Ⅱ-Ⅰ 騒乱の胎動
2019.12/28 更新分 1/1
「ディラーム老たちは、いよいよ出陣か」
白牛宮の執務室において、レイフォンはぼんやりとつぶやいた。
レイフォンは長椅子に座しており、卓をはさんだ正面ではティムトとクリスフィアがふたり並んで『禁忌の歴史書』を読みふけっている。ティムトは気が散るので遠慮してほしいと言いたてていたのだが、クリスフィアは頑として動こうとしなかったのだ。
「ディラーム老とダリアス殿がそろっていれば、どのような苦難でも退けられることがかなうだろう。我々にできるのは、西方神の加護を祈ることだけだ」
卓に広げられた書物に目を落としたまま、クリスフィアはそのように答えた。
自分でいれたギギの茶をすすってから、レイフォンは「ふむ」と首を傾げる。
「なんだか、興味なさげな様子だね。昨日までは、姫自身が出陣するのかというほどに息巻いていたように見えたのにさ」
「興味がないわけはなかろう。《まつろわぬ民》の野望をくじくというだけでなく、戦というのは武人の本分であるのだからな」
そのように答えてから、クリスフィアはわずかに唇をとがらせた。
「昨日までは、わたしもディラーム老らのかもしだす熱気に感化されていたのであろう。しかし、いざ出陣となると……それに参加できない侘しさのほうがつのってしまったのだ」
「……そんな気持ちを埋めるために研究の邪魔をされるのは、とても迷惑です」
感情を押し殺した声でつぶやきつつ、ティムトが細い指先で頁を繰ろうとした。
たちまちクリスフィアが「待て待て」と声をあげる。
「まだわたしは最後まで読みきっていないのだ。というか、ティムトは読むのが早すぎるぞ。ただでさえ難解な内容であるというのに、それで本当に理解できているのか?」
「僕は、必要な部分のみを精読しているのです。暇つぶしで読書に励んでいるわけではないのですよ」
「だから、めくるなというのに! 途中で頁をめくられたら、いっそうわけがわからなくなってしまうではないか!」
すると、卓の横合いに置いた椅子に腰を落ち着けていたフラウが、くすりと笑った。
「なんだか本当に、姉弟のごときお姿ですね。とても微笑ましく思います」
「うむ。ティムトのような弟がいたら、何かと頭を悩まされつつも、可愛くてたまらぬだろうな」
クリスフィアも愉快そうに答えると、弟扱いをされたティムトは深々と息をついた。
クリスフィアとフラウのおかげで、なかなか和やかな空気が形成されている。それをありがたく思いながら、レイフォンも口をはさんでみることにした。
「ティムトにもクリスフィア姫のような頼もしい姉がいたら、もっと苦労は少なかったのだろうね。そういえば、クリスフィア姫にご兄弟はおられないのかな?」
「うむ。兄も姉も、弟も妹もおらん。わたしの母はお身体が弱かったので、わたしを産み落としてすぐに魂を返すことになってしまったのだ」
「それでは、クリスフィア姫がアブーフ侯爵家の家督を継ぐことになるのだね。それは大役だ」
「どうであろうな。わたしはそれよりも、アブーフ軍の一員として剣を振るうことに重きを置いている。父上には兄弟が多いので、跡継ぎに困ることはなかろう」
クリスフィアは身を起こし、眉間に拳を押し当てた。目が疲れたばかりでなく、レイフォンの言葉にいささか気分を害したようにも見えなくはない。
「……もちろんご当主様は、姫様に家督を譲りたいと考えておられるのですけれどね。姫様がなかなか肯んじないために、しょっちゅう口論をされているのです」
と、フラウが悪戯っぽく微笑みながら説明してくれた。
クリスフィアは仏頂面で、長椅子の背にもたれかかる。
「家督を譲りたいと言っても、西の王国で女人が爵位を賜ることはない。伴侶ができるまでの場つなぎで当主となっても、何も為せはしないではないか」
「ですが、いずれはご自分のお子に家督を継がせられるのですよ? 姫様とキャメルス様の間にお子が生まれれば、ティムトにも負けぬ聡明な人間に育つことでしょう」
「キャメルス?」と、レイフォンが口をはさむと、怒った顔でクリスフィアが答えた。
「わたしがあのような柔弱者と婚儀をあげることはない! どうして誰も彼もが、あのような男をわたしにあてがおうとするのだ」
「キャメルス様は、ご当主様の弟君の第一子息であられます。姫様にとっては、従兄弟にあたるご関係となられますね」
「ふうん。クリスフィア姫に許嫁がおられたとは、少々意外だね」
「だから、許嫁などではない! わたしは自分より剣で劣る人間を伴侶に迎えるつもりなど、毛頭ないからな!」
そのようにわめきたててから、クリスフィアはじっとりとレイフォンの顔をねめつけてきた。
「だいたいあやつは武人のくせに、口先ひとつで世間を渡り歩いているような人間であるのだ。レイフォン殿とは少し似た部分があるので、気が合うやもしれんな」
「いやいや、私の弁舌の裏にティムトが潜んでいることは、もう承知しているだろう? 私自身に、そのような力は備わっていないよ」
「いや、それでもどことなく似通った雰囲気を感じるのだ。いつでも穏やかに笑いながら、腹の底では何を考えているかわからないところなど、そっくりかもしれん」
「姫様、それはあまりに失礼な物言いです。レイフォン様、どうぞ姫様の無礼をお許しください」
「いや、クリスフィア姫の許嫁に似ているなどと評されるのは、光栄なことだよ」
「だから、許嫁ではない!」
そのとき、部屋の扉が叩かれた。
小姓の案内で、ジェノス侯爵家のメルセウスと従者のホドゥレイル=スドラが入室してくる。
「おや、クリスフィア姫もこちらだったのですね。これは僥倖でありました」
「やあ。メルセウス殿も、無聊を託つていたのかな?」
「ええ。ただ待つ身というのは、落ち着かないものですね」
メルセウスはレイフォンの隣に座し、ホドゥレイル=スドラはその背後にひっそりと立ち尽くす。
「ディラーム老とダリアス殿は、いよいよ出陣となりますね。これで情勢がどう動くのか、ジェノス侯爵家の人間としても予断を許せないところです」
「そうだねえ。《まつろわぬ民》の存在がなくとも、これはゼラドとの全面抗争に発展する恐れがある戦なのだからね」
レイフォンは立ち上がり、新たな客人たちのために茶の準備をすることにした。
銀獅子宮の地下通路において《まつろわぬ民》が魂を返しのは、一昨日の話である。そして昨日、ゼラド軍がついに王国の領土を侵犯し、夕刻にはラッカスの砦をも突破したとの報を受け、遠征兵団の出陣が決定されたのである。
本日は、その第一陣が王都を出立する。そこに、総指揮官のディラーム老および第二遠征兵団団長のダリアスも含まれているのだ。
まずは王都にとって守りの要であるドルエの砦を目指し、あとはゼラド軍の進軍に合わせて増援や布陣の計画を練ることになる。ドルエの砦は最終防衛線であるので、さらにその先に位置するグリュドの砦こそが、王都の軍の拠点となるはずであった。
「問題となるのは、我々が和平の使者として送り出したロア=ファムだ。何も問題が生じていなければ、明日あたりにはゼラド軍と接触できるはずなのだけれども……」
「ですが、《まつろわぬ民》の妨害が入るのではないかと危惧されているわけですね。ギリル=ザザがお役に立てることを祈るばかりです」
「うん。こちらもとっておきの案内人を準備したから、たいていの苦難はどうにかできると思うのだけれどね」
その案内人は、ドンティという風来坊であった。レイフォンにとっては数年来の知己であり、いかにも無法者めいた風貌とは裏腹に、腕も立つし機転もきく。今頃はロア=ファムたちと合流し、ともにゼラド軍のもとを目指しているはずであった。
(しかし、和平の使者といっても、あくまで秘密裡の活動だからな。ゼラド軍の目をかすめて偽王子との接触をはかり、その身柄をゼラド軍から遠ざけるというのは……何をどう考えても、難儀なことだろう)
しかし、偽王子の身柄さえ確保してしまえば、ゼラド軍は進軍の大義名分を失うことになる。ラッカスの砦よりの狼煙にて伝えられた情報であるが、やはりゼラド軍は偽王子を旗頭として王都を目指していたのだった。
(冤罪をかけられたカノン王子に、正当な立場の回復を、か……本物のカノン王子が別にいるということを公にできないのが、こちらの弱みだな)
それにこちらは、カノン王子の罪を赦免するよう、現在の王であるベイギルスを説得していたさなかであったのだ。しかし、ゼラドが進軍を開始してしまった以上、そちらの話も迂闊には進められなくなってしまったのだった。
(カノン王子に罪はない、などと布告を回してしまったら、ゼラド軍をいよいよ勢いづけてしまうかもしれないからな。どうせあっちは、大義名分が欲しいだけなんだ。カノン王子に罪がないなら玉座を明け渡せと言い張るに違いない)
そのせいか、ここ数日のティムトはずっと機嫌が悪そうな様子を見せていた。
折しも、グワラムの近在にある砦から使者が到着し、炎を操る魔術師によって氷雪の妖魅が撃退されたとの報が入っている。その魔術師こそが真なるカノン王子であると目されているのだが――妖魅を撃退したのち、その魔術師は行方をくらませてしまったという話であったのだった。
(カノン王子は、どこに行ってしまったのだろう。やはり、前王殺しの大罪人として捕縛されることを恐れて、マヒュドラの奥深くにでも引っ込んでしまったのだろうか)
それで今度はマヒュドラが本物のカノン王子を旗頭として侵攻してきたら、実に馬鹿らしい構図となる。また、それと同時に、王都は大いなる窮地に立たされてしまうのだ。北のマヒュドラと南のゼラドに同時に攻め込まれてしまったら、さしもの王都も風前の灯であった。
「……しかし気にかかるのは、メフィラ=ネロなる人物についてですね」
と、メルセウスが静かな声でそのように発言した。
「炎を操る魔術師に撃退されながら生き永らえ、そして、《まつろわぬ民》と思われる魔術師に西の王都を目指すように命令を下された、という話ですが……本当に、メフィラ=ネロは王都に現れるのでしょうか?」
「どうだろうね。そのときは、ジェイ=シンだけが頼りになってしまうのかな」
「はい。とりあえずジェイ=シンは、ベイギルス陛下のおそばに控えてもらっています。本人は、とても不服そうでしたけれどね」
そう言って、メルセウスはくすりと微笑んだ。仏頂面で口をへの字にするジェイ=シンの顔を思い出したのだろう。
「北からはメフィラ=ネロ、南からはゼラドの軍、か……この時点で、由々しき事態ではあるようだね」
「はい。王都に潜伏していた《まつろわぬ民》を退治できたと思ったら、この騒ぎです。《まつろわぬ民》というのは、いったい何名存在するのでしょうね」
「それは何とも言えないなあ。ティムトにしても、確たることは言えないのだろう?」
レイフォンが水を向けると、ティムトは『禁忌の歴史書』を読みくだしながら「ええ」とうなずいた。
「存在が確認できたのは、薬師オロルを名乗っていた人物と、グワラムの地において幻術を見せたという人物のみです。前者が火神の御子、後者が氷神の御子を受け持っていたと考えれば、平仄も合うでしょう。『神の器』の呪いを施すには長きの歳月が必要となるのですから、ひとりでふたりの御子を受け持つことはかなわないはずです」
「ふむ。これで風神の御子やら大地神の御子まで登場してきたら、我々も首が回らなくなってしまうね」
レイフォンは冗談のつもりであったのだが、書物に向けられたティムトの瞳は、思いがけぬほど鋭い光をたたえることになった。
「言うまでもなく、『神の器』というのは四大神の対となる存在です。というよりも、そもそも四大神というのは大神アムスホルンが四つに分かたれて生まれ落ちたという話なのですから、大神の現身とされる御子が四名必要となるのも当然でしょう」
「おいおい。まさか本当に、あと二名の御子とやらが出てくるわけじゃないだろうね?」
「……火神の御子と氷神の御子だけで四大王国を滅ぼすことは可能かどうか。《まつろわぬ民》が、どのように考えているかで答えは変わってきます。大願を成就するためには四名の御子が必要であると考えたなら、四名の御子を同時に育てあげようとするでしょう」
ティムトの答えは、にべもなかった。
ようやく人数分の茶を完成させることのできたレイフォンは、卓のほうに戻りながら「やれやれ」と息をついてみせる。
「《まつろわぬ民》が楽観主義者であることを祈りたい気分だね。だいたい、『神の器』という呪いを完成させるには、対象者を絶望させる必要があるのだろう? カノン王子の他にもそんな気の毒な人間が三名もいるなんて、あんまりじゃないか」
ティムトは、何も答えようとしなかった。
読書を放棄して長椅子にもたれかかっていたクリスフィアが、その代わりとばかりに肩をすくめる。
「そういうところだぞ、レイフォン殿。いきなりそのような言葉を口にするものだから、あなたは腹の底が読めないなどと思われるのだ」
「そんな評価を下してくれたのは君だけだと思うけどね、クリスフィア姫」
「いや、わずかなりとも目端のきく人間であれば、誰でもそのように考えるはずだ。なあ、メルセウス殿?」
「そうですね。レイフォン殿は、底知れない御方であると思います」
「過大評価だね」と、レイフォンは新しくいれた茶をすする。
騒乱の胎動を遠くに聞きつつも、現段階においては王都も平和であるようだった。