Ⅲ-Ⅰ 正しき運命
2020.1/4 更新分 1/1
白牛宮の執務室でしばらくの時間を過ごした後、クリスフィアたちは物見の塔に移動して、王都の軍の出立を見届けることになった。
物見の塔は、王都においてもっとも背の高い建造物である。
最上階には王都の最高権力者たちが集っているので、クリスフィアにあてがわれたのはそのすぐ下の階であった。
宮殿を取り囲む城壁の門から、総指揮官たるディラーム老と護衛の一団が進軍する。それはすぐさま城壁の外側に待機していた本隊の軍勢に取り囲まれ、ともに城下町を闊歩することになった。
城下町の人々のあげる歓呼が、物見の塔まではっきりと伝わってくる。
軍勢の数は、およそ一万だ。昼下がりの陽光を浴びながら、街道を埋め尽くした兵士たちの甲冑が白銀にきらめいていた。
「壮観ですね。僕は戦と縁のない土地で生まれ育ったので、これだけの軍勢が出立する姿を見届けるのは初めてのこととなります」
クリスフィアのかたわらにたたずんでいたメルセウスが、そのようにつぶやいた。
レイフォンとティムトは最上階に招かれていたので、クリスフィアのかたわらにあるのは侍女のフラウとメルセウス、それにホドゥレイル=スドラのみである。
そしてその周囲に立ち並ぶのは、クリスフィアたちと同じく戴冠式のために来訪していた各地の諸侯たちであった。
昂揚している顔もあれば、消沈している顔もある。大きな戦を喜ぶ人間と、悲しむ人間。それぞれの領地の場所や立場によって、抱く気持ちは二分されるものであるのだろう。
「……この者たちは、ついにそれぞれの領地に帰ることになったそうだな」
クリスフィアの言葉に、メルセウスは「はい」とうなずいた。
「戴冠式の無期限の延期が告知されましたからね。王陛下としては、苦渋の決断であったようですが」
「ふん。これだけの軍勢を出陣させながら、戴冠式などにうつつを抜かしているヒマはあるまい」
とはいえ、本日出陣するのは総指揮官たるディラーム老と、第二遠征兵団の一万名のみである。近日中には、残る遠征兵団の二万が王都を出立する手はずになっていた。
さらに王都には二万の防衛兵団と五大公爵領の騎士団が控えているが、それらはよほどのことがない限り、王都を離れることはない。あとは近隣の領地から援軍を招集して、迎撃の布陣を張り巡らせるのだという話であった。
(ゼラド軍の第一陣はおよそ三万であり、さらなる兵力を有する本隊が背後に控えていると見なされている。それが本当に王都の鼻先にまで迫ってきたならば、かつてないほどの大きな戦になるのであろうな)
クリスフィアは、腹の底が熱く疼くのを感じていた。
しかしクリスフィアは、外様の貴族である。王都の軍を率いる立場にはないし、兵士として参戦する立場でもない。どれだけ闘争本能を刺激されようとも、ここは見送り役に徹する他なかった。
(それに我々が注意を払うべきは、ゼラド軍ではなく《まつろわぬ民》と大神の御子たちであるのだからな)
そんな風に考えて、クリスフィアは胸をなだめることにした。
いつのまにやら王都の軍勢は、城下町の外にまで進んでいる。周囲の人々は、早くも物見の塔を後にする準備を始めていた。
「クリスフィア姫は、これからどうされるのです? またレイフォン殿のもとに向かわれるのでしょうか?」
「いや。わたしは金狼宮に向かおうと思う。ようやく出会えたラナと再び引き離されることになり、ギムやデンたちもたいそう気落ちしているであろうからな」
そうしてクリスフィアが物見の塔を出ると、メルセウスは当然のような顔をして追従してきた。
フラウを引き連れて金狼宮を目指しつつ、クリスフィアはメルセウスを振り返る。
「メルセウス殿も、ギムやデンに挨拶か? そちらはあまり、あやつらと懇意にしていた覚えもないように思うのだが」
「はい。どちらかというと、クリスフィア姫とご一緒することのほうが本分であるかもしれません」
虫も殺さぬ笑顔で、メルセウスはそのように言いたてた。
メルセウスがもう少し俗っぽい人間であったなら、クリスフィアに下心でもあるのではないかと疑うところであるのだが。この端正な顔立ちをした若き貴公子は、どこか超然とした雰囲気を有しており、そういった懸念とも無縁の存在であった。
従者のホドゥレイル=スドラも、普段通りの沈着な面持ちで主人のそばに控えている。血気盛んなジェイ=シンも、豪放で無邪気なギリル=ザザも、明哲な賢者めいたホドゥレイル=スドラも、クリスフィアにとっては等しく好ましい人柄であった。
「ひとつご確認させていただきたいのですが……クリスフィア姫は、まだアブーフには戻られないのですね?」
金狼宮の守衛に長剣を預けて、回廊に足を踏み入れると、メルセウスがそのように問うてきた。
「うむ。ここに至ってはわたしの為すこともないやもしれぬが、すべてを見届ける前に王都を離れる気にはなれんからな。そういうメルセウス殿も、まさかジェノスに戻るつもりではないのであろう?」
「はい。ギリル=ザザを置いて帰るわけにはいきませんし、ジェイ=シンはもちろんホドゥレイル=スドラにだって、何か役目は残されていることでしょう。僕自身は、何の力にもなれないお飾りなのですが」
「そのようなことはあるまい。メルセウス殿が役立たずであるのなら、わたしも同様だ。聖剣も持たぬ剣士ひとりの力など、《まつろわぬ民》や大神の御子の前では無きに等しいのであろうからな」
いっそのこと、クリスフィアはグワラムでも目指したいぐらいであったのだが、ダリアスやジェイ=シンを連れずにそのような真似をしても、何かを成し遂げることは難しいのだろう。ましてやクリスフィアは、率いるべき兵士のひとりも持たない身であったのだった。
(わたしの部下たちをアブーフから呼び寄せることがかなえば、また話も違ってくるのだが……父上がそのような真似を許すはずもないしな)
クリスフィアがそのように考えたとき、ディラーム老の執務室に到着した。
扉を叩くと、主人の留守を預かっていた小姓が顔を出す。顔馴染みである小姓は、快くクリスフィアたちを招き入れてくれた。
ギムとデンは、まだしばらくこの場で庇護されることになったのだ。
表面上の陰謀はすべて片付いたことになっているが、《まつろわぬ民》の暗躍が終結したわけではない。そして、いまとなってはラナも重要な鍵を握る存在となってしまったので、ギムやデンにもこれまで通りの警護が必要であると見なされたのだった。
(ダリアス殿が聖剣の力を振るうには、その身を癒やすラナの存在が必要だ。《まつろわぬ民》がその事実を知れば、ギムやデンを人質にしようなどと考えるかもしれんからな)
ギムとデンの過ごしている寝所は、守衛によって守られている。そちらの許しを得てクリスフィアたちが入室すると、椅子に掛けていたデンが慌てて腰を浮かせようとした。
「ああ、アブーフの姫様。いつもご足労をかけちまって……」
「そのままでかまわんぞ。こちらも好きにやらせてもらうからな」
鷹揚に言って、クリスフィアは手近な椅子に腰を下ろした。
ギムとデンは、それぞれ神妙な面持ちで頭を下げてくる。クリスフィアが案じていた通り、やはり両名の顔には失意の色が濃かった。
「ずいぶんと打ち沈んでいるようだな。ラナの身を思えば、それも当然だ」
クリスフィアの言葉に「いえ」と首を振ったのは、ラナの父親であるギムであった。
「王国のお役に立てるのでしたら、是非もありやせん。これで魂を返すことになっても、あいつは本望でしょう」
「ダリアス殿がそばにある限り、決してそのようなことにはならん。安心して、ラナの帰りを待つがいい」
ギムは、無精髭の浮いた顔に弱々しくも笑みを浮かべた。
「ダリアス様に目をかけてもらえるなんざ、もったいない話です。いっそう、本望でありやしょう」
「本当にな。まさか、ラナのやつがダリアス様の従者として戦に連れ出されるなんて……こんな行く末は、夢にも思っていなかったよ」
デンは複雑そうに笑いながら、ギムに語りかけた。こちらは純朴そうな面立ちをした若者である。
「でもきっと、ラナにとってもこれでよかったんだ。あいつ……あんな幸せそうに笑ってたもんな」
ギムはしみじみとした顔つきで、ただ「ああ」とだけ答えた。
きっと今日の朝方までは、ずっとラナと語らっていたのだろう。彼らはひと月ほど行方をくらませていたラナと、つい十日ほど前に再会したばかりであったのだ。それで今度は戦場にまで連れられていくことになってしまったのだから、父親や幼馴染としては居たたまれない心地であるはずであった。
「……そもそもは、ギムの親切心がダリアス殿をお救いしたのだという話だったな。赤の月の災厄の夜、衛兵に斬られたダリアス殿を、ギムが人知れずかくまっていたのであろう?」
クリスフィアが口をはさむと、ギムは昔を懐かしむような眼差しとなって、「ええ」とうなずいた。
「もしもお前がいなければ、ダリアス殿は深手を負ったままジョルアンめの手に落ちていたはずだ。それではさすがのダリアス殿も、生き永らえることは難しかったろう。……そう考えると、ギムも世界を救ったひとりであるのだな」
「せ、世界を?」
「うむ。少なくとも、ダリアス殿がいなければダームは滅んでいた。そしてこれからゼラド軍と相対し、王都を守るのもダリアス殿であるのだ」
そんな風に言いながら、クリスフィアはギムに笑いかけてみせた。
「相手がゼラド軍のみであるならば、ダリアス殿おひとりの力が戦況を左右することはないやもしれん。しかし、ゼラド軍の背後には、魔なる力を操るものどもが潜んでいるのだと目されている。それを滅ぼすことがかなうのは、ダリアス殿のみであるのだ」
「はあ……」
「そんなダリアス殿を支えるには、ラナの力が必要となる。ラナをここまで育てたギムは、ふたつの意味で世界を救う存在であったというわけだ」
ギムとデンに、そこまで詳しい事情は伝えられていない。よって、ダリアスがどうしてラナを連れていかなければならなかったのか、それも正しくは理解できていなかったはずだ。
そんなふたりの心を、クリスフィアは少しでも慰めてやりたかったのだった。
「俺なんざは、ダリアス様のお父上からの恩義をお返ししただけのことでございやす。もとを質せば、ダリアス殿とお父上の人徳でございやしょう」
ギムはそのように言いたてたので、クリスフィアは「そうか」と笑ってみせた。
「さまざまな人間の意志や行いが、今日や明日の運命を紡ぎあげているということであるのだな。ダリアス殿やお父上や、ギムやデンやラナといった、心正しき人間の意志や行いが実を結べば、正しき運命が開かれるということだ。わたしもお前たちのように、心正しく生きていきたいと思う」
「……もったいないお言葉でございやす」
ギムは座ったまま、深々と頭を垂れる。
そうして次に面をあげたとき、そこには穏やかな笑みが広げられていた。
「ラナのやつは、きっと満ち足りた気持ちでダリアス様のおそばにいるのでしょう。それだけで、俺は……自分も満ち足りた気持ちになれるんでございやすよ」
「そうか。親子というのは、かくありたいものだな。親不孝のわたしには、耳の痛い話だ」
「おや、姫様は親御さんと不仲なんで?」
「不仲というか……色々と気持ちのすれ違うことが多くてな」
クリスフィアが苦笑まじりに答えると、ギムは日に焼けた顔に人懐こい笑みを広げた。
「それでも姫様がこんなにご立派に育ったんなら、親御さんも満足でありやしょう。俺みたいに卑しき人間がそんな風に言いたてるのは、不遜の極みなんでしょうが……親子ってえのは、そういうもんです」
「そうか。そのように言ってもらえると、わたしも救われるな」
遥かなるアブーフにて、クリスフィアの父はどのような思いで日々を過ごしているだろうか。
そんな風に考えると、脳裏には小憎たらしい従兄弟の顔まで浮かんできてしまったので、クリスフィアは慌ててその幻影を打ち払うことになった。