プロローグ 新生の日
2019.12/14 更新分 1/1
「それじゃあ、いよいよ出発だね」
無邪気に弾んだカノン王子の声が、朝もやに煙る雑木林の中に響いた。
ようやくヴァルダヌスの傷が癒えてきたために、いよいよ二人は王都を出奔することとなったのだ。
薬師のオロルから授かった旅装束に身を包んだカノン王子は、あどけなく微笑みながら後方を振り返った。
びっしりと生えのびた蔓草によって隠されているが、その向こう側にカノン王子とヴァルダヌスが身を潜めていた洞穴が存在するのだ。崩落する銀獅子宮から、地下の隠し通路を辿って逃げのびた先が、この場所であったのだった。
あの大いなる災厄の日から、すでに十日以上の日が過ぎている。カノン王子の魔術によって負ったヴァルダヌスの火傷を癒やすには、それぐらいの時間が必要であったのだ。
そしてもちろん、あれだけの火傷が十日ばかりで完治するわけもなかった。右の頬から咽喉もとまでは皮膚が引き攣れてしまって、言葉を発するのも困難なほどであるし、右手の先などは肉までもが爛れてしまい、親指を除く四本の指がひとつに溶け固まってしまっているのだ。
この指では、剣を振るうことも難しい。何せ、力を込めて剣の柄を握ろうとするだけで、激痛が走ってしまうのだ。
そんなヴァルダヌスのために準備されたのは、革作りの篭手であった。
この篭手は、四本の指をまとめて差し込める作りであり、なおかつ、軽く握るだけで剣頭が手の側面に引っかかるような形状をしていたのだ。これならば、わずかな痛みをこらえるだけで、思うまま長剣を振り回すことができた。
「どうぞ道中はお気をつけて……旅に必要と思われる物資は、こちらに準備しましたので……」
陰気な声でつぶやきながら、オロルは大きな荷袋をヴァルダヌスに差し出してきた。
ヴァルダヌスは無言のまま荷袋を受け取り、カノン王子は目を細めて微笑する。
「何から何まで、ありがとう。これだけ親切にされてるのに、何も恩返しができないのが心苦しいよ」
「とんでもございません……わたくしは、自分の意思で好きなように振る舞っているばかりでございますので……どうぞお気になさらぬよう……」
このオロルという人物は、カノン王子の不遇な人生に心を痛めて、これだけの親切を施してくれている、という話であったのだ。
外見は、いささかならず不気味な老人である。頭巾のついた外套と、顔中に巻いた灰色の包帯で、人相を隠してしまっているのだ。人目にさらされているのは闇のように黒い瞳と、目もとの青黒い皮膚のみであり、それすらもおおよそは深くかぶった頭巾の陰に隠されてしまっていた。
しかし、カノン王子とヴァルダヌスの命運を救ったのは、このオロルであったのだ。
この十日ばかりは、オロルが毎日この場所を訪れて、火傷の薬や食料などを与えてくれた。そして今日に至っては、ヴァルダヌスたちが王都を出奔するための準備まで整えてくれたのだった。
カノン王子は、革の外套と暗灰色の巡礼服を着込んでいる。巡礼者というのはむやみに素顔をさらさない習わしであるために、それでカノン王子の特異な風貌を隠そうという算段であるのだ。
いっぽうヴァルダヌスは、それと行動をともにする傭兵にでも扮するしかないだろう。西の王国では名前の知れているヴァルダヌスであるが、王都を離れてしまえば顔を知る人間は少ない。人目を避けて辺境の領地を目指せば、そうそう正体が露見することもないはずであった。
「王都において、カノン王子とヴァルダヌス将軍は、災厄の夜に魂を返したと信じられておりますゆえに、危ういことはないかと思われますが……王都を離れるまでは、くれぐれもご用心を……野には、盗賊や獣や妖魅なども潜んでおりますので……」
「うん。僕たちが死んだと思われているなら、追っ手がかかることもないのだからね。なんとか上手くやってみせるよ」
そう言って、カノン王子はヴァルダヌスに微笑みかけてきた。
ヴァルダヌスを信頼しきった、あどけない笑顔である。
仕えるべき王も、帰るべき故郷も、愛しき許嫁も、これまでの身分や名声も、ヴァルダヌスはすべて捨て去ることになった。ヴァルダヌスに残された最後の使命は、このカノン王子からの信頼を守り抜くことのみであった。
「それじゃあ、出発しようか。日が暮れるまでに、少しでも王都から離れたいところだからね」
そう言って、カノン王子はオロルに向きなおった。
「これまで色々とありがとう。おそらく、もう二度と相まみえることはないだろうけれど……君の親切は、魂を返すその瞬間まで忘れないよ」
「恐れ多きことでございます……僭越ながら、最後にひとつだけよろしいでしょうか……?」
「うん、もちろん。なんでも言いたいことを言っておくれよ」
「……王子殿下は、ヴァルダヌス将軍という無二の存在を手にされることとなりました……その希望を胸に、どうぞお強くお生きください……」
カノン王子はきょとんと目を丸くしてから、花が開くように微笑んだ。
「もちろんだよ。僕にとっては、ヴァルダヌスこそが最後に残された希望そのものなんだからね。ヴァルダヌスさえいてくれれば、僕は大丈夫さ」
「……得難きことでございます……」
オロルは、深々と一礼した。
その包帯の下にはどのような表情が浮かべられているのか、知るすべはない。ただヴァルダヌスは火傷によってもたらされた高熱にうなされる中、このオロルが我が子を慈しむような眼差しをカノン王子に向けていた姿を垣間見ていた。
(このオロルという老人は、どうしてここまでカノン王子に深い情愛を抱くことになったのだろうか。カノン王子が幼き頃に、病魔を癒やすために何度か呼びつけられたという話だが……それだけで、ここまでの情愛が育まれるというのは、奇異なる話だ)
しかし何にせよ、この老人がヴァルダヌスたちの窮地を救ったという事実に変わりはないのだ。それでは、文句など言えたものではなかった。
(それにこやつとは、これで今生の別れであるのだからな)
そのように考えて、ヴァルダヌスは自分の気持ちをなだめることにした。
「それじゃあ、さようなら、薬師オロル。あなたの行く末が幸いであらんことを」
カノン王子とヴァルダヌスは、北に向けて足を踏み出した。
オロルはその場に留まって、ふたりの姿を見送っている。そちらに大きく手を振ってから、カノン王子は頭巾を深くかぶりなおした。
「さあ、いよいよ旅の始まりだね! 火傷は、本当に痛まない?」
歩きながら、ヴァルダヌスはうなずいてみせた。
ヴァルダヌスの長身を見上げながら、カノン王子はくすりと笑う。
「それじゃあこの雑木林を抜ける前に決めておきたいんだけど、僕たちの名前はどうしようか?」
「…………?」
「名前だよ、名前。まさか、本名で呼び合うわけにはいかないだろう? 僕はともかく、ヴァルダヌスの名前は王国の全土に知れ渡っているのだからさ!」
そう言って、カノン王子はいよいよ楽しそうに微笑んだ。
「実は、すでに腹案があるんだよね。……ナーニャとゼッドというのはどうだろう?」
「…………」
「そう。僕が仲良くしていた小鳥と、君が飼っていた老犬の名前だよ。あまりに適当な名前だと、うっかり忘れたり言い間違えたりする恐れもあるだろうからさ。少しでも、思い入れのある名を名乗るべきだと思うんだよね」
ヴァルダヌスはやはり無言のまま、うなずいてみせた。
ヴァルダヌスの口が不自由になったことはカノン王子も承知しているので、気を悪くした様子もなく、にこりと微笑む。
「それじゃあ、決まりだね! 僕が巡礼者のナーニャで、君が傭兵のゼッドだ。あんまり余人と言葉を交わすつもりはないけれど、いざというときに備えて、適当な出自をこしらえておくべきなのかな。まあ、そのあたりのことも、僕にまかせてくれればいいよ。僕はずうっと地下室に幽閉されていた身だけれど、この世のすべては書物で学ぶことができたからね」
「…………」
「あはは。僕があんまりはしゃいでいるものだから、ゼッドはいぶかしく思ってるみたいだね。……うん、正直に告白するよ。僕はいま、この十六年の生で一番幸福な時間を過ごしているんだ。何せ、この世で唯一の大事な存在とふたりきりで、新たな生に歩みだしたところなのだからね」
カノン王子の真紅の瞳に、さまざまな感情が渦巻いた。
そこには確かに歓喜の光が躍っているようであったが――しかし、そこに限りない悲哀の色がまじっていることも、容易に見て取ることができた。
「ヴァルダヌスには――いや、ゼッドには本当に申し訳なく思っているよ。ゼッドはすべてを失って、絶望のどん底に突き落とされたところであるのに、僕ばかりがこんなにはしゃいでしまってさ……しかも僕は、あれだけ大勢の人々を殺めた身であるのにね。こんな僕が、こんな幸福を得ることができるなんて、やっぱり間違っているんじゃないかなあ」
ヴァルダヌスは足を止め、首を横に振ってみせた。
しかし、カノン王子の瞳から悲哀の色が消えないので、引き攣る頬の痛みをこらえて言葉を発してみせる。
「王子はこの十六年間、誰よりも苦悶に満ちた生を送ってきたのです……王子には、その分まで幸福になる権利があるはずです……」
カノン王子は泣き笑いのような表情になって、ヴァルダヌスの胸に取りすがってきた。
「ひとつだけ間違っているよ、ヴァルダヌス。僕の人生が絶望に塗り潰されていたのは、十一年間だ。だってその年に、僕は君に巡りあうことができたのだからね」
「…………」
「君と出会ってからの五年間は、絶望の向こう側に希望の光を見出すことができた。そしていま、その光が僕の全身を包み込んでくれているんだ」
カノン王子の華奢な腕が、ヴァルダヌスの背中にまで回されてきた。
「『神の器』なんていう呪いをかけられた僕を救ってくれたのは、君だ。君がいなかったら、僕は邪神に魂を売り渡してしまっていただろう。僕が絶望せずに済んだのは、すべて君のおかげなんだよ、ゼッド」
ヴァルダヌスは、左腕だけでカノン王子の身体を抱き寄せてみせた。
そして、心の中だけで囁く。
(あなたがどれだけ清らかな存在であるかを、俺は知っている。俺はたまたま、最初にあなたと巡りあえたというだけのことであるのだ。もしもこの先、余人と絆を深める機会があるならば……あなたは数多くの友を得ることだろう。その友たちが、あなたにさらなる希望をもたらしてくれるに違いない)
しかし現在、カノン王子のそばにあるのはゼッドただひとりである。
カノン王子がその器量に相応しい幸福を手にするまで、すべての苦難を退ける。それが、ヴァルダヌスの使命であった。
(あなたは今日、ようやくこの世に生まれ落ちることができたのかもしれない。希望にあふれたあなたの人生は、今日という日から始まるのだ)
そうしてふたりは真の名を捨て、新たな生を歩むことになった。
その先には、数多くの人間との出会いと、想像を絶する苦難が待ちかまえていたのであるが――さらにその先にはどのような運命が潜んでいるのか、それを知るのは天上の神々のみであった。