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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第一章 災厄の赤き月
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Ⅰ-Ⅰ 放浪の三人

 三人の放浪者は、ひたすら道を北へと急いでいた。

 そこは西の王国セルヴァの版図、王都アルグラッドから見て北西に位置する辺境地帯である。


 大地は暗い色合いをした樹木に覆いつくされて、世にも暗鬱な光景を旅人たちにもたらしている。もう少し東に出れば立派な石の街道がのびているはずなのに、彼らは頑なにその薄暗い獣道を選んでいたのだった。


 大陸アムスホルンは、四大王国によって支配されている。しかし、この広大なる大陸において、人間が支配できる区域はごくわずかである。大陸中に点在する城や町と、それを繋ぐ石の街道――それを除く領域は野の獣や魔物どもに支配されており、この辺境区域も、まぎれもなく人外の領土であるはずであった。


「君も本当に酔狂な人間だね。僕たちを旅の道連れにしようだなんてさ」


 と、放浪者の一人がことさら陽気な声をあげる。

 巡礼者の装束を纏い、黒いグリギの杖を持つ、ナーニャである。


 この世のものとは思えぬほどの秀麗な容姿で、体格もとてもほっそりとしているのに、意外に力はあるらしく、歩きにくい獣道を意気揚々と歩いている。その背には、リヴェルが背負っているのと同じぐらいの大きさをした革の荷袋が背負われていた。


「まあ、話し相手ができるのは大歓迎だけどね。ご覧の通り、ゼッドはもともと無口であった上に、顔に大きな怪我を負ってしまって、余計に口をきくのが億劫になってしまったようだからさ」


 そのゼッドは、ナーニャの背後を守るような位置取りで黙々と歩いている。

 こちらは長身で、猛禽のごとき眼差しをした青年である。右腕に武骨な篭手を装備している他はごく尋常な旅人のなりをしており、背には大きな荷袋を負っているが、その眼光や卓越した剣の技量からして、こちらも只者であるはずがなかった。


「で、君はどうしてこんなうら寂しい場所を一人で歩いていたのかな? ひょっとしたら、さっきの無法者たちに連れを皆殺しにされてしまったとか?」


「いえ、わたしはここから東に半日ほど歩いた場所にある、ロセッドという小さな町の生まれなのですが……実は、住んでいた家から放逐されてしまったのです」


「放逐? どうしてまた?」


「わたしは、父がマヒュドラの女奴隷に生ませた子なのです。それでも西の民として育てられていたのですが、先日、父が亡くなってしまって……それでその、父の伴侶や息子たちが、家の主人になってしまったのですね」


「ふーん。それで、卑しい奴隷の子は家を出ていけ、と?」


「……はい」


 ナーニャは歩きながら、もう一度「ふーん」と言った。

 その声音の響きのわずかな変化に、リヴェルは焦燥感をかきたてられてしまう。


「ですがわたしは、西の民です。奴隷であった母はわたしを生み落とすと同時に亡くなってしまったので、西の王国に対する恨み言を吹き込まれることもありませんでした。それに、父も他の子とわけへだてなく愛情を注いでくれましたし――」


「奴隷を使うぐらいだから、ずいぶん裕福な家だったのだろうね。だからといって、何をしても許されるわけじゃないけれど」


 リヴェルの言葉をさえぎって、ナーニャはそのように言い捨てた。

 やっぱりその声は最前までより冷たく響いたので、リヴェルは不安のあまり涙ぐんでしまった。


「んー? 何を泣いてるのさ? 僕は何か間違ったことでも言っちゃったかな?」


「いえ、そんなことは……」


「別に君を責めたりはしていないよ。子供に親を選ぶことはできないんだからね」


 そのように言いながら、ナーニャは腰を屈めてリヴェルの顔を覗き込んできた。

 魔物か精霊のように美しい面を顔のすぐそばに寄せられて、リヴェルは思わず頬を赤らめてしまう。


「僕はただ、君を残してさっさと魂を神に返してしまった父君や母君に対して苛ついてしまっただけさ。それで君が不自由な生を送らなきゃいけなくなるなんて、実に理不尽な話じゃないか?」


「ええ……でも、北の血が入っているというだけで、わたしを蔑む人間は少なくありません。それこそ、さきほどの悪漢たちのように……」


 その悪漢たちの死にざまを思い出して、リヴェルはぶるっと身体を震わせた。

 その姿を見て、ナーニャはいっそう楽しそうに微笑む。


「そんな輩はぞんぶんに見下してやるといいよ。そもそも、北の民が西の民より下等だなんて、どこの誰が決めたんだい? 四大神は等しい力を持っているんだから、その子供である四大王国の人間たちだって、まさり劣りはないはずじゃないか?」


「え……だけどマヒュドラは、セルヴァにとっての仇敵です。今でも国境では毎日のように刃を交えているはずですし……」


「だから、そんなのも領土の取り合いを始めた先人たちの都合じゃないか? この大陸がすべての人間に問題なく恵みをもたらせるほど豊かであれば、そんな風に相争う必要もなかったろうにね」


 とうてい巡礼者とも思えぬ発言をして、ナーニャはリヴェルを驚かせた。

 リヴェルのほうに顔を寄せたまま、ナーニャはくすくすと笑い声をあげる。


「何にせよ、僕はマヒュドラに何の恨みもない。よって、君を蔑んだり憎んだりする理由もない。だから君は、安心して僕の話し相手をつとめておくれよ」


「は、はい……」


 そうは言われても、リヴェルの心にはぬぐい難い不安感がわだかまってしまっていた。

 それはナーニャたちに対する不審の念というよりは、自分自身に対する不審の念であった。

 自分はどうして、このように得体の知れない者たちに旅の同行を願ってしまったのか。その心情に説明をつけることがかなわなかったのだ。


 むろん、リヴェルには行くあてどころかこの世を生き抜く手立てもない。昨晩遅くに父を失い、その悲しみを癒す間もなく朝一番で家を放逐され、途方に暮れたまま、この辺境の地をさまよう羽目になってしまったのだ。どれだけ歩けば余所の町に行けるのかもわからないし、町についたところで、銅貨などは一枚も持たされていない。これではけっきょく奴隷かそれと同様の立場に身を落とさなければ、一夜だって過ごせる手立ては存在しなかったのだった。


 そういう意味では、ゼッドのように力を持つ存在と行動をともにするのは正しい選択であっただろう。彼がいなければ、数刻前にリヴェルの生は終わっていた。親と家を失ってしまったリヴェルは、何か異なる力にその身をゆだねるしか、もう生きる道が残されていないのだ。


 しかしそれでも、リヴェルは不安をぬぐえなかった。

 それはきっと、ナーニャからもたらされた不吉な言葉が原因であっただろう。


(国を滅ぼしかねない凶運だなんて……それはいったい、どういう意味なんだろう?)


 こぼれそうになる溜息を噛み殺しながら、リヴェルは必死に歩き続けた。

 ナーニャが「さて」と足を止めたのは、それから半刻ていどが経過したのちのことだった。


「そろそろ日が暮れそうだね。ちょうどこの辺りは少し空き地になっているから、ここで火の準備を始めようか」


「え? も、森の中で夜を明かすのですか?」


 リヴェルが愕然として問い返すと、ナーニャは「そうだよ?」と首を傾げた。


「次の町まで行き当たるには、もう半日は歩かなきゃならないはずだしね。ま、もともとその町も素通りする予定だったけどさ」


「ど、どうしてですか? 森で夜を明かすなんて、危険すぎます!」


「町だって危険だよ。小さな宿場町には町の外と同じぐらい無法者がうろついてるんだから。だったらこうして人目のない場所で夜を明かしたほうが、まだしも安全なんじゃない?」


「で、ですが……」


「どっちみち、今日はどの町にも辿りつけないんだよ。夜の森を歩いてでも町を目指したいっていうんなら、別に止めたりはしないけど」


 言いながら、ナーニャは荷物を木の根もとに下ろした。ゼッドもそれにならっているので、リヴェルも泣く泣く従う他なかった。


「大丈夫だってば。僕たちはこうして今日まで旅を続けてきたんだから。何が起きたって、ゼッドさえいれば心配はいらないよ」


 ゼッドの背負っていた大きな荷物には、毛皮の敷物や小さな鉄鍋などが詰め込まれていた。一晩を過ごせるだけの枯れ枝を三人がかりでかき集め、ラナの葉を使って火を灯すと、いっそう周囲の薄暗さが際立つようだった。


「ああ、リヴェル、こいつを潰して、首の裏に塗っておくといいよ」


「……何ですか、これは?」


「毒虫除けの葉さ。夜に火を焚くと、危険な毒虫がぞろぞろ寄ってきちゃうからね」


 少し朱色がかったその葉を潰すと、わずかに酸味がかった臭いが鼻に刺さってきた。

 リヴェルが半信半疑でその汁を首に塗っている間に、ナーニャはてきぱきと荷物を取り分けていた。焚き火を囲むように石を積んで、その上にへこんだ鉄鍋を設置したら、今度は大きな革の水筒からどぼどぼと水を注ぎ入れる。


「さ、食事だよ。あまりの粗末さに目を回さないようにね、お姫さま」


 食事の準備は、ナーニャの役割であるようだった。ゼッドは樹木の幹にもたれてどかりと座り込み、働こうという素振りさえ見せない。ただ、腰に吊るしていた長剣を革鞘ごと胸もとに抱え込み、油断のない視線を周囲の暗がりに巡らせている。


「こいつはカロンの足肉かな? 野盗のわりには気がきいてるね。彼らの分まで、しっかり味わってやらないと」


 ナーニャは人の悪い笑みを浮かべつつ、赤褐色の干し肉を小さな刀で削いでいく。それは、さきほど殲滅した悪漢どもから奪った干し肉なのだった。


 そんな食料ばかりでなく、ナーニャたちは悪漢どもの懐からわずかばかりの銅貨や装飾品、水筒やラナの葉や松明までをも強奪していた。死骸から金品をあさるというその行為に、リヴェルは悪寒を禁じ得なかった。


(だけど、そうでもしないと生きのびることはできないんだ)


 それが嫌なら、飢えて死ぬしかない。リヴェルは心の中で父なるセルヴァに許しを乞いつつ、ゼッドの荷袋に収まらなかった分の水筒や松明を自分が運ぶことを受け持ったのだった。


 そうしてリヴェルが見守る中、ナーニャは新たな食材を鍋に投じていく。

 淡い緑色をした、アリアの実だ。もとは人間の拳ぐらいの大きさをした水分の豊かな野菜であるが、日持ちをするように干されたものなのだろう。しおしおにしなびて、楕円の形にすぼまってしまっている。


「で、最後はこいつだね。味は台無しになっちゃうけど、こればっかりはしかたがない」


 そのように述べてナーニャが荷袋から取り出したのは、乳白色をした大きな実であった。

 やっぱり大きさは人間の拳ていどである。形はいびつだが、表面は妙になめらかな質感をしている。


「それも何かの野菜なのですか?」


「これはポイタンだよ。どこのお姫さまでも、ポイタンぐらい食べたことはあるだろう?」


「ああ、ポイタン……粉にされる前のポイタンは初めて見ました」


 ポイタンというのは、穀物だ。普通はこまかい粉に挽かれた上で売られているので、買い出しの仕事を受け持つことの多かったリヴェルでも生のポイタンなどを目にする機会はなかった。


「それはどのように食するのですか? ポイタンを粉にするのは、なかなかの手間なのだと聞いたことがあるのですが」


「そうらしいね。でも、こいつはもともと生のまま鍋に入れるという食べ方をされていたらしいよ。フワノみたいに粉にして水で練って焼きあげて、なんて食べ方がされるようになったのは、ごく最近の話らしい」


 フワノというのは、ポイタンよりもやや上等な穀物だ。このセルヴァにおいては、フワノかポイタンのどちらかが主食として食べられている。


「今でも貧しい旅人は、生のままのポイタンを持ち歩いている。生のポイタンなら農家から直接買うこともできるし、何より安上がりだからね。で、こうして干し肉と干しアリアの鍋にぶちこむわけさ」


 ナーニャは皮肉っぽい笑みを浮かべながら、言葉通りにポイタンを鉄鍋に投じた。立て続けに四つも投じたものだから、小ぶりな鍋はあふれそうになってしまっている。

 が、それらのポイタンはたちまち溶け崩れて、透明であった煮汁は一瞬で白く濁っていった。


「ポイタンというのは、こんな簡単に溶けてしまうものなのですね。だったら、苦労をして粉にする必要もないように思えてしまいますが」


「同じ言葉を、食べた後でも口にできるかな?」


 ナーニャの繊細な指先が、木匙で鍋をかき回していく。

 アリアもポイタンも強い匂いを発することはないので、漂ってくるのは干し肉で使われている香草のわずかな香りばかりであった。

 しかし、朝からまともな食事をしていなかったリヴェルは、「きゅるる」と腹が鳴るのを止めることができなかった。


「あはは。それだけ空腹なら、こんな粗末な食事でも美味しくいただくことができるかな?」


 リヴェルは顔を赤くしながら、ナーニャの笑顔を力なく見つめ返すことになった。

 ナーニャは鼻歌でも歌いだしそうな様子で、木の椀を取り上げる。白く濁ったポイタン汁が、大きな木匙でなみなみと注がれた。


「はい、君の分だよ。どんなに小さな娘でもこれぐらいは食べないと持たないだろうから、決して残さないようにね」


「はい、ありがとうございます」


 リヴェルは両手でその椀を受け取った。

 ナーニャはうなずき、新たな椀に煮汁を注ぐ。

 が、それでゼッドのかたわらに腰を落ち着けてしまったので、リヴェルはいくぶん慌てることになった。


「あ、あの、そちらの方の分は?」


「うん? これが僕とゼッドの分だよ。器も木匙も二つずつしか持っていなかったから、こうして一緒に食べるしかないのさ」


「ああ、そうだったのですか……わたしなどのために、本当に申し訳ありません」


 リヴェルは敷物の上に椀を置き、手をついて詫びてみせた。

「あはは」とナーニャは無邪気に笑っている。


「別にそこまで気にする必要はないよ。むしろこのほうが食事も簡単に済むかもしれないし」


「簡単に? というと……?」


「ゼッドは、右手が不自由なんだ。剣をふるうことはできるけど、それ以外はからきしでね。だから、食事の際には僕がこうやって手伝ってあげているのさ」


 言いながら、ナーニャは木匙にすくった煮汁をゼッドの口もとへと近づけていった。

 長剣を抱えたゼッドは、あらぬ方向に視線を向けたまま口を開いている。火傷で皮膚がひきつれてしまっているせいか、確かにそれだけの動作でも大儀そうだ。


 で、薄く開かれたその口に、熱い煮汁が届けられる。

 肉かアリアも載せられていたらしく、ゼッドは不自由そうに下顎を上下させて、口の中身を咀嚼した。

 それを満足そうに見やりながら、ナーニャは同じ木匙で自分も煮汁を口にする。


 何というか、獅子に寄り添った小鳥のような風情であった。

 あるいは、ぶっきらぼうな亭主の世話をする甲斐甲斐しい女房のようだ、とでもいうべきか――いまだナーニャの性別もわかっていないリヴェルとしては、いくぶん据わりの悪い心地を抱かされることになった。


(でも、本当に信頼し合った関係なんだな。恋仲とかそういうんじゃなくて……全然顔は似ていないのに、まるで家族みたいだ)


 そのように考えながら、リヴェルも食事を進めることにした。

 あらためて見ると、ずいぶんねっとりとした煮汁である。自分の木匙でそれをかき回し、ほぐれた肉片とアリアをすくって、リヴェルはおそるおそる口に運んだ。


 とたんに、「あうう」という情けない声をもらしてしまう。

 ナーニャが振り返り、にっと底意地の悪い顔で笑った。


「どう? なかなかのお味だろう? 僕も初めて口にしたときは、これが人間の食べ物なのかと頭を抱えたくなったものさ」


 確かにそれは、実に不快な味わいであった。

 いや、味などは干し肉の塩気ぐらいしか感じられない。あとの風味は、すべてポイタンによってかき消されてしまっていた。


 むやみやたらと粉っぽくて、咽喉を通りにくいこと、この上ない。ポイタンの粉をそのまま水に溶かしたって、こうまで食べにくいことはないだろう。味のしない泥水でもすすっているような心地である。ほどほどに大きく豊かな家で育ったリヴェルには、とうてい耐え難い不快さであった。


「ほ、本当にポイタンというのはこのような食べ方をしてしまって大丈夫なのですか? これでは、身体を壊してしまいそうですが……」


「そんな心配は無用だよ。貧しい旅人や、それに戦場の兵士なんかは、呑気にフワノやポイタンを焼くゆとりもなく、こうして生のポイタン汁をすすっているはずなんだから」


 それは本当に真実なのであろうか。

 リヴェルは心がくじけそうになり、そして、このていどのことでくじけそうになる自分のひ弱さにも絶望しそうになってしまった。


(そうだ!)と、そこで思い至る。

 リヴェルはもう一度椀を敷物に置き、自分の荷袋に手をかけた。

 その中から、さらに小さな布の袋を取り出して、その中身をナーニャたちのほうに掲げてみせる。


「あの、これを使ったら、この煮汁ももう少し食べやすくなるのではないでしょうか?」


「うん? それは何かな?」


「これは、ラマムの実を砂糖と果実酒に漬けてから干したものです」


 ラマムというのは、菓子などの材料として使われる甘酸っぱい果実だ。これをママリアの果実酒と砂糖に漬けて、さらに三日ばかりも干しておくと、いっそう甘い干しラマムに仕上げることができる。酒の苦手なリヴェルの父は、これを水や茶で割って飲むことを何よりも好んでいたのだった。


「これはわたしが作ったものなので、家から持ち出すことができたのです。本当は、病にかかった父を喜ばせるために作っていたものなのですが……」


「ふーん? でも、甘いラマムの実を肉や野菜の汁に入れるなんて、なおさらひどいことになっちゃいそうじゃない?」


「そうかもしれません。わたしが試しに食べてみます」


 ごわごわにしなびたラマムの実をひとつまみだけ引きちぎり、リヴェルはそれを自分の椀に投じてみせた。

 そうして木匙で果肉を潰していくと、煮汁も赤紫色に染まっていく。これはラマムではなく、果実酒の色合いである。


 香りにも、ラマムと果実酒の匂いが溶けた。

 リヴェルには馴染みの深い、とても甘酸っぱそうな芳香である。

 色が均一に染まったところで、リヴェルはおそるおそる木匙に口をつけてみた。


 甘い味が、口に広がる。

 砂糖と果実酒とラマムの甘さだ。

 父親が甘みを好んでいたので、この干しラマムにもしこたま砂糖が使われているのである。こんなひとつまみでも、煮汁は菓子のように甘くなっていた。


 では、肉と野菜はどうであろうか。

 リヴェルは椀の中身をさらい、再び肉とアリアの切れ端を食してみた。


 アリアはもともと味が薄いので、どうということもない。

 しなびていた実に水気が通って、しゃくしゃくとした歯触りになっている。いったん干されたものであるために、糸のような繊維がいくぶん歯にからんできたが、こればかりはしかたがなかった。


 干し肉のほうは、強い塩気を持っているので、いささか甘みとぶつかっている感が否めない。

 しかし、不味いというほどのものではなかった。

 少なくとも、味のない泥水をすすっているような不快さからは、完全に解放されることができたようだった。


「それほどひどい出来ではないように思います。あの、よかったら試してみませんか?」


「そうだねぇ。ちょっと味見をさせてもらおうかな」


 言いざまに、ナーニャは「あーん」と口を開けてきた。

 同じ木匙でいいのだろうか、とリヴェルはいくぶん胸を高鳴らせながら、その可憐な唇の間に木匙を差し入れてみせる。

 たちまち、ナーニャは真紅の瞳を輝かせた。


「うん、こいつは悪くないね! 干し肉の塩気がちょいと邪魔だけど、もともとの味に比べれば何てことはないよ! ……ゼッドも味見をしてみるかい?」


 寡黙な剣士は、そっぽを向いたまま首を横に振った。

 ナーニャはうなずき、その手に持っていた自分の椀をナーニャに突きつけてくる。


「それじゃあ、僕たちにもそいつを分けてもらえるかなぁ? 砂糖やラマムの実なんて安いもんじゃないだろうから、ちょっとばっかり気が引けちゃうけど」


「生命を救っていただいたのに、このていどのものではとうてい御恩はお返しできません。そもそもあなたがたは、干し肉やアリアを無償でわたしに分けてくださったではないですか?」


「こんなのは、野盗からぶん取った戦利品だからね。父君のためにこしらえた大事な干しラマムとは重みが違うだろうさ」


 何と答えればよいのかもわからなかったので、リヴェルは無言のまま、ちぎったラマムをナーニャの椀に入れてみせた。

 それから、鉄鍋で保温されている残りの煮汁にも、もう少し多めの量を投じてみせる。


「あ、たぶん一緒に煮込んだほうが、いっそう味もしみこむと思います」


「ふーん? 察するところ、君はなかなか料理というものが得意そうだね、リヴェル?」


「得意というほどではありませんが、かまどを預かることは多かったです」


「そいつはいいね。僕やゼッドは厨に立ったことなんて一度もないからさ。野に生えている山菜や薬草なんかに関しては、ゼッドがなかなかの知識を蓄えているんだけど」


 楽しそうに笑いながら、ナーニャはゼッドの口もとに木匙を突きつけた。

 ゼッドは不自由そうに口を開き、また同じように肉とアリアを咀嚼する。


「どう? なかなか美味しいだろう、ゼッド?」


 ゼッドは無言で、こくりとうなずいた。

 その様子を見て、リヴェルもほっと息をつく。


「最初の目的地はレイノスの町だからさ。そこに到着するまでは、粗末なポイタン汁をすするしかないと諦めていたんだ。こんな立派なご馳走を食べさせてくれて、本当に感謝しているよ、リヴェル」


「レイノスの町? それは……ずいぶん遠いのではないですか?」


「遠いかなぁ? ゼッドによると、あと十日ぐらいはかかるみたいだけど」


「……その間、どこの宿場町にも立ち寄らないおつもりなのですか?」


 リヴェルはおずおずと問い、ナーニャは屈託なく「うん」とうなずいた。


「さっきも言ったけど、小さな宿場町には無法者も多いしさ。町中で刀をふるったりしたら、とんでもない騒ぎになっちゃうだろうし。僕たちは、なるべく面倒事を避けたいんだよ」


「でも……十日間も野宿を続けるなんて、そちらのほうがよほど危険なのではないでしょうか?」


 新たな一口を頬張りながら、ナーニャは子供ように小首を傾げる。


「だから、君にそこまでつきあえというつもりはないよ? 何なら明日にでも、どこか手頃な宿場町に向かうといい。この干しラマムの御礼として、少しぐらいは銅貨を分けてあげるからさ」


「…………」


「あれ、何だかまた涙をこぼしてしまいそうなお顔だね。何度も何度も言っている通り、僕たちなんかと行動をともにしていたら、何かとんでもない凶運に見舞われることになってしまうかもしれないんだよ?」


「それでも一人きりになったら、きっとわたしなど一夜も無事に過ごすことはできません。北の民の姿をした娘など、このセルヴァでは人間扱いされないのです。……父と家を失って、わたしは改めてその事実を思い知らされました」


「ふーん? 僕はその髪の色も瞳の色も大好きだけどなぁ。焚き火の炎に照らされると、黄金の冠でもかぶっているみたいじゃないか?」


 そのように述べるナーニャの声は、リヴェルがびっくりするほど優しい響きを帯びていた。

 悪い精霊のように冷笑的であったり、幼い子供のように無邪気であったり、そうかと思えば慈母のように温かく優しかったり――まるで見る角度によって色合いの変わる水晶のように、ナーニャという人間はさまざまな顔を持っていた。


 そしてその姿は、やっぱり幻想的なまでに美しい。

 革の頭巾を後ろにはねのけたナーニャは、長い髪を頭の後ろで結いあげていた。その白銀の髪は焚き火の明かりをきらきらと反射させて、それこそ宝冠でもかぶっているかのようである。


 そんなナーニャが可憐な唇にひそやかな微笑をたたえつつ、かたわらの青年へと木匙を届けている。その姿はあまりに神々しく、まるで一幅の絵画であるかのようだった。


「僕は君が好きだよ、リヴェル」


 やがてナーニャは、優しい声音のままそのように言った。


「これまでも、不当に苦しい生を歩まされてきたんだろうね。それでも君は世を恨もうとせず、懸命に生きていこうとあがいているように見える。たぶん君は、自分で思っている以上に強い人間なんだよ」


「いえ、わたしは……」


「だからね、僕も少し迷ってしまっているんだ。君と一緒にいたいとは思うけど、僕たちのもたらす凶運でひどい目にあわせてしまったら可哀想だし……だから、運命は君自身の手で選び取ってほしいと思う」


 そう言って、ナーニャはリヴェルのほうを振り返ってきた。

 その美しい面には、魔物のような妖しさと幼子のような無邪気さと慈母のような温かさが複雑にからみあいながら、消えたり浮かんだりしているように感じられた。


「君がどこかの宿場町に向かいたいというなら、その手前までは送り届けるし、まだしばらく行動をともにしたいというのなら、それを許そう。自分にとって正しい道はどちらなのか、自分で決めるといい。けっきょく人間は、自分の手で運命を切り開くしかないのだからね」


「はい……」


「ただし、忠告しておくよ? あまり僕たちの存在に深入りすると、きっと君は不幸になる。そして、戻りたくても戻れないぐらい凶運のぬかるみにはまってしまうかもしれない。それだけは、最後まで忘れないようにね」


 焚き火の炎を赤く映して、またナーニャの双眸が得体の知れない輝きを宿していた。

 それこそ滅びの炎のように激しくて恐ろしい光の渦である。


「僕たちだって、好きで凶運を撒き散らしているわけじゃない。でも、他者のために自分が滅ぶつもりはない。僕たちは、この世界を引き換えにしてでも生きのびると誓ったんだ。だから君も、理不尽な運命なんかに押し潰されてしまわないよう、必死に生きるといいと思うよ、リヴェル」


 リヴェルはまたその蠱惑的な瞳に魂をわしづかみにされながら、無言でうなずくことしかできなかった。

 そうして三人で迎える初めての夜は、しんしんと更けていくことになったのだった。

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