらは余の許しもなくグワラムを離れ、王都を目指しているさなかであるという話であるのだ」
「王都を? どうしてまた、アブーフの部隊が王都を目指さなければならないのです?」
「そこのところが、よくわからん。だからこそ、其方を呼びつけたのだ。……まさかアブーフのものどもは、王都に叛旗をひるがえすつもりではなかろうな?」
そう言って、ベイギルスは身を乗り出してきた。
「現在の王都はすべての遠征兵団を出兵させて、きわめて手薄な状態にある。王都からもっとも遠き領地であり、忠誠心の希薄なアブーフのものどもが、これを好機と王都に攻め込んできた……などということは、あるまいな?」
「まさか、そのようなことはないかと思われますが……ティムトは、どう思う?」
ベイギルスはティムトこそがレイフォンの知略の正体であるということをいまだ知らぬが、こういう場で意見を求める姿は何度となく見せられている。ティムトは気負った様子もなく「そうですね」と発言した。
「その前に、ご確認させていただきたく思うのですが……王都を目指すアブーフの部隊とは、どれほどの規模であるのでしょうか?」
「二個大隊、およそ二千の兵という話であるな」
「なるほど。如何にアブーフ軍が勇猛で知られる北方の雄であっても、わずか二個大隊で王都を陥落させることはかなわないでしょう。たとえすべての遠征兵団が留守にしていても、王都には二万から成る防衛兵団と五大公爵騎士団が残されているのです」
「うむ。もちろん余とて、王都が易々と陥落させられるなどとは考えておらん。しかし、もしもアブーフに邪な気持ちが隠されていれば、それは由々しき事態であろう?」
ベイギルスは、天敵を前にした草食動物のように気弱げな目つきになっていた。
「よってこれより、アブーフの第一息女クリスフィアの詮議を始めたく思う。其方には、宰相代理として立ちあってもらうぞ、レイフォンよ」
「クリスフィア姫の詮議ですか? しかし、姫は朱の月から王都に逗留していたのですから、グワラム鎮圧に参戦したアブーフの部隊とは無関係でありましょう?」
「しかし、第一息女たるあやつであれば、父親たる領主の考えを誰よりもわきまえているはずであろうが?」
要するにベイギルスは、不可解な行動を取るアブーフの部隊に対して、疑心暗鬼を抱え込んでしまったようであった。
もともと臆病である上に、度重なる災厄によってすっかり心が弱ってしまったのだろう。また、妖魅に憑依されたロネックの暴虐な行いと、その末の無残な死が、いっそうベイギルスの心を苛んだのかもしれなかった。
(まあ、アブーフがいきなり叛旗をひるがえすことなどありえないだろうからな。クリスフィア姫の詮議というのは穏やかでないが、ティムトにまかせておけば大丈夫だろう)
そこに小姓が、謁見の間にクリスフィアが参上した旨を告げてきた。
そういう思惑もあって、レイフォンたちはこの控えの間に呼びつけられていたのだ。
「レイフォンよ、其方はクリスフィアと懇意にしておるようだが……よもや、アブーフの叛乱に加担することなどはなかろうな?」
「もちろんです。そして、アブーフの領主殿がそのような叛心を抱いていないことを、私は信じています」
そうしてレイフォンたちは、謁見の間へとおもむくことになった。
謁見の間には、白銀の甲冑を纏った近衛兵がずらりと整列している。その中で、クリスフィアはたったひとりで絨毯に膝をつき、臣下の礼を取っていた。
「……よく来たな、クリスフィアよ。本日は、其方に問い質したき儀がある」
玉座に収まったベイギルスは、クリスフィアを威嚇するようにふんぞり返っていた。
そのかたわらで、ジェイ=シンは懸命に溜め息を噛み殺している。レイフォンとティムトは、かつてロネックたちが陣取っていた壇の中段で、それらのやりとりを見守ることになった。
「其方はアブーフ侯爵家の当主デリオンの代理人として、戴冠式に出席するために、この王都を訪れた。それに、相違はなかろうな?」
「はい。相違ございません」
膝をついたまま、クリスフィアはうろんげに眉をひそめている。どうしていきなり自分がひとりで謁見の間に呼びつけられたのか、見当もつかないのだろう。
「ならば、当主の代理人たる其方に問おう。アブーフ侯爵家は、王家に対して変わらぬ忠心を抱き続けているのであろうかな?」
「……御意にございます、王陛下。何かわたしは、忠心を疑われるような真似をしてしまったでしょうか? 辺境生まれの粗忽者でありますため、何か至らない点があったのでしたら、幾重にもお詫びを申し上げたく思います」
口調や声音こそ平静であったが、その言葉の内容には不審の念がぞんぶんに込められていた。ベイギルスは、たちまち躍起になって眉を吊り上げてしまう。
「では、其方に説明を願いたい。グワラムを鎮圧したアブーフの軍は、何故に余の許しを得ぬままに任務を離れ、こともあろうに王都を目指しているのであろうかな?」
「は?」と、クリスフィアは目を丸くした。完全に虚を突かれた様子である。
「お、お待ちください、王陛下。アブーフの軍がグワラムを鎮圧したとは、如何なる話であるのでしょう? もしや、グワラムにおいてメフィラ=ネロを迎撃したセルヴァの軍には、アブーフの部隊も含まれていたということなのでしょうか?」
「ふん。其方は、それを知らされておらなかったのか?」
「無論です。というよりも……グワラムから援軍の要請を受けた時点で、メフィラ=ネロが出現するとされていた期日は目前に差し迫っていたはずです。それだけの時間では、アブーフから軍を差し向けることなど不可能であったはずでありましょう」
「ほう。其方はずいぶんと、王国の地理に通じておるようだな」
「王都とグワラムとアブーフの位置関係ぐらいは、頭に叩き込まれています。王陛下はご存知でないやもしれませんが、わたしはアブーフにおいて大隊長の座にあるのです。アブーフからグワラムまで攻め込んだことも、一度や二度ではございません」
「なに?」と、ベイギルスは肥え太った身体をのけぞらせた。
「そ、其方はアブーフ騎士団の大隊長であったのか? どうしてそのような話を、余に隠しておったのだ?」
「べつだん隠していたわけではなく、ご説明する機会がございませんでした。わたしが王陛下に拝謁を賜る機会は、ごく限られていましたので」
そのように言いたてながら、クリスフィアは灰色の瞳を鋭く光らせた。
「それで……グワラムを鎮圧したアブーフの部隊が王都を目指しているとは、如何なる話であるのでしょう? 同じく王都を目指していると目されているメフィラ=ネロを追撃している、ということなのでしょうか?」
「それを問い質すために、其方をこの場に招いたのだ。アブーフの騎士団に身を置く身であれば、その理由を察することも難しくはあるまい?」
「難しくないことはない、と言いたいところであるのですが……その部隊の指揮官は何者であるのです? アブーフ騎士団のいずれに所属する部隊であるのでしょうか?」
クリスフィアが力感のある声で反問すると、ベイギルスは一転して気弱げな顔をさらした。
「い、いずれに所属する部隊と言われても……レイフォンも、その場には立ちあっておらんかったし……」
すると、玉座にたたずんでいたジェイ=シンが苦虫を噛み潰しながら発言した。
「王陛下よ。俺が口を開くことは許されるであろうか?」
「う、うむ? どうしたのだ? まさか、妖魅が近づいてきおったのか?」
「そうではない。その使者とやらを出迎えたとき、俺は同じ場に立ちあっていた。王都を目指しているアブーフ軍というのは、アブーフ騎士団の第一連隊に所属する二個大隊で、指揮官の名はキャメルスであったはずだ」
「キャメルス……」と、クリスフィアが息を呑んだ。
そしてそれが、深い溜め息として吐き出される。
「……王陛下、それはわたしの不肖の従兄弟となります。つい先頃、騎士団の第一連隊長を拝命していたので、まず間違いはないでしょう」
「い、従兄弟? では、そやつもアブーフ侯爵家の血筋ということだな。そのような身分にある者が、どうして余の命令もなく勝手に部隊を動かしたのだ? これは、アブーフの領主の意思であるのか?」
「いえ。グワラムを鎮圧してから、いまだ七日ていどしか経ってはおらぬはずです。それではアブーフにおられる我が父君も、グワラムのキャメルスに命令を下すすべはないことでしょう。それはすべて、キャメルスめの独断であるかと思われます」
そうしてクリスフィアは、再び大きく溜め息をついた。
「あやつは普段、牧草を食むギャマの山羊のようにのんべんだらりとしているのですが、ときおり突飛な真似に及ぶのです。幼少より長きの時間をともに過ごしてきたわたしでも、あやつの頭の中身を想像することはかないません」
「の、のんべんだらり? とにかく、アブーフの部隊に勝手な真似をさせておくわけには……」
「ならば、使者を通じて撤退の命令を下せばよろしいのではないでしょうか? ……というよりも、あやつはどのような理由で王都を目指していると言いたてていたのでしょうか?」
「ええと、それは……王都に迫る脅威を退けるのに尽力したいとか何とか……」
ベイギルスは、すがるようにジェイ=シンを見やった。
ジェイ=シンは、舌打ちをこらえているような面持ちでそれに応える。
「メフィラ=ネロと実際に刃を交わした自分たちであれば、王都の脅威を退ける一助になりえるかもしれない。ご命令を待たずにグワラムを出立したこと、平にお許しを願いたい。……また、グワラムにて救出したイフィウスなる者を王都にお送りしたい。理由として述べられていたのは、それぐらいであったように思う」
「イフィウス?」と、今度はレイフォンが驚く番となった。
「イフィウス殿を救出したとは、どういうことかな? 彼は上官たるルデン元帥もろとも、赤の月のグワラム戦役で魂を返したとされているのだけれども……」
「知らん。たしか、グワラムで虜囚の憂き目にあっていた、と使者は言っていたはずだ」
レイフォンが視線を向けると、ベイギルスは困惑顔で首を振っていた。
「余は、イフィウスなどという名に聞き覚えはない。そやつは、ルデンの部下であったのか?」
「はい。ルデン元帥の副官であられた人物です。闘技会でも優秀な結果を残されていた名うての剣士であられるのですが、ご存知ではなかったでしょうか?」
「知らん。闘技会なんぞに、興味はなかったからな」
ベイギルスは前王カイロスが壮健であった時代、王宮に居場所のない日陰者であったのだ。ならば、十二獅子将の副官などは、交流の機会もなかったのだろう。
「何にせよ、イフィウス殿がご無事であられたのなら、喜ばしい限りです。そして、イフィウス殿が行動をともにしているのでしたら、アブーフの部隊の叛心を疑う必要もないのではないでしょうか?」
「うむ? 何故だ?」
「イフィウス殿は、謹厳実直で知られる武人でもあるのです。たしか、ディラーム老もイフィウス殿とは懇意にされていたはずです。次に王都の軍の再編成が成される際には、必ずやイフィウス殿が新たな十二獅子将に任じられることでしょう」
「しかし、それだけでアブーフの部隊の勝手な行いを許すわけには……」
そのとき、扉の向こうから小姓の声が届けられた。
扉の脇に控えていた兵士が、それを伝えるためにクリスフィアの横合いにまで進み出る。
「王陛下。恐れ多きことながら、緊急の使者が到着したとのことでございます。如何様に取り計らうべきでありましょうか?」
「また使者だと? 今度は、なんだというのだ!?」
ベイギルスは玉座に収まったまま地団駄を踏み、抑制の失った声を張り上げた。
「よい! まとめて片付けてくれよう! その使者とやらを、この場に通せ!」
ベイギルスの許しを得て、謁見の間の扉が開かれる。
王宮付きの近衛兵に左右をはさまれた格好で、使者の証たる緋色の外套を纏った人物が小走りで進み出てきた。
「し、失礼いたします! 五大公爵領マルランより、使者として遣わされました! 謁見の場を乱してしまうこと、平にご容赦をお願いしたく存じます!」
「よいから、用件を告げよ。マルランが、どうしたのだ? まさか、アブーフの部隊から急襲を受けた、などという話ではあるまいな?」
「アブーフ? い、いえ、そうではなく……マルランの領地に、氷雪の妖魅が出現したのです!」
それは、その場にいるすべての人間を愕然とさせる報告であった。
ついにメフィラ=ネロの毒牙が、五大公爵領にまで振るわれることになったのだ。
レイフォンが目をやると、ティムトは色の淡いその瞳に、きわめて鋭利な輝きをたたえていた。