Ⅰ-Ⅰ 新たな出会い
2019.12/21 更新分 1/1
「う……」と力ない声をもらして、ナーニャがわずかにまぶたを震わせた。
ナーニャの寝かされた寝台のかたわらで、ずっとその寝顔を見守っていたリヴェルは、心臓が破れそうなほどの激情にとらわれながら、その胸もとにそっと手をあてがう。
「お目覚めになられましたか、ナーニャ? おつらければ、どうぞ無理はなさらないでください」
「ああ……その声はリヴェルだね……精霊の夢でも見ているのかと思ってしまったよ……」
ナーニャは透明な微笑をたたえながら、リヴェルの手に自分の手を重ねてきた。
その白い指先は、まだ火のような熱をおびている。そして、薄く開かれたまぶたから覗く真紅の瞳の光は、いまにも生命の火を消してしまいそうなほどに弱々しかった。
「ここはどこ……? 僕はどれぐらいの時間、眠ってしまっていたのだろう……?」
「ここは、グワラム城の一室です。あれからまだ、丸一日も経ってはいません。ようやく昇った太陽が、また沈んでいこうとしているところです」
すると、隣の寝台の面倒を見ていたチチアがこちらの様子に気づいて、「あーっ!」と大きな声をあげた。
「そっちもようやく目を覚ましたんだね! まったく、大暴れするたびにいちいち寝込むのは勘弁してもらえないもんかね!」
「やあ、チチア……君の甲高い声を聞くのは、ずいぶんひさしぶりな気がしてしまうね……」
ナーニャの皮肉っぽい返答に、チチアは「ふん!」と鼻を鳴らす。
すると、そのかたわらの寝台に横たわっていたタウロ=ヨシュが、冬眠から覚めた大熊のようにのそりと巨体を起こした。
「ナーニャ、めざめたのか。いきたおまえとさいかいできたことを、よろこばしくおもう」
「あーっ! あんたは大人しく寝ておきなよ! 傷口が開いたらどうするのさ!」
「そこまでおおきなきずをおったわけではない。ずっとよこたわっていると、せなかやこしがいたくなってしまうのだ」
北の領土の自由開拓民であるタウロ=ヨシュは、その頭と左肩に包帯を巻かれていた。ナーニャたちとはぐれた後も氷雪の妖魅どもと死闘を繰り広げていたタウロ=ヨシュは、それだけの手傷を負ってしまっていたのだ。
「タウロ=ヨシュ……こちらこそ、無事に再会できたことを嬉しく思うよ……ゼッドは、どうしたんだろう……?」
「ゼッドはイフィウスとともに、ヤハウ=フェムと面談しています。それに……あの、セルヴァの軍を率いていた方々も……」
リヴェルがそのように考えると、ナーニャの面から微笑が消え去った。
「まさか……ゼッドの正体が露見してしまったのかな……?」
「いえ。幸いなことに、まだ気づかれてはいないようです。ゼッドも頭に包帯を巻いていたので、それが顔を隠す役に立ったのかもしれません」
「そうか……まあ、彼らは北方の領地に住まう兵士たちだものね……ともに剣を振るう機会はあっても、素顔をさらして語らう機会はあまりなかったのかな……」
ゼッドの正体は、王都の将軍ヴァルダヌスであるのだ。その勇名は王国中に轟いているのだから、この北の地においても何度となくマヒュドラ軍との戦いに参じているはずであった。
「それで……セルヴァ軍の指揮官たちと、マヒュドラ軍の指揮官であるヤハウ=フェムが、いったい何を語らっているのかな……?」
「それは――」とリヴェルが答えかけたとき、寝所の扉が外から叩かれた。
かつてのように、返事も待たずに扉が開かれることはない。リヴェルが緊張しつつ「どうぞ」と答えると、そこから数名の士官たちが姿を現した。
「失礼するよ。魔術師殿は、お目覚めになられたかな?」
そのうちのひとり、いかにも高官らしい立派な鎧を纏った若者が、やわらかい微笑をたたえつつそう言った。マヒュドラではなく、セルヴァ陣営の人間である。立派な房飾りのついた兜は小脇に抱えられており、淡い栗色の髪と青みがかった瞳があらわにされている。
「ああ、どうやらお目覚めのようだね。このまま魂を返してしまうんじゃないかと心配していたんだ。これであなたがたも、ひと安心だね」
言葉の後半は、彼に続いて入室してきた者たちにかけられた言葉であった。
頭に包帯を巻いたゼッドと、こちらは無傷のイフィウスである。その姿に、リヴェルはほっと安堵の息をつくことができた。
「ゼッド、ナーニャがついさきほどお目覚めになられたのです」
リヴェルが呼びかけると、ゼッドは了解を得るようにイフィウスのほうを見た。
奇妙な仮面で鼻から上顎までを隠したイフィウスは、無言のままにひとつうなずく。その姿を確認してから、ゼッドは寝台のかたわらまで歩を進めた。
「ああ、ゼッド……もう何ヶ月も離ればなれになっていた気分だよ……」
リヴェルの手に重ねているのとは逆の手を、ナーニャが持ち上げようとする。
そのほっそりとした指先を、ゼッドは左手でそっとつかみ取った。ゼッドの右手は、平時も武骨な篭手に覆われているのだ。
「うんうん、感動の再会というやつだね。できれば、ゆっくり喜びを噛みしめてもらいたいところなのだけれども……その前に、こちらの用件を片付けさせてもらえるかな?」
「用件って、なんだろう……? それにその前に、僕は御礼を言うべきなのじゃないかな……君たちは、僕の無茶な要求に従って、あれだけの兵を派遣してくれたのだからね……」
「我々の部隊がどれだけのお役に立てたのかは、心もとないところだね。けっきょく氷雪の妖魅どもを退けたのは、君の炎の魔術なのだからさ」
「そんなことはないよ……あれだけの火種がなければ、メフィラ=ネロを退けられるだけの魔術は発動できなかったからね……それにメフィラ=ネロは、君たちの投石機によって大きく傷ついていた……それもまた、勝因のひとつであったはずだよ……」
「そのように言ってもらえると、救われるね」
若者は、にこりと気さくに笑みを広げた。
他の者たちは緊迫や困惑をあらわにしているのに、この若者だけは悠然とかまえているように見受けられる。集まった士官たちの中ではもっとも若年であるようだが、なかなかの大人物なのかもしれなかった。
「それで、と……聞きたいことは山ほどあるのだけれど、まずはこちらの現状を伝えておくべきなのかな」
若者は穏やかな面持ちのまま、言葉を重ねた。
「まず、グワラムを占領していたマヒュドラ軍についてだけどね。彼らは、撤退することになったよ」
「撤退……? せっかく占領したグワラムを打ち捨てて、マヒュドラに帰ろうということなのかな……?」
「うん。このグワラム城の城壁は、氷雪の巨人たちによってずいぶん痛めつけられてしまったからね。その補修にはずいぶんな手間と時間がかかるはずだし、その間にセルヴァ軍の総攻撃をくらったらひとたまりもないと判断したのだろう」
それはセルヴァにとってもマヒュドラにとっても大ごとであるはずであったが、若者のやわらかい表情に変化はなかった。
「それに、もう一点。やっぱりあのメフィラ=ネロなる怪物に逃走を許してしまったことが、大きく響いているのだろうね。もうひとたび、この場所で氷雪の妖魅に襲われるのは絶対に避けたいところだろうし、それに、本国にこの信じ難い災厄を伝えなければならない、という思いにとらわれているのだろう」
「なるほど……《まつろわぬ民》は西の王都に向かうように指示していたけれど、もともとメフィラ=ネロは北の王都から侵略するつもりであったからね……ヤハウ=フェムも、そのことはわきまえているはずだ……」
「うん。あんな怪物を備えもなしに迎え撃つことになったら、それこそ王都が陥落させられてしまうかもしれない。我々にとってもヤハウ=フェム将軍にとっても、これは憂慮すべき事態であるようだね」
そこで若者は、いくぶん真面目くさった顔をこしらえた。
「だけどやっぱり、我々はヤハウ=フェム将軍よりもいっそう憂慮すべき立場であるはずだろう。あの空いっぱいに浮かびあがった不気味な老人の生首は、西の王都を滅ぼすべし、なんて宣言していたのだからね。それに、西の王都に向かえば、あのメフィラ=ネロという怪物も力を取り戻せる、という話じゃなかったかな?」
「うん……きっと西の王都には、ずいぶんな魔力が渦巻いているのだろうね……《まつろわぬ民》が、そのように画策していたのだろうからさ……」
「《まつろわぬ民》か。我々にとっては、何が何やらさっぱりだ」
そう言って、若者は気安く肩をすくめた。
「とにかくね、我々は王都に窮地を伝えねばならないんだ。夜が明けたら、さっそく使者を走らせるつもりなんだけど……でも、氷雪の妖魅だとか炎の魔術だとか、自分の目で見ない限りはとうてい信じられないような話ばかりだろう? だから君に、お知恵を拝借したいんだよ」
「知恵……?」
「うん。王都の人々に真実を伝えるには、どのような言葉を並べたてるべきか。書状の文面をこしらえるのに、君にも協力していただきたい」
若者の青みがかった瞳に浮かぶのは、あくまで穏やかな光である。
しかしその奥底には、武人らしい力強さもひそめられているように感じられた。
「そもそも、あのメフィラ=ネロという怪物は何なのだろう? 氷雪の妖魅に、氷雪の巨人、それにあの不気味な老人――あれが、《まつろわぬ民》というのかい? 何もかもが、我々にとっては謎そのものだ。そして、数百年も前に失われたはずの魔術を駆使する、君の存在もね」
「…………」
「もちろん氷雪の妖魅どもを退けた君を、ぞんざいに扱うつもりはない。だけど、我々にとっては魔術そのものが禁忌なんだ。そのことは、ご理解いただけるかな?」
「それはそうさ……石の都の人間にとって、魔術というのは不浄の禁忌なのだろうからね……」
「うん。だけど君は、禁忌の魔術で妖魅を退けたし、その魔術で我々を傷つけようとはしなかった。メフィラ=ネロという共通の敵を持つ身として、心安らかな関係を築くことができれば何よりだね」
「おい」と、年配の士官が咎めるような声をあげる。
若者はそちらを振り返り、「わかっています」と笑顔で応じた。
「我々のような立場の人間が、魔術師などと勝手に絆を結ぶことは許されないのでしょう。ですが今は、有事です。そしてここは、大きな戦の最前線のようなものであるのです。我々がまず考えるべきは、戦に勝つことなのではないでしょうか?」
「しかし、領主や王陛下のお許しもないままに、あまり勝手な真似をするべきでは……マヒュドラ軍との一時休戦に関しても、本来は我々の裁量を超える判断であるのだぞ」
「責任でしたら、僕が取りますよ。みなさんよりは、まだしも身軽な立場でしょうしね」
そう言って、若き士官はナーニャに向きなおった。
「さて、どうだろう。メフィラ=ネロなる怪物を迎え撃つために、王都にはどのような警告を発するべきなのか。そして、我々はどのように振る舞うべきであるのか。それを君に教示してもらうことは可能であるのかな?」
「可能だね……僕の力だけで、メフィラ=ネロを退治するのは難しいのだろうからさ……君たちと手を携えられるなら、願ってもないことだよ……」
寝台に力なく横たわったまま、ナーニャは妖しく微笑んだ。
「ただ、ひとつだけ条件というか……お願いがあるのだよね……」
「ふむ。それはどのような内容であるのかな?」
「僕の存在は、秘密にしておいてもらいたい……いや、グワラムを襲ったメフィラ=ネロを撃退するのに、僕という魔術師が介在したことは、いまさら隠しようもないだろうけれど……僕がこれから王都に向かおうとしていることは、秘密にしておいてもらいたいんだ……」
「ほう。君は、王都に向かうつもりなのだね」
「もちろんさ……メフィラ=ネロとは、決着をつけなければいけないからね……」
「では、どうしてそれを秘密にしなければならないのだろう?」
ナーニャは真紅の瞳に熾火のような光をたたえつつ、答えた。
「西の王都には、僕の敵が存在するからだよ……僕が王都に戻るということを、そいつらには知られたくないというだけのことさ……」
火のように熱いナーニャの手に自分の手を握られながら、リヴェルは息の詰まる思いであった。
ナーニャにとっての敵というのは、メフィラ=ネロや《まつろわぬ民》ばかりではない。ナーニャこそが前王殺しの大罪人と信じている、王都の人間すべてが敵なのである。
「なるほどね。まあ、君はメフィラ=ネロとの戦いの後で、行方をくらましてしまったということにすれば……なんとか秘密を保つこともかなうかな」
「おい! 恐れ多くも王陛下にお届けする書状において、虚偽の報告をするつもりであるのか!?」
また年配の士官が、憤慨した様子で声をあげる。
若き士官は悠揚せまらず、「ええ」と微笑んだ。
「さきほども申しあげた通り、すべての責任は僕が取りますよ。僕は王都の安全こそを、一番に考えたいと思います」
すると、ナーニャはくすくすと愉快そうに忍び笑いをした。
「王家に対する忠義が厚いのか、単に破天荒なだけなのか、いまひとつ判断に困るところだね……君は王都から遠く離れた北方の地に住まう人間なのだろう……? なのにどうして、そこまで王都の安全に重きを置いているのかな……?」
「確かに僕は、王都の地を踏んだことすらない辺境区域の生まれだけどね。でも、王国に剣を捧げた人間であるならば、王家への忠義を一番に考えるのが当然だろう?」
そんな風に言いたててから、若者はふわりと微笑んだ。
「それともう一点、個人的な事情もあってね。現在の王都には、領主のご息女にして僕の従姉妹でもある姫君が滞在しているはずなのだよ。だからいっそう、王都を危険にさらすわけにはいかないのさ」
「ふうん……? そういえば、君はどこの誰なんだろう……? まだ名前すら聞いていなかったね……」
「ああ、確かに。これは礼を失してしまったね」
若者は穏やかに微笑んだまま、ほんの少しだけ居住まいを正した。
「僕の名は、キャメルス。アブーフ騎士団第一連隊長の座を授かっている身だよ。このたびはタンティの砦に駐屯して、マヒュドラ領への侵攻計画を進めていたところで、君からの援軍要請を受けて出張ってくることになったわけさ」